國から縣へ3

明治になって、地方制度を国制から縣制への何故移行したかの関心・・4月末から5月初めのコラムに戻ります。
ところで県の旧字体は縣で、これは間にぶら下がる意味・・すなわち中央政府と地方の間にぶら下がっている意味(今で言えば中間管理職の謂いです)で、「縣」となっているそうです。
(本来県と縣は別字ですが、戦後ごっちゃになって今では簡略化するだけのためにクビを逆さ吊りした意味の「県」を使っています)
古代において日本語のアガタに縣の漢字を当てたのは、(日本書記の頃は万葉仮名ですから、漢字を当てたのは平安時代以降になります)國の造との権力構造の若干の違いを前提にしたものです。
比喩的に言って徳川譜代大名が古代律令制開始前のアガタ主に該当するとしたら、国造は伊達や毛利、島津のように容易に転勤・国替えを命じられない地生えの豪族・・朝廷成立後に服属した朝貢国類似の豪族を意味していたのでしょう。
明治初めの版籍奉還で先祖伝来の領地を持つ大名もすべて版籍を天皇家=朝廷に差し出したので、平安中期以降荘園の増大で人民に対する直接支配権を失っていた大和朝廷(この時は東京朝廷と言うのかな?)が全国に直接支配権を再獲得した瞬間です。
大和朝廷では、理念としては中央集権でしたが、地方豪族の領地に直接手を付けられなかったのに比べれば、明治の版籍奉還は例外のない直接統治を実現したので、我が国初の快挙?となります。
(明治政府が王政復古を旗印にした所以です)
そこで、明治政府(大和朝廷)は直接支配権を明らかにするために、地方が國に別れていたのを改めて秦の始皇帝バリに縣郡制にしたことになります。
(地方の小単位として郡制度が古代から定着していたので今更郡を國よりも大きな単位に出来なかったので、縣を上に持って来たのかも知れませんし、我が国では古来から「郡」は地方豪族の単位だったこともあって、郡には良い思い出がなかったからでしょう)
しかし、國に分かれていてその上に君臨するからこそ皇帝・・帝国と言うのですから、(従来は大王・オオキミと称してしていて、大海人の皇子が政権獲得して始めて天武「天皇」と称するようになったのは、諸国を國に再編し再統一したことと無縁ではありません。)その後の大日本帝国の称号と合わなくなって行きます。
(その後植民地を持つようになって名実共に帝国になりましたが・・・)
08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介していますが、明治の三治制度以降の廃藩置県と第一次府縣統合・県内行政区域の大区小区制その後の郡区町村制(明治11年)は大和朝廷が律令制導入時に制定したままになっていた国・郡郷里制・・地方政治体制の大変更となります。
これに合わせて官名も藩主から知藩事へ、さらに知藩事(ここまでは旧藩主の名称変更)から県知事に漢字を変えたのは、県知事以降は中央の任命・官僚制に代わったので意味があっていました。
明治政府は、中央集権体制整備思想を漢字の利用・意味にまで貫徹していたのです。
戦後地方自治制度が出来た時には、中央による任命制から地元民の信望によって選任されることに変わったのですから「縣」や県知事の名称も変えるべきだったことになります。
明治憲法では中間組織の管理責任者あるいは地域としての「縣」だったのですから、これをクビを逆さにした形の県に書き換えても国民主権に切り替わった意味に変更したことにはなりません。
この種の意見は天皇主権下での総理や大臣の名称を、国民主権になった戦後もそのまま使っているのはおかしいのではないかと言う意見として、09/17/03「日本国憲法下の総理 3(憲法30) 「新しい酒は新しい皮衣に3」前後のコラムで書いたことがありますが、これもその一例です。
