交付金の分配

6月17日に書いたように国民全部から貰った資金・交付金を一人一人にきちんと配ってくれたら、何時あるか分らないことのために一時避難や二重生活に備えた生活を延々と繰り返すよりは、恒久的に仕事ができるように仙台や東京などにその資金を持って出て行ってしまいたい人がかなりいたでしょう。
一人当たり1000万円の場合、赤ちゃんまで含めた3人家族で3000万円貰えますし、親子3世代で一緒に移転すれば、かなりまとまったお金になります。
仮に原発立地の4町の住民だけを前提にすれば、これが当初人口が今(約4万人)の3分の2=約25000〜26000人であれば、一人当たり1000万円配っても2500〜2600億円に過ぎないので、この程度の資金は前もって配っておいて自分で好きな別荘地でも(首都圏の郊外マンションでも)購入しておいてもらっても良かったのです。
(一人とは赤ちゃんや超高齢者を含めてですから、3世代で転居となれば大変な金額です)
残りのお金で役場その他の機能移転・バックアップを考えたり、避難行動の応援や連絡調整などに使っても資金は有り余っていたでしょう。
お金だけでは故郷を捨てられないと言う心情論が出てくるでしょうが、故郷を捨てられない人はお金をもらうのをやめて自治体で用意した避難用地に別荘を建てるか、危機が来るまで座して待つのも勝手ですが、最後まで残っていた人が避難するにしてもみんなで予め用意した場所に一緒に移転すれば今のようにいきなり体育館に避難して雑魚寝をするよりはマシです。
本当に共同体維持に熱意を持っている人は一緒に移転する・・別荘地に自分用の避難用建物を建てるでしょうし、そんな何時あるか分らない危険におびえながら二重生活するくらいなら、まとまったお金をもらってムラから出て行ってしまった(無関係なところで仕事を探して)方がマシだと言う人は別のところに行ってしまうでしょう。
ともかく本人の好きに任せれば良いことです。
ムラの人はお金なんか欲しくない筈だ・今の生活を守りたいだけだと訴える人が幅を利かして来た感じですが、それを本気で思っているならば、交付金をもらって原発立地に賛成したり交付金欲しさに原発誘致決議などしなければいいでしょう。
危険・・具体化すれば逃げるしかないこととの引き換えに、予め交付金をほしがるのは、ふる里の維持よりはお金の方が良いと言う意味・意思表示ではないのでしょうか?
ムラのみんなあるいは大多数が共同体維持希望者であるとする主張に自信があれば、・・お金を配って見ても、ほんのちょっとした落ちこぼれが出るだけで心配が要りません。
実際にはお金を配ればムラ社会を出て行ってしまう人が多いことを本音では知っていて、分配に反対していることになります。
夫婦別姓論・・選択制に反対する論者は、選択制にすると別姓選択が多くなる・・そういう国民の方が多くいることを自白しているようなものであると、04/16/05「夫婦別姓28(完・・・夫婦別氏の選択性)多様な婚姻制度6」で書いたことがありますが、住民への分配も同じで、本当にお金よりも共同体維持を望む人が多いと言う自信があるならば、配るからどうしますかと提案してみたら良いいのです。
配ってみて住民がどう言う行動をとるかは住民の意思に任せるべきであって、政治家が勝手に住民の意思は「お金より共同体維持であると決めつけるのは僭越です。
お金を住民に配るのには反対にも拘らず、巨額交付金を欲しいと動いていた人たちは、そのお金を何に使いたくて危険な原発誘致運動をしていたのでしょうか?
住民個人にはびた一文使わせないが、自治体と言う団体で使いたくて、(イザと言うときのために資金を管理していなかったようですからら・・・)交付金獲得にしのぎを削って来たことになります。
結局は危険を被る住民をダシにして貰った交付金を、政治家が自由(結果的に・・主に土木建築工事に使い切っているのですが・・・)に使おうとする魂胆だったのでしょうか?
他人がとやかく言うのではなく、お金を配って当事者がどちらを選ぶか任せれば住民の本心が明らかとなります。
事前にお金を配ってもらって町を出る人とお金をもらわないで町に残る人が決まれば、高齢者等どうしても土地を離れたくないなどで、危険な町に残った人の分だけ避難用地を用意すれば良いので取得用地の規模も事前に確定出来ます。

