テロ組織と近代法の原理停止2

グアンタナモ基地での違法?拷問等による取り調べが知られていますので、テロリストが検挙されても保釈で出て来れば良いなどと言う訳に行かなくなりました。
末端のテロ実行者が検挙されたときに訓練場所や連絡組織などを自白するリスクがあるので、これを防ぐためにIS関係のテロは中央の指示ではなく末端が勝手連的にやる仕組みにしたり、その場で自爆してしまう・・犯人が生き残ってしゃべらないようにする方法が発達してきました。
以前は自爆や焼身自殺は自己犠牲の大きさによる社会への衝撃力・・社会へのアッピール力を競う・・これによる自民族抑圧・弾圧を緩和するようになることの期待・・その社会のよりよい変化を期待するものでした。
佐倉宗吾郎など、すべて自己犠牲によって残された家族や同族の生活環境がよりよくなることを期待するものでした。
今のテロでは焼身自殺等に対する「そこまで酷い目に遭っているのか?」「可哀相」と言う社会の同情心→社会変革への起爆剤になるのを期待するのではなく、自分の家族らを含む社会がまとめて被害を受ける・・家族を含めた社会への報復・社会に対する憎悪表現になっているようにみえます。
最近のテロに限らず、テロ行為というものは、自分の捨て身の行為が社会の改善に役立つ・・自分の家族や民族のための捨て石になる行為ではなく、テロの対象となっている社会の安定を破壊する・・その社会・秩序破壊を目的とするものです。
社会とは何か?
「社会」とはその地に住む人々が、古代から営々と築いて来た信頼関係の総合表現である秩序であり文化の集積です。
テロが攻撃対象にしているのは蓄積された社会秩序・信頼の破壊です。
テロ行為が頻発すれば、最後は相互不信が極まり、人影を見れば相手より先に銃で射つしかないような・・お互いの殺しあいに発展すると、次世代への教育どころか、日本人の世界に冠たる相互信頼関係社会が破壊されて行きます。
人影を見れば銃の引き金に指をかけて相手の動きを凝視してから行動する・・自分の五感を働かせて自分を守るしかない社会になれば、公共交通機関など大勢の保安行為に頼り、自分で安全を守れないシステムは成り立ちません。
信頼関係とは、自分がこうすれば相手がこうすると言う信頼・・日本で言えば、自分がへりくだれば相手もへりくだってくれると言う相互謙譲の社会が究極の姿です。
今回嫌韓感情が高まったのは、日本の謙譲の価値観に悪乗りして韓国が虚偽・悪宣伝を尽くしたことにより、共通の価値観で行動出来ない国だと言う認識・・お前を今後信用しないよと言う認識の表明です。
みんなが交通ルールを守ってこそ高速道路を安心して走れますが、逆走する人に対しては、車利用を規制する・・利用仲間から除名しなくてはなりません。
社会とは条文がなくとも相手が「礼儀」を守るだろうと言う相互の行動様式の信頼がある関係ですから、テロとは「礼儀」違反どころか、あるときイキナリ「生命すら奪いに来る」程の過激なルール違反行為をすることです。
戦いに出掛ける場合には危険は当然予測範囲ですが、結婚式や葬儀、あるいはコンサートなどに出掛けている場合には、危険を予測しないで出掛けるのが普通です。
すなわち古代からの約束事でこう言う場合は危険がない・こう言う接遇を受けると言う暗黙の合意・・文化がある・・こうした蓄積がその民族の文化であり「社会」と言うものです。
大声で怒鳴ったり刑罰の威嚇や監視がなくとも、ルールを守る社会は高度な安全文化社会です。
一方で銃で威嚇したり刑罰による威嚇がない限りルールを守らない社会は、低レベル社会ですし、銃の威嚇があっても(自分の死を恐れない)ルールを守らない状態になれば、社会と言うに値しない原始時代に戻るしかありません。
テロは、信頼を極限まで破壊し尽くして「社会」をなくしてしまおうとする行為です。
安全な筈の場所で、銃乱射や地下鉄の爆破事件など・イキナリルール違反される・・これがタマにあるだけならば何十年に一回の天災みたいなものですが、しょっ中になって来ると何を信頼していいか分らなくなります。
信頼が崩れる=社会が成り立たなくなると言うことです。
軍事基地など襲っても、一般市民が近づかなければ良いだけで社会的インパクトはありません。
シリアその他でどんなテロが行なわれていても難民がいくらトルコに流れても遠くの西欧は安閑としていましたが、大量の難民が直截西欧に押し寄せて難民が身近になり、しかもパリで一般市民が恐怖に襲われたので、大騒ぎになったのです。
パリのコンサート会場等襲撃でマスコミがショックを受けていますが、社会の信頼破壊を目的とするテロは、もっとも平和であるべき箇所・・安全と目されるところを襲うことが最も効果的であることが分ります。
電車にも怖くて乗れない・・何をするにも命がけとなれば、高度に発達した社会の血流が止まってしまいます。
即ちテロ行為とは、相手がルールを守ると言う信頼で成り立っている社会に対する挑戦・・社会崩壊を目指していることになります。
テロとは、対象社会に根付いているルールを明からさまに裏切る行為・・相互信頼関係破壊・・秩序・・ルールを守らないことの最大表現ですから、究極的にはその社会の文化集積を破壊して荒廃地にしてしまう・・古代に栄えたメソポタミア地方が現在瓦礫や砂漠の地になっているようにしてしまおうとする営みです。
一時的に不安がらせて、喜ぶ愉快犯とは目的が違います。

