万物共生2と共感

話を戻しますと、西洋やアラブ、中国のように戦争に勝ってしまえば、相手を根こそぎ根絶やしにしたり奴隷にしてしまう・・人間としての尊厳をすら奪ってしまう思想は我が国では古代からありません。
日本以外では19世紀末頃から労働運動が激しくなったことから、(有産階級に国内労働者が敵対しても搾取する対象を根こそぎ殺してしまうわけにはいかないので・・・)20世紀になって漸く「敗者の支持母体にも少し配慮しましょう」という程度の意識が芽生えて来たのですから、千〜2千年単位で日本よりも意識が遅れているといつも私が書いている事例の1つです。
西洋(勿論中国や朝鮮でも)では、日本と違って他者や他の動植物を思いやると言うか、同じ生き物として尊重する思想が元々ないか、希薄です。
医薬品業界で発達している動物実験(・・確かに便利ですが・・)の思想自体、日本では驚きです・・縄文時代の昔から犬に限らず馬でも牛でも身近な動物類は、すべて家族同様に可愛がってきましたから・・・。
日本では、江戸時代の麻酔の実験で言えば、動物実験には思い至らず、華岡青洲の妻や母が自分から申し出てくれたので実験出来たものです。
この種の実験を使用人に強制するべきものではないし・・強制することは、昔から人道的に許されないという基本思想がありました。
西洋ではジェンナーの例で見れば明らかです。
彼は親のいない子供達(・・いくら西洋でも使用人に強制出来なかったらしく親がいれば同意が必要だったからでしょう・・)を実験相手として選んで実験を繰り返して種痘の効果を確かめています。
・・我が国では人権などと西洋が言い出す何百年も前から、孤児や障害者の自立を目指して(足利時代以来盲目人のためにあんま、鍼灸などを彼らだけ許される専業として来たり、琵琶法師その他専門職として育成して来た歴史があります。)努力して来た社会でしたので、孤児相手なら何をしても良いという発想は古代から日本社会では到底考えられない非人道的思考法です。
乞食王子のストーリーでも知られてるように、西洋では孤児を相手に泥棒・かっぱらいなど犯罪行為を強制するのが普通でしたし、数日前に中国で2〜3千人という大量の孤児が犯罪組織・・誘拐して来た子供に犯罪行為を強制していた・・から救出されたと報道されていますが、中国でもイギリス中世のような社会が今でも続いていることが明らかになっています。
そう言えば、数年前だったかインドスラム街を舞台にした映画を見たことがありますが、そこでも孤児を犯罪行為や乞食に使うスラム街の実態が赤裸々に描かれていました。
このときにキのママで主役になったスラムの子供が一躍有名になって大金が入ったことが社会現象として別に報道されるおまけがありました。
我が国では昔から(困った人がいればみんなで助けてしまうから)スラム街など出来たこともありませんが、(スラム街が出来ればその中で最も弱い孤児が一番の被害者になるのは当然です)世界中が今でも弱者に厳しい社会のママであることが明らかです。
他者に厳しい原則社会であるからこそ、千年〜2千年単位も遅れて人権尊重・少数者保護、弱者救済・動物愛護が声高に言われるようになったのであって、我が国とは原則と例外が逆です。
ならず者集団のシェー・シェパードが、日本を標的にしているのは、周回遅れの社会が何周回進んでいる日本に対して「恥ずかしげもなく良くやるよ・・」という所で、まるで茶番です。
我が国では庶民に至るまで昔から日常用語として「犬は口をきけないんだから・・」と優先的に大事にする風潮がありますが、口の聞けない犬や牛に対して、一方的に実験材料にする酷い発想がありません。

