郡司6と国司

中央の下級中級貴族が地方赴任を機会に地元の豪族と姻戚関係に入り、根を下ろして行く受領階級もいましたし、中央では出世出来そうもない皇族は臣下に下って地方に実質的に流されて行きます。
これが後の武家の棟梁となる平家や源氏の先祖になって行くのです。
天下を握った藤原氏としては政敵になりそうな人材を積極的に地方へ飛ばしていたし、皇族の方も中央にいて藤原氏と張り合うと危ないので、自ら進んで臣籍降下して地方へ下って行く皇族が増えます。
(藤原氏と張り合って失脚した長屋の王の事例を危惧しているのです)
足利将軍家で次男以下が跡目争いをしない意思表示として僧籍に入っていたのと同じです。
最初に飛ばされていたのは、桓武平氏でこれが藤原氏の地盤の東国に・・中臣氏の出自は鹿島神宮の神官です・・飛ばして監視するつもりだったでしょうが、飛ばしたつもりが彼らが逆に地方で力を蓄えて今度は武士の棟梁として、藤原氏の足下を崩して行くことになろうとは予想もつかなかったでしょう。
(伊豆に流された頼朝が平家の地盤の東国で力を蓄えて逆襲するのと同じパターンです)
地方に派遣された官僚のトップ・・・律令制の地方官制から言えば、国司は中国の郡の大守や県知事と同じ役割ですが、我が国の場合地方赴任しても在地領主層(・・彼らの多くは郡司に任命されていたので実質と合っていました)の御機嫌取りに終始して大過なく任期満了をまつばかりです。
中国の州知事や県令は専制君主の代理人ですから、その焼き写しの権限がありますが、大和朝廷自体にはそんな権限が元々ないので国司(國からきた地元諸豪族合議の司会者・・5月6日に書いたように監理者?)と言う特異な用語にしたことになります。
司(つかさ)にはいろいろな意味があってややこしいのですが、古代から中国ではいろんな分野の長官を(・・軍隊の司令官がその典型ですが、指揮命令権を中核とする)意味で使っています。
これを國の司としたのは・國である以上はある程度の自由裁量権・・独立性が高いことを前提としているのですが、中央集権化のために本来の國のような裁量権までは与えない・単なる県令よりは上の裁量権のある役職として国主でもない「国司」と言う中間的名称が生まれたように思われます。
彼らは、赴任しても合議をまとめる・・ご機嫌取りしか仕事がないので赴任するのが嫌になり次第に遥任の官になって行きます。
遥任の官が普通になってくると、後世では官名は格式を現すに過ぎない制度になって行きました。
中には国司が在地領主との結びつきを深めて地盤を地方に築いて行く平将門(の台頭に連なるⅠ〜2世代前の人たち)のような事例が増えて行き、2極化して行きます。
在地領主との結びつきを深めた最初の系統が桓武(806年死亡)平氏系であり、その後に勢力を広げたのが清和(880年頃死亡)系源氏一門と言えます。
桓武平氏と清和源氏とでは、始りが約80年差となり、その差によって平氏が貴族の仲間入りにこだわったのに対して、清和源氏系の頼朝が、新しい武士の時代を切り開く時代適合が可能であったことになります。
もっと言えば清和源氏でも、本来は末流の河内源氏が武士として頭角を現して行くのは、遅くなればなるほど土着性が強くなっていたことによるでしょう。
鎌倉・室町時代まではまだ血統がものを言いましたが、戦国乱世になると実力次第ですので、(途中で上杉謙信のように名跡にこだわる武将もいましたが例外です)最後に天下を取ったのは天皇家の血統を引く源氏でも平家でもない、地生えの木下(豊臣)〜松平(徳川)でした。

郡司5(事件屋2)

これまで書いているように、中国の歴史では秦の始皇帝の創始した郡縣制は中央集権・・中央からの官僚派遣制度の顕現ですし、漢以降直轄地以外に王族や功臣を封じた國は半独立行政組織あるいは朝貢国ですから、大和朝廷成立時におけるそれぞれの地域実情に合わせて國の造と縣(あがた)ヌシの漢字を割り振ったのは中国・漢字の歴史から見てある程度正しかったことになります。