版籍奉還により国内全部が朝廷に直属するようになった結果、従来の各大名の領域や国名の領域にこだわらず・・過去の元領主の意向を気にせずに、純粋に統治の便宜のための基準で地方行政区域を決めることが可能になりました。
政体書発布によって始めて藩概念が生まれた事については、07/19/05「藩の始まり(政体書)1」以下のコラムで紹介しましたが、領地を藩と称するようにお触れを出したこと自体、(版図はマガキで囲うことですから)領主ごとの飛び地経営はまずい・・一円支配へ変更したいとする思考が生まれていたことが読み取れます。
廃藩置県によって、抜本的地方組織の改編が可能になったので、明治4年11月の第一次府縣統合によって、(廃藩置県時には大名家・旗本領ごとの飛び地経営だったのが)先ず一円政治が可能になりました。
この後順次地方行政組織の整備が進んで行くのですが、その後の地方単位は行政の便宜を中心にして自然発生的範囲・歴史経緯をある程度尊重する程度にとどめて行政区域は政府の都合で統治し易く区切るものに変わったのです。
この端的な実現が県内の行政区域として人工的な大区小区制から始めたことと、関東の都県境でしょう。
以前書きましたが、千葉と東京の間は江戸川で区切り、東京と神奈川の間は下流では多摩川で区切り、東京と埼玉の下流では荒川で区切り、千葉県と茨城は利根川で区切るなどそれまでの歴史経緯・・郡制を100%無視です。
江戸川両岸は葛飾地方として1つの文化圏ですし、10年ほど前の金融界の再編成で市川東葛信金や船橋信金と東京の何とか信金が合併して東京東信金となりましたが、これなどはもとの葛飾地方の江戸川両側経済一体制を基礎とするものです。
利根川両岸も銚子と鹿島市、佐原と潮来などは1つの水郷文化圏(下総の国)で、今でも人的交流は盛んです。
その辺の人は今でも殆どみんな千葉の弁護士(佐原や成田方面所在弁護士が中心ですが、私の事務所の依頼者になることも結構あります)に相談にきます。

中央集権化と王朝政治3

日本の官僚は古代から私心がなく公平な官僚が多かったので、May 9, 2011「律令制完成と王朝政治1」で書いたように 国司は中央の権威を利用して地元利害対立の仲裁裁定をしていたのですが、たまにはずれの国司も出てきます。
国司の裁量があまりに不当すぎるとして国司を襲撃してしまったのが平将門の乱でした。
武士団はあるときは国府の権威を利用し、あるときは抵抗するなどきわどい存在でしたが、承平天慶の乱は、ついに正面から国府権威を否定した大事件でした。
新興勢力が国府の権威利用から(国府権威を飛び越した)中央の権威利用にまで進み・・(各地の荘園が有力貴族への名目的寄進が進み、有力貴族の庇護を受けるようになって行ったのと軌を一にしています)この過程で中央から逆に桓武平氏など地方への進出が進みました・・国府権威を問題にしなくなりつつりました。
国府が武士を利用しているうちに武士に翻弄されるようになっていたことが表面に出たのが承平天慶の乱ですし、中央でも同じ問題・貴族が武士を利用しているつもりがついに武士の争いに振り回されるようになって行ったのが保元(1156年)平治(1159年)の乱でした。
承平天慶の乱は、935年(承平5)伯父の国香を殺し、(ここまでは私戦)次いで939年(天慶2)常陸国司を攻撃した事件ですが、律令施行後約230年以上経過後のことです。
律令制の成果かどうかは知りませんが、・・中国のような搾取による地方窮乏化の結果による棄民化による捨て鉢な暴動ではなく、古代社会の地方豪族が力を失い他の勢力が台頭して来た・・逆に地方の別勢力が実力を蓄えて行った別の発展段階による反乱発生でした。
中国とは違って、圧制に苦しむだけではなく、地方は地方でしこしこと実力を蓄えて行ったので、却って王朝政治を足もとから崩して行く原動力・・社会の絶えざる発展が続いたのですから目出たいことでした。
