戸籍制度整備3と連座制の廃止

 

親元から系統を辿って国民を把握して行く芋づる式方式は、February 16, 2011「戸籍制度整備2(芋づる式)」で書いたように早期に国民を把握するには適していましたが、実際に一緒に住んでいない人まで一つの戸籍に登録すること自体が観念的な取扱ですから、親元に記録する戸籍制度が出来たときから、観念的な家の制度に発展しやすい素地を持っていたことになります。
庚午戸籍あるいは壬申戸籍は、その前提として各戸の存在する場所での現状登録(戸籍作成時の居住地=本籍)を基本とし、そこから出て行って現に同居しなくなった元の未成熟の子(成人した人)までこれに併合して登録するようになったとしても、最初は直系血族だけだったので、今の核家族とほぼ同様で大したことがなかったと言えます。
しかし、この仕組みでは外に出た子の子(孫)まで登録して行き、その後、親(祖父母)が死亡して長男が次の戸主になっても、長男の甥姪(傍系)までその戸籍に記載されたままなってしまい、これを繰り返していくと一戸籍に傍系の傍系まで広がって膨大な数の人が登録されて行く事になります。
この結果転籍手続きが重たくなってしまい寄留簿の流用に繋がって行ったことを20日前後に書きました。
急激な社会変革・・維新進行による旧来の共同体意識解体に対する不満勢力・・醇風美俗を守れと言う反動思想を押さえ込むために、新たな家集団の編成を唱えれば便利だったことから、新戸籍制度による膨張体質が家の制度の説明に結びつき「家の制度」と言う大層な観念が生まれて来たように思われます。
明治政府は国を家に擬制した国「家」と表現し、ムラの内部の集落を字(あざ)と言って、あたかも人為的につくった行政組織である村を親に見立てて従来からあった集落をその子のようにしてしまい、(26日に少し書きましたが「字」の漢字の意味は家にいる子と言う意味ですが、これについては村と邑の違いを書く時に再論します)何もかも家の仕組みに擬制して行きます。
徴兵、徴税その他の目的で、国民に対する国家直接管理が進んで行った結果、郷里を出て行っても出身地の名簿(戸籍)から抹消できなくしたのが新たな戸籍制度ですが、その代わり刑事での連座制が廃止されました。
それまでは累が及ぶのを恐れて除籍していたのですから、除籍を禁止するには連座制を廃止するしかなかったでしょう。
忠臣蔵で仇討を決意した大石内蔵助が妻子に累が及ぶことを恐れて離縁状を書くシーンが有名ですが、明治の40年の刑法では個人責任主義に徹していて、家族の名簿に載っているだけで連座責任を負うことはなくなったのはこうした背景があります。
(たまたま、昨年12月14日赤穂浪士の討ち入りの日の午前に東京地裁の弁論があったので、その終了後に三宅坂の国立劇場に回って「仮名手本忠臣蔵」・・討ち入りを含む通し狂言(幸四郎と染五郎外一門出演)を見て来ましたが、この離縁のシーンはありませんでした・・元禄忠臣蔵で出てくる場面だったかな?)
ちなみに、私ごとですが最近結構な歳になって来たので、仕事ばかりではなく東京地裁の事件が午前中にある時には、直ぐに事務所に帰らずに弁論終了後(証人尋問ん問う長いときは別ですが・・・)に妻と日比谷の松本楼でゆっくり食事して、近くの日生劇場その他開演時間の合う劇場へ行って演劇等を楽しむことにしています。
話を連座制に戻しますと連座制の歴史が長かったので、今でも借金その他不祥事・刑事事件があると離婚した方が良いかの相談を受けることが結構あります。
(先に離婚届を出してしまってから相談に来る人もいます)
連帯保証さえしていなければ夫婦であることと夫の借金とは関係がないと説明するのですが、November 22, 2010「男の存在意義3」その他で「金の切れ目は縁の切れ目」のテーマで書いているように、妻の方はこの機会に離婚したい本音がある場合もあって実際は色々です。

本籍5(地番〜街区番号へ)

 

