郡司2

国司が現地で仕事をするには、地元有力者を抜きにして、京から帯同した下僚(国司は一人ではなく筆頭国司(受領)の外に同一階層出身の掾(じょう)、目(さかん)の3役構成でした)だけの働きではどうにもならなかった現実が先にあったから、国司の権限強化に合わせて地元有力者の郡司や押領使を採用せざるを得なかったかも知れず、どちらが先か(私には)はっきりしません。
民主党政権が実務官僚を阻害して政治家だけ(大臣・次官・政務官の政務3役)で政治をやろうとしていますが、原発被害に逢着して実務家阻害では政治が出来ない・・無理が露呈しています。
郡司さんはその昔、結構な実力者だったとは知っていても具体的にはよく分らない人が多い(私もぼんやりした知識です)ので、この際郡司の消長を辿っておきましょう。
大宝令(700年完成・・全国施行は702年)の国郡里制によって、従来の国造の多くは郡司に転じます。
これによって従来の国造→郡司の上に中央から派遣された国司が君臨することによる中央集権化が計られました。
漢代に郡の上に州が出来ていつの間にか郡が雲散霧消してしまったのを期待したのでしょうか。
漢では郡の大守自体中央からの任命制でしたから、その上に州を造って監察するようにしたのは郡を有名無実化することを目的にしたのではなく、単に郡守による不正の監察・摘発目的で始まったものです。
実際漢代に出来た州の刺使にあたる役職として安察使と言うのが、いくつかの国の上に造られます。
主に国司が、周辺数カ国の安察使を兼ねていたようで、検察専門ではなく言うならばその地域の主席みたいな役割でしたから、形式に流れてしまい・実際の捜査権も軍事権も肥大して行かずにその内消滅して行ったようです。
そもそも我が国では、黄布の乱のような数カ国以上にまたがる争乱は僅か2ヶ月で鎮圧された天慶の乱までなかったので、安察使に強大な軍事力を付与する必要性がなかったからです。
我が国では、大規模な軍事力よりは小規模集団に対抗出来る小規模な地元密着型軍事力・・押領使の方が役に立ち次第にに地方軍事力に成長して行くくのです。
集権化が徹底すると中央政治は側近政治になるのが普通で、(中国では外戚政治と宦官政治)中央での出世には賄賂が幅を利かすようになるのが必然です。
(我が国では、田沼意次の側近政治と賄賂政治が有名です)
どうせ腰掛け勤務ですから、その土地の将来に関心を有していませんから、賄賂の原資を得るためには、地方勤務中に最大限収奪してこれを当てる・・・地元民にそのしわ寄せが行くことになります。
これの繰り返しに耐えられなくなった各地で流民化した農民による暴動が頻発するようになったのが後漢中期以降(歴代中国王朝はこれでいつも最後は大混乱に陥ります)ですが、これに対処するには、その都度中央から鎮圧するために軍を派遣するのでは間に合わないので、現地即応体制が必要となります。
後漢では中央権力の衰退に連れて現地即応体制強化のために州単位で州の牧に軍事力を持たせるようになって行き、軍事力を合わせ持つ州の牧の権限が強くなって行ったのに対して、我が国では間に地元有力者が介在しているので国司による搾取が出来ない・・農民暴動は起きません。
国司(3役)は自前の軍事力もなく、(警察力すらなかったので地元豪族を主体とする押領使が出来てきます)自前の部下もない転勤族でしかなかったし、国軍は貧弱なものでした。
我が国では収奪が進んだのではなく、荘園の発達により逆に徴税力が空洞化して行ったのが特徴です。
増えて行く一方の対荘園対策として国司の権限強化に努めたことから10世紀頃には急速に国司が調整力・政治力を持つようになり、その対として郡衙の役割が縮小衰退して行きます。
(役割の変化だけで軍事力としては国司も郡司も同じように縮小して行きます)
大和朝廷成立前後頃から存在していた朝廷に直属しない独立系地方豪族がこのころに(新興勢力に変質しない限り)古代豪族としての力を漸く失ったことになります。
(それでも200年もかかっています)
律令制導入が失敗に終わったことだけを歴史で習いますが、律令制導入・・中央集権か政策によって大和朝廷成立前後に存在していた大豪族が宮廷貴族化したことは間違いがないし、地方に存在していた地方豪族も当初は郡司として命脈を保っていましたが、新興勢力である荘園の発達によって、新興勢力に変質出来ない旧態依然とした地方豪族も力を失い新しい時代向けに頑張って、勃興した新たな勢力に地位を奪われて行くのです。
このように、律令制導入・中央集権化の試みは結果的にすべての国有化・専制君主制確立の試みとしては失敗でしたが、さしあたり既存勢力一掃には役立って、時代の入れ替わりの準備になったことになります。
アメリカは、日本が工業国としての再起が出来ないように徹底したジュウタン爆撃を繰り返し、既存工場は壊滅しましたが、綺麗さっぱり燃えてしまったので、却って新たな工業国化が簡単に出来たのと似ています。
戦災復興経験があるので、今回の大震災によってその後却って新たな新機軸の町(復旧ではなく復興)が出来る期待を持つようになっているのです。
律令制の強制は古代からの大小豪族を衰退させるのには成功したのですが、彼らの衰退と引き換えに新たに勃興した豪族・私荘園がはびこるようになって行ったのですから、朝廷にとっては却って難しいことになって行きます。
朝廷は旧時代の枠組みのままですが、私荘園経営者は律令制の綻びを縫って勃興して来た・・新たな時代に適合して生まれて来た新勢力ですから、政府はこれに対応する能力を持ち合わせていなかったのです。
この荘園対策に力を入れるには、地元荘園・私企業?の動きに精通した・・彼ら郡司の多く(身内や係累)は新興勢力の母体になっていたので詳しかったのです・・・没落した旧郡衙の役人が役に立つ限度で、今度は国衙に出仕するようになります。
元々の郡司は仕事が徐々に減って行って失業したからと言っても、国衙の下働きに再就職は出来なかったでしょうが、(誇りが許さない?)この没落は徐々に進むので、その下僚や息子の世代になれば郡司の名称を兼ねながらでも能力次第で再就職して行ったことになります。
(摂関家全盛時代には下級貴族が朝廷の官名を持ちながら、摂関家の家人のような下働きをして行くようになっていたのと同じです)