中央の大豪族は没落しっ放しですが、(藤原氏だけ残っていましたが、これも保元平治の乱以降衰退します)国司・国衙の仕事が増えてくると人材不足から、地元豪族の子弟は「在庁官人」として採用されるようになって旧郡司あるいはその階層の人材が国衙内あるいは地方で実力を蓄えて行きます。
平将門を討った押領使である藤原の秀郷などもその一人です。
国司配下・・郡役所を持たないで国衙で働く郡司や令外の官である押領使となり、これが後に成長して行く武士の母体になって行くのです。
(郡司の母体には前後2種類があります)
我が国の場合May 1, 2011国造と縣主2」で書いたとおり、重層的支配の社会ですので、中央派遣の国司と言う役職を作って天下り役人がいきなり国司として赴任して来ても、その下に存在する部族集団を無視出来ません。
吸収合併した子会社の社長を一定期間はそのままにするのが普通(これが国造)ですが、更に時間が経過して本社から新社長(国司)を送り込んでも、元からいる幹部従業員の意向を尊重しながら安全運転しなければならないのと同じです。
荘園などの発達に危機感を持った朝廷は、10世紀に入って国司(グループの筆頭官の受領)の権限を強化して行った事により、郡司(もとは國造)の収税機能が弱体化して没落して行くのですが、この権限強化に合わせて国府役所の方で実務官僚が必要となりました。
そこで地元中堅層を在地官人・・現場採用したことで、彼ら現地実務官僚が実務に精通して行き、国司が自分で出張して行く必要性が減少して行き「目代」と言う代理人を出張させて間に合わせるようになっていたこともあって、次第に遥任の官に変化したとも言われています。

中央集権化と王朝政治2

5月11日に書いたように大和朝廷成立前と違い隣の領域との争い・・国内戦自体がなくなって来たので公式武力の必要性が各地領域内ではなくなっていた・・形式化していたものの、他方で新田開発の多発によって領域内の私荘園が発達して来て、この荘園同士の争いが起きてきます。
・・耕地が広がるに連れて水利権その他争いの種は尽きなかったでしょう・・
郡と郡の大きな争いよりは、郡内のマイナーな争い中心の時代になるとその長としての(軍事力を背景とした)調整能力が問われるようになってきます。
この過程で、信望を集めて地歩を固める郡司と逆に信用を失い領内の別のリーダーに信望を奪われるケースも出て来る筈です。
こうして、元は郡司でも何でもない新興武力集団が桓武平氏系統や清和源氏系統の地方に下った人材に接近して行く素地が生まれ、中央直結武士団が次第に地方で地歩を固めて行くのです。
藤原氏の政権独占がつつくと将来に希望のない皇族も臣下に降下して却って、地方に根を下ろして新しい生き方を求めようとなって行きます。
双方の思惑が交わって源平等の武家の棟梁が地歩を築いて行きます。
701年頃大宝律令を施行してから、約230年以上経過した承平天慶の乱の頃には、古代豪族の私兵がそのまま活躍出来る時代ではなく、新たな武士層として進化したものしか活躍出来なくなっていたことになります。
古代勢力が時代に合わせて変身しない限り一掃されていたことから見れば、律令制導入の結果かどうかは別としてこの時期の国内統一政策・・中央集権か政策の試みによって、一旦(と言っても230年以上も定着していれば充分な成功です)は古代豪族がそのままでは力を落として行った結果になっていたと見るべきでしょう。
日本のマスコミその他教養人はいつも日本は大変だ大変だなどと被害妄想的宣伝が好きですが、(最近ではデフレで何が悪い?のテーマで書いたことがあります)200年以上後に中央集権体制が徐々にほころびが出て来たからと言って失敗だったとは言えないでしょう。
中央集権化・・王朝化が進むと政治的駆け引き能力の巧拙で勢力の浮沈が決まって行きますので、藤原氏以外の中級貴族がたまに昇進すると応天門の変(貞観8年(866年))で大伴氏の末裔伴(大納言)が没落しますし、その後右大臣まで昇進した菅原道真も、延喜元年(901年)に失脚します。