律令制以降の国司は国主と違い中央派遣官であることは中国の官吏と同じですが、国司の方は地方豪族・・いくつかの集合(いくつかの郡)の上に中央からの一種の監督機関として派遣する国家使節みたいな役割に過ぎず絶大な権力を握る訳ではありません。
近代の植民地時代には、異民族統治をするのに現地政府を容認した上で、本国派遣の総督制度が行われていましたが、それと同じ発想です。
5月16日に書きましたが、国司と言っても一人のことではなく、正使と言うか筆頭の国司・・受領階級・・の外に副使に該当する掾(じょう)、目(さかん)などの同じ階級(同階級中の先輩後輩程度)に属するグループで構成されていました。
このうち掾は文字どおり副官でしょうし、目は言うまでもなく目付の役割です。
江戸時代の朝鮮通信使が一定規模の高級貴族で三使構成されて来たのと同じです。
税の徴収機能を与えても、実際の税(租庸調)の徴収実務は従来からの勢力者・前回まで書いた郡司の性質変更の前期後期を通じて郡司さんに頼っていたし、警察権は、別途押領使(主として地元豪族がなりました)と言う令外の官が出来てそちらに移りますので、国司の権力が地域に根付かずに次第に遥任の官となり、その内形骸化して行きます。
この傾向は漢の王族が僻地の国王として封じられても、次第に任地に赴任せずにその上がりだけで都で生活するようになり、一種の年金制度化して行ったのと同じです。
朝廷の方は国府創設後、国分寺制度の創設(国立大学制度が逆に地元有力者の能力を高めます)徴税権の強化など独自の仕事を増やして地方在地豪族の骨抜きに励み努力しますが、権限強化が進むと却って実務官僚・地元中堅層の力に頼ることになり、結果的に郡司・地方実力者の役割強化に繋がって行く皮肉な関係でした。
後期の郡司は国府内実力者・役人として私荘園側と渡り合ったりするかと思えば、地元利益・私荘園側の代表として国側と交渉するなど複雑な役割になって行きます。
この複雑な役割は、鎌倉時代には守護地頭制度が出来て、(この制度が出来たこと自体、武士の領地と公私荘園側との権利関係のもめ事が多かったことをあらわしています)幕府と朝廷側(貴族を含めた)領地の権利でつばぜり合いが多くなったのですが、郡司の多くが鎌倉の御家人になっていながら、同時に国府の郡司を兼ねるものが多くなっていた面でも引き継がれて行きます。
今で言えば変な事件屋みたいな存在で、双方の実務を握っていることから、彼らを通さないとうまく解決出来ないような仕組みになっていたのでしょう。
漢のように直轄領地の一部を分割して封土した場合、そこに在地領主がいませんので、赴任すればそのまま直ぐに国王として君臨出来ます。
我が国・大和朝廷の国司は、一種の朝貢国・服属した諸豪族を一定地域ごとにとりまとめて一定地域ごとで管理者を置くための現地赴任であって、他人・在地領主が支配している土地であることから、国王としての赴任ではなく国司・・國の司(つかさ)としての赴任に過ぎませんでした。
国の制度を採用したとは言え、国王がいない・・各地に何人かの在地領主=郡司その他がいるものの、これを束ねる地元に根を生やしている領主権に基づく国主・国王はいないし、国司の中央派遣制度は県知事任命と同じ発想です。
ただ中国は民族草創の始めっから中央集権体制ですから、県知事はその地域で皇帝の代理人として絶大な権力を持ち得ますが、我が国の場合古代民族草創期から各地の連合体が基本ですので、中央で任命した管理者を派遣しても中国の知事のような絶大な権限を発揮し得ません。
管理ではなく「監理」が漸くと言うところでしょう。
中国がいくつかの郡をまとめた州単位で監察のためにおいた刺使→牧の真似をして数カ国をまとめて不正監視する安察使制度を設けますが、そもそも不正をする大きな権限が国司にはないのですから、機能しなかったのは当然です。
誤って理解して関連会社へ出向した天下り社長が、権限を振るおうとすると現地で軋轢を起こすのは今でも同じです。