万物共生1と多神教

少数者への配慮・少数意見の尊重とは、政権獲得政党が支持母体の権益追及をすることを前提にした上で、戦いに勝ちさえすれば負けた方に対してどんなむごいことをしても良いという日本以外の世界中で普遍的であった思想が修正されて来たことを表しています。
日本では古来から敗者に対する礼儀を欠かさない社会でした。
菅原道真の怨霊に対する恐れ・・足利氏が敵対して来た後醍醐帝を祭るために建てた天竜寺など枚挙にイトマがありません。
菅原氏の怨霊思想は文字資料としての始まりに過ぎず、文字以前のもっと古代・・神話時代から、被征服王朝である各地の神々を祭る仕組みがあります。
この事実自体は神話による当てにならない伝承ではなく、(比叡山の麓の日枝神社に行くと)実際にあちこちの地方の神様が祭られている事実で証明されます。
この精神が多神教(今風に言えば言論を封殺しては行けない精神風土が文字社会以前から宗教のように存在していますし、西洋の言論の自由・・弾圧が行けないと言い出すよりも何千年も早いのです))・佛教が入って来ると仲良く神仏習合して行った・・他宗教を排斥する思想と無縁になった原因であり結果でもあるでしょう。
この精神があってこそ、外国から変わったものが入ると直ぐに取り入れてしまう風土にも繋がっています。
取り入れ方も旧来のもの100%廃棄してしまうのではなく、日本在来のものに外国の良いところを取り入れて発展させる工夫がし易いのも神仏習合の精神と同じです。
どんなものでも少しは良い所があることから、部分的取り入れに便利です。
この点朝鮮族のように外国の方法がいいとなれば(農産物解放やIMF体制が良いとなれば直ぐに全面的に乗ってしまうなど変化が激しくなります)全面入れ替えする社会です軋轢が多くて大変です。
我が国の場合部分取り入れ・・遠近法がよいとなれば日本画に一部取り入れるなど発展が微温的・緩慢(マスコミは時流に遅れる、遅れると批判しますが・・)ですが、社会の進展としては無理がありません。
異なった意見を受容して行く日本精神からすると、日蓮の他宗教排撃の思想はどうもしっくりしないので、邪教として弾圧を受けることになったし、後に入って来た他宗排撃のキリスト教も同じ目にあったのです。
(スペインの植民地にする領土野心があったことが、政治的には大きな眼目ですが、これに付加して内容的にも寛容を旨とする日本精神に合わなかったので、自然に下火になって行ったし、何の弾圧もないどころか米英思想の支配的な維新以降今に至るまででも殆ど広がらない根拠です)
話が変わりますが、第二次政界大戦直前に何故アメリカが日本イジメに精出していたかと言うと、アジア赴任の宣教師の報告が大きな役割を果たしていたと言われます。
中国ではある程度キリスト教の布教に成功していたことは、太平天国の乱その他で周知のとおりですが、