彼も古代士族で知られている土師(はじ)氏の系列で、中級貴族として生き残っていましたが、祖父の代に土師氏から菅原氏に改氏したもので道真の母は古代豪族で知られる大伴氏の系列でした。
政争の繰り返しの結果、上級貴族は藤原氏でも北家一系統だけ・・道長の時代には藤原一門内政争に変化して行くようになっていました。
地方で荘園自衛のための武士団が成長してくると、国府の権威によって武士団を実動部隊として利用するようになって行ったし、他方で国司としての荘園はないので自前の兵を充実させる必要がなかったとも言えます。
これは国全体の軍事力としても同じで、前九年の役(1051年)から安倍氏滅亡1062年まで)以降すべて大規模な征討軍自体、源平などの軍事統率力を利用して恩賞目当てに地元武士団が参加する・・一種の傭兵隊を利用して行くものに変わって行くのです。
(これに先立つ承平天慶の乱(承平5年・935年〜天慶2年・939年)でも、結局は地方軍事力で解決しています。)
平将門による国府襲撃を見ると地方の実動部隊化している武士団が国府の権威を無視した攻撃をすると国府軍は簡単に負けてしまう脆弱なものでした。
国府はせいぜい警備員程度の武力しか持っていなかったからです。
中央で見ると藤原氏などが源氏の武力を利用していただけで自分の屋敷を自前の武力で守っていなかったのと同じです。

律令制(中央集権化)と徴兵制1

 

そこで律令制以降の軍制度がどうなっていて、それがどうして武士の勃興に繋がって来たかが気になりますので少し見ておきましょう。
徴兵制が貫徹すれば豪族の私兵は存在(両立)出来ません。
坂上田村麻呂が活躍したときの軍隊は豪族からの寄せ集めではなく、徴兵による軍団であったように見えます。
結局のところ、唐・新羅連合軍が攻めて来なかったので防人の活躍する場面がなく、徴兵制の効果があまり表面化していませんが(専門家は当然研究しているのでしょうが。我々素人には知られていないだけでしょう)一般的に知られている事例としては、蝦夷征伐で功績を上げた坂上田村麻呂の活躍が有名です。
彼は大豪族出身と言うのではなく、順次軍功を上げて昇進を重ねて(790年代から800年初頭にかけて)ついに征夷大将軍になって行ったに過ぎず、この過程で自前の兵を擁していた様子は見えません。
多分、朝廷支給の官軍の指揮命令がうまかった・・人望があったと言うことでしょう。
徴兵制が機能していた・・豪族の私兵は衰退していたのでしょうか?
7世紀中頃までの日本軍は国造の連合軍形式でしたが、新羅・唐連合に負けたので、日本列島の一体化・中央集権化ひいては軍の統一化の必要性を感じたのが大化の改新以降の方針です。
大宝律令(701年施行)では既に軍団制(国造軍ではない)が記載されているようですが、その前・・何時から軍団制になったかがはっきりしないようです。
徴兵制の前提として戸籍制度の完備が必須でしたが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍、あるいは持統天皇の整備した持統天皇4年(690年)の庚寅年籍が基礎らしいです。
(明治の徴兵制も壬申戸籍の整備を待って始まったものです)
古代の兵制は、(養老律令の軍防令)唐の制度を真似したものだと言われますが、丁男(成人男子)3〜4人に一人を徴して各地軍団に編入して兵士としての訓練を受けさせ、3年が任期だったと言われます。(明治の徴兵制も3年任期でした)
成人男子人口の3分のⅠと言うと大変な数ですが、実際には兵役や人頭税(庸調)逃れのために戸籍記載しない人・浮浪者や男子でも女子登録(ある地域には男子が戸籍上3人しかいないなど極端な例があったようです)していることなどによって、実数はそれほどではなかったようです。
