仙洞御所経費と核家族化2

お住まい関係予算だけで17億と聞くと大変なようですが、上皇に関連する公務員が65人ですから、 彼らの勤務場所・施設(宿直体制とすれば宿直室や食事等の設備もいるでしょう)の造営費もかかります。
職務上の移動手段車両/ガレージや通信設備も一定数必要になるなど、ちょっとした企業ビル程度の新設が必要です。
警備員の休憩室も必須です。
生前退位すると上皇と二重権力(象徴の拡散)議論中心で報じられてきましたが、象徴機能については天皇家内で節度を持って当たれば良いこと(中小企業で言えば社長を辞めた親が、いつまでも口出しするかどうか同様で)ですが、コスト等の議論の方が重要であったことがわかります。
この点は高齢化社会の宿命で、個々人が現役引退後長期間の生活費が必要になったのと同じです。
個々人の場合自分の家を現役の子供らに引き渡さずにそのまま住み続けるので、日々の生活費(年金程度)だけで足りるが、天皇家の場合皇居を引き渡すから、隠居所の造営が必要になります。
(個人でも自分の屋敷を子供引き渡す場合には、隠居用の建設資金が必要ですし、子供に引き渡さないまでも終の住処を空き家にしたままで老人ホームにはいるには、まとまった資金が必要です。)
高齢化社会になると現役引退後の生活保障・・二世代分の生活コストがかかる時代が来ているのですが、この点は皇室にとっても同じで、皇室経費のあり方が時代に合っていなかったように見えます。
退位しないで摂政制にすれば上皇御所不要ないか?どうだったかと比較したくなりますが、そうなれば世代交代を遅らせるだけ・いつまでも皇太子が独立した地位(一種の部屋住み?)がなく半端な状態が先送りされるだけです。
皇太子という語感からすれば未成年の子供の表現ですが実は60歳に手の届く年齢になっています。
摂政制は、即位した天皇が幼少の時に成人するまでの実務を担当するための補欠的制度であって、将来能力が衰える一方の天皇の退位を遅らせるための制度ではありません。
企業で言えば90代の社長がもはや仕事ができないのに社長室に頑張っていて、70歳前後の長男が専務をやっているようなもので不健全です。
これを経済的に見ればなお不都合が明らかになります。
ちなみに内廷費は天皇家として皇太子一家とごっちゃに支給される仕組みになっていて、(言わば未成熟子供を前提にする核家族の家計を想定した制度で60歳近くにもなる皇太子一家の経済独立性が担保されていません。
生活保護費支給の仕組みと比較するのは恐れ多いですが、経済的には信長以来時の政治権力の意向(今は国会の議決する予算)によって生活費等を受ける仕組みは同じです。
一家として支給される生活保護費のうち家族内で誰が手厚く消費できるかは、一家内の力関係で決まる仕組みが天皇家では3世代に渡って行われているのでしょうか?
未成熟家族内(乳幼児家庭)・いわゆる核家族であれば上記世帯単位の仕組みは合理的ですが、60代近くになっていて結婚して子供を持っている皇太子一家も含めて天皇家と一つの経済体(一つの世帯ではないのに)として内廷費を決める仕組みが不合理だったと思うのは私だけでしょうか。
皇室経済法第三条

予算に計上する皇室の費用は、これを内廷費、宮廷費及び皇族費とする。
同・第四条
内廷費は、天皇並びに皇后、太皇太后、皇太后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし、別に法律で定める定額を、毎年支出するものとする。

秋篠宮の場合、宮家を立てているので、皇族費としての独立支給になるのですが、皇太子一家は昔の農家や商家の長男夫婦が親と同居して家業を手伝っているパターンに似ています。
店の売り上げや農業収入等は親が握っていて長男一家には独立の収入がなく、(親から思いつきで小遣いをもらえる程度)半端な状態に置かれてきた古いしきたりのままになっているようです。
現在はそんな非人道的なことは許されないので、天皇陛下からまとめて皇太子一家の生活費を渡しているのでしょうが・・・。
この結果分配の少ない?皇太子妃の実家経済力次第の生活になります・現皇后が皇太子妃の時には実家が資本家・・古代で言えば荘園領主でしたが・・雅子さまの場合には実家が外務官次官・・給与生活者では皇太子妃の衣装代援助にも困る状態(噂)が起きてくるようです。
ちなみに秀吉の妻ねね・高台院化粧料が1万2千石、江戸時代に将軍家子女の婚姻化粧料として千姫の10万石・後水尾天皇に嫁いだ秀忠の娘和子の化粧料が1万石と言われています・ただし全て根拠に当たっていませんが、・・・・当時天皇家の収入を大きく支えたことは間違いないようです。
家光ころの天皇家の収入はhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1452135324によれば(これも根拠不明ですが)以下の通りです。