現在は日本中で土地に地番を付す作業が完成していますので、戸籍簿は地番別に編成されているので、ある人の戸籍謄本・登録事項証明書を取り寄せるには戸籍筆頭者名と本籍地番を特定して行うことになっています。
今でも戸籍謄本を取り寄せてみるとほとんどが何番地と表示されてるのが多いのはそのせいです。
それでも少しくらい地番がずれていても、戸籍役場からの電話で、同じ氏名の戸籍が何番地ならありますが、それで良いですかと聞いてくることがあります。
前回書いたように同じ集落にあれば、地番などなくとも氏名だけでその部落の人には分るものですが、その歴史を引きずっている感じです。
これがコンピューター処理するようになると地番が1番地違ってもヒットしなくなるでしょうから、却って不便な面があります。
ご近所の人でも名前も顔もよく知っているが、正確な住居表示あるいは氏だけではなく名前までとなると正確には分らないものです。
コンピューターでもあの辺の誰それと言うだけで呼び出せるように氏名・・それも少し漢字が違ったり読み方を間違っても大方で・・からも検索出来るようにして欲しいものです。
裁判所の事件検索方法としては、事件番号が分らないと探しようがなかったのがこれまでの整理方法でしたが、これでは事件当事者でさえも古い事件の番号など覚えてられないので、すごく不便なものでしたが、コンピューター化が進んだ結果却って人名や法人名検索でも簡単に出来るようになったので、昔よりはものすごく便利になっています。
同じように、地名だけではなく、人名(あるいは人別データ)からの検索が簡単に出来るようにするのは今のコンピューター技術では簡単なことと思われますので、却って、一つの市町村内であれば大方の地名や人名、生年月日程度を入力すれば(濁って読んだり漢字を別の読み方したりなど少しの誤差があっても)直ぐに出るようになって地番は索引機能としても不要になる可能性があります。
コンピューターの進歩で「何とか郷の誰それ」と言えばすぐ分ったような、江戸時代までの人別帳のように便利な社会に戻るのです。
ところで、離婚や結婚したときの新本籍や引っ越し後現在の住所に本籍を移す場合、新本籍を書くのに現住所と同じと書く人がいますが、実は現住所は街区表示・・住居表示で出来ていますので、本籍地番とは必ずしも一致していないのです。
それでも、現住所と同じと言う届け出でも受け付けてよろしいと言う通達が出ています。(22日に紹介した本はこうした通達集みたいなものです)
意味が分り難い人が多いと思いますが、たとえば、私のことですが、私の自宅の住居表示番号は知っているのですが、地番は土地購入時に契約書で確認してみただけでその後全く見ていないので、今では何番地だったかまるで覚えていない状態です。
離婚や新婚のときに、あるいは転居先を本籍にしたい時に、ほとんどの人が自分の住んでいるマンション等の地番まで知っている人が滅多にいない筈です。
ですから、今では殆どの人が自分の住んでいる地番を知らないので住居表示で届けるようになっているのが現状でしょう。
私も今の住所に本籍を転籍しようと思えば、(地番を完全に忘れているので)うっかり住居表示で届けることになりそうです。
明治には前回書いたように戸籍表示は屋敷地番と土地地番の混在時代でしたが、今では逆に地番表示の本籍と街区番号・住居表示による届出による本籍の二種類が混在していることになりますが、その内に住居表示制度利用の方が増えてくるような気がします。
その内に明治の初めに戸籍には屋敷地番を付していたのと同様に住居表示が中心になる時代が来るように思われます。
そうなると本籍「地」と言わずに単に本籍と言うようになるのでしょうか?
結局は昨日書いたように、本籍「地」の「地」は地番を現すか一定の地域を現すか否かによることになります。

 本籍4(地から地番へ)

 

