徴兵制から健児制へ

桓武天皇の792年に、陸奥国・出羽国(対蝦夷戦が続いていた)・佐渡国・西海道諸国(まだ新羅からの襲撃の危険に備える)を除く諸国の軍団・兵士を廃止し健児の制が出来ます。
健児(こんでい)とは、兵士の中のグループみたいなもので、弓矢武術の訓練を受けたもの・・専門家?と言う意味の呼称でしたが、これが頭割りの徴兵制の強制によって消滅していたのが復活したのです。
以下は健児に関するウイキペディアの記事です。
「天平6年4月23日(734年)に出された勅には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあり、健児は元々、軍団兵士の一区分だったと考えられている。天平10年(738年)には、北陸道と西海道を除く諸道で健児を停止しており、これにより健児は一旦、ほぼ廃止することとなった。」
桓武天皇は士気の上がらない徴兵制から武術が好きで訓練を受けた専門集団・健児に切り替えるのですが、ちょうど坂上田村麻呂が活躍し始める時期(・・この頃は4人ほどいた副将軍の一人?)と一致しています。
対蝦夷戦の前線である陸奥国では徴兵制を残し、その他の国から遠距離出動させるにはコストのかからない少数精鋭の専門集団化を計ったとも言えます。
この健児の母集団は、戸籍からの徴発ではなく郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でた者を選抜し、この指揮権を郡司の子弟に委ねます。
結局は郡司の支配下から郡司が健児を選抜してこれを訓練し、平時は(5人一組の)一隊を作って国府その他の警備に当たっていました。
郡司は自前の兵力の外に(実際には自分の配下から選抜して供出した)国の兵士も職務上支配下に置けることになっていたことになります。
人数も出ていますので一部紹介しますと「諸国ごとの員数は、山城30人、大和30人、河内30人、和泉20人、摂津30人、伊賀30人、伊勢 100人、尾張50人、三河30・・・・」となっています。
5人一組で年間60日の勤務と決まっていたので、6班合計30人でちょうど1年が回って行く勘定です。
後に1番の人数を半分(2〜3人)にしたりしていますが、これで24時間警備では、(国府の庁だけではなく税を集めた倉庫などの警備もあり、)ちょっとまとまった数の攻撃を受けるとマトモに戦える軍隊組織だったとは言えなかったでしょう。
国内は平和だったので国内戦闘用の軍・・個別の紛争はあったでしょうが、国単位、郡単位規模の規模の領土紛争的戦争要員は不要だったとも言えます。
上記の健児制の国では一般的徴兵制がなくなりますので、百姓の負担がはぐっと軽くなりました。
徴兵制が始まり健児の制に戻るまでの間、郡司(旧豪族)が大和朝廷成立時から擁していた元々の武力はどうなっていたかです。
この辺の消息がよく分らないのですが、もしも班田収授法が郡司の領土内にも100%及んでいたとすれば、郡司の領地没収ですから経済基盤が100%損なわれてしまいます。
班田収授法とは人民に対する版籍を全部朝廷に引き渡し、豪族が丸裸・・人民に対する支配権を何も持たないと言うことです。
実際には何らかの一生分のある程度の従者を従える程度の保障をしたでしょうが、その程度で完全実施出来たのでしょうか?
明治維新の時に版籍奉還した元大名には、警備要員以外の戦闘要員(私兵)が残らなかったのと同じです。
全国が郡司(旧国造)の支配下にあった筈ですから、もしも郡司支配下の農地は公田にしない・・班田収授法が全く及ばないとすれば班田収授法の及ぶ地域は制度施行後の新田開発地域しかなかったことになります。
また政治的にこれを見ても、地方豪族は何のトガもない・・朝廷に刃向かって戦争で負けた訳でもない・・戦わずして服属した元国造(一人や二人ではなく国内の豪族全部)が領地削減だけではなく100%領地没収を受け入れるとは思えません。
かといって豪族の版籍・支配権を全部放棄させるのは政治的に無理があったでしょう
むしろ朝廷の方が、白村江の戦争で負けたばかりで逆に弱い立場のときでした。
元々対外戦争に負ければ国内権力が弱体化するのは、どこの国でもあるいは古今を問わず例外のない政治現象です。
政権維持の危機に臨んで政権側では却って中央権力の強化が必要になりますので強化・引き締め策を実施するのは当然ですが、その外形だけ見て権力が最大強力時だったと見るのは間違いです。
政権内部で見ても天武天皇の後は女帝が続く不安的・権力空白期だったとも言えます。
関ヶ原で勝ったばかりの家康でも、敵対した島津や上杉、毛利らの大名全部を没収出来ず領地削減するのが漸くだったことを思えば、まして敵対していないどころか、白村江の会戦に協力していた国内全豪族から全領地を没収するなどイキナリ出来る筈がありません。
世界中で歴史上こんな芸当を出来た皇帝・大王は一人もいない筈です。
もしも断行出来ていたら世界史的大事件ですが、この辺を全く教科書で書いていないで(明治維新の版籍奉還は大事件として書かれています)律令制・班田収受法の施行ばかり教えられるところを見ると、この時期に全面的な版籍(領土・人民の管理権)没収は出来なかったと見るのが合理的です。