中央集権化と王朝政治3

日本の官僚は古代から私心がなく公平な官僚が多かったので、May 9, 2011「律令制完成と王朝政治1」で書いたように 国司は中央の権威を利用して地元利害対立の仲裁裁定をしていたのですが、たまにはずれの国司も出てきます。
国司の裁量があまりに不当すぎるとして国司を襲撃してしまったのが平将門の乱でした。
武士団はあるときは国府の権威を利用し、あるときは抵抗するなどきわどい存在でしたが、承平天慶の乱は、ついに正面から国府権威を否定した大事件でした。
新興勢力が国府の権威利用から(国府権威を飛び越した)中央の権威利用にまで進み・・(各地の荘園が有力貴族への名目的寄進が進み、有力貴族の庇護を受けるようになって行ったのと軌を一にしています)この過程で中央から逆に桓武平氏など地方への進出が進みました・・国府権威を問題にしなくなりつつりました。
国府が武士を利用しているうちに武士に翻弄されるようになっていたことが表面に出たのが承平天慶の乱ですし、中央でも同じ問題・貴族が武士を利用しているつもりがついに武士の争いに振り回されるようになって行ったのが保元(1156年)平治(1159年)の乱でした。
承平天慶の乱は、935年(承平5)伯父の国香を殺し、(ここまでは私戦)次いで939年(天慶2)常陸国司を攻撃した事件ですが、律令施行後約230年以上経過後のことです。
律令制の成果かどうかは知りませんが、・・中国のような搾取による地方窮乏化の結果による棄民化による捨て鉢な暴動ではなく、古代社会の地方豪族が力を失い他の勢力が台頭して来た・・逆に地方の別勢力が実力を蓄えて行った別の発展段階による反乱発生でした。
中国とは違って、圧制に苦しむだけではなく、地方は地方でしこしこと実力を蓄えて行ったので、却って王朝政治を足もとから崩して行く原動力・・社会の絶えざる発展が続いたのですから目出たいことでした。
中央の大豪族は没落しっ放しですが、(藤原氏だけ残っていましたが、これも保元平治の乱以降衰退します)国司・国衙の仕事が増えてくると人材不足から、地元豪族の子弟は「在庁官人」として採用されるようになって旧郡司あるいはその階層の人材が国衙内あるいは地方で実力を蓄えて行きます。
平将門を討った押領使である藤原の秀郷などもその一人です。
国司配下・・郡役所を持たないで国衙で働く郡司や令外の官である押領使となり、これが後に成長して行く武士の母体になって行くのです。
(郡司の母体には前後2種類があります)
我が国の場合May 1, 2011国造と縣主2」で書いたとおり、重層的支配の社会ですので、中央派遣の国司と言う役職を作って天下り役人がいきなり国司として赴任して来ても、その下に存在する部族集団を無視出来ません。
吸収合併した子会社の社長を一定期間はそのままにするのが普通(これが国造)ですが、更に時間が経過して本社から新社長(国司)を送り込んでも、元からいる幹部従業員の意向を尊重しながら安全運転しなければならないのと同じです。
荘園などの発達に危機感を持った朝廷は、10世紀に入って国司(グループの筆頭官の受領)の権限を強化して行った事により、郡司(もとは國造)の収税機能が弱体化して没落して行くのですが、この権限強化に合わせて国府役所の方で実務官僚が必要となりました。
そこで地元中堅層を在地官人・・現場採用したことで、彼ら現地実務官僚が実務に精通して行き、国司が自分で出張して行く必要性が減少して行き「目代」と言う代理人を出張させて間に合わせるようになっていたこともあって、次第に遥任の官に変化したとも言われています。