ちなみに、本籍「地「と言う言葉が出て来たので戸籍簿の特定の仕方について考えて行きますと、元は戸籍筆頭者の人別に編成して行くことが可能で、・・これが江戸時代までの宗門「人別帳」と言われるゆえんです。
人別帳や戸籍簿は村(当時は何々の庄とか何々の郷と言っていました)別に造っていたので、どこの村(郷・庄)の誰それの戸籍と言えばそれで特定としては十分だったのでしょう。
しかも姓自体が。橋詰とか宮本・宮前などその集落内の場所を現すことが多かったのですからなおさらです。
地番が出来上がるまでは、「どこそこ国の何郡何郷の誰それ」と言う特定で済ましていたと思われます。
ご存知のように現在では戸籍謄本取り寄せには戸籍筆頭者名と本籍地番を書いて申請するシステムです・・22日紹介した本では、本籍地は索引機能しかないと書かれていました。
ただし、市街地では人家が密集しているので宮ノ前と言っても何十軒もある場合どこの家か分りませんから、自ずから市街地では現在の住居表示に類似する屋敷地番が発達していたようで、これが戸籍に記載されていたようです。
他方で、戸籍制度整備の目的とは別に土地に地番を振る作業が明治10年以降進んでいたことを、08/27/09「土地売買の自由化3(地番の誕生と境界)」のコラムで紹介しました。
(実際には日本中の土地に地番を振って行く作業が完了するには何十年もかかります)
平行して廃藩置県後地方制度整備が進み、いわゆる郡県市町村制が決まりその中の大字小字の区分け、その字中の地番まで特定出来るようになったのは、何十年もかかった後のことです。
屋敷地番から土地の地番に戸籍が変わったのは、明治19年式戸籍からだったとどこかで読んだような気がします。
土地に地番を振って行く作業の進捗にあわせて戸籍簿の特定も屋敷地番から土地の地番に移行して行ったのでしょう・・。
もしも本籍「地」の「地」とは現在のように策引き出来る地番のことであれば、それまでは地番自体がなかったのですから、本籍「地」と言う言葉自体がなかった筈ですから、本籍「地」と言うようになったのは地番特定が普及して以降でしょうか?
ただし、法律上の「地」とは最小単位の行政区域を指称することが多く、(例えば手形小切手法の支払地など)地番とはその「地」の中で順番に付した番号と言う意味であって、その結果、最小単位・子字(あざ)ごとに1番から始まるルールです。
参考までに手形法の第1条を紹介しますが、手形要件の中で支払地、振出地の記載がそれで、地番ではなく最小行政区域を言います。
この支払「地」や振出地は東京で言えば港区や中央区まで書かないと無効になりますが、その中で麻布や銀座・築地など下位の地名まで書く必要はありません。
手形法
(昭和七年七月十五日法律第二十号)

最終改正:平成一八年六月二一日法律第七八号

  第一編 為替手形
   第一章 為替手形ノ振出及方式
第一条  為替手形ニハ左ノ事項ヲ記載スベシ
一  証券ノ文言中ニ其ノ証券ノ作成ニ用フル語ヲ以テ記載スル為替手形ナルコトヲ示ス文字
二  一定ノ金額ヲ支払フベキ旨ノ単純ナル委託
三  支払ヲ為スベキ者(支払人)ノ名称
四  満期ノ表示
五  支払ヲ為スベキ地ノ表示
六  支払ヲ受ケ又ハ之ヲ受クル者ヲ指図スル者ノ名称
七  手形ヲ振出ス日及地ノ表示
八  手形ヲ振出ス者(振出人)ノ署名

もしもこの法律上の慣用表現が明治の初めからあったとすれば、今の最小単位は市町村(東京では区)ですが、当時は最小単位である◯◯の庄、◯◯郷まで書いてあれば、当初から本籍「地」を表記していたことになります。
「本籍地はどこか?」「はい、何々の国何々郡◯◯の庄です」と言えば、地番まで言わなくともそれで正答だったことになります。
ちなみに、郷や庄に代わって大字(あざ)小字(あざ)の単位が出来たのは、明治になって江戸時代までの小集落を併合して大きな単位の村が出来上がって元の集落名を「字」に格下げして以来のことです。
言わば第一回目の併合で格下げになったのが今の小字で、その次の合併で更に大きくなった村の一部になったのが大字であろうと思います。
昭和30年代の全国規模の大合併で更に村の規模が1kメートル四方程度の大きさになりましたが、この時更に村の下位になってしまった地域は大字とも言わずに旧何とか地域と言われることが多いようです。
大きな市では元の△村や△町はそのまま◯◯市△町として残っていました。
都市化したところでは◯◯何丁目の◯◯の地名で残っています。
最近の例で言えば、仙台と合併した和泉市が泉区になり、浦和や大宮市が合併して浦和区や大宮区になったようなものと言えば良いでしょうか?
何故大字小字と言うようになったかについてですが、私の素人推測では、上記のように併合を繰り返しているうちに大小の区別がついたものですが、他方明治の初め頃には毛筆で書いていたので、太字で書くか細字で書くかの区別もできて簡単だったことで始まったものと思います。
大字小字に関しては後にムラと邑の違い、集落の単位などで、もう一度書きます。
地と地番の関係に戻りますと、もしかしたら、法律上の慣用的表現は、地番などない時代が長かったので「地」概念が先に発達したものを、今でも使っているだけかもしれません。