日本人に対しては、上記のとおり一神教の教義は本質的に無理があって、どうにもならなかったことは現在に至る結果で明らかですが、宣教師達の成績不良の言い訳として日本人は如何に宗教心がなくひいては道義に劣るかを定期報告の度に一生懸命に書き連ねていたと言うことです。
(西洋では信仰心がないのは道徳心がないし野蛮人という意味ですし、敬虔なカトリック教徒◯◯教徒と言うときには、一般的に人格の褒め言葉になっています。)
宗教心がまるでない酷い人種だと言うことから、どんな酷いことでもやりかねないと言う誹謗中傷を(これが当地派遣宣教師の決まった報告方式になっていたとも言われます)繰り返している内に、日本人はどんなに野蛮なことをしているかというあることないことのでっち上げ虚偽報告が必要になって来て、まことしやかにせっせと本国へ送っていたらしいのです。
(現在中国地方政府は、成績が下がると困るので、前年比何%増の成長報告を中央へ送り続けるので同国の成長率がまるで当てにならなくなっているのと同じです)
虚偽報告が繰り返されるうちに何か事例をでっち上げるなどエスカレートするのが普通です。
その内に南京で多くの中国人が虐殺されていると言うでっち上げ報告になっていたらしく、これがアメリカ本国での「日本人は酷い」「中国人が可哀想だ」というコンセンサスが形作られるのに大きな影響があったらしいのです。
実際にはアメリカ自身最後の市場である中国から、「日本を何とか追い出したい」という基本姿勢があったから、そう言う報告が増えた面があるでしょう。
我が国でも、比叡山を焼き討ちした信長が、如何に冷酷無比な性格であるのように末永く言い伝えられている(実際にそうとは限らないのですが・・・坊主の言い伝えしか残らないのです)のと同じで、坊主を敵に回すとその悪口は怖いものです。
実際に同じ宣教師から本国の家族への近況報告の手紙等(これは実際を表現しているでしょう・・出世するために虚偽報告の必要がないので)では身近に日本人の悪行・・大虐殺等を見たという衝撃的なことについて触れたものは皆無ということです。
古代から、訳もなく犬一匹殺すのさえためらう日本人が、何の理由もなく大量に虐殺するなど考え難いのですが・・・。
事実を知るために個々人の私信を調査している日本人もいるのです。
幕府によるキリスト教弾圧に関しては、平等を主張するキリスト教が身分差別を前提とする幕藩体制に合わなかったから弾圧を受けたと言う虚偽の主張が私の頃には学校で教えられて来ました・・今でもそうかな?
しかし当時のキリスト教社会自身、日本以上に強固な身分社会でしたから、(織豊から徳川初期には強固な身分階層が決まっていませんでした・・武士と農民は相互乗り入れ可能だったから、刀狩りが行われたのです・・西洋では農民は農奴的身分でしたから、武器さえ持てば騎士の仲間入り出来る社会ではありません、)そんな学校の教えは全く史実にあっていません。