1つのクニにせいぜい1000人前後そろえるのが漸くと言うところでしたから、実際には暗黙の了解でうまくやっていたのでしょう。
軍団は郡単位で編成していたようで、しかも、軍の士官クラスは郡司層(の子弟)がなる仕組みでしたから、兵制が出来た当初は郡司・古代豪族の私兵から国軍制に名目が変わったただけの様子です。
軍団の定員は、200人以上1000人以下で平時は国司に属していたようですが、軍司令官は国司がなるのではなく専門職の大毅中毅小毅と言う士官があって、これが専門職だったようです。
600人以上の軍団は大毅1名と小毅1名、500名以下の軍団は中毅1名が率いたとありますが、その下には校尉が二百人を率い、二百長とも呼ばれます。
更にその下には旅帥が百人を率いて百長とも呼ばれ、隊正が五十人からなる「隊」を率いたので隊正は隊長とも呼ばれた。
火長は十人からなる「火」を率いた。火は兵の食事を作る火の単位・・1つの火10人分の食事を作るので言うらしいです。
各国ごとに軍団を形成し、大きな国では3〜4個の軍団があったと言います。
一個の軍団(・・実際百人単位)は国府所在の郡に配置し、その他は別の郡に配して訓練期間として順繰りに廻していたようです。
食料も弓矢などの武器も全部自弁で3年も拘束されるのでは誰でもいやですから、(先祖代々世話になっている主人のために戦うのではなく)中央からの命令でその一部は都の警備・・衛士になったり、防人になったり、あるいは見たこともない遠くの蝦夷征討軍に編入されるのでは士気が上がりません。

大化の改新と中央集権国家化

古代からずっと専制君主制・中央集権国家できた中国では地方官吏を自由に任免する制度しかないのですから、専制君主制が馴染まない風土・・地方小豪族を無視出来ない国柄の我が国の地方制度に同じ漢字を持って来て当てはめるのは、意味が分れば分かるほど無理があったことは確かです。
言うならば中央集権・専制国家の地方制度・・これに基づく熟語をそのまま我が国に持ち込むのは無理ありました。
・・このために我が国独自の造語・・後に書いて行きますが「国司」「郡司」が出来て来たと思いますが、白村江の戦い(663年)で負けた我が国としては国内一丸にならねば唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされてしまう恐怖感があって、しゃにむに天下統一・・国内部族連合から、中央集権国家化・国軍編成が急務でした。
弱肉強食の西洋列強が押し寄せる中で、中央集権国家化を急いだ明治維新のときと状況が同じでした。
大化の改新以前には、国造よりは少し支配服従関係の強い朝廷直轄地の一部支配を認められているアガタ主(旧豪族)に縣を当てたりするなど微温的と言うか国内実情に合わせた間接統治体制だったのでしょうが、そんな悠長なことでは間に合わない緊迫感下にあったのが白村江敗戦以降の国際情勢でした。
国内再編の大型事件としては、天武・持統朝成立に関する壬申の乱でしょう。
壬申の乱は単なる朝廷内の勢力争い・・クーデ・ターに留まらず、大和朝廷の国家枠組みを変革する大事件だったことになります。
この辺に関する私独自の解釈については、02/03/04「吉宗以降の改革とフランス革命」で少し書いています。
この結果、朝廷親衛軍が強化され国内諸豪族の支配地返上の気運が盛り上がります。
この機運に乗じて先ずは、朝廷の支配領域から、アガタヌシによる間接統治をなくして行った・・模範を示した可能性があります。
薩長土肥が先ず自分の兵を明治新政府軍に差し出したのと同じ流れです。
白村江の敗戦以来、朝廷は国内統一・集権化の先がけとして、服従度・忠誠心の高いアガタヌシに率先垂範を求めた可能性があります。
ご存知の通り律令制導入の経済的基礎は、朝廷が版籍を全部把握した上で公民に区分田を支給する班田収受法ですから、中間の豪族を不要にする制度設計・・中国同様の専制君主制に編成し直す試みでした。