寄留簿1と本籍3

戸籍制度が始まった当初における人の居場所による特定は、安定した住所の場合にはそこで戸籍を作り、(先祖まで辿って行くとどこまで辿るのかの議論になってしまうので現住所で作成したことを、February 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のブログで書きましたし、22日のブログで紹介した本でも、戸籍簿は住所登録台帳であった趣旨が書かれています。)戸籍を作るに足るほど住関係が安定していない場合には寄留簿として登録する二本立て制度として始まったものと思われます。
この頃には、まだ法制度自体がなく西洋法で議論されていた「住所」と言う概念を論じる必要もなかったし、まだ知らなかったからでしょう。
23日に書きましたが西洋では国際管轄の基準として住所が古くから論じられて来たのですが、我が国ではそんな必要はありませんでした。
後に紹介しますが、寄留に関する太政官布告が壬申戸籍の布告の直後・・同年に出ています。
2本立ての場合、寄留地(仮住まい)は本来の住所ではないので、親の戸籍のある場所・本来の籍のある場所(あるいは帰省地)の記載が当初から寄留簿に決められていた可能性があります。
人別帳を発展させた戸籍簿にはそこがまさに自分が登録した、周囲が認めた場所ですから、そこ以外に本来の籍を書く余地がなかった(22日に「戸籍基本先例解説」の本を引用したように明治31年から本籍記載が始まった)のに対して、寄留簿が出来た最初から寄留簿には親元の戸籍のある場所が、本来の籍=住所のあるところ=本籍として、書かれていたと見るのが合理的です。
江戸時代末までは都会に追い出された子供は結婚しないで死んで行くのが普通でしたし、だからこそ人別帳から除籍しておいても行った先で子孫が増える訳ではなく、大きな間違いではなかったのです。
(行った先で棟梁になったり俳諧の宗匠・剣道場の主になるなどして成功していれば、そこで所帯を構えるのでそこで人別登録の対象にされます)
仮に妻帯出来て一家を構えられるほど成功して根を張っていれば、明治の初めにそこで戸籍が編成された筈です・・そこまで行かないで除籍されっぱなしでフラフラしている単身の息子が故郷の親の戸籍に入ったのですから、最初は出て行った子を戸籍に残すようになっても大したことがなかったのです。
(今の核家族とほぼ同じで・・子供が成人して出て行ってもまだ不安定な場合、住民票を親元に残したままの人が多いのと同じです。)
元々江戸時代まで経験では子孫が際限なく増えて行くことを想定していなかったので、戸籍制度を始めた時に出て行った子まで記載していると、子々孫々まで増えて行った場合にどの段階で分離するかの自動分離システムが制度内に用意されていなかったことが、戸籍制度を機能不全になってしまったと言えます。
明治になってから近代産業が興り正業に就ける人が増えて来て、そのほとんどが妻帯してあるいは女性は結婚出来て、その子までもうけるようになって来ると弟らの嫁や子供まで戸籍に書き込むようになって来るので、(明治も20年前後になってくると)親が死亡して長男の世代になると甥姪まで戸籍に残ってしまうので戸籍簿の規模が大きくなる一方となります。
本来は、子世代が結婚までして更にその子の世代まで擁するようになれば、そこでの生活が安定している・寄留とは言えないと見るべきですから、実態に合わせるならば本来はその時点で子世代戸籍の分離・・新戸籍編成をして行くシステムに改正すべきだったでしょう。(戦後一般化された3代戸籍の禁)
戸籍制度を始めて見ると構成員が増える一方になったのですから、どういう場合に分離するかの戸籍制度の改正・検討が必要となって行ったのですが、ちょうど住民移動が激しくなって来たのと軌を一にして、伝統的価値観・集落共同体意識崩壊が進んで来たので、これに対する守旧派の危機感が強まって行きます。
これが「民法出でて忠孝滅ぶ」の大論争に発展し、旧民法施行延期のエネルギーに発展するのです。
反動として大きな家の制度を強調する運動が強まって来た状態下で、それに油を注ぐような3世以降分離するための改正が出来なくなってしまったのではないでしょうか?
その結果、戸籍簿を際限なく膨らませて行き重たくなった転籍行為に変えて寄留簿の方を膨張させて行く・・本来の住所変更まで寄留として受け付けて行ったので、本来・国民の住所把握を目的としていた戸籍機能が寄留簿に取ってく代わられてしまったのです。
寄留者用にできた本来の住所・籍のある場所=本籍・・親のいる場所の意味から、住所の安定している戸籍筆頭者がその後移動したことによって元々戸籍のあった場所・・本(もと)の籍=「本籍」と言う観念的な場所が必要となって行ったと考えられます。
(この場合、本籍には誰もいないことが想定されるので、観念的な場所になります。)
本籍と言うと何か有り難い本物のあるところのイメージですが、実は本物というより元「もと」を現すのに「本(もと)」と言う漢字を流用していたに過ぎません。
今でも神戸には元町が存在しますが、殆どの都市では元町と書かずに本町と書いていますが、(千葉にも本町とか本千葉がありますが、嘘の町などあるべくもありません)元々からの町というよりは、本町と言った方が何となく有り難く格式が上がるような気がするのでこれが流行しているに過ぎません。
「本」と言う字は苗字で見れば分るようにほとんどが「もと」と読むのですから、(橋本、宮本、坂本、松本、榎本あるいは旗本などなど・・枚挙にいとまがありません)ホンとして多く(昔からないと言うのではなくあったとしても例外的で)使うようになったのは最近のことだと分ります。
昔からの用例は本当の旗とか、本当の宮だと言う意味ではなくその根本(もと)と言う意味であったことは、その熟語から明らかです。
話を戻しますと、本籍概念は元々寄留地から見れば本来の戸籍のある場所と言う意味から始まった外に、戸籍がカラになってくるに従い元・本(もと)の登録地=本籍地と言う記載が一般化して行ったものと私は推測しています。
この結果、今では本籍と言うと意味のない・・実用性がないものであることから却って何か意味不明な有り難いもの・・先祖のルーツでもあるかと漠然と思っている方が多くなったと思いますが、最高に遡っても明治初年に先祖が住んでいたことが分るだけのことで、それ以上のことは分りません。