民主主義と正義5

フランス革命当時は政権が民選・民意によるとは言うもののその内実は・・選出母体を王族から有産階層に広げさえすればよかったのですから、王家から次順位の貴族層に支配階層を広げるのがものの順序とすれば、貴族層や騎士層はブルジョワジーに飛び越されてしまったことになります。
ついでに、我が国の流れを概観しますと、天皇家と大豪族蘇我氏等との権力争いを経て天武持統朝が確立した後に貴族層トップの藤原氏に実権が移り、その次に武家の貴種である源平の政権となり、応仁の乱を経て更に下位の守護地頭(大小名)クラスの武家政権(織豊から徳川)が続き、明治維新では下級武士プラス庶民クラス(制限選挙→普通選挙)に政権が移るなど順当な流れです。
いつも次順位実務家として経験のある階層に政権が移って行くので、政権担当能力/政権運営によどみがありません。
話題をフランス革命に戻しますと、反王党派は政権担当者を決める権限さえ奪い取れば、その政権の政治目的自体は正義でも不正義でも何でも構わなかった・・政治目的を問題にしていなかったと思われます。
この点は革命後植民地(人種差別の制度保障です)獲得競争等に精出していたことや、国内的には弱者である労働者階層への思いやりがなかったことから明らかなように、正義の価値観(民・強弱老幼男女すべてを中心にする福利の思想)などまるで持っていなかったと昨日から書いて来たとおりです。
フランス革命の成果は自分たちで政治家を選出すれば、自分たちにとって悪いような政治をする筈がないという程度の共通認識だったでしょう。
彼らブルジョワジーは選出母体になり、自分たちの代表さえ出せればよかったのです。
昨日のブログ最後に書いたfor the peopleのピープルとは字義から言えば民衆ですが、実際に意味したところとしては、「選出母体」のためにと訳すべきだという根拠です。
民主政体とは選出母体のために精一杯働く政治のことです。
古来から他者を思いやる余地のない社会であるから抑圧に耐えかねて暴動が起きるし、その結果政権が倒れるのですが、今度からは思いやりのある政治をしようというのではなく、打倒した方は今度は自分が搾取する良い方に回ろうとするだけの変化を繰り返して来たのが中国の歴史(専制王朝の繰り返し)でありフランス革命です。
革命とは言っても、政治目的を構成する人間みんなの幸福のための政治する目的ではなく、自分たちも為政者選出グループに加えてもらって自分達も良い思いをしたいと言う目的の革命だったのです。
為政者は被支配者を抑圧し搾取するものであると言う点をそのままにして、あるいはそれを前提にして選出母体枠を広げて「自分たちも選出母体に含めて搾取した結果の分け前を貰える立場にしろ」という意見を実現したことを革命と言っていることになります。
現在の中国共産党政権の腐敗をしきりに先進国では問題にしていますが、フランス革命同様に政権樹立に功績のあった共産党が支配権を握った以上は、その分け前にあずかるのは当然です。
幹部あるいは中堅幹部から末端に至るまで分け前を貰うための組織ですから、彼らがうまい汁を吸っている事自体異とするには当たりません。
為政者の選出母体の利害に応じた政治をする・・被支配者から搾取出来るだけ搾取するという思想が行き着く所、代表を出せる階層にとっては我が世の春・平家の公達になったみたいですが、代表を出せない階層はやられっぱなしになる社会のままですから、(支配階層=搾取する人数が増えた分だけ)革命前より悪くなったでしょう。
選出母体の利益追求政治が行き着く所・・一方ではアメリカの独立(代表なければ課税なし・・)に繋がり、他方では有産階級の代表だけではなく労働者階級も自分達も選出母体にしろとなって労働革命思想が生まれてきます。
代表を出すための競争社会とは、他者を思いやる政治を目標とするのではなく、自分達のグループ利益を際限なく追究する社会(即ち他グループの利益排除)を前提にしています。
民主主義体制とは血縁政治から脱却して、為政者選出母体になる競争社会になったことを意味し、この社会では階層・集団グループごと(政党の発達)に自分たちの利益代表を必要とし、その支持を受けた政治家は支持者権益の実現を図ることが賞賛される社会となりました。
この競争社会では、為政者選出権獲得競争に敗れた少数者の権益を排除して政治をする(平家が勝てば源氏を排除し、徳川が勝てば豊臣は滅びます)・・エゴ追及を基本とする社会と同義です。
少数意見の尊重というものの、これは少数意見を排除する前提・原則があって(敗者にもある程度配慮しろという意味で)生まれた言葉であって、せっかくしのぎを削って競争に勝って政権を獲得した以上は、支持母体の利益追求に邁進したいし、するべきは当然です。
そうでなければ、支持者に対する背信行為となるでしょう。
我が国は古代から国民全体の福利増進が政治の至上目的でしたが、西洋で発達した民主主義政体は本質的にエゴの追及を基本とする(民主主義の進展と対をなして発達した資本主義経済も同様です)ものであって、国民全体の福利を考える政体ではありません。
ただし、個々人が飽くなき利益追求をする資本主義経済は結果的に文物が発展して社会全体の利益になるし、政治も支持者獲得競争が、(有権者層の拡大によって)結果的に多くの国民の利益実現目的になって行くことを否定しているものではありません。
ここでは革命時には、限定された有権者が前提になっていて=有産階層の利益実現だけが目的だったので、本来的な「万人の幸福」と言う正義の価値基準がセットされていなかったことを書いています。