三代将軍家光が決めた天皇家としての石高は、たったの2万14石4斗9升5合ですが、
これには天皇家につながる170余の公家の扶持も含まれます。
これとは別に上皇が1万石、その他の後宮の賄い料として3千石、これだけです。

天璋院篤姫の輿入れに際しての島津家からの化粧料としては10万石という意見を読んだ記憶ですが巨額だったので千姫とごっちゃにした意見なのか、これも根拠がはっきりしません。
化粧料の額は別としても実家の経済力が大きく影響するのが皇室ですが、「皇室は社会変化と関係ない古式ゆかしい別世界であるべき」という(古きを尊ぶ思想は、)経済システムも古式ゆかしいママでないと一貫しないことがわかります。
天皇家はもともと国家財政そのものでしたから固有領地がないので、荘園制が広り、国庫収入が減ると自前の収入源を持たない天皇家を維持するには新興の荘園勢力・その代表者藤原氏をスポンサーにするしかなくなったのが藤原摂関家全盛時代となります

仙洞御所経費と核家族化1

秋篠宮様が批判する皇位継承関連予算案を見ておきましょう。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/yosangaiyo-h31.pdf

平成31年度歳出予算
政府案の概要について
平成30年12月
宮 内 庁
皇位継承における皇室費での儀式関係経費の概要について

を見ると(引用すると長すぎるので要約です・正確には上記に入って確認お願いします)

① 大嘗祭関連 前回規模(平成天皇即位)で行うと(・消費税率変更(3%→8%→10%(来年10月)・物価の上昇・人件費の著しい増加や材料費の高騰)で約25億円の出費になるので、参列者を1千人から700人へ減らしたり(招待すると宿泊費・パーテイ等の関連コストが巨大)して規模を縮小し、茅葺きから板葺きにする・参殿の屋根材を茅葺きにするなど資材のレベルダウンを図り、18億6000万に絞った
②大饗の儀 ・前回1000人→700人、回数3回→2回、等々で平成31年度231百万円→前回347百万円)
③ その他経費

等々が出ています。
上記の通り大嘗祭の経費は日経新聞報道時点では(平成天皇即位)前例通りに行うと30億円もかかる予定だったとしか外部には不明だったでしょうが、内部的にはコスト削減のために規模縮小や資材変更など細かく準備を積み上げていたことがわかります。
このあとで紹介する退位関連経費が増えた分が、平成になったとき(昭和天皇は先に崩御されているので退位後の住空間整備などが不要でした)とは違う・・増えたのでそれを合わせると35億くらいかかるようです。
退位後の上皇の御所の造営や公務員の増加など戦国時代の皇室の経済力・平成天皇天皇退位関連経費を見ておきましょう。
戦国時代にはそれほど豪華でなくとも、仙洞御所と内裏双方を維持(建築費だけではなく相応の侍従等の役人も必須で維持費がかかります。)するのは無理があったので、生前譲位が何代も行われていなかったらしいのです。
もはや院政(これまで紹介してきた八条院領の経済的バックによったのです)で睨みを利かすどころではありません。
戦国時代では天皇家の生活費すらままならない・儀式に必要な衣冠束帯の用意さえできない困窮状態で天皇家(内裏)と院の御所との二重経費負担に耐えられなかったのです。
正親町天皇天皇譲位問題では、信長が仙洞御所造営費用の出費に協力的でなかったので譲位できなかったと言われています。
正親町天皇に関するウイキペデイア引用です。

信長が譲位に反対したとする説
・・・前述のように当時は仙洞御所が無く、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(後年の正親町天皇の譲位においては、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。
だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。