有力豪族連合体であった草創期の大和朝廷では、有力豪族(中央では下級中級貴族)を地方小豪族をとりまとめる監理者として各地へ転出させることによって、遠隔支配地の一体化・融合をはかろうとしたのではないでしょうか。

郡司1と国司

 
律令制施行に合わせて全地域を國にしてしまいました・・京・みやこのある場所さえも大和国としてしまったのですから、直轄支配を原則として半独立地域だけを國にする中国の国郡制そのものではありません。
4月30日〜5月1日に書いたように・・・大和朝廷成立時には各地には半独立国が含まれていたこともあるでしょうが、朝廷所在の本拠地(畿内)を含めて國としたことによって外見上の区別をなくしてしまった・・独立性の有無ではなく、単なる地方組織の名称にしてしまったとも言えます。
これも同一化・融和策の智恵であったでしょう。
徳川期に譜代・外様も親族も万石以上を全部同一の名称・大名にしたのと同様です。
大和朝廷では支配下に半独立国が多かったので直轄地でもアガタ主・豪族が治め(従属制の強い譜代大名のようなもの?)半独立・服属国を国造(外様大名)としていましたが、壬申の乱以降は中央権力が強化されていましたので、大宝律令(700年完成、702年施行)で地方制度として全国画一的に國を持って来ました。
この結果、その下の単位は郡になったのですが、同じくコオリ・コホリと言う音を当てられていた縣は5月3日に書いたようにどこかへ行ってしまいました。
国造制度が律令制施行直前の大化5年に「評」(これも「こおり」と読んでいました)と言う単位に編成替えされ、律令制が施行されると新たに設けられた郡となり國造は郡司と格下げされました。
國造が新たに出来た郡の長官・郡司に横滑り就任した場合、その権限は地域的範囲を縮小するのがやっとで(元々領主ですから)その領域内の権限・・それまでの国造の権限をそれほど大きくは変えられなかったでしょう。
国造の1つの領域を仮に3個のコオリに分けた場合、新たに出来たコオリのオサをまさか朝廷が派遣出来なかったでしょうから、結局は元の国造の一族の推薦によったのでしょう。
郡司の権限は表向き同じままで、その上に監督者が来たくらいが納得させられる範囲だったのではないでしょうか?
この時に1国に統合された造グループの有力者を昇格させて新たに出来たクニの代表者にしたのでは、地方豪族がよけい力を持ってしまうので、朝廷派遣の国司制度にした点・・その代わり監督権限程度にした点が漢の州の始まりに似ています。
5月5日にに紹介した通り当初の監察官・刺使には軍事権がありませんでした。
律令制発足当初は國造から横滑りした郡司は従来の行政機構そのままに郡衙(元々の本拠地の名前が郡衙と変わっただけ)を構え絶大な力(軍事力を含む)を持っていたのですが、10世紀頃までには国司の権限強化が成功して旧地元豪族が没落して行きます。
これは国司権力の法制度上の強化によるのではなく、後記のとおり、新たな勢力の勃興による入れ替わりが激しかったことによる没落の結果だったとも言えます。
国司の権威上昇側面は、漢の州が単なる監察目的から出発したのにいつの間にか州の牧が権力を持ってしまい郡が有名無実化して行くのと似ています。
しかし、州の牧が実力を持って行くのは軍事力を持ったことがその背景であったのに比べて国司は軍事力の主体にならなかった点が大きな違いです。
ここで国司の権力の源泉を見ておきますと、中国の郡大守同様に国司にはこれと言った軍事力を持たせずイザとなれば中央派遣軍が出動する仕組み・・中央の権威頼みでした。
元々国府は元の国造の有する地方軍事力のあるところに上乗せで始まったものですから、権威だけを利用していたのはその性質上当然でした。
山内一豊が土佐に赴任したときには、旧勢力の長宗我部氏は戦争で負けていたのですが、それでも大量の軍事力を持って赴任するのは大変でした。
このような力づくの落下傘部隊だったので、地元に根付いていた国人層・・一領具足との対立が幕末まで300年近くも続いたことになります。