兵士も各部族から拠出するのではなく、朝廷が直接把握した名簿(戸口)によって防人としてあるいは租庸調の1つとして公民を個人的に徴兵して軍務につくようになります。
部族の私兵がなくなって行くので、明治維新で薩長土肥が藩兵を提供して国民皆兵制・・徴兵制に切り替えたのと同じやり方です。
これが一時的に大和朝廷成立前からの旧勢力の力を削ぐのに成功し、大和朝廷成立時の旧豪族は宮廷貴族化していきます。
彼らは最早自前の兵も地盤を持たないので、中央で失脚すればおしまいです・・この象徴的事件が菅原道真や伴大納言の失脚でしょう。
しかし、これは中央の制度問題に過ぎず、我が国の社会実態・・・・基礎的産業構造は谷津地など狭い丘陵地の間の水田を基礎とする農業社会である実態が変わったわけでないので、中央による直接管理は無理がありました。
全国一律の暦を配っても神棚に上げておくような実態については、03/04/03「桃の節句 2(旧暦と新暦)」や11/26/05「日本に科挙が導入されなかった理由2(地方分権社会2)」等で紹介しました。
10世紀頃からは旧豪族に代わって新たに生まれてくる地元勢力・荘園に蚕食される一方となり、戦国乱世以降は全部大名領地となって朝廷把握の領地は皆無・・逆に徳川家から支給される関係になってしまいました。
版籍の全面回復は、明治の版籍奉還・廃藩置県(古代史の名称で言えば荘園の廃止)まで約900年間待たねばならなかったのです。
明治の版籍奉還(荘園廃止)が、大和朝廷による中央集権の最終的完成であったことになりますから、大和朝廷の成立は明治2年(1869)と言うことになるのでしょうか?
版籍の「版」とは版図・範囲のことですから、その実務を行うためには地番を正確に付し、地積を測量して行く作業が始まり、(土地登記制度によって完成します)版籍の「籍」とは戸籍のことで戸籍整備作業が続いていたことを、February 15, 2011「戸籍制度整備1」からApril 12, 2011「戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)」までのコラムで紹介して来た通りです。
大化の改新以降中央集権化を計る場合、大きな部族が抵抗すれば戦などで滅ぼして行けますが、小さな部族は稲作に必要な基礎集団なので残して行くしかなかったので国造から郡司さんに格下げされながらも残りましたが、それでも國のオサから郡のオサに権限を縮小して行くのです。
州や縣長官制度は、当時の唐の現役の制度でしたので我が国だけ終身制の縣の長官アガタヌシ制は誤った漢字の使用法となるので落ち着きが悪かったでしょう。
郡長官も中国では元は中央任命の官吏ですが、律令制導入時には既に郡が実在していなかったので(地名としての郡名が残っていても郡庁制度があったかどうかと言う意味です)終身乃至世襲制の郡司(国造の横滑り職)に持って来てもボカし易かったので、郡司に利用出来たのかも知れません。
世襲制(実質は民選)の郡司の下に中央から派遣した県知事を置くことは指揮命令系統上不可能ですから、この時点で縣制度は存在出来なくなりました。
その内に国司の権限を強化して郡司の権限を縮小して行く計画・心づもりではあったでしょう。
国造を横滑りさせたにも拘らず「郡主」ではなく「郡司」にしたのは、政府任命によると言う意味・・世襲出来るのは飽くまで事実上の権利・期待権でしかないことを強調したかったからでしょう。
そうは言っても徳川家家臣の形式をとっても外様大名の子孫は事実上の世襲権を持っていて、これを剥奪出来なかったのと同じです。
実際に同時に出来た国司は、任期制が貫徹されていて最後まで世襲出来なかったのですが、却って地元に定着している郡司に次第に実権を奪われて行きます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC