律令制完成と王朝政治1

 

国司は中央派遣の中下級貴族(いわゆる受領階級)ですが、中央の政争で鍛えられているので田舎の純朴な勢力間のもめ事をさばく能力は一頭地を抜いていた(権威に頼るだけで地元民の納得が得られないと逆に国司の地位が低下して行きます)のでしょう。
それでも朝廷の権威がある間は、国司の裁定・これが仮に一方への肩入れで不満・不公正でも引き下がるしかなかったのですが、公然と国司の権威に挑戦したのが承平天慶(935〜939)の乱でした。
地方で朝廷の権威が空洞化していたことが、公然となったので歴史的意義が大きいことになりますが、(それでも僅か2カ月で将門は討たれています)逆から言えば、それまでかなりの無理があっても朝廷の権威が維持されていたことになります。
この地方勢力の駆逐が進む過程で遥任の官として現地と分離して行く国司と父高望王が上総介になると一緒に下向して坂東に地盤を築く平国香などのように現地土着して行く貴族に分かれてきます。
地方の旧支配層であった郡司も二極分解し、新興荘園領主に発展し、且つ自前の武力を蓄えて行く新興勢力に発展して行ったグループと衰退して行くグループに分かれて行ったようです。
戦国時代に守護大名が戦国大名に発展変質出来たもの(今川義元など)と守護代またはその家老などに取って代わられたものがいましたが、郡司(元の國の造)や郡衙役人にも新興武士団に発展変化したグループと時代についてけないで没落して行く元の造の意識のままの2種類がありました。
ですから、鎌倉時代まで(守護地頭側と貴族側で)鎌倉の御家人を兼ねながら荘園管理者として命脈を保つ郡司層とはこの新興地元勢力層のこととなります。
この過程で国司(下級中級貴族)だけではなく、中央貴族層も地方紛争に介入してそれぞれの立場で新興勢力である地元荘園主や武士層の紛争を解決してやりながら、自分の都合によって積極的に地元武力を利用する能力も身につけていきます。貴族(元は古代豪族)層は武士(戦闘集団)を外注利用出来たので、自前の武力を必要としなかったので、いよいよ宮廷貴族化が進んだとも言えます。
5月4日に書いたように、宮廷貴族化・王朝文化時代とは中央の旧大豪族は宮廷貴族化して戦闘能力を失って行った時期と一致します。
これは律令制の成果が出た結果・中央集権化の完成期と言うべきで、中央(大豪族)・地方ともに大和朝廷成立前後の旧豪族は没落して行ったことになります。
律令制施行頃からの中央政界では、藤原氏の天下となりその他古代からの豪族はおおむね中級貴族として生き残っていただけでした。
藤原氏に対抗出来る臣下・豪族がなくなっただけではなく、王族で勢力のあった長屋の王が滅ぼされてしまうと、天皇家自体が丸裸になってしまったので以降は藤原摂関家の専横時代に入って行きます。
前漢では呉楚七王の乱の鎮圧で専制君主制が完成して皇帝本体の権力は高まったものの、皇帝権力を側近・・外戚や宦官が牛耳るようになってもこれを制御する権力・王家の藩屏がなくなって行った・・側近政治に陥ったのと同じ状態でした。
我が国で長屋の王が滅ぼされてしまった以降、中央権力の暴走を制御する機構が消滅したことになりますので、中国王朝での宦官・外戚が跋扈(有名な跋扈将軍)して行くようになったのと同じ状況になっていたと言えます。
この時点では我が国も中央集権化・専制君主制が完成していた・・天武持統朝で目指していた律令制の成果・病理現象が現れていたのですから、律令制施行自体は目的を達して成功していたと言えるのではないでしょうか。
学校では律令制が形骸化して行った歴史の結果ばかり習いますが、実は律令制導入により版籍を全部朝廷に帰属させるのに成功し、朝廷成立前後の(藤原氏を除くその他の)諸豪族を衰退させる効果・中国並みの専制君主制の卵みたいになった点では見るべきものがあったのです。
この結果中央での権力闘争に敗れると反乱・抵抗するだけの自前の武力がなくなっていたので、黙って引き下がるしかなくなっていったのが奈良時代末から平安時代でした。
こうした時代背景の下で政争に勝てば相手を左遷するだけで(菅原道真の左遷や道長と伊周の政争)政敵の命まで取らずとも事足りた時代になっていたと言えます。
この時期を王朝時代と言い宮廷貴族中心の政治になったのは、大和朝廷成立前後の中央・地方豪族が軒並み衰退しいていた・・中国並みの王朝・・専制君主制時代に突入していたことになります。

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