テロ組織と近代法の原理停止1

先進国の刑事訴訟法では、検挙されてもすぐに保釈されるなど、自白強制されない仕組みですし、死刑も廃止の方向ですが、その代わり非合法取り調べ?や現場射殺が大分前から充実?して来ています。
アメリカでは、9・11以降グアンタナモ基地での訴訟手続無視の長期拘束や拷問等が行なわれていると言われているのが、この先駆です。
人権侵害批判に対してオバマ政権はその内やめると言うだけでいつやめると明言出来ていません。
人権活動家は不満でしょうが、人権は社会の治安が守られていてこそ、保障されるものであるから、治安維持の方を優先すべきです。
シリアの現状を見れば分りますが、住居区域で連日銃の打ち合いをしている・・日々命の危険に曝されている・水もまともにのめない状況では、通信の秘密や表現の自由がどうのと言う前に、先ずは治安回復・・安心して生活出来るようにすることが先決であって、人権運動家やベンゴシが盗聴を人権侵害だと議論しても意味がありません。
戦国時代で言えば、先ずは統一して平和回復することが先決で価値のある行為であり、その過程で敵対する集団を滅ぼす・・法的手続なしに相手方兵士多数を殺したりすることは仕方のないことです。
この過程・信玄や信長、秀吉、家康などを大量殺人者と言って非難する人がいないように、それぞれおかれた状況ごとに判断すべきことであって、その社会の発展段階を無視して国際社会が非難し介入すると却って解決が長引いて、住民の生存維持関する直接被害・・盗聴やプライバシー侵害などと比較にならない本来の人権侵害が大きくなります。
(内乱を放っておけばその内に強い者が統一して社会が安定すれば、内政は文治政治に自然に移って行きます・・順次発展を待たないで軍事力行使が人権侵害と介入するから混乱が長引き、もっと酷い人権侵害を起こさせているのです。)
これが、リビヤその他でアラブ諸国で混乱が広がり、今シリアで収拾がつかなくなっている基本的過ちであり、人権屋に対する私の批判です。
今やテロに対する対応としては、事前情報収集が必須であることは論を俟たない状況ですが、これをしも、旧来型人権思想で非難する人権屋やマスコミの方が時代遅れになっています。
ロシアに亡命したアメリカ政府の盗聴暴露・・スノードン事件に対する人権運動かの批判・情報収集批判も同じで、あらゆる面で現実には人権保障が現実の必要に合わなくなっていることは確かです。
急迫不正の侵害に対する正当防衛があるように、法的手続では対処し切れない事態・・組織によるテロ被害防止には、現行法の適正手続条項でゆっくりと対処するのは無理があります。
相手が近代法の原理を根底から否定する組織・・行動に出ている場合に、こちらだけで適正手続きでやっていたのではかみ合いません。
サッカーでも野球でも相撲でも、相手がルール違反を繰り返す場合、こちらだけルールを守っていたのでは、試合が成り立ちません・・試合を続けるならば、相手のやり方に合わせて・・・相手が選手を2人増やすならこちらも増やし、相手がドーピングやるならこちらもドーピングするなど・・これがイヤならば、試合をやめるしかありません・・。
銃を乱射する相手には、こちらも銃で対抗するかないのに、私は人権屋ですから、銃は撃ちません・・先ず話し合いましょうといっていると殺されてしまいます。
中国による尖閣諸島侵犯や南沙諸島の例を見ても分るように、話し合いが重要と言って何もしなければ、ドンドン実力行使してきます。
慰安婦問題や南京事件でも日本が何も反論しないから、いくらでもやって来たのです。
フィリッピンのような弱小国でも中国に対抗するために戦闘機を買い巡視艇を増やそうとしています。
テロリストを養成しテロを仕掛ける方は、先進国の法・ルール・・例えば交通信号が作動する前提で移動するなど先進国ルールを利用しながら、自分の方はルールを無視して行動する組織です。
相手がルールどおり動くことを前提に自分がルー違反すれば有利に決まっています。
野球やサッカーのルールを守らない相手に対して、こちらだけがルールを守って試合をするのは、不可能であることは上記のとおりです。