民主主義革命と正義4

中国の地では、古来から食うに困った流民が発生しては王朝が倒れることの繰り返しでしたが、飢えに苦しんだ流民の大量発生の結果王朝が何回倒れてもその都度似たような政体・専制君主制しか作れなかった・・進歩のない社会でした。
これに対してフランス革命では、国民(と言っても有産階級だけです)が為政者に言うことを聞かせるためには、今後は為政者選出方法を民選に(自分たちの意見で決める)よるしかないと決めた・・・・政治の目標を決めたのではなく為政者選出方法を世襲以外に改めた点が新しいのです。
中国の地域でも流民発生によって既存王朝を倒すと、流民のボスが毎回政権を奪って帝王になる・・これも一種の民意(天命革(あらた)まると言いました)ですが、その後は次に流民が発生して王朝が倒れるまで再び世襲でした。
北朝鮮は未だにその方法を踏襲していますし、中国共産党政権では個人の世襲はなくなったものの「党派」としての世襲が続いています。
血縁系統内の世襲から一定集団による世襲に権力選出母体を拡大したことになります。
フランス革命は、既存権威打倒勢力・革命勢力のボスが権力を握る点は、中国地域あるいは日本を含めて世界中で繰り返された古来からの王朝・支配者変更方法と同じです。
フランス革命の新しさは一旦握った権力が終身・世襲ではなく、任期満了ごとに一定階層集団(ブルジョワジー)による権力者選出方法に切り変ったことでしょう。
この唯一の利点が、ナポレオン帝政によって否定されてしまいます。
(幸いナポレオン自身の失脚によって、世襲に戻りませんでしたが・ブルボン王朝が復活しました)
為政者選出母体を血縁限定から有産階層全般に広げたことを持って「民選」と表現しているのですが、選出母体の拡大に過ぎない点は中国共産党独裁政体と大同小異です。
フランス大革命は「何と立派なものか!」と日本で教えるにあたっては、日本人の琴線に触れるもの・・日本人の価値観に合わす必要があります。
選出母体を拡大しただけであって、政治目標そのものは相手が弱ければ動物扱い・奴隷にしても良いという政治価値の国だと言うのでは、日本では有り難がって教育出来ません。
そこで日本古来からの政治道徳と同じようにフランス革命では「自由・平等・博愛を唱えた」と日本では最大最高に良いように解釈して学校で教えています。
(これが日本古来からの政治思想だから「日本流に最大限好意的に見れば・・」の話をあたかも事実であるかのように強調していることになります)
どこの世界にも探せばいろんな考えがあるものですが、社会の価値は何がそのときに主流をなしていたかによります。
今の中国や韓国にも50人や100人マトモな意見の人がいる筈ですが、それを今の中国人の意見とは言いません。
日本にも慰安婦問題の存在を認める人は何人かはいるでしょうが、だからと言って日本人の大方が認めていることにはなりません。
犯罪発生率が少ないというだけで日本人も犯罪を犯すし、日本は綺麗な国と言っても全く掃除しない人も一杯います。
社会の共有価値は、大方の意見・傾向を基礎に考えるべきものです。
日本でフランス革命を賞賛するために言われている「自由・平等・博愛の精神」を一部の思想家が書いたことがあるとしても、革命に参加した民衆や暴徒あるいは資産家・政治家には関係がなかったと思われます。
革命直後のジャコバンの恐怖支配やナポレオン帝政の成立・・フランス革命の精神を引き継ぎ発展させた筈のアメリカでは、黒人を牛や馬のように動物扱いする恐るべき奴隷制度が存在していました。
何と言っても革命後の時代は、植民地獲得競争の華やかなりし時代到来ですが、植民地政治というものは制度的に民族差別を前提としたものであって、そのどこに自由・平等・博愛の精神の一部でも体現していたと言えるのかということです。
西欧近代ではフランス革命後も産業革命の進展によって賃労働を生み出し、労働者を虫けらのごとく扱って、有産階級のための政治しかなかったことからも分ります。

アメリカの南北線戦争を北軍の勝利に導いたリンカーンのゲテイスバーグ演説では、
「・・・government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.」
for the peopleが最後に出てきて「人民のための政府」となっていますが・・・、ここで言うピープルとは誰かこそが重要です。
一般にピープルとを人民と訳していますが、(これはフランス革命を「自由/平等/博愛の理念であった」と日本人の価値観にあわせた紹介をしているのと同様に現地の語感としては違うでしょう)フランス革命とその後の社会主義革命、あるいは現在の政党政治に至る流れを見るとピープルを「選出母体」と訳すのが正しいでしょう。
次回以降に書いて行きますが、選出母体の利益を代表することこそが民主政治の本質であって、それ以上の価値(正義の実現など全く問題にしていません)はありません。

