律令制による国の制度

5月2日に紹介したように大化改新以降、律令制施行までの間にそれまでの国の造の治める地域を小さく分けて・・喩えば3〜4個の評・(後に郡と改称)にして従来の国を2〜3個合併して1つのクニ・・一国内に郡が6〜7個にするなど規模的再編成があったようです。
このときのクニの名称や範囲がapril 28, 2011「くにと国」で疑問を書いておいた江戸時代末(正確には明治4年11月の府縣統合)まで続いた国郡制の基本(後に若干の変更があります)だったと思われます。
ただし、上記の従来の国を細分化して郡にして、これをさらに併合して従来よりも大きな国を作る実際の数については、わたしの比喩であって正確には分りません。
ただ日本書記では、ずっと昔の実在するかどうか不明の成務天皇の時代に国を山脈など自然の地形で区切って作ったように書かれていますが、これまで書いて来たように元は大和朝廷成立時の地方豪族の支配地ごとに国の範囲(大きな山脈を越えた飛び地支配は困難ですから当然自然の地形に似ているでしょう)・名称があったのを、大化の改新以降律令制導入に向けて(かなり無理な)統廃合をして新たに国の範囲・名称を決めたものと考えています。
例えば今でも南北対立の激しい長野県・信濃国をウイキペデイアで見ると
「7世紀の令制国発足により佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の十郡を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした(当初は科野国)。」
「721年(養老5)から731年(天平3)まで信濃国から諏方国(すわのくに)が分置されたこともある。」
「645年の大化改新で科野国[8]が設置され、704年(慶雲元)の国印制定により、「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。」
「新政権は大化から白雉年間(645~654)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」(コオリ)と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間評(今の筑摩郡のことでしょう)・安曇評・水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評などが成立していたと考えられている」
とあります。
私の想像によれば、長野県の南北対立は明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)の廃藩置県とこれに引き続く同年11月の第一次府縣統合によって、筑摩縣と長野縣に分かれていたのが、1876. 8.21の第二次府縣統合で長野県1つになったことから始まったように思われていますが、もっと古い対立があるように思えます。
古代のクニ制度改変(国をコオリ単位に細かくしてこれを再度まとめて「くに」と言うようになった)時に千曲川流域を中心とする水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評(千曲川流域)地域(もとは國)と現在の松本・諏訪地方を中心とする伊奈評・諏訪評・束間評・安曇評地域のクニを無理に合併させたから、こんな結果が今でも続いているのではないでしょうか?
信濃の國は壬申の乱で大海皇子側について勲功があったと言われていますので、(逆に千曲川流域地方は大友皇子側についた?)その論功としてもしかしたら、山を越えた千曲川流域までまとめた大きな1つのクニ・支配下にして貰った可能性があります。
壬申の乱に匹敵する明治維新で言えば、千曲川流域地方の勢力は早期に官軍側についた(真田家などは当初から官軍でした)のに、筑摩郡を中心とする勢力は徳川家の息のかかった大名が多かったことから、(例えば会津藩の始祖である保科氏は、高遠城で養育されました)県庁所在地を辺鄙な水内郡の長野村(今は長野市ですが・・)に持って行かれた可能性があります。
1つの国としては他国に比べて面積が大きすぎる外に郡の数が多すぎますし、間に大きな山並み(・・今はトンネルもあるし車で山越えは簡単ですが・・)があって、古代から1つの生活圏だったとは考えられない地形です。
大和朝廷成立当時としては北の果てに諏訪大社(信濃国一宮)があるのは、こうしたいきさつによると思われますが如何でしょうか。(単なる私の空想です)
周辺の同じ山国(海のない地域)・・例えば甲斐の国や飛騨の國はそれぞれ1つの盆地状のまとまった地域です。
その他はそれぞれ海路または水路で一つの生活圏をなしていた感じですが、信濃の国だけは南北が大きな山並みで分断されているのに無理に1つにして来たのが現在に至る南北対立の根源になっているのではないでしょうか?
戦国時代は殆どのクニで先ず国内諸豪族のヘゲモニー争いから始まって国内統一が出来てから、隣国に押し出して行くのが普通ですが、信濃のクニでは国内統一して外敵にあたる機運がまるでなく、武田と上杉両勢力の草狩り場になったのは、クニとしての一体性を欠いていたことによるでしょう。
明治で大きな縣を作るために、いくつかのクニ・地域を合併させた福島県や静岡県(伊豆、駿河、遠江)などと同じ地域対立が古代の律令制施行時から続いているのです。
福島県は大和朝廷成立時には、北辺の陸奥の国の一部でしかなく、独立のクニとして分離成立するのは大分経ってからのことです。
現在知られている岩代の国と岩城(いわき)のクニに分かれ命名されたのは、明治維新直後の数年程度のことです。(直ぐ縣制度に移行しますので・・なくなってしまいました)
718年(養老2年)に石城国と石背国が分離独立したこともあるようですが、前9年の役など蝦夷との関係が怪しくなると陸奥のクニに再編入されて以降、国として一体化したことがなくまとまらないまま(戦国時代も大名が乱立ですし、江戸時代も会津松平家を除けば小大名の乱立で)明治まできたのです。

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