律令制(中央集権化)と徴兵制1

 

そこで律令制以降の軍制度がどうなっていて、それがどうして武士の勃興に繋がって来たかが気になりますので少し見ておきましょう。
徴兵制が貫徹すれば豪族の私兵は存在(両立)出来ません。
坂上田村麻呂が活躍したときの軍隊は豪族からの寄せ集めではなく、徴兵による軍団であったように見えます。
結局のところ、唐・新羅連合軍が攻めて来なかったので防人の活躍する場面がなく、徴兵制の効果があまり表面化していませんが(専門家は当然研究しているのでしょうが。我々素人には知られていないだけでしょう)一般的に知られている事例としては、蝦夷征伐で功績を上げた坂上田村麻呂の活躍が有名です。
彼は大豪族出身と言うのではなく、順次軍功を上げて昇進を重ねて(790年代から800年初頭にかけて)ついに征夷大将軍になって行ったに過ぎず、この過程で自前の兵を擁していた様子は見えません。
多分、朝廷支給の官軍の指揮命令がうまかった・・人望があったと言うことでしょう。
徴兵制が機能していた・・豪族の私兵は衰退していたのでしょうか?
7世紀中頃までの日本軍は国造の連合軍形式でしたが、新羅・唐連合に負けたので、日本列島の一体化・中央集権化ひいては軍の統一化の必要性を感じたのが大化の改新以降の方針です。
大宝律令(701年施行)では既に軍団制(国造軍ではない)が記載されているようですが、その前・・何時から軍団制になったかがはっきりしないようです。
徴兵制の前提として戸籍制度の完備が必須でしたが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍、あるいは持統天皇の整備した持統天皇4年(690年)の庚寅年籍が基礎らしいです。
(明治の徴兵制も壬申戸籍の整備を待って始まったものです)
古代の兵制は、(養老律令の軍防令)唐の制度を真似したものだと言われますが、丁男(成人男子)3〜4人に一人を徴して各地軍団に編入して兵士としての訓練を受けさせ、3年が任期だったと言われます。(明治の徴兵制も3年任期でした)
成人男子人口の3分のⅠと言うと大変な数ですが、実際には兵役や人頭税(庸調)逃れのために戸籍記載しない人・浮浪者や男子でも女子登録(ある地域には男子が戸籍上3人しかいないなど極端な例があったようです)していることなどによって、実数はそれほどではなかったようです。
1つのクニにせいぜい1000人前後そろえるのが漸くと言うところでしたから、実際には暗黙の了解でうまくやっていたのでしょう。
軍団は郡単位で編成していたようで、しかも、軍の士官クラスは郡司層(の子弟)がなる仕組みでしたから、兵制が出来た当初は郡司・古代豪族の私兵から国軍制に名目が変わったただけの様子です。
軍団の定員は、200人以上1000人以下で平時は国司に属していたようですが、軍司令官は国司がなるのではなく専門職の大毅中毅小毅と言う士官があって、これが専門職だったようです。
600人以上の軍団は大毅1名と小毅1名、500名以下の軍団は中毅1名が率いたとありますが、その下には校尉が二百人を率い、二百長とも呼ばれます。
更にその下には旅帥が百人を率いて百長とも呼ばれ、隊正が五十人からなる「隊」を率いたので隊正は隊長とも呼ばれた。
火長は十人からなる「火」を率いた。火は兵の食事を作る火の単位・・1つの火10人分の食事を作るので言うらしいです。
各国ごとに軍団を形成し、大きな国では3〜4個の軍団があったと言います。
一個の軍団(・・実際百人単位)は国府所在の郡に配置し、その他は別の郡に配して訓練期間として順繰りに廻していたようです。
食料も弓矢などの武器も全部自弁で3年も拘束されるのでは誰でもいやですから、(先祖代々世話になっている主人のために戦うのではなく)中央からの命令でその一部は都の警備・・衛士になったり、防人になったり、あるいは見たこともない遠くの蝦夷征討軍に編入されるのでは士気が上がりません。