戸籍と住所の分離4

戸籍と本当の住所の乖離が進行する状態・運用がどの程度進行していたかに戻りますと、明治29年民法制定時には、この実態が進行していて先行していて実態に合わせるだけになったから、民法と同時施行になった明治31年式戸籍法では戸籍から住所記載をイキナリ全面的にやめることが簡単に出来たように思えます。
その直前の旧民法(明治23年公布)ではどうなっていたかについては、有斐閣の注釈民法(昭和48年初版の「住所」の総説や新版注釈民法(昭和63年初版)の「住所」の総説に少し紹介されています。
これを読むと、旧民法はフランス方式のインスチチュート方式で編纂されていて住所に関しては、
 旧民法人事編226で「民法上ノ住所ハ本籍地ニ在ルモノトス」
 同第266に「本籍地ガ生計ノ主要ナル地ト異ナルトキハ主要地ヲ以テ住所ト為ス」
とあったようです。(新版注釈民法334ページ)
住所の定義について、旧民法では「本籍地」と第一義的に決められる方式ですので、これを形式主義だったと上記注釈では書いているのですが、「生計の主要地をもって住所とす」と言う修正条文もあるので、言わば折衷主義だったと思われます。
上記の通り旧民法でも住所は第一義的に本籍を住所とし生計の主要なところが別になっている時にはそこを住所とすると言うのですから、旧民法編纂作業の頃(明治10年代以降)には、戸籍のある場所から便宜寄留名目で実際には住所移転している人がかなり増えて来て、戸籍のある本籍だけ住所とする画一処理が出来なくなった状態・・実情を無視出来なくなって来た・・過渡期の状態を表しています。
これが、現行民法(明治29年成立)になると19日に紹介したように「生活の本拠」として実質主義に変化しています。
これは、この頃(現行民法編纂作業は明治26年から始まり29年には国会通過です)には戸籍と本当の住所と一致する人が殆どいなくなってしまい、本籍を基準とする形式主義が折衷的にも維持出来なくなって来たことを現しています。
ところで住所は人の属性の問題として旧民法では人事編にあったのですが、現行民法では折柄発表されていたドイツ民法第1草案・・概念法学のパンデクテン方式です)を基本的参考にしたために、(この結果我が国ではドイツ法学が隆盛を極めることになります)住所が人事編だけの定義ではなく、明治29年成立の現行民法では総則に入って全体の基本概念に昇格したように思われます。
ところで、住所の定義が現行民法では「人」の次に配置されたのは、我が国は農耕・定住社会が長かったので、人の特定には「どこそこの誰それ」と言う名乗りが普通でしたし、政府も国民の特定には氏名・年齢・職業・親兄弟の氏名などの外に、住所を重視していた面もあって国民の特定には住所が最重要要素だった歴史によるところが大きかったかもしれません。
現在でも刑事事件の開始にあたっての被告人に対する人定手続きは、本籍、住所・氏名生年月日・職業の質問で行っています。
後に書いて行きますが、アメリカなど保険番号などによる特定で足りるので戸籍制度はありませんし、5〜6年前から韓国でも戸籍制度を廃止しています。
移動の盛んな現在では住所や親の住所による特定自体が意味をなさなくなって来たからでしょう。
業務上初対面の相手を知るのには、親兄弟が誰か出身地などはまるで意味がありません。