仙洞御所を新規に造営すれば(その後のお付きの方々も必要になるし)大金がかかるのは容易に想像がつくでしょう。
古くは天皇が退位すると里内裏に引っ込みそこを仙洞御所といっていたようですが、中宮の実家(公卿)自体も荘園が消滅して経済力がなくなっていたからでしょう。
退位しても落ち着くべき里内裏のような屋敷もない以上、退位=新規造営費用が必要な時代が来たのです。
平成天皇が生前退位すると古代からの慣例によれば、美智子皇后のご実家が里内裏を提供することになるのですが、正田家もそこまでの財力がない(相続税がきつくて巨額資産承継は無理でしょう)あってもそういう時代ではないということでしょうか?
日清製粉をネット検索しても創業家の正田家が大株主として上位に出てきません。
仙洞御所造営→維持費(お側に仕えるものを含めて)を長期間を民間人が抱えるなど今の時代無理でしょう。
平安末期に院政が猛威を振るえたのは藤原氏の荘園収入に対抗できる八条院領などの独自荘園確保がなったからでないか?というのが独自根拠のない妄説です。
そういえば藤原氏の権勢を確かなものにした光明皇后のよっていた紫微中台の予算が、朝廷(娘の孝謙天皇)を凌駕していたとどこかで読んだ記憶です。
何事も経済的裏打ちが基礎になります。
平成天皇が生前退位すると退位後の別のお住まい・仙洞御所が必要・・現天皇退位後は当面一時的に旧高松宮邸を事前改造してそこへ移り、その間に今の東宮御所を改造してから仙洞御所としてお移りになる予定のようですが、その間の倉庫建築等々玉突き移転の工事費が以下の通り約17億円程度かかるようですし、崩御後の即位と違って退位後の御所付きの各種公務員の張り付きが必要です。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit#

宮内庁によると、来年度(30年度)、天皇陛下の退位に向けた準備として必要な経費は35億6000万円で、内訳は、両陛下が仮住まいされる高輪皇族邸の改修工事や御所、東宮御所、秋篠宮邸の工事の設計など住まいの関係に17億3000万円、
今後の儀式に必要な装束や物品の調達などに16億5300万円、などとなっている。””
今年度は35億、来年度は19億円、生前退位に伴う費用が計上され、来年の5月の即位を迎えます。
・・・引退する上皇、上皇后のお世話をする「上皇職」に65人もの宮内庁の職員を配置することです。