集団責任5(近代法理の変容14)

表現の自由を認めると名誉毀損行為やエログロ猥褻・ポルノが蔓延するように、個人責任を強調し過ぎると集団行為を悪用する人が増えます。
証拠裁判主義を強調すると証拠さえ隠蔽すればいいのかと言う人が増えます。
法制度は悪用する人が出て来るとこれにいつも柔軟対応して行くしかないのですから、近代法の原理・法理とか、平和主義とかを標榜して具体的議論の思考停止を求める意見は、そもそも頭が固過ぎると思います。
「現在は近代ではない」と言う意見を共謀罪法案に関連して、このコラムで昨年書きました。
サイバーテロの本格的な攻撃は個々人には難しいし、軍事機密漏出やロケット弾や人工衛星システムの作動撹乱攻撃(準備)などは、個人犯罪としてはあまり意味もないので、やっているのは、ほぼ国家的組織・資金がバックにあっての攻撃と推定されますが・・この証明がアメリカでさえ出来ず困っています。
個人責任主義は証拠が簡単に入手出来る前提の議論であって、巧妙に仕組まれると肝腎の首謀者・・収益帰属グループが検挙されない・・何の責任も取らないことになります。
特定秘密保護法等の制定機運は、・・サイバーテロ対策が基礎にあります。
民主主義だから何でも公開するべきだと言う民主党や文化人の意見は時代変化にあっていません。
近代法の原理と言うのは一種のスローガンであって、そのまま貫徹して行くと悪用する人が出るので、無理が出てきたのが現在です。
この意味では/2015/02/19「近代法理の変容13・破綻4(日本固有の法理5)」の続きになります。
自由主義だから、クルマの走り方も人殺しでも泥棒でも全て自由にすべきだと言う議論をする人はいないと思いますが・・。
全てモノゴトには限界や例外があります。
特定秘密保護法制定批判論は「秘密=反民主主義的で良くない」と言うばかりですが、このために秘密保護法案は「特定」と限定されているのですが、マスコミ・文化人?はその辺を報道しないで、民主主義の危機と煽ります。
総理や原子力関連施設等の警備体制など秘密にしなければならないことが一杯ある筈ですが、これらの例外を認めずに公開することが何故民主主義に不可欠かの説明もありません。
人権団体も秘密の例外を認めるならば、秘密保護法制定自体が民主主義の危機ではなく、知る権利の例外とするべき基準造りの段階でこの基準がおかしいなどと意見を言えば良いことです。
アメリカがイラン相手のように中国からのサイバーテロの仕掛けに対して、対中国で全面金融制裁を出来れば良いのですが、世界中が中国とは深く経済関係を持ち過ぎているので、中国相手の金融取引全面禁止などとても出来ない状態です。
中国は「図体が大き過ぎて世界の村八分に出来ないだろう」と言う自信が、臆面もない無茶をやっていられる原因と言えます。
しかしこのコラムでは、2015/06/12「資金枯渇8(出血輸出とその原資2)」まで、中国の経済破綻の可能性に付いて書いている途中で、中国の世界ルール破りの弊害から集団行為に対するペナルテイの必要性に話題がそれていますが、世界経済の潮流は結果的に中国から撤退縮小に向かっています。