律令制完成と王朝政治1

 

国司は中央派遣の中下級貴族(いわゆる受領階級)ですが、中央の政争で鍛えられているので田舎の純朴な勢力間のもめ事をさばく能力は一頭地を抜いていた(権威に頼るだけで地元民の納得が得られないと逆に国司の地位が低下して行きます)のでしょう。
それでも朝廷の権威がある間は、国司の裁定・これが仮に一方への肩入れで不満・不公正でも引き下がるしかなかったのですが、公然と国司の権威に挑戦したのが承平天慶(935〜939)の乱でした。
地方で朝廷の権威が空洞化していたことが、公然となったので歴史的意義が大きいことになりますが、(それでも僅か2カ月で将門は討たれています)逆から言えば、それまでかなりの無理があっても朝廷の権威が維持されていたことになります。
この地方勢力の駆逐が進む過程で遥任の官として現地と分離して行く国司と父高望王が上総介になると一緒に下向して坂東に地盤を築く平国香などのように現地土着して行く貴族に分かれてきます。
地方の旧支配層であった郡司も二極分解し、新興荘園領主に発展し、且つ自前の武力を蓄えて行く新興勢力に発展して行ったグループと衰退して行くグループに分かれて行ったようです。
戦国時代に守護大名が戦国大名に発展変質出来たもの(今川義元など)と守護代またはその家老などに取って代わられたものがいましたが、郡司(元の國の造)や郡衙役人にも新興武士団に発展変化したグループと時代についてけないで没落して行く元の造の意識のままの2種類がありました。
ですから、鎌倉時代まで(守護地頭側と貴族側で)鎌倉の御家人を兼ねながら荘園管理者として命脈を保つ郡司層とはこの新興地元勢力層のこととなります。
この過程で国司(下級中級貴族)だけではなく、中央貴族層も地方紛争に介入してそれぞれの立場で新興勢力である地元荘園主や武士層の紛争を解決してやりながら、自分の都合によって積極的に地元武力を利用する能力も身につけていきます。貴族(元は古代豪族)層は武士(戦闘集団)を外注利用出来たので、自前の武力を必要としなかったので、いよいよ宮廷貴族化が進んだとも言えます。
5月4日に書いたように、宮廷貴族化・王朝文化時代とは中央の旧大豪族は宮廷貴族化して戦闘能力を失って行った時期と一致します。
これは律令制の成果が出た結果・中央集権化の完成期と言うべきで、中央(大豪族)・地方ともに大和朝廷成立前後の旧豪族は没落して行ったことになります。
律令制施行頃からの中央政界では、藤原氏の天下となりその他古代からの豪族はおおむね中級貴族として生き残っていただけでした。
藤原氏に対抗出来る臣下・豪族がなくなっただけではなく、王族で勢力のあった長屋の王が滅ぼされてしまうと、天皇家自体が丸裸になってしまったので以降は藤原摂関家の専横時代に入って行きます。
前漢では呉楚七王の乱の鎮圧で専制君主制が完成して皇帝本体の権力は高まったものの、皇帝権力を側近・・外戚や宦官が牛耳るようになってもこれを制御する権力・王家の藩屏がなくなって行った・・側近政治に陥ったのと同じ状態でした。
我が国で長屋の王が滅ぼされてしまった以降、中央権力の暴走を制御する機構が消滅したことになりますので、中国王朝での宦官・外戚が跋扈(有名な跋扈将軍)して行くようになったのと同じ状況になっていたと言えます。
この時点では我が国も中央集権化・専制君主制が完成していた・・天武持統朝で目指していた律令制の成果・病理現象が現れていたのですから、律令制施行自体は目的を達して成功していたと言えるのではないでしょうか。
学校では律令制が形骸化して行った歴史の結果ばかり習いますが、実は律令制導入により版籍を全部朝廷に帰属させるのに成功し、朝廷成立前後の(藤原氏を除くその他の)諸豪族を衰退させる効果・中国並みの専制君主制の卵みたいになった点では見るべきものがあったのです。
この結果中央での権力闘争に敗れると反乱・抵抗するだけの自前の武力がなくなっていたので、黙って引き下がるしかなくなっていったのが奈良時代末から平安時代でした。
こうした時代背景の下で政争に勝てば相手を左遷するだけで(菅原道真の左遷や道長と伊周の政争)政敵の命まで取らずとも事足りた時代になっていたと言えます。
この時期を王朝時代と言い宮廷貴族中心の政治になったのは、大和朝廷成立前後の中央・地方豪族が軒並み衰退しいていた・・中国並みの王朝・・専制君主制時代に突入していたことになります。