中央集権化と王朝政治2

5月11日に書いたように大和朝廷成立前と違い隣の領域との争い・・国内戦自体がなくなって来たので公式武力の必要性が各地領域内ではなくなっていた・・形式化していたものの、他方で新田開発の多発によって領域内の私荘園が発達して来て、この荘園同士の争いが起きてきます。
・・耕地が広がるに連れて水利権その他争いの種は尽きなかったでしょう・・
郡と郡の大きな争いよりは、郡内のマイナーな争い中心の時代になるとその長としての(軍事力を背景とした)調整能力が問われるようになってきます。
この過程で、信望を集めて地歩を固める郡司と逆に信用を失い領内の別のリーダーに信望を奪われるケースも出て来る筈です。
こうして、元は郡司でも何でもない新興武力集団が桓武平氏系統や清和源氏系統の地方に下った人材に接近して行く素地が生まれ、中央直結武士団が次第に地方で地歩を固めて行くのです。
藤原氏の政権独占がつつくと将来に希望のない皇族も臣下に降下して却って、地方に根を下ろして新しい生き方を求めようとなって行きます。
双方の思惑が交わって源平等の武家の棟梁が地歩を築いて行きます。
701年頃大宝律令を施行してから、約230年以上経過した承平天慶の乱の頃には、古代豪族の私兵がそのまま活躍出来る時代ではなく、新たな武士層として進化したものしか活躍出来なくなっていたことになります。
古代勢力が時代に合わせて変身しない限り一掃されていたことから見れば、律令制導入の結果かどうかは別としてこの時期の国内統一政策・・中央集権か政策の試みによって、一旦(と言っても230年以上も定着していれば充分な成功です)は古代豪族がそのままでは力を落として行った結果になっていたと見るべきでしょう。
日本のマスコミその他教養人はいつも日本は大変だ大変だなどと被害妄想的宣伝が好きですが、(最近ではデフレで何が悪い?のテーマで書いたことがあります)200年以上後に中央集権体制が徐々にほころびが出て来たからと言って失敗だったとは言えないでしょう。
中央集権化・・王朝化が進むと政治的駆け引き能力の巧拙で勢力の浮沈が決まって行きますので、藤原氏以外の中級貴族がたまに昇進すると応天門の変(貞観8年(866年))で大伴氏の末裔伴(大納言)が没落しますし、その後右大臣まで昇進した菅原道真も、延喜元年(901年)に失脚します。
彼も古代士族で知られている土師(はじ)氏の系列で、中級貴族として生き残っていましたが、祖父の代に土師氏から菅原氏に改氏したもので道真の母は古代豪族で知られる大伴氏の系列でした。
政争の繰り返しの結果、上級貴族は藤原氏でも北家一系統だけ・・道長の時代には藤原一門内政争に変化して行くようになっていました。
地方で荘園自衛のための武士団が成長してくると、国府の権威によって武士団を実動部隊として利用するようになって行ったし、他方で国司としての荘園はないので自前の兵を充実させる必要がなかったとも言えます。
これは国全体の軍事力としても同じで、前九年の役(1051年)から安倍氏滅亡1062年まで)以降すべて大規模な征討軍自体、源平などの軍事統率力を利用して恩賞目当てに地元武士団が参加する・・一種の傭兵隊を利用して行くものに変わって行くのです。
(これに先立つ承平天慶の乱(承平5年・935年〜天慶2年・939年)でも、結局は地方軍事力で解決しています。)
平将門による国府襲撃を見ると地方の実動部隊化している武士団が国府の権威を無視した攻撃をすると国府軍は簡単に負けてしまう脆弱なものでした。
国府はせいぜい警備員程度の武力しか持っていなかったからです。
中央で見ると藤原氏などが源氏の武力を利用していただけで自分の屋敷を自前の武力で守っていなかったのと同じです。