中国に国際秩序を守らせるためには、中国関係を縮小して行くしかないと言うのが、今の潮流でしょう。
ドイツ(日本では伊藤忠)がその穴埋めに動いているのは、不可解と言うか時流を読み違えているのではないでしょうか?
中国が流出し続ける海外資金の穴埋めのために、庶民の株式市場参加を必死に煽っていることも/2015/05/13「中国のバブル崩壊16と庶民の株売買参加1」に書いてきました。
基礎的経済状態が出血輸出するしかない・・製品投げ売り状態になっているのに、瀕死企業中心の上海・深圳株式市場相場が急騰する・・情報のない庶民をあおって市場参加させても長続きする訳がありません。
5月末ころから下落基調が始まってなりふり構わない短期関での金融緩和の繰り返しで応じていましたが、緩和程度では効き目がなくなって、先週では毎日のように、ストップ安が続いていましたので、先週末には国有証券会社等に命じて資金約2兆円以上投入すると発表して市場動揺を抑える発表をしていました。
7月8日水曜日の日経朝刊3pには、上海、深圳両市場の上場企業の三割が既に売買停止になっていると報道されています。
際限ない株価下落になるのを恐れて前日までのストップ安企業はそのまま取引停止にしていることが窺われます。
金曜日に大量のストップ安が出ていたので、売り損ねた投資家が月曜日に殺到するのではないかと思っていたら、そうでもないので、不思議でしたが、このような措置をとっていたことが分りました。
三割売買停止と言うことは、(残りの売れる株を売り逃げしようとするのが普通ですから、)毎日のように、売り先行で始まり途中で政府資金投入による買い支えと言う繰り返しが待っていると思われます。
このように、(上場企業の大半が国有企業なので破綻させる訳に行かず)政府が裏で資金投入して買い支えしている間に、外資が売り逃げるので余計(資金枯渇が進み)苦しくなるでしょう。
・・国を挙げての仕手相場はいつか破綻すると言う意見で書いてきましたが、これが本当に目の前に迫ってきました。
上記のように現在は殆ど株式市場機能麻痺状態ですから、自分からデフォルトしているのと効果が似ています。
ギリシャが、銀行窓口を自分で制限しているのは、国際取引停止されて100%イキナリ停止にくらべれば、自主規制の方が効果がソフトで市民への打撃が少ない(小口現金払い戻しには応じているようですから)メリットがあります。
中国も売買停止幅を2〜3割〜4割と徐々に広げる方が、(ギリシャの銀行で言えば徐々に一人当たり払戻金額を下げて行くようなものです)イキナリの市場閉鎖よりは衝撃度を緩める効果があるでしょう。
いずれにしても中国が自爆状態で事実上経済活動を徐々に縮小して行くしかないとすれば、結果的に国際社会から、金融取引禁止または制限を受けたのと同じ状態になります。

近代法理の変容13・破綻4(日本固有の法理5)