まして古代の国司制度は・・・戦争なしに服属しただけの古代各地豪族の上に制度上いきなり作ったものですから、現地政府を制圧するほどの軍事力を持って赴任するのでは地元勢力との軋轢があってうまく行かなかったでしょう。
それに、朝廷は外敵には征夷大将軍を任命して大軍を派遣してくれますが、日常的地域内小豪族間の紛争(一種のゲリラ戦です)には大軍派遣出来ません。
結局現地従前実力者・・元の国造による警察権的小規模武力が幅を利かすことになります。
古代からの豪族は班田収授法の施行によって次第に経済基盤を失い、平行して武力も失って行きますが、この期間が大分続いた後に私荘園が発達します。
旧豪族・郡司の多くが私荘園主にもなって行ったでしょうが、私荘園間の紛争・警備のために現地武力としての武士団が発達して来ました。
国司は国司の権威を利用して元郡司を含めた地方新興勢力同士のもめ事に介入して(個人的能力によって)存在価値を高めて行ったのです。
権威利用とは国司の仲裁に反して抵抗すると反逆者になってしまうので、今の裁判権を持ったような状態で国司の権威が保たれていたことになります。

州の刺使と国司

中国の場合、これまで何回か紹介しているように古代から清朝が辛亥革命で倒れるまで約3000年間?ずっと専制君主制ですから、國を功臣や親族に与えるのは領地のホンの一部でしかなく、その他殆ど全部が州や郡縣(直轄領地)です。
しかもそれは政権草創当時だけで(成立時に協力してもらったお礼をしなければならないので・・)皇帝権力が安定してくると少しでも直轄領地を増やして行くのがそのやり方です。
日本の場合政権成立直後が政権の最大で、徐々に中央権力が縮小して地方政権が強くなっていくのが原則だったのとは反対ですが、これは日本は細かな地域に分かれた水田耕作社会であったことに帰するのです。
北条家が鎌倉幕府執権職で独裁的権力を握った場合でも、一家だけで握れず多くの北条家に分化しながら持ち回りで執権職をやっていたように一定規模以上の領有を維持しきれない社会です。
逆に明治以降中央集権化が成功し、戦後の地方自治制度が形骸化している(自治体警察などは直ぐに形骸化しました)のは、産業構造の中心が稲作社会ではなくなったからです。
政治家が地方主権を唱えても、経済基礎に反した構想は意味を持ち得ませんので、せいぜいトキの政権攻撃材料に利用して国民の歓心を買うための減税党があるのと同じです。
減税だけでは国家運営を出来ないでしょうから、何を考えているの?単なるバラマキ政党と同じです。
経済活動のグローバル化を前提にすればむしろ地方行政単位は広域化の時代でしょう・・今回の震災被害の結果を見ても部品不足その他広域対処が必要なことがもっと明らかになった筈です。
前漢でも政権成立直後は(韓信のような)功臣を遇するために国を与えたりしましたが、政権の基盤が出来てくると徐々に取りつぶしたり国の権限を縮小して行ったので、景帝の時代にこれに不満を持った呉楚7国(王)の乱・・抵抗が起きるのですが、この抵抗を待って、皇帝軍が叩きつぶして、次の武帝の時にはついに郡国制がなくなってしまう・・全部直轄領・・郡縣制になってしまいます。
我が国の場合5月1日に書いたように朝廷であれ、将軍家であれ直轄領地を殆ど持たないのが原則ですし、あったとしてもそれを家臣に分知して譜代大名に治めさせるのでその家臣が力を持ってしまいます。
(足利時代の大大名・・応仁の乱を引き起こした管領の細川家も元は足利一門です)
漢時代の各地方の郡大守は地方派遣の公務員でしかなかったうえに、彼らに軍事警察権を与えていなかったし、世襲の地位でもなかったので彼らは任期中目一杯私腹を肥やす傾向がありました。
(これが農民暴動に発展して漢王朝が崩壊して行くのですが・・・専制君主制の場合、側近(外戚または宦官)政治になる→賄賂政治になるのが避けられない法則です。)
この汚職横行を改善するために、武帝は郡大守を監察する目的から監察官がいくつかの郡を監察する管轄区域として州制度を始めたことを5月5日紹介しました。