行政文書の事前避難

空襲による焼失の場合、100km離れたところにバックアアップしておいても、その翌日にはそこも爆撃を受けることがあり得るので(広島の帰りに長崎に原爆を落としたように)離れていれば良いとは言えませんが、自然災害の場合は距離が決め手であることは間違いがないでしょう。
しかも空襲の場合、じゅうたん爆撃に遭ったとは言っても、書類関係は端っこが焦げるくらいで意外に全体まで燃えないものです。
それに被災者はその土地に居残る率が高いので、いろんな人の持っている書類の持ち寄りによって復元がかなり出来ます。
行政文書は役所にあるだけではなく、6月27日に戸籍簿の復元で書いたように(中には戸籍謄本を取り寄せて自分で持っていた人もいますし)複数以上の関係者が持っていることが多いこともあります。
設計図書で言えば、工事関係者がそれぞれ自分に関係する部門の設計図を持っていますので、それを持ち寄れば何とかなります。
学籍簿で言えば、空襲が終わった後で生徒が三々五々学校に戻ってくれば、全員の名簿の復元は簡単です。
今回の津波や放射能被害による避難では、根こそぎ流されてしまう外に原発避難の場合も、ムラや町中誰一人いなくなる避難ですから、みんな散りジリに避難すると、関係者の連絡を取るのさえ不自由な状態になっています。
原発避難地域では、未だにあるいはこの先どの程度の期間経過すれば被害把握が出来るのかさえ予測不明なくらい、被害実態が調査出来ない状態になったままです。
前もって何の準備もなかったので、(戸籍事務は法務局に速やかに送るようになっていますが、それ以外の本来日々活用すべき市町村作成公文書はすべて)行政文書の消失・水浸し等による・復元にこれから頭を悩ませることになる筈です。
建物や構築物等の物損被害額は直ぐに計算出来ますが、行政文書消失による被害は目に見えた損害額にはなりませんが、じわじわと効いて来て、事務作業が滞ることになるのでその経済損失は甚大なものになる筈です。
各個人が取るもの取りあえず緊急避難して身の回り品が何もなくて困っているのと同様に、みんなのお世話をするべき自治体自身も避難に際しての事前準備がなかったので、膨大な行政文書・・住民登録データに始まる分野ごとに必要なデータを海の藻くずにしてしまったりして持ち出せないままになっています。
(死亡者数や被害実態の把握・避難住民の詳細把握が進まないのも、各種データ根こそぎ消失の結果でしょう)
危険手当としての交付金をもらうときから、避難準備の議論が日頃から進んでいれば、データの避難・バックアップをどうするかにも当然検討が進んでいたでしょう。
これは住み慣れた地元を離れられないと言う生身の人間・・心情相手とは違い、合理的に検討し、お金さえ出せば直ぐに実行出来た分野です。
(山間僻地への資料移送保管の費用は、9000億の巨額交付金との比較からすれば費用のうちに入らないわずかな額です。)
美術品や生き物と違って、紙記録は積み上げておいてもそれ程痛まないし、市町村の情報記録は5年間の保存期間が殆どで、永久保存の不要なものが大半ですから、大した保管コストがかかりません。
永久あるいは長期保存文書・紙記録の場合、20年や30年放置しておいて少しは痛んでも(津波に流されてしまうよりはマシです)イザとなれば何とか使えるでしょう。
現在生きている・・・毎日のように動いている情報が失われると、今後2〜3年の仕事が困難になるリスク・損害が大きいのですから、保管技術の面は(私にはよく分らないのですが・・)とにかく移転しておくメリットは大きかった筈です。

戸籍簿の焼失と復元2

5〜6年前から本人確認がうるさくなるまでは、相続でも手続きがやかましかったのは不動産相続登記だけで、相続が開始してもそれ以外の資産の場合、親の親まで戸籍謄本等が要求されていませんでした。
最近では共働き夫婦の増加でマンション購入時に夫婦共有にすることが多いですが、20年くらい前までは殆どすべてが夫名義での購入が普通でした。
(この世代は今のところ離婚事件で法の世界に登場するくらいで相続開始ははまだまだ先です)
相続分は配偶者が2分の1であり、相続税も相続財産が如何に巨額でも半分まで非課税扱いになっていますし、生前贈与でも、婚姻後20年超の場合、居住用資産に限って2000万円までの無税扱いもあります。
これらはすべて、夫名義不動産が中心である実態・・妻名義不動産が皆無に近いことを前提にした法制度です。
車で最近まではも夫名義で購入するのが普通でしたので、女性が亡くなっても、これと言った資産がないので相続手続き・・名義変更手続きなどは滅多に必要がない時代が続きました。
本人確認がうるさくなるまでは夫名義の預金を妻が自由に出し入れしていましたし、その逆もある外に一定の高齢者になると、同居の親族・息子らが管理しているのが普通でしたから、死亡後も(死亡したと言わない限り)預貯金解約には戸籍謄本など用意しなくとも自由に解約出来ました。
預貯金もつい5〜6年前から本人確認が必要になったので、(カード利用による払い戻しは今でも事実上出来ますが・・・)死亡後の解約は出来なくなりました。
最近の相続開始の中心年齢帯は大正期から昭和初期の人ですが、その世代では女性名義の不動産が滅多になかったので女性が夫より先に死亡した場合、多くの場合死亡届を出すだけで足りて、それ以上に親の親の何十年も前に閉鎖されてしまった戸籍謄本まで必要としていませんでした。
たとえば、夫死亡時に相続手続きを先延ばししていてもその後に妻がなくなると、夫の親の戸籍謄本から必要になります。
夫の親の本籍が何回も転籍している場合、転籍前の戸籍まで必要なことが多いのですが、いくつか前の戸籍がなくなったままになっていることが多いようです。
農家と言うとみんな農地(不動産)を持っていると思う方が多いでしょうが、戦前には地主小作関係が多く自作農が原則になったのは自作農創設特別措置法による農地買収と小作人への売り渡し以降のことです。
ご存知のように自作農創設措置法による買収と小作人への売り渡しは、昭和20年代後半までかかっていましたが、売り渡しを受ける小作人の方は均分相続になったことと相続税の関係があって、(5〜10年で死にそうな)高齢者名では売り渡しを受けずに跡取りの長男が成人していれば長男名義で売り渡しを受けるのが普通でした。
小作地の売り渡しを受ける頃に50代になっていた人がその後に死亡しても、既に長男名義にしてあったので相続すべき不動産がないのでその後3〜40年間は農家の相続問題はそれほど多くは起きなかったのです。
そして都市住民は(いまになると不思議に思うでしょうが・・)一般的には借家や借地住まいが普通の時代でしたので、持ち家政策・住宅ローン制度が浸透するまで、都会地では相続が開始しても特段の手続きを必要としていませんでした。
明治村にある夏目漱石の家も借家だった筈です・・森鴎外が借り、漱石も借りた借家がいまも東京に残っているようです。
江戸時代には、大名や旗本屋敷さえ将軍家からの借り物でした・・このために吉良上野介が屋敷替えさせられたことをDecember 2, 2010「婚姻費用分担と財産分与2」で紹介したことがあります。
農家などでは相続で兄弟ともめたくないので親が死亡しても、長男が従来どおり親の家に住み先祖伝来の農地を耕してる分には相続登記してもしなくとも同じですから、登記しないで放置している例も多く見られました。
勿論2〜3世代借家暮らしの場合、(5〜6年前まで本人確認がうるさくなかったので)相続手続きなどまるで無縁の家系がたくさんありました。
上記の通りいろんな分野で親の親の戸籍まで調査する必要性がないまま長期間経過した家系(県住や都営住宅市営住宅に住む人は勿論関係がありません)があちこちに出来ていたのです。
最近、本人確認がうるさくなって来たので僅か100万円の預金を下ろすのさえ、親世代からの戸籍謄本が必要になってきました。
たとえば10年前に明治40年生まれの母親がなくなると、母が(例えば昭和5年婚姻とすれば)婚姻により父親の戸籍に入る前の戸籍・・母の父親ないし・その属していた戸主の戸籍謄本が必要になります。
母の出た家の戸籍簿が戦災でなくなっていても、その戸籍に残っていた誰かがその直後頃に自分と親子兄弟の戸籍簿復元の外に既に閉鎖されていた親が戸主であった閉鎖戸籍を復元していれば良いのですが、母の兄弟が自分の戸籍だけ復元していて当時死亡していた閉鎖していた親の戸籍まで復元していないと今になるとどうにもなりません。
あるいは母が一人娘であって父母共にたとえば昭和15年頃までに死亡して戸籍が閉鎖されていた場合、母が自分の家族の戸籍復元までは済ませても死亡している父母の戸籍の復元まで必要がないので思いつかなかった場合もあります。