フランス革命1(ルネッサンスの完成)→キリスト教支配からの解放

キリスト教自体西欧では,市民にとっては異民族による征服軍と同列の支配道具と見られていた(こんなことを西欧人は怖くて言えないでしょうから,誰も書けない本音を何のしがらみもない私が思いつきで書いているだけです)ことは,私の根拠の内の上記想像でだけではなく,市民のもう1つの語源であるラテン語civitas・シビリアンに関する以下の定義からも窺われます。
14日に引用したhttp://daruyanagi.jp/entry/2012/12/15/142304「市民概念の歴史的解剖」からの引用した箇所の続きです。
「とくに civil の用法に注目して分類すると、少し面白いことが分かる。
(外政に対して)内政の; 国内の,国家の
(聖職者に対して)俗(人)の.
(軍人・国家に対して)一般(市民)の、民間の
古代(ほかの都市≒国家)中世(聖職界)近代(官僚機構・常備軍)といった、各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる。」
上記を見ると原住民全体では市民とそれ以外(People)との大きな区別が古代から元々あって,他方でより多く政治参加したくなって来た市民にとっては,支配の道具である・・軍や聖職者と対立関係が生じますので・・権力抗争場面ではシビリアンと称するようになっていた印象を受けます。
(学説を見た訳ではなく,私の個人感想に過ぎませんのでそのつもりで・・。)
戦後軍国主義否定の関係でシビリアンコントロールの必要性を頻りに教えられましたが、上記解説(勿論正しいかどうかまでは知りませんが,見つかったので便宜上参考に引用しているだけです)によると,シチズンはピープルとの対比で使い、シビリアンは権力対抗・・異民族支配を受けて来た抵抗関係で使われるようになって来たのではないかと分類すると納得し易い観念であることが分ります。
最近「ガバメント論」から「ガバナンス論」に政治経済の議論の重心が変わって来たのと同様で時代によって概念の利用が変わって来る事例です。
ローマ滅亡後の西洋中世が暗黒の中世と言われる理由ですが,基本的に現地現住民を圧倒的あ格差のあるローマ文化が支配していたことによるのではないかと思われます。
滅亡したローマ文化を伝道する中核はキリスト教文化だったでしょうから,中世ヨーロッパを支配した思想はキリスト教であり,それを支配道具としてローマ教皇が権力をふるい,地元権力もその権威を支配道具に利用していたことになります。
「キリスト教に裏付けられたガバメント・軍」はゲルマンやケルト、フランク族等諸族支配そのものの象徴であったと見られます。
支配されて来た原住民の支配層が力をつけてきた結果、西洋を覆っていたキリスト思想・・暗黒の幕を破った・・ルネッサンスが始まった・・・その頃から対抗関係でシチズンの外にシビリアンが使われるようになったと見れば素直です。
続けて引用します。
「古代では兵士=市民だった。ローマ市民権には「正規軍として参戦する権利」が付与されていた。なので、civil に「非軍事的な・民間の」という用法はなかっただろう。また、キリスト教が広まる以前の civil に「俗の」という用法はなかっただろう。つまり、これらの用法は後代になって付け加えられたものだと考えられる。歴史的にザックリまとめるとこのようになるだろう。
古代:(外敵)⇔ソトの人間とは違う人たち、自国の構成員
中世:(キリスト教)⇔俗世の人たち、少し飛躍して解釈すれば自治都市や皇帝派(ギベリン)
近代:(国家)⇔暴力機構としての国家に属さない人たち」
自分たちの言葉・・トスカナ語で書かれたダンテの「神曲」がラテン語以外の言語を使用するようになったのがルネッサンスの始まりですが,力をつけた新興市民にとって,その頃から市民に対する支配の道具である軍やキリスト教・聖職者を対立すべきものと言う意識が生まれ「市民」+シビリアン意識の重要性が出て来たと解釈出来ます。
言わばフランス革命以降漸く・・異民族の思想である?キリスト・ローマ教皇支配を払いのけた・シビリアンが折角政権を奪取したのであるから,軍の必要を認めるとしても折角獲得した異民族?支配からの独立・シビリアンの権利を守るためにシビリアンが軍をコントロールすべきと言う流れになります。
正にフランス革命が別名「市民革命」と言われる所以で、千年間異民族の宗教であるキリスト教に支配されていた現住民代表の「市民」が漸く復権したことになります。
シビリアンが対抗すべき対象として「聖職者」が書かれているのを冒頭に紹介しましたが,フランス革命では漸く聖職者・キリスト教の圧迫をはねとばしたことが重要です。
市民革命では貴族の領地は没収されなかったので、未だに特権層を維持していることについてココ・シャネルの映画を観たときのコラムに書きましたが、フランス革命では真っ先に教会財産没収が行われていることに注目する必要があるでしょう。
学校の歴史で一般に西欧の三部会制度をフランス革命で打破された古い制度・アンシャンレジームと教えられ,マイナス評価しか受けませんが、キリスト教支配からの脱却の歴史としてみれば,三部会制度は正に異民族の宗教支配に対する世俗権力者の抵抗の第一歩として始まった・・重要な制度手がかりが始まったであったことが分ります。
http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-027.htmlからの引用です。
 「1302年、フランス王国・カペー朝のフィリップ4世はローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際、聖職者・貴族・都市の商人代表を召集し、新税の課税を承認させたのが三部会の始まりである。聖職者である第一身分、貴族である第二身分が特権階級であり、第三身分は都市の商人、農民など特権を持たない人びとで構成された。」
以上のとおりローマ教皇に対する抵抗の結果勝ち取った制度ですから,当時としては言わばかなり革新的制度だったのです。
フランス革命の流れについては以下のとおりです。http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-022.html
フランス革命の初期に、三部会から分離し第三身分を中心に発足した、憲法制定のための議会。Assemblée Nationale 1789年6月17日に成立し、封建的特権の廃止や人権宣言など重要な決定を行い、立憲君主政を柱とした1791年憲法を制定した上で解散した。
議会の成果
 7月14日のバスティーユ牢獄襲撃、続いて起こった農民暴動(大恐怖)を受けて、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を決定し、8月26日に人権宣言を採択した。
 当初はヴェルサイユ宮殿に議会が置かれたが、10月のパリ市民によるヴェルサイユ行進の結果、パリに移った。11月に教会財産の国有化を決議して、それをもとにアッシニアを発行した。1790年には聖職者基本法を制定して教会の統制を強めた。1791年3月のギルド廃止に続いて、6月にはル=シャプリエ法を制定して労働組合を禁止し、ブルジョワ階級の立場を明確にした。」
上記のとおり貴族の領地没収はしませんでしたが、教会財産国有化を真っ先に決議しています。
革命で支配権奪取したのは城壁に守られた市内に住む「市民の政治参加の権利」であって城外に住む庶民は対象になっていません。
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、実はヘンリイ8世のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか・・。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)名君だったと言う評価があるようです。

律令制完成と王朝政治1

 