州は地名ではなく観念的な管轄区域の名称が始まりになります。
現在スーパーなどの多数店舗経営の場合何店舗かまとめて仕入れるなどの広域担当者を置いているのと同じ発想だったでしょう。
大和朝廷成立時の各国造は、軍事警察権を持つ半独立国(造あるいは地元豪族が領域内の税収をどう使おうと勝手・・使い込み・汚職の概念がないのですから、彼らの上に「不正」を監察する目的の役人を派遣する余地がありませんでした。
律令制を始めるにあたって漢が州を作ったのに倣って、元々の国の領域を狭めていくつかの評・郡に分割しておいて、これら少し小さくなったコオリをまとめて1つの単位を作りますが、これを州と言わずに元からある国(くに)としました。
しかし、漢の制度に倣って監察するには無理がありますので、「不正取り締まりではなくキチンと政治をしているかの親心?での監督のために似た名称の国司を置いたのが日本的と言うところでしょうか?
国司は昔からある国造を引き継いだ郡司の上にいきなり作った制度ですから、当初は(その後次第に権限を増やして行きますが・・・)せいぜい郡司らの意見調整(司会の司)ときちんと政治をしているか/ひいては朝廷に逆らわないように監督するくらいしか仕事がなかった筈です。
刺使が後に牧になると事実上支配権が強くなって行き、管轄下の各郡の意見調整して支配する方向へ進みますので、前漢の武帝が州に置いた監察官と結果的に職務が似ていたことになります。

国と郡

中国に関する歴史物の本では魯の国などと春秋時代から国名があったかのように書いているのがありますが、後に漢以降地方に封ぜられた王族の領地を「何々国」と言うようになって何々の国の呼称が定着した後に、地方制度として昔から国があるかのように安易に書いているに過ぎないように思います。
あるいは我が国で地方を信濃の国の人と言うのに習って、中国の地方・地域名を表現する翻訳として中国の地方も同じように魯の国などと翻訳している場合もあるでしょう。
何とか通りと言う地名表記の国の表示を、我が国のように何丁目と翻訳しているようなものでしょうか?
西洋の地方制度は日本とは同じではないとしても、似ているような組織を日本の町や村として翻訳しても間違いではないのですが、中国の地名に勝手に「何々国」と翻訳して書くと同じ漢字の国であるから、我が国同様に昔から何々国と言っていたのかと誤解し易いので、こうした場合、翻訳しないで中国で使っている漢字のまま書くべきです。
ところで春秋戦国時代は地方制度がきっちりしていなかったようなので、史記や18史略を見ても斉の桓公とか衛の何々、楚の懐王と書いているだけで国や州等の肩書きがないのが普通です。
官僚派遣の郡縣制は始皇帝が始めたものですし、郡国制は漢になって中央派遣の郡縣だけではなく、王族に封地を与えて半独立的統治を認めた折衷制度して始まった制度です。
外地の服属者に対して国と表現するのが元々の意味ですから半独立国を言う意味だったでしょう。。
春秋時代には地名に肩書きがないのに、我が国の文筆家らは我が国の習慣で当時も我が国のような地方制度があり・・地方は何々の国となっていたかのような思い込みで書いているのです。
魏晋南北朝時代を別名5胡16国時代と言い、我が国で室町時代末期を戦国時代と言うときの「国」とは半独立国が乱立している状態を意味するでしょう。
我が国古代で何故地方の呼称に・・・國と言う漢字を当てたかのテーマに戻ります。
上記の通り漢の頃から南北朝時代まで独立・半独立地域名として主流であった地域の肩書きを我が国の地域名に輸入して「・・國」としたと思われます。
唐の時代に律令制が我が国に導入されたのに大和朝廷直轄のみやこ以外の地域名を州や縣とせずに国としたのは、大和朝廷では唐ほど中央権力が強くなかった現実に合わせたのかも知れません。
しかし、我が国古代の「國」は漢字の成り立ちである四角く囲まれて干戈で守っている地域ではなく、(国ごとに対立している地域ではなく)一定の山川で隔てられた地域・・当時で言えば広域生活圏をさしていたに過ぎません。