戸籍簿の焼失と復元1

ここでちょっと戸籍簿の焼失と復元作業に横入りしておきます。
最近でもときには「空襲による焼失により、当該戸籍は存在しません」と言う事例に出くわすことがあります。
被相続人に関する戦中戦後の戸籍はきちんとしているのに、(現在相続が多いのは大正から昭和始め頃に生まれた人が中心です)その前の明治大正頃の(被相続人の親またはその親の)古い戸籍だけが復元されていないことがあります。
敗戦直後に戸籍簿を回復する作業は政府が主体的に回復して行く作業ではなく、生きている人が婚姻したり、子を産んで出生届、死亡届を出したりする時に必要になり、生きている人の都合で役場に行って見ると自分の戸籍簿が燃えてしまって存在しないことが分ります。
そこで、当時まで(空襲で焼け死んだばかりの人も含めて)戸籍上生きている人については、焼け残った米穀通帳や学校関係の文書などを持ち寄って先ず自分の氏名など明らかにし、その人が自分の兄弟や親の氏名生年月日などを届けて記録して行く方法のようでした。
客観文書がいくつもあればそれに越したことがないのですが、客観文書にも誤記があるので1つ2つしかない場合や、数十年前に亡くなっている父や母・場合によっては祖父母や伯父叔母など死亡者の生年月日や氏名については、(その妻子など)関係者連署などで正確性を証明して復元してもらう方式から始まったようです。
不動産登記の関係は、政府のイニシアチブで地番順に復元して行けます・・その番地に行けば、実際その土地があるし、住んでいる人や耕している人がいるのでそれなりの手がかりがあります。
それに地権者は権利証を大事に保管していたものですから、その提出を求めれば直ぐに復元出来たでしょう。
戸籍の場合、地番順に編成していない・・・戸主や筆頭者人別に編成しているので、10番地の次の11番地を誰が本籍にしているかを逆から検索して行くことができません。
そもそも本籍と住所とは別ですから、その番地に人が住んでいるとは限らないないのです。
そのうえ10番地に誰かの本籍があってもその隣の11番地も誰かの本籍になっているとは限りません。
その点土地は順番に番号を振ったものですから、欠番(合筆によって発生しますがそれは例外ですし、その所有者がその経過文書・分筆合筆の権利証も大事に持っています)がないので順にチェックして行けば復元出来ます。
戸籍簿の場合、政府の方から復元する方法がないものですから、当時生きている人が何らかの必要があって届けて来た順に先ず復元作業が始まったものと思われます。
ところで、現在では均分相続のために被相続人(死亡者)が生まれたとき(正確には生殖能力を持ったとき以降)の連続した戸籍がないと被相続人の子供全員が何人いるのか誰と誰なのかが特定出来ません。
父母の戸籍だけではなく、父または母が戸主になったとき以前に属していた戸籍・・すなわち父の父(前戸主)の戸籍謄本が必須です。
今で言えば、婚姻により新戸籍を作るのですが、この新戸籍編成前の戸籍がないとその人が初婚かどうか(再婚前に子供をもうけているか・婚外子がいたのか)も分らないと言えば理解が簡単でしょう。
ところが、戦後間もなくのころにはまだ家督相続制でしたので、相続編が改正されて施行された昭和23年1月1日前(その前日)までは、親が死亡して相続が開始しても親のすべての子供を捜す必要性がありませんでした。
(子供が何人いても長男が単独相続出来たので、自分が長男であることさえ証明出来れば良かったので、自分の親や兄弟の氏名生年月日や何時結婚したかなど書き出して現役の戸籍簿さえ復元すれば足り・・閉鎖した戸籍復元までは不要でした)
こうした事情もあって、今では親が結婚する前の生まれたときからの戸籍・・当時では親が戸主になる前の前戸主の戸籍謄本が必要ですが、昭和22年暮れまでは、その必要性がなかったので、昭和22年頃までに戸主が亡くなって閉鎖されていた戸籍簿が復元されないままになっていることが今になって出て来るのです。
では、この間の死亡事例の場合だけ明治大正の戸籍がなくなっただけかと言うとそうでもありません。
昭和23年1月1日以降に相続が開始すると均分相続のために被相続人の親の戸籍まで復元する必要が出てきましたが、この場合も原則として不動産の相続登記が必要な場合だけ戸籍謄本が必要になっただけでした。