国司は中央派遣の中下級貴族(いわゆる受領階級)ですが、中央の政争で鍛えられているので田舎の純朴な勢力間のもめ事をさばく能力は一頭地を抜いていた(権威に頼るだけで地元民の納得が得られないと逆に国司の地位が低下して行きます)のでしょう。
それでも朝廷の権威がある間は、国司の裁定・これが仮に一方への肩入れで不満・不公正でも引き下がるしかなかったのですが、公然と国司の権威に挑戦したのが承平天慶(935〜939)の乱でした。
地方で朝廷の権威が空洞化していたことが、公然となったので歴史的意義が大きいことになりますが、(それでも僅か2カ月で将門は討たれています)逆から言えば、それまでかなりの無理があっても朝廷の権威が維持されていたことになります。
この地方勢力の駆逐が進む過程で遥任の官として現地と分離して行く国司と父高望王が上総介になると一緒に下向して坂東に地盤を築く平国香などのように現地土着して行く貴族に分かれてきます。
地方の旧支配層であった郡司も二極分解し、新興荘園領主に発展し、且つ自前の武力を蓄えて行く新興勢力に発展して行ったグループと衰退して行くグループに分かれて行ったようです。
戦国時代に守護大名が戦国大名に発展変質出来たもの(今川義元など)と守護代またはその家老などに取って代わられたものがいましたが、郡司(元の國の造)や郡衙役人にも新興武士団に発展変化したグループと時代についてけないで没落して行く元の造の意識のままの2種類がありました。
ですから、鎌倉時代まで(守護地頭側と貴族側で)鎌倉の御家人を兼ねながら荘園管理者として命脈を保つ郡司層とはこの新興地元勢力層のこととなります。
この過程で国司(下級中級貴族)だけではなく、中央貴族層も地方紛争に介入してそれぞれの立場で新興勢力である地元荘園主や武士層の紛争を解決してやりながら、自分の都合によって積極的に地元武力を利用する能力も身につけていきます。貴族(元は古代豪族)層は武士(戦闘集団)を外注利用出来たので、自前の武力を必要としなかったので、いよいよ宮廷貴族化が進んだとも言えます。
5月4日に書いたように、宮廷貴族化・王朝文化時代とは中央の旧大豪族は宮廷貴族化して戦闘能力を失って行った時期と一致します。
これは律令制の成果が出た結果・中央集権化の完成期と言うべきで、中央(大豪族)・地方ともに大和朝廷成立前後の旧豪族は没落して行ったことになります。
律令制施行頃からの中央政界では、藤原氏の天下となりその他古代からの豪族はおおむね中級貴族として生き残っていただけでした。
藤原氏に対抗出来る臣下・豪族がなくなっただけではなく、王族で勢力のあった長屋の王が滅ぼされてしまうと、天皇家自体が丸裸になってしまったので以降は藤原摂関家の専横時代に入って行きます。
前漢では呉楚七王の乱の鎮圧で専制君主制が完成して皇帝本体の権力は高まったものの、皇帝権力を側近・・外戚や宦官が牛耳るようになってもこれを制御する権力・王家の藩屏がなくなって行った・・側近政治に陥ったのと同じ状態でした。
我が国で長屋の王が滅ぼされてしまった以降、中央権力の暴走を制御する機構が消滅したことになりますので、中国王朝での宦官・外戚が跋扈(有名な跋扈将軍)して行くようになったのと同じ状況になっていたと言えます。
この時点では我が国も中央集権化・専制君主制が完成していた・・天武持統朝で目指していた律令制の成果・病理現象が現れていたのですから、律令制施行自体は目的を達して成功していたと言えるのではないでしょうか。
学校では律令制が形骸化して行った歴史の結果ばかり習いますが、実は律令制導入により版籍を全部朝廷に帰属させるのに成功し、朝廷成立前後の(藤原氏を除くその他の)諸豪族を衰退させる効果・中国並みの専制君主制の卵みたいになった点では見るべきものがあったのです。
この結果中央での権力闘争に敗れると反乱・抵抗するだけの自前の武力がなくなっていたので、黙って引き下がるしかなくなっていったのが奈良時代末から平安時代でした。
こうした時代背景の下で政争に勝てば相手を左遷するだけで(菅原道真の左遷や道長と伊周の政争)政敵の命まで取らずとも事足りた時代になっていたと言えます。
この時期を王朝時代と言い宮廷貴族中心の政治になったのは、大和朝廷成立前後の中央・地方豪族が軒並み衰退しいていた・・中国並みの王朝・・専制君主制時代に突入していたことになります。

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