律令制(中央集権化)と徴兵制1

 

そこで律令制以降の軍制度がどうなっていて、それがどうして武士の勃興に繋がって来たかが気になりますので少し見ておきましょう。
徴兵制が貫徹すれば豪族の私兵は存在(両立)出来ません。
坂上田村麻呂が活躍したときの軍隊は豪族からの寄せ集めではなく、徴兵による軍団であったように見えます。
結局のところ、唐・新羅連合軍が攻めて来なかったので防人の活躍する場面がなく、徴兵制の効果があまり表面化していませんが(専門家は当然研究しているのでしょうが。我々素人には知られていないだけでしょう)一般的に知られている事例としては、蝦夷征伐で功績を上げた坂上田村麻呂の活躍が有名です。
彼は大豪族出身と言うのではなく、順次軍功を上げて昇進を重ねて(790年代から800年初頭にかけて)ついに征夷大将軍になって行ったに過ぎず、この過程で自前の兵を擁していた様子は見えません。
多分、朝廷支給の官軍の指揮命令がうまかった・・人望があったと言うことでしょう。
徴兵制が機能していた・・豪族の私兵は衰退していたのでしょうか?
7世紀中頃までの日本軍は国造の連合軍形式でしたが、新羅・唐連合に負けたので、日本列島の一体化・中央集権化ひいては軍の統一化の必要性を感じたのが大化の改新以降の方針です。
大宝律令(701年施行)では既に軍団制(国造軍ではない)が記載されているようですが、その前・・何時から軍団制になったかがはっきりしないようです。
徴兵制の前提として戸籍制度の完備が必須でしたが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍、あるいは持統天皇の整備した持統天皇4年(690年)の庚寅年籍が基礎らしいです。
(明治の徴兵制も壬申戸籍の整備を待って始まったものです)
古代の兵制は、(養老律令の軍防令)唐の制度を真似したものだと言われますが、丁男(成人男子)3〜4人に一人を徴して各地軍団に編入して兵士としての訓練を受けさせ、3年が任期だったと言われます。(明治の徴兵制も3年任期でした)
成人男子人口の3分のⅠと言うと大変な数ですが、実際には兵役や人頭税(庸調)逃れのために戸籍記載しない人・浮浪者や男子でも女子登録(ある地域には男子が戸籍上3人しかいないなど極端な例があったようです)していることなどによって、実数はそれほどではなかったようです。
1つのクニにせいぜい1000人前後そろえるのが漸くと言うところでしたから、実際には暗黙の了解でうまくやっていたのでしょう。
軍団は郡単位で編成していたようで、しかも、軍の士官クラスは郡司層(の子弟)がなる仕組みでしたから、兵制が出来た当初は郡司・古代豪族の私兵から国軍制に名目が変わったただけの様子です。
軍団の定員は、200人以上1000人以下で平時は国司に属していたようですが、軍司令官は国司がなるのではなく専門職の大毅中毅小毅と言う士官があって、これが専門職だったようです。
600人以上の軍団は大毅1名と小毅1名、500名以下の軍団は中毅1名が率いたとありますが、その下には校尉が二百人を率い、二百長とも呼ばれます。
更にその下には旅帥が百人を率いて百長とも呼ばれ、隊正が五十人からなる「隊」を率いたので隊正は隊長とも呼ばれた。
火長は十人からなる「火」を率いた。火は兵の食事を作る火の単位・・1つの火10人分の食事を作るので言うらしいです。
各国ごとに軍団を形成し、大きな国では3〜4個の軍団があったと言います。
一個の軍団(・・実際百人単位)は国府所在の郡に配置し、その他は別の郡に配して訓練期間として順繰りに廻していたようです。
食料も弓矢などの武器も全部自弁で3年も拘束されるのでは誰でもいやですから、(先祖代々世話になっている主人のために戦うのではなく)中央からの命令でその一部は都の警備・・衛士になったり、防人になったり、あるいは見たこともない遠くの蝦夷征討軍に編入されるのでは士気が上がりません。

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