近代法理の変容11・破綻2(日本固有の法理3)

15年ほど前に三重県の方で母親が友人?に幼児を預かってもらっていたところ、事故でなくなった事件があって、あずかってくれていた近所の人相手に損害賠償請求裁判した事件・・隣人訴訟が耳目を集めたことがありました。
昨日書いた成人した息子の事件に親が謝って歩くのは、西洋法的責任論によるのではなく、日本固有の法理によるものです。
話し合いでも解決すれば法的な効果がありますので、これも法的解決ですが、世の中にはこれで丸く収まっている場合が多いのですが、これで納得しない人が裁判を起こすことになります。
共同体分野で裁判をすると「人でなし」のような印象で語る人が多いのは、日本固有の法理無視・・古代からの共同体価値の否定・・共同体の一員としての付き合いを出来ないような印象を持つからでしょう。
子供を預かっていた事件では、元々営利目的であずかった行為ではないことから、日本固有法理・共同体的解決が働く場面であると多くの人が思ったから、西洋法理に訴えたところがショックだったことになります。
訴えた人がその地域共同体から出て行くことになったか否かまでは知りませんが、共同体法理で解決すべき分野で西洋法理を持ち出すと民族意識が頭をもたげて来て、近所付き合いが難くなります。
1〜2年まえに判決が出た別事件では、認知症の人が家を抜け出して徘徊していた結果、線路に立ち入って電車事故を起こしたことで、電鉄会社から損害賠償請求をされて、その介護をしていた長男夫婦だったかが徘徊を阻止しなかった監督責任=損害賠償責任を認められたことがありました。
故意・過失責任を問う法理では、忙しいから・・遠くに住んでいるから・あるいはどんな身勝手な理由であろうとも、面倒を見ていなかった次男等の弟妹には、責任を問えないのは当然の論理帰結となります。
故意過失責任論では、自分の生活を犠牲にして親の世話をしていた人が損をする感じですから、大きなニュースになりました。
実態の詳細を知りませんが、もしも鉄道会社に管理責任がなく、死者側の管理責任の方が大きい=賠償責任があるとした場合(元々どちらかに責任があると決めつけねばならない仕組み自体が変です・・災害保障保険制度にして余程大きな責任のあるときだけ追及すれば良いことです)でも、国民感情としては、面倒見ていた人だけではなく一家で連帯・分担して責任を持つべきであろうと言う印象です。
家族間で後日そう言う話し合いがされたと思いますが、(遺産分けに際して損害賠償額を天引きして残りを分ければそうなります)これは日本法理であって、弟妹が話し合い・分担に応じなければ、西洋法的には弟妹(その場にいなかったので監督しようがなかったこと・無過失になります)は責任がありません。
長男固有の責任と言う西洋法理・過失論であれば、遺産から払うのではなく、過失のあった長男の固有資産から払うことになります。
介護施設などの管理不行き届きで死亡した場合と同じとすれば、長男の管理責任不行き届きで母が死亡したのですから、弟妹に対する慰藉料支払義務・弟妹からの裁判さえ起きかねません。
西洋法理を貫徹すると隣人訴訟同様に兄妹の付き合いがなくなります。
むしろ、「お兄ちゃん一家に任せていて申し訳なかったね」とねぎらうのが我が国普通の法意識です。
東北大震災津波被害で言えば、被害者が全国からの応援に有り難いと感謝し、今度のIS(イスラム国?) の人質事件では親が「皆様にご迷惑をおかけましたとお詫びし感謝するのが日本では普通の社会意識・・法意識です・・。
近代法の個人主義精神を有り難がっている立場からすれば、津波被害は人災に違いない・・責任追及こそが必要とする前提で議論が進みます。
事故や災害があると、原因究明をするのは、教訓を探すために必要なことですが、責任追及の目的で究明するのとでは・・、目的が違うと社会の進展には大きな差が出ます。
韓国でのセウオール号事件その他何かある都度、鬱憤ばらし的責任追及に精出している状態に日本社会との違いを感じる人が多いでしょう。
左翼・文化人・マスコミ人は、こうした社会になるのが望ましいと言う意見の人が多いのではないでしょうか?
東北大震災のときに東電社長が奥さんと奈良方面旅行中だったと言う報道が流れて、大事なときに旅行と何事か!と言わんばかりの印象の報道でした。
地震は前もって分っていなかったのですから、休暇をとっていたのが悪いかのような印象づけは不当な報道でした。
地震当初には、如何にも鬱憤ばらし目的の吊るし上げ対象を求めていたかのような、低レベル報道が幅を利かしていました。
マスコミは地中海での旅客船事故や韓国のセウオール号事件など大事件が起きると「全て責任者がどうしていた」と言う低レベル報道に偏る傾向があります。
日本国民のレベルが高く冷静ですから、そんな低レベル・煽り行為的報道に殆ど反応しなかったので、その内この種の報道は縮小して行きました。
その後も、マスコミは自己の立脚する価値観で(国民全般の意向に反して?)訓練を受けて来たせいか?飽くまで責任者のあぶり出しに精出していました。
朝日新聞の吉田調書事件は、東電社員が現場放棄して逃亡していないのに逃亡したと言う虚偽報道に発展したのは、東電の体質批判・責任追及をしたい方向性・・角度付けから生じた結果ではないでしょうか。

近代法理の変容10・破綻1(日本固有の法理2)