郡司1と国司

 
律令制施行に合わせて全地域を國にしてしまいました・・京・みやこのある場所さえも大和国としてしまったのですから、直轄支配を原則として半独立地域だけを國にする中国の国郡制そのものではありません。
4月30日〜5月1日に書いたように・・・大和朝廷成立時には各地には半独立国が含まれていたこともあるでしょうが、朝廷所在の本拠地(畿内)を含めて國としたことによって外見上の区別をなくしてしまった・・独立性の有無ではなく、単なる地方組織の名称にしてしまったとも言えます。
これも同一化・融和策の智恵であったでしょう。
徳川期に譜代・外様も親族も万石以上を全部同一の名称・大名にしたのと同様です。
大和朝廷では支配下に半独立国が多かったので直轄地でもアガタ主・豪族が治め(従属制の強い譜代大名のようなもの?)半独立・服属国を国造(外様大名)としていましたが、壬申の乱以降は中央権力が強化されていましたので、大宝律令(700年完成、702年施行)で地方制度として全国画一的に國を持って来ました。
この結果、その下の単位は郡になったのですが、同じくコオリ・コホリと言う音を当てられていた縣は5月3日に書いたようにどこかへ行ってしまいました。
国造制度が律令制施行直前の大化5年に「評」(これも「こおり」と読んでいました)と言う単位に編成替えされ、律令制が施行されると新たに設けられた郡となり國造は郡司と格下げされました。
國造が新たに出来た郡の長官・郡司に横滑り就任した場合、その権限は地域的範囲を縮小するのがやっとで(元々領主ですから)その領域内の権限・・それまでの国造の権限をそれほど大きくは変えられなかったでしょう。
国造の1つの領域を仮に3個のコオリに分けた場合、新たに出来たコオリのオサをまさか朝廷が派遣出来なかったでしょうから、結局は元の国造の一族の推薦によったのでしょう。
郡司の権限は表向き同じままで、その上に監督者が来たくらいが納得させられる範囲だったのではないでしょうか?
この時に1国に統合された造グループの有力者を昇格させて新たに出来たクニの代表者にしたのでは、地方豪族がよけい力を持ってしまうので、朝廷派遣の国司制度にした点・・その代わり監督権限程度にした点が漢の州の始まりに似ています。
5月5日にに紹介した通り当初の監察官・刺使には軍事権がありませんでした。
律令制発足当初は國造から横滑りした郡司は従来の行政機構そのままに郡衙(元々の本拠地の名前が郡衙と変わっただけ)を構え絶大な力(軍事力を含む)を持っていたのですが、10世紀頃までには国司の権限強化が成功して旧地元豪族が没落して行きます。
これは国司権力の法制度上の強化によるのではなく、後記のとおり、新たな勢力の勃興による入れ替わりが激しかったことによる没落の結果だったとも言えます。
国司の権威上昇側面は、漢の州が単なる監察目的から出発したのにいつの間にか州の牧が権力を持ってしまい郡が有名無実化して行くのと似ています。
しかし、州の牧が実力を持って行くのは軍事力を持ったことがその背景であったのに比べて国司は軍事力の主体にならなかった点が大きな違いです。
ここで国司の権力の源泉を見ておきますと、中国の郡大守同様に国司にはこれと言った軍事力を持たせずイザとなれば中央派遣軍が出動する仕組み・・中央の権威頼みでした。
元々国府は元の国造の有する地方軍事力のあるところに上乗せで始まったものですから、権威だけを利用していたのはその性質上当然でした。
山内一豊が土佐に赴任したときには、旧勢力の長宗我部氏は戦争で負けていたのですが、それでも大量の軍事力を持って赴任するのは大変でした。
このような力づくの落下傘部隊だったので、地元に根付いていた国人層・・一領具足との対立が幕末まで300年近くも続いたことになります。
まして古代の国司制度は・・・戦争なしに服属しただけの古代各地豪族の上に制度上いきなり作ったものですから、現地政府を制圧するほどの軍事力を持って赴任するのでは地元勢力との軋轢があってうまく行かなかったでしょう。
それに、朝廷は外敵には征夷大将軍を任命して大軍を派遣してくれますが、日常的地域内小豪族間の紛争(一種のゲリラ戦です)には大軍派遣出来ません。
結局現地従前実力者・・元の国造による警察権的小規模武力が幅を利かすことになります。
古代からの豪族は班田収授法の施行によって次第に経済基盤を失い、平行して武力も失って行きますが、この期間が大分続いた後に私荘園が発達します。
旧豪族・郡司の多くが私荘園主にもなって行ったでしょうが、私荘園間の紛争・警備のために現地武力としての武士団が発達して来ました。
国司は国司の権威を利用して元郡司を含めた地方新興勢力同士のもめ事に介入して(個人的能力によって)存在価値を高めて行ったのです。
権威利用とは国司の仲裁に反して抵抗すると反逆者になってしまうので、今の裁判権を持ったような状態で国司の権威が保たれていたことになります。