信義を守る世界5(ロビー活動と正義3)

戦争によって領土を奪っては行けないから明治維新以降戦争で獲得した領地を返せというのが連合国側の日本に対する言い分ですが、戦争に負けたことを理由に日本の海外資産を強盗みたいにとってしまったのを黙認しているのでは、正義の秤が狂っています。
この辺は千島列島や竹島占領黙認と同じ思想です。
連合国の正議論は、日本にだけ返還義務を負わせるために言い出したものであって、ソ連や韓国などが日本敗戦を好機として千島列島や竹島占領あるいは、朝鮮半島に残して来た邦人の個人資産あるいは日本人の税金で作った日本政府の資産を無償で横領させているのですから、首尾一貫しません。
これらの行為は正当な交渉によるものではなく、戦争に勝ったことによる・・相手が負けて弱っていて何も言えないことによる「強取」と同視出来るでしょう。
日本に対するソ連や韓国・北朝鮮の強取行為を黙認し・西欧諸国の東南アジアにおける植民地復活など連合国の言う正義とは片面的正義論でしかなく、片面的正義の実行ほど、不正義・アンフェアーなやり方はありません。
スポーツ言えば、アメリカや連合国の態度・行為は、一方だけに反則行為を厳しく適用して、他方の違反には見て見ぬ振りをするとんでもないレフリーです。
明白にアンフェアーなことをしていて、これを恥とも何とも思わない体質の国が、世界の警察官・レフレーリーなどと威張っていること自体が不正義であり世界の不幸です。
こんな国だから、アンフェアーなことが体質に合う中国や韓国がロビー活動に精出すのでしょう。(魚心あれば水心とも言います)
提供資金次第・ロビー活動次第で動く政治家が幅を利かす「民主主義」国家が、正義論を語り講釈を垂れるどころか軍事力で自分が一方的に決めた正義を強制するなどおこがましい限りです。
アメリカ合衆国が世界に誇れるのは、正義の国であるかどうかではなく、自由・民主主義国家を実現している点だけではないでしょうか?
繰り返しますが、民主主義国家か否かと正義・不正義とは何の関係もありません。
民主主義国家として世界で最も先に進んでいたイギリスやフランスが世界中に植民地支配を広げアジア・アフリカ人に隷属を強いていたのです。
世界最先端民主国家だったイギリスの起こしたアヘン戦争ほど、道義に反した戦争はありません。
アメリカ合衆国だって何回も書きますが、明治維新の頃には黒人を動物扱いする奴隷解放を唱えた南北戦争が漸く終わったばかりでした。
その後もスペインに対する言いがかり戦争の繰り返しで現在のアメリカ合衆国の南西部諸州を奪い取っていますし、更には米西戦争でフィリッピンも奪い取ってアメリカの植民地にしています。
民主主義と植民地支配(人種差別がその根底になります)・・すなわち植民地争奪戦争に熱心か否かや人種差別など人道違反行為をする政体か否かとは何の関係もありません。
もちろん、自由主義経済では目的(正義)による規制を極力しないのが原則ですから、なおさらです。
11月19日に書いたように、我が国では民主国家成立以前の縄文の昔から民(更に言えば犬まで)を慈しむ風土でしたが、日本以外の世界全体では為政者は犬どころか国民の生活ですら全く問題にしない風土でした。
(中国や朝鮮では犬をオリンピック直前まで普通に食べていて、恥ずかしいからやめるようにというキャンペインが盛んに行われていました)
他者に対する思いやりの欠如・マイナスが極まったので、フランス革命やロシア革命等が起きて、民主主義・・国民(資本家や労働者)の目線・支持が必要になったに過ぎません。
(暴発するまで抑圧する方もする方です)

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