原因究明・再発防止のためにどうするかのために調査は必要ですが、責任追及目的で行うのとは、方向性が違っていて建設的ではありません。
責任追及されるための調査では自発的反省意見が出難いのすが、そうでなければ「あのときこうしておけば良かったかなあ」と言う自発的反省が一杯出てきます。
日本人が韓国に植民地支配がどうのと言われると多くの日本人としては、西洋の植民地支配のような過酷なことをしないで本土並み以上にいろんなことして来たつもりでも、「援助される方は辛いこともあったかもな?」と反省していたのですが、反省すれば、それを良いことに突っ込んで来る・・際限なく次々と非難され続けられると、「いい加減にしてくれ」と言いたくなる人が増えてきました。
対中関係も同様で大戦中迷惑をかけたことは事実ですから、それなり反省していましたが、ここまで来ると限界線突破・・こう言う人達には、誠実に対応するだけ損となってきました。
中韓共に、日本的な信頼社会とは違う・・どこまで行っても「建設的な関係を築くのは無理な相手だ」と言う意見を持つ人が日本人に増えて来たようです。
日本の相互信頼社会・・絶えざる進展の歴史は、日本的な古来からの生き方の建設的な成果を物語っています。
日本の社会発展の歴史をみると、ある人が大儲けしようとして技術革新が起きた例は滅多になく、何らかの大きな苦しみや悲劇があった場合、この克服のために薬品や工作物の工夫をして少しでも多くの人にこの恩恵が広く行き渡り、助かるように頑張るのが普通です。
成果が出ると無償でこの普及に努力する・・元々諸外国の発明発見者と心がけが違うので、儲けを独り占めするような人は皆無に近いのです。
最新知見で言えば「TRON」の開発者が無償で世界公開しているのはその一例ですし、最新医療技術開発者も世界中を飛び回って新技術の無償伝播に熱心です。
日本以外の国では何かの製品開発等に成功するとブランド化して実際の価値の何十倍もの高値を吹っかけるのが普通ですが、日本人は成功すると日本中への普及に努力し、最近では後進国に無償どころか私財の持ち出しで出掛けて行って、その土地の人が安く利用出来るように身を粉にしてして努力するのが今でも普通に行なわれています。
この基礎的な行動意識の違い・・災害をみんなの不幸として捉えて悲しみ(誰か一人に責任を押し付けたり儲けを独り占めにしない社会)も共有する絆・重視社会で縄文の昔からやってきたのが、社会のの絶えざる発展と安定の基礎です。
西洋法理の意思責任主義に戻りますと、事件を起こしたのが、意思能力のない狂人・精神障害者だからと言って放置する意思主義の法理では社会の維持が出来ません。
西洋近代の意思責任・個人責任主義による矛盾解決のために、仕方なしに漸く心神喪失者等医療観察法と言うものが制定されたことになります。
この法律によって、重大事件を引き起こしても、心神喪失等によって不起訴や無罪になった場合、刑事事件としての釈放と同時に一定の手続を経て強制的に医療施設で医療を与えることが出来るようになりました。
個人責任主義では実際に解決出来ない・・古来からの親兄妹の慣習法的責任感でこれまで何とかなっていたのですが、表向き個人責任主義と言いながら実際には親や親族に任せていた矛盾が出て来た・・社会実態があります。
親族の助け合いに頼っていた介護の社会化・母一人の育児の社会化と同じ問題です。
私の担当した精神障害者事件経験の多くの場合、親が高齢化して来て精神病の息子等を制禦し切れなくなって来た・精神病院への通院をいやがるなどで放置状態になって多くの事件が起きて来ている例が多いのです。
高齢化社会の弊害かと言うとそうではありません。
いつかは親が高齢化して障碍者の面倒(病院へ無理に連れて行くなどの事実上の強制力を含めた)を見切れなくなる時点が、従来の50台から80台に先送りされて来た違いがあっても、いつかは面倒見切れなくなる点は今も昔も同じですが、核家族化進行が大まかな社会連帯を崩して来たことによります。
社会連帯で個人責任を誤摩化して来た矛盾が出て来たのです。
法律家が近代法をなまじ学んでいることを振りかざし、意思責任がない以上は放置しろと言うものですから、(今まで親兄妹がその矛盾を補充して来たのですが・・)却って社会の必要性に対応出来ない事態が起きていたのです。
学者や秀才とは、過去の事例蓄積を学ぶのに秀でた人のことですから、(学者=学ぶ人)自分が学んだ2世紀も前には先進的であり、妥当したルールにこだわって、目の前の時代の流れを見ない傾向があって、時代遅れになる傾向があります。
10/15/03「教育改革18・・・・・多様な人材を育てる教育システム1」06/27/03「学者と実務家 6(教育改革の方向)」等々で、秀才が時代変革に対応する能力がないのに偉そうに意見を言うので、国を滅ぼしてしまうと言う意見を何回も書いてきました。

近代法理の変容12・破綻3(日本固有の法理4)