データの避難準備1(空襲)

今回は自治体データの内戸籍関係だけは法務局に書類が移送される仕組みでしたから、偶然無事だったようですが、第二次世界大戦時にも同じような問題があって、町役場と同一地域にある法務局も米軍の空襲によって焼けてしまい、戸籍関係が焼失してしまう例が多くありました。
ただし、敗戦時に焼失した戸籍簿や不動産登記関係書類は日常的に必要とするデータではないし自治体側から、行政目的に積極的にこれを利用しているデータではありません。
各関係者が必要とする都度、届出て復元すれば足りたようです。
いまの時代住民登録の整備があれば、戸籍簿整備は不要ではないかと言う意見を April 17, 2011「不正受給防止(超高齢者)」まで書いて来ました。
言わば不要な記録だけが、今回の津波被害から助かったことになります。
津波被害では、タマタマ法務局と役場が離れていたから良かったに過ぎず、同じ地域に集中するのは、津波に限らずどのような種類原因による被害があるか分らないのでリスク分散としては危険です。
遠隔地に用地取得して置いて、そこの管理事務所併設倉庫に(紙記録など)バックアップしておくべきだったのです。
私は戸籍簿の喪失に関しては職務上今までいくつか経験していますが、空襲の場合、津波と違って一族・一家あるいは集落構成員根こそぎ死亡することが滅多にないので、生き残った家族らからの聞き取りや届け出及び集落関係者の報告等で戸籍の復元が大方出来ていたようです。
土地台帳・登記所が燃えても、各人が持っている権利証や隣近所の人の持ち寄った公図写しなどで何とか復元出来ていたのです。
(津波のようにムラごと流されて全員なくすようなことはなかったので・・)
何しろ自分の耕している土地や自宅敷地を知らない人はいません。
しかも当時の役所のデータの殆どは現在の膨大な技術的行政文書と違い長期間掛けて関係者が必要とする都度復元すれば足りる・・どちらかと言えば、記憶に頼れる原始的文書でした。
(親や兄弟の氏名生年月日、何時結婚したか姪が何時生まれてどう言う名前か等は正確に知っていることが多いものです。)
現在の行政文書は自分のことでも保険番号や建築確認書類その他を役所に問い合わせないと分らないような・自分で記憶しきれない・管理しきれないデータが殆どです。
行政も国民を管理するだけではなく、今ではデータに基づいて積極的にいろんな施策をしなければならない役割ですから、(介護や生活保護でも細かなデータが必要です)細かなデータがないと自治体も動きがとれなくなってしまいます。
公的資産の管理を考えても詳細設計図書がなくなれば、ちょっとした修理をするにも大変なことです。
土地権利証などと違い今では年金記録その他すべての分野で詳細なデータ化しているので、そのデータ自体を国民が所持している例は少ない筈ですから、一旦消失すると各種行政文書の復元は困難を極めます。
ここでの関心は、これまで書いて来た住民個々人の避難準備不足による被害拡大だけではなく、自治体自身の避難準備・危機管理がなかったことによって、これから徐々に明らかになる損失拡大・事務処理効率のロスに対する懸念です。
ただ、敗戦時の記録復元が簡単だったとは言え、聞き取りに頼る場合正確な漢字表記などに誤りがある事件があって、本人にとっては自分の名前の漢字が違っているのは落ち着かないままで来たのですが、死ぬ前に訂正したいと言うことでした。
そこで、兵役従事中の関係文書や応召前の学籍簿などを証拠に、戸籍上の名前・漢字表記の誤りを訂正するための手続きを昭和50年代にやったことがあります。
ま、こんな程度の誤りは国全体の施策には影響がない程度ですが、現在の行政文書のデータは膨大ですし、膨大な行政文書がないまま行政を執行して行く・・あるいは前向きの施策をするにしても、前提となるデータがまるでないのでは眼をつむって走り回るようなもので、大変な事態になることが明らかです。

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