班田収授法と新田開発

 

律令制・班田収授法崩壊の端緒として、新田開発をさせても私有を認めないとやる気が起きないので三世一身の法が出来たとか墾田永世私財法が出来たと言われますが、政府が何故開墾に熱心だったかの疑問は、新田にしか口分田を適用出来なかったからだとすれば理解出来ます。
元々耕すべき農地を持っていない農民がいれば生活不能ですから、それは既に農民ではなく、浮浪者・・山賊集団みたいな形でしか生きて行けない社会です。
政府は元々配ってやるような余った土地を持っていないし、仮にあって農地を新たに配ってやると言っても、健全な農民は自分の耕すべき農地を持っていて貰った土地を耕す余力も意欲もないことになります。
そもそも農民は自分が食うためにはいつも真面目に働くものですが、政府への協力事業として郡司や有力者からから命じられて開墾に従事する農民・・そして口分田を貰えたとしても彼らにとっては、一種の借り物みたいな農地のに過ぎず自分が死ねば、クニに返すことになるとすれば、元々の自己所有農地を大事にして政府から貰った土地はお義理で耕すだけになるのは当然です。
律令制施行とは言っても既存の農地には手を付けられずその成否が新田開発の進捗状態にかかっていたから、政府は新田開発に熱心だった(開発しないと配るべき農地がない)し、これが永世私有になったのでは公有の区分田の供給が出来なくなり、ひいては律令制崩壊と言うことだったのではないでしょうか?
もしも班田収授法が完全に施行されていた(全領地没収)ならば、仮に私有を認めるようになったのが律令制施行後20〜30年に過ぎなかったとしてもその間に地方豪族の経済基盤が消滅していた筈ですから、豪族が大勢を使って開墾事業を行う資力・統率力など残っていなかったことになります。
戦後の農地解放の例を見ても分りますが、農地解放後直ぐに旧地主の経済的疲弊が進み、元の使用人を維持出来ず殆ど全部を解雇してしまいましたので、2〜30年も過ぎた昭和50年代になれば、(私は既に弁護士をしていましたが・・・残っていたのは元の格式を現す門と塀くらいでした)最早何らかの政治力を持つ特定階層として存在せず歴史で習う程度の存在になっていました。
古代と戦後とは時代進行の早さが違うこともありますが、寿命の短さから見れば、逆に古代の方が2〜30年も経過すればかなりの昔のことになっていた可能性もあります。
いろんな解説を読んでも、律令制が骨抜きになって行く経過として、開墾を地方豪族に請け負わせて、その代わりに三世代だけの私有を認める三世一身法(養老7年4月17日(723年5月25日)その内に墾田永年私財法(天平15年5月27日(743年6月23日)で永世私有を認める方向になって行き、荘園が発達したと説明を受けますが、その前提として大規模事業を請け負えるだけの配下人員や経済力を持つ豪族が何故全国あちこちに存在したかの説明がありません。
墾田永年私財法には寺院や親王など身分によって、保有出来る農地の規模を規定した部分があります。

「其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領少領三十町。主政主帳十町・・」

これらは自分で耕作しない人たちですし、しかも何百町歩もの広さは個人や親族で耕作出来ないことが明らかですから、彼らの保有を制限する限度を規定することは、彼らが既にこれだけ保有出来る配下人員を抱えていることを前提にしていることになります。
以上によれば、律令制施行にも拘らず地方豪族がなお隠然たる勢力を維持し続けていたことが分ります。

班田収授法が完全施行されたのに、その後に骨抜き穴だらけになって行ったのではなく、当初から出来る限度で始めて次第に施行範囲を広げて行くつもりだったのが、途中で形勢逆転・・私荘園が増えて行くようになったと見るべきでしょう。
新田開発値を朝廷所有にしようとしたのが失敗しただけのことになります。

班田収授法の対象地

 