律令制による国の制度

5月2日に紹介したように大化改新以降、律令制施行までの間にそれまでの国の造の治める地域を小さく分けて・・喩えば3〜4個の評・(後に郡と改称)にして従来の国を2〜3個合併して1つのクニ・・一国内に郡が6〜7個にするなど規模的再編成があったようです。
このときのクニの名称や範囲がapril 28, 2011「くにと国」で疑問を書いておいた江戸時代末(正確には明治4年11月の府縣統合)まで続いた国郡制の基本(後に若干の変更があります)だったと思われます。
ただし、上記の従来の国を細分化して郡にして、これをさらに併合して従来よりも大きな国を作る実際の数については、わたしの比喩であって正確には分りません。
ただ日本書記では、ずっと昔の実在するかどうか不明の成務天皇の時代に国を山脈など自然の地形で区切って作ったように書かれていますが、これまで書いて来たように元は大和朝廷成立時の地方豪族の支配地ごとに国の範囲(大きな山脈を越えた飛び地支配は困難ですから当然自然の地形に似ているでしょう)・名称があったのを、大化の改新以降律令制導入に向けて(かなり無理な)統廃合をして新たに国の範囲・名称を決めたものと考えています。
例えば今でも南北対立の激しい長野県・信濃国をウイキペデイアで見ると
「7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした(当初は科野国)。」
「721年(養老5)から731年(天平3)まで信濃国から諏方国(すわのくに)が分置されたこともある。」
「645年の大化改新で科野国[8]が設置され、704年(慶雲元)の国印制定により、「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。」
「新政権は大化から白雉年間(645~654)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」(コオリ)と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間評(今の筑摩郡のことでしょう)・安曇評・水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評などが成立していたと考えられている」
とあります。
私の想像によれば、長野県の南北対立は明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県とこれに引き続く同年11月の第一次府縣統合によって、筑摩縣と長野縣に分かれていたのが、1876. 8.21の第二次府縣統合で長野県1つになったことから始まったように思われていますが、もっと古い対立があるように思えます。
古代のクニ制度改変(国をコオリ単位に細かくしてこれを再度まとめて「くに」と言うようになった)時に千曲川流域を中心とする水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評(千曲川流域)地域(もとは國)と現在の松本・諏訪地方を中心とする伊奈評・諏訪評・束間評・安曇評地域のクニを無理に合併させたから、こんな結果が今でも続いているのではないでしょうか?
信濃の國は壬申の乱で大海皇子側について勲功があったと言われていますので、(逆に千曲川流域地方は大友皇子側についた?)その論功としてもしかしたら、山を越えた千曲川流域までまとめた大きな1つのクニ・支配下にして貰った可能性があります。
壬申の乱に匹敵する明治維新で言えば、千曲川流域地方の勢力は早期に官軍側についた(真田家などは当初から官軍でした)のに、筑摩郡を中心とする勢力は徳川家の息のかかった大名が多かったことから、(例えば会津藩の始祖である保科氏は、高遠城で養育されました)県庁所在地を辺鄙な水内郡の長野村(今は長野市ですが・・)に持って行かれた可能性があります。
1つの国としては他国に比べて面積が大きすぎる外に郡の数が多すぎますし、間に大きな山並み(・・今はトンネルもあるし車で山越えは簡単ですが・・)があって、古代から1つの生活圏だったとは考えられない地形です。
大和朝廷成立当時としては北の果てに諏訪大社(信濃国一宮)があるのは、こうしたいきさつによると思われますが如何でしょうか。(単なる私の空想です)
周辺の同じ山国(海のない地域)・・例えば甲斐の国や飛騨の國はそれぞれ1つの盆地状のまとまった地域です。
その他はそれぞれ海路または水路で一つの生活圏をなしていた感じですが、信濃の国だけは南北が大きな山並みで分断されているのに無理に1つにして来たのが現在に至る南北対立の根源になっているのではないでしょうか?
戦国時代は殆どのクニで先ず国内諸豪族のヘゲモニー争いから始まって国内統一が出来てから、隣国に押し出して行くのが普通ですが、信濃のクニでは国内統一して外敵にあたる機運がまるでなく、武田と上杉両勢力の草狩り場になったのは、クニとしての一体性を欠いていたことによるでしょう。
明治で大きな縣を作るために、いくつかのクニ・地域を合併させた福島県や静岡県(伊豆、駿河、遠江)などと同じ地域対立が古代の律令制施行時から続いているのです。
福島県は大和朝廷成立時には、北辺の陸奥の国の一部でしかなく、独立のクニとして分離成立するのは大分経ってからのことです。
現在知られている岩代の国と岩城(いわき)のクニに分かれ命名されたのは、明治維新直後の数年程度のことです。(直ぐ縣制度に移行しますので・・なくなってしまいました)
718年(養老2年)に石城国と石背国が分離独立したこともあるようですが、前9年の役など蝦夷との関係が怪しくなると陸奥のクニに再編入されて以降、国として一体化したことがなくまとまらないまま(戦国時代も大名が乱立ですし、江戸時代も会津松平家を除けば小大名の乱立で)明治まできたのです。

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