学校内の事故も同様で、損害賠償→責任追及されると教員も萎縮する一方で、マトモな教育が出来ません・・。
西洋式の意思責任主義・故意過失原理から解放して、校内の事故には(先生の故意過失の有無に関係なく)運営している学校が責任を持つ制度にすれば良いのではないでしょうか?
ここでは学校内事故を参考に書いていますが、介護施設や病院・スイミングクラブ内・工場内その他施設内の事故については、被害者に自招行為責任がない限り、似たような運用で足りると思います。
法理論・哲学的側面では、意思主義=故意・過失責任論をやめて、法技術的には原則と例外の入れ替え・・被害者が自分で危ないことをしたなどの自傷・自招行為・・施設側が自己の無責任を主張立証しない限り、原則として施設が責任を負う仕組みです。
教育方法の技能アップのための原因究明ならば、内部調査して責任を問うたり譴責して行く・・今後の教訓にして行く方が合理的です。
故意過失の有無にかかわらず学校や組織が賠償・保障すれば、事故にあった子供の親は先生の個人責任を問う必要がなくなり、・・裁判するコスト(熱心に指導してくれていた柔道などの先生を訴えなくても済むし精神面でも)負担がなくなります。
個人責任を問うのは、特に酷い対応をした場合の例外的制度にすれば、既に民事賠償が終わっているので、被害者に関係のない今後の再発防止などの研究や内部秩序維持・・再発防止目的の刑事責任や昇進・格下げや懲戒等の違った側面の問題になります。
現状の民事賠償責任制度では、無理な過失認定仕組みですので過失があると言われた方が納得し難い・・裁判に期待される合理的説得をする機能を裁判が果たしていないで、弁護士に頼っている状態です。
裁判所は個人の選任・監督責任と言いながら、本来の尺度は、古来からのどこまで組織(親)が責任を持つべきかの価値基準で判断しているように見えますが、これを口に出して言えない矛盾です。
このために本人訴訟では、なかなか納得しない被告相手に裁判所から、弁護士に相談してくれと言う勧誘が行なわれている様子です。
しょっ中裁判所から弁護士を頼んだら勝てるようなことを言われた・・だから先生さえやってくれれば勝つに決まっていると言う主張して相談に来る人がいますが、「逆でしょう」と言う事例が殆どです。
裁判所がその人に対して負ける理由を噛み砕いて説明出来ないからその役割を弁護士に振って来る感じの相談が多いのです。
振られた弁護士としては、この主張では負けるしかないと言う理由を苦労して説明するしかなくて、何故負けるかの説明です・・その人の信念・・価値観と噛み合わない説明ですから、大変な苦労をさせられています。
西欧由来の近代法は意思責任のフィクションに頼っているので、そのフィクションどおりに理解すると(秀才型の人に多いのですが・・)却って「俺にどう言う過失があるのだ」理解不能になるる人が出て来ます。
同居して親が監督している場合、どういう風に親が努力していても結果的に監督不十分の責任を取らされるのに、「この子は外に出して大丈夫かな?」と心配のある子供を都会に就職させたり学生寮等に入れている場合、何かがあっても「国許の親が却って監督する余地がない」と言う理由で、何の責任も負わない結果になります。
4〜5年前に私の受任していた大学寮内の暴力事件で、(私は加害者側でしたが)「親には監督責任がない」ことを前提に、親の日本的責任として事実上親が金を出して和解しました。
前近代的かどうかは別として成人した息子であっても、同居している息子が隣の家のガラスを割ったり、怪我をさせたりすれば、成人しているから親に責任がないと開き直る人はいない・・親が謝って弁償するのが普通でしょう。
アパートの独身居住者に何かあれば、親に連絡して(遺体など)引き取ってもらうのが普通です。
親の過失責任などを問題にしていません。
謝りに行って相手から、「親御さんは大変すね」とねぎらってもらえればお互い円満ですが、「あなたの監督が悪いんだ」と居丈高に言われれば、謝る気持ちが薄まってしまう人が多いでしょう。
監督の仕方が良くても悪くとも、(親に過失がなくとも)息子が不祥事を繰り返していると近所の人にとっては迷惑で不安なことは同じですから、無言の圧力があって、障害を持った息子を抱える一家は、その土地にいられなくなってどこかへ引っ越して行くしかなくなります。
親の過失の有無が問題ではなく、傷害や放火行為者の故意・過失にこだわらない・・病気だから故意も過失もないと言って無罪=放置→事実上親まかせにしていた心神喪失者等医療観察法のような隔離する法制度成立前の不備・運用の問題です。
(ただしこの法律は殺人・放火・傷害等一定の重要事件を起こした後の制度ですから、予防・・奇声を発していて不安だと言う段階では全く役立ちません。)

近代法理の変容9(破綻・日本固有の法理1)

殆どの経営者や親は裁判所の・・「もっと監督すべきだった」「監督不行き届きの過失がある」と言うこじつけ的過失認定論理に納得していませんが・・何をしていても駄目(過失がある)と言う裁判に対して、親や経営者としてはどうすれば良いのだと言う不満があります。
元々一家あるいは組織の構成員が何か不祥事を起こせば、その組織全体で責任を負うのは我が国古代からの法理でしたが、西洋近代の個人責任の法理によれば、子供がやった責任を親が負う・・従業員がやったことを別の人格者である経営者に負わせるのは論理的に無理があります。
しかも意思責任を問う近代法理によれば、その事件に直接関係していない親や経営者の責任を等には、何らかの、「故意または過失責任」を認定(擬製)してその責任を問わざる得ませんので、以下のような監督責任を問う法律になっています。
そこで裁判所は、経営