郡司から全領地を取り上げる(計画すら)出来ずに、旧豪族には既得権として一定領域の荘園(不輸不入の特権)の保持を認めて一部だけを解放させて国有化に協力お願いをするか、豪族の領地人民は全く手を付けずに、領内の人民登録・名簿の提出を求めて、名簿の数に割当てた賦役・納税を郡司に義務づけたくらいが関の山だったのではないでしょうか?
口分田・・土地の割当をすると簡単に教科書に書いていますが、その前提としての土地面積の測量・地番の特定等は明治時代でも大変な作業でしたから、これを短期間に全国的に実施出来たと見るのは無理です。
国家が土地の特定をして帳簿に登録する作業・・今で言えば登記簿作成作業については、09/09/09「旧登記法制定と戸長からの分離コラム」前後で紹介しましたが、地形や面積を特定しその位置関係を特定する作業は大変なことで、明治になって登記法が出来たのは漸く明治19年のことでした。
その後、土地測量の正確性確保のために今でも営々と(一筆調査と言って)測量が続けられている状態ですから、如何に土地の特定が困難な作業かが分るでしょう。
これだけ困難な事業を、古代に(まだ文字すら万葉がなを使い始めた程度の時代・・しかも紙もなく木簡竹簡の時期ですから、図面など作れません)に短期間に全国で仕上げたなどと想像すら出来ないことです。
いわゆる太閤検地すら歴史に残る大事業として普通の教科書に紹介されている有名な歴史事件です。
租税目的の太閤検地は測りっ放しで終わりですが、古代の班田収授法の時には土地特定後の口分田の割当作業・・・羊羹のように切り分けることも出来ずとても複雑な作業になりますが、全国農民に割り当て出来るほどの官僚組織もなかったし、記録する文字も未発達で紙すらありません。
コンピューターの発達した現在でも国民漏れなく帳簿管理して特定物を配給するのは難しいのですが、(年金の記載漏れ事件を想起して下さい)土地のような輪切りの出来ないものを切り分けて分配するなど、どうして円滑に出来たのでしょうか?
戦後何十年もかかって(重機を利用)実施した土地改良法による改良は、莫大な資金を投下して現在の条里制とも言うべき長方形の画一的な農地に作り直す作業でしたが、これは農機具を入れる機械化農業向けであってそれなりに経済合理性があります。
これに対して古代・農機具もマトモにない・・人力中心の作業環境で、莫大なコストを掛けて何のために四角い農地に作り直す必要があったか、それのコスト負担をどうしたかを考えても気の遠くなるような財政負担です。
実は一定規模以上の四角い農地を作るのは大変な測量技術が必要です。
水田は水を入れるので文字どおり水平に地盤を作らないと,浅いところと深いところが出来て、稲の生育に適しません。
ある稲苗が殆ど水没しある場所では殆ど水がないと言うような凹凸段差があるのでは困ります。
狭いところでは何とかなりますが、広くなると水平にするには一定の技術が必要です。
完全な班田収授法の摘用は、制度発足後新田開発を豪族に命じて、その分だけを理想通りの条里制にして国直轄の口分田にして行った可能性があります。
防火基準や耐震基準が出来ると、既存の建物には適用せずに新築分から適用するようなやり方です。
古代の租庸調は人頭税中心であったことを振り返ってみると、土地面積を基準に課税する前提がない・・地図もなければ測量技術もない時代であった実態が分ります。
また、人頭税を逃れるために、戸籍記載を逃れる浮浪者(無戸籍者)の増加が問題となり、男子が生まれても女子登録するなどがはびこっていたのは、間に郡司と言う有力者が介在しているから可能だったです。
各人が不正をするのは怖くて出来ないものですが、組織が二重帳簿を作るのは昔からどこでも簡単にあり得ることです。
徳川時代の大名の石高が、表高と実高で大きく違っていたのは石高に応じた各種負担・・結局は税を逃れるための智恵でした。
また租庸調逃れのために戸籍登録から逃れることが流行ったのは、裏返せば政府から農地を貰う必要性がなかったことが推測されます。
今考えれば税を逃れる代わりに農地を貰えなければ困る筈ですが、新田開発以外の既存農地はそのまま個人所有ないし豪族所有であったとすれば、くれると言われてもありがた迷惑だったことの説明がつきます。
耕すべき農地のないもの・・一種の失業者だけが口分田を貰うメリットがあったことになります。
現在は共働きなどがあるので5%失業と言っても一家で一人しか働かない時代に直せば2、5%失業以下ですが、昔は失業保険その他の社会保障システムがないので、失業=あっという間に飢え死にする時代ですから、完全失業者が5%もいたら大変です。
ですから農地のない一家があちこちのムラに数%もいたかどうかですから、この人たちだけが口分田配給で喜ぶ対象だったことになります。

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