その結果、我が国における国とは都に対する地方を意味するようになり、国をくにと訓読みするようになって行き、「くに=国」は故郷・出身地をさすようにもなりました。
我が国の「くに」の本来の意味は、昔も今も自分の生国と言うか生まれた地域・地方を意味していて、それ以外の地域の人と区別するとき・・ひいては・現在では自分の地域の範囲が広がって日本列島全体を「わが」国(くに)とい言い、異民族に対する自国、本邦を意味して使っているのが普通です。
すべて同胞で成り立つ日本列島では、相模の国、伊豆の国、駿河の国と言われても、あるいは河内の国、摂津の国、大和の国と山城の国とでも国ごとの民族的争いがありませんので、現実的ではなかったでしょう。
ただ、大和朝廷の威令がそれほど届かない地域・・服属している地域と言う意味だけで中国の国概念と一致していただだけです。
国の範囲は実際の生活圏と違っていたし、国単位で隣国と争うような必要もなかったので、その下の単位である「コオリ」が一般的生活単位として幅を利かすようになって行き、上位概念の国名や国司は実体がないことから空疎化して行ったのではないでしょうか?
ちなみに「こおり」は我が国固有の発音であり郡(グン)は漢読みですが、国より小さい単位だからと言うことで郡と言う漢字を当てて、これを「こおり」と読んでいたただけのことでしょう。
ところで、この後で書いて行く縣の読みについては古代では「アガタ」と言っていたことが一般に知られています。
しかし、ものの本によると「縣」の発音として「コホリ」と読む場合もあったようです。(どこで見たか忘れましたが・・・)
我が国古代の生活単位としては、先に「コホリ」や「コオリ」が存在し、これを中国伝来の漢字に当てはめて使っていた漢字導入初期の試行錯誤が推測されます。
我が国では大和朝廷が律令制に基づいて押し付けた生活実態に合わない「国」よりも小さい・・現実的生活単位として、「コオリ」乃至「コホリ」が使われていて、これに縣や郡を当てはめていたことになります。
このコオリ単位の行政運営が江戸時代末までコオリ奉行による行政として続いていたのです。
律令制が始まっても国司は郡司さんの意向を前提に政治をするしかなく、郡司が実力者だったと言われる時代が長く続き、江戸時代でも1カ国全部を支配する大大名は全国で何人もなく、郡単位の支配である大名が普通でしたし、江戸時代でもコオリ奉行が現実的行政単位だったのです。
徒歩で移動している時代が続いている限り、古代から明治始めまでコオリ単位が現実的な行政単位でしたが、明治になってその下にいくつもの莊を合わせた村が出来、村役場、村単位の小学校、戸籍整備その他が進んで来たので、中間の郡単位の仕事がなくなり郡役所もなくなりました。
村を合わせた上位の行政単位として明治政府は郡よりも大きな縣を創設しました。
実際交通手段の発達等により、小さな郡単位どころか従来の「くに」単位よりも大きな規模で行政する必要が出て来たのでこ、広域化政策自体は成功でした。
郡よりも大きな経済規模が必要になったと思ったら、古代からの国単位では狭すぎるとなったのですから、我が国では古代から現在まで国単位では何も機能していなかったことになります。
もっと広い県単位の行政が普通になってくると郡は無駄な中2階みたいで具体性を失い・・精々地域名として残るだけになったのでコオリと読む習慣も廃れて行き、今ではグンと漢読みするのが普通になり、コオリと言う人は滅多にいません。
縣の名称も明治政府のイキナリの強制まで日本での日常的使用例がなかったのですから、これは今でも(市原の人に限らず全国的に)音読みしかなく日本語読みが全く定着していません。
漢読みしかないと言うことは、その制度が現実的な意味が根付いていないことになるでしょう。

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