左翼・マスコミは、何か災害や事件があると先ず責任者を捜し出すことに精出す傾向があります。
避難指示の出し方に落ち度があるとか、防災対策は政治の責任であり、救援物資に「済みません」と感謝するのは筋違いであるとか、政府こそが謝るべきであるし、イスラム国テロによる人質事件は安倍総理の責任であり、その追及こそすべきであって親が謝るべきではない・・こんな振る舞いが求められるのはとんでもない後進性の現れであるかのような印象で報道します。
西洋法理を信奉するマスコミや文化人の立場からは、大震災の事故があって被害者が出ると事前の避難訓練がなかったとか、避難指示の拙劣さなど学校や幼稚園・・企業経営者などの責任追及に精出すのが、先進的であり鋭い?能力があることだと思い込んでいるようです。
西洋的行動であることはそのとおりですが、西洋的と先進的とは同じではありません。
日本人の古来からの考え方・智恵は、何か大事件が起きると、個人責任追及に時間を割いて見せしめを探し出して吊るし上げて満足するよりは、起きてしまった結果をみんなで悲しみ、みんなでこう言う不幸をなくすために地道に克服努力して来たのではないでしょうか?
アメリカ式に戦争責任を追及して吊るし挙げて満足する社会ではありません。
日本以外の諸国では民主化したと言っても「リーダーを選ぶところまでが民意重視」ですが、選ばれた(民主化されていない国の場合はもちろん)リーダーが独断で引っ張って行く社会ですから、リーダーが結果責任を負うことになりますし、(この辺のことはアメリカの大統領制のコラムで紹介しました)その責任追及が必要ですが、日本では政治家はリーダーではなく、世話役・ご用聞きとしてみんなの意見を集約して行動するボトムアップ社会ですから、結果はみんなで責任を負う(・・みんなの智恵が足りなかったと反省する・・)仕組みです。
戦国武将が城明け渡しに際して腹を切るのは、代表として犠牲になる意味であって、命が助かったその他の兵は感謝こそすれ、その恨みを買ってはいません。
一揆の責任者として責任をとった佐倉宗吾郎だって同じで、彼がみんなを煽動したのはなく、一揆を起こせば最後は誰かが責任をとらされること分っていて衆議に従って責任者に祭り上げられただけですから、犠牲者として一揆参加者・子孫の尊敬を逆に集めています。
この辺の意味を中国や韓国やアメリカでは理解出来ないので、ナチス同様に戦犯を作り上げて処刑したことで日本国民を分断したつもりになっているのですが、(ドイツとは違い・・)逆に戦犯は日本人の代表として「見せしめに処刑された」意味に日本人が受け取っている・・これをいつまでも辱めることを許せない心情を理解出来ていないのでしょう。
諸外国基準で戦勝国が日本の政治家を血祭りに上げて「あなた方国民は悪い政治家のせいで酷い目にあっていた」と言われても釈然としません。
飢饉があると為政者批判しているよりは、宮沢賢治の詩にあるようにみんなで悲しみ、その次の再発を防ぐ工夫こそが求められて来た社会です。

「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ  イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

我が国は古代から、飢饉や天災があれば、為政者批判に力を注ぐよりは先ずは助け合い、(よその国では助け合いよりは略奪にハシリます)その経験を生かして備荒食物の作付けなどの智恵を発揮した人が(サツマ芋普及に関する青木昆陽の事例は有名ですが、梅の作付けやソバ奨励もその一種です)全国に教えて歩く人が出るような仕組みです。
江戸時代には上杉鷹山その他藩政改革者あるいは佐久間象山や二宮尊徳のような農政改革者が多く出ますが、その前任者の政策批判して責任追及に熱心な事例をあまり聞きません。
津波被害があれば、先ずは助け合いに精出して救援された方は感謝します。
落ちつけば今後のことをみんな考える・・一定間隔での避難用高層構築物設置など、被害最小化のためにどうするかの工夫こそが重要です。
建設的意見よりは、責任者探しをして・損害賠償を求めるやり方は建設的議論にならないばかりか国民間の不信や報復の連鎖・・自己弁護に終始したり亀裂を生み出すばかりでマイナスです。

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