現在の名刺に企業名や役職を書いているのは、これこそが真に必要な情報であるからです。
(名刺の住所電話番号を見るのは何か連絡したいときだけですし、その時必要に応じて見ながら書き写すだけですので一々記憶している人は皆無に近いでしょう。)
明治民法の大家族制度・・観念的な家の制度がその他の諸制度との矛盾をはらみながらも一応概念上だけでも成り立ったのは、このような観念的・・現実に何ら関係のない本籍と言う概念が事実上生まれていたところを有効利用・・観念と観念の組み合わせだったからこそお互いに有効利用できたとも言えますし、この時に家の制度が出来なければ、国民の管理は住民登録制の完備だけで済むので戸籍制度は不要・・この時点でなくなっていたかもしれません。
実際、今でも何のために本籍があり住民登録の外に戸籍簿が必要か、理解に苦しみます。(その関心でこのシリーズは書いています)
もしも、明治31年以降の戸籍制度が家の制度を支える物理的骨組みであったとすれば、戦後家の制度を廃止した時に、本籍を中核とする戸籍制度も廃止すべきだったのではないでしょうか?
戸籍制度は、国民の管理把握のためには当初必要な制度でしたが、その内寄留簿に集約されて行って国民管理の機能としては戸籍の役割がなくなっていたのです。
今では本籍地を届けるには、自分の住所でもない親のいる場所でもない、何らの関連性も問われない・好きなところを届ければ何の根拠も不要で、受け付けてもらえる仕組みです。
それでも婚姻による新本籍地の届出に際しては、親の戸籍所在地をそのまま届ける人と婚姻時住所で届ける人が多い・・全く関係のない千代田区霞が関何丁目・・番地と届ける人は皆無に近いでしょう・・のは、前者は明治の初めに一般的であった新所帯では寄留簿登録していた時代の名残であり、後者は今更寄留(仮住まい)ではない、自分たちの住むところが生活の本拠であるとする自信のある人がそこで戸籍を作った名残です。
生活の本拠=住所を本籍とする明治の戸籍制度開始当初の意識が今でも強いことが分りますが、婚姻時の新居・現住所を本籍として届けるだけではなく、転居の度に本籍も移動する人がいますが、こうなってくると問題の所在が明らかになってきます。
同時に二つの届け出が何故いるのか?と言う疑問です。
逆説的ですが、戸籍を作った当初は一種の核家族直系だけの記録だったのが、時間の経過で傍系まで記録するようになって行き記載が複雑すぎて・・太らせ過ぎて戸籍の移動には手間ひまがかかり過ぎるようになった結果、(転居の都度戸籍新編成が難しくなった)移動に不便になってそのまま残されてしまうことになりました。
移動から取り残された結果、本籍地とは何を意味するのか・・先祖代々の本拠地と言えるかと言うと、せいぜい明治維新当初の住所地(今では婚姻届け出を出した時点の住所?)を現すに過ぎないのですから、存在意義が不明になってしまいました。
本籍地には親類縁者が一人もそこにいないなど本籍の意味が空虚になり過ぎたので、却って何のために本籍・・ひいては戸籍制度が必要かの疑問を持つ人が(私だけかも知れませんが・・元々その疑問があったのでこのシリーズを書いています)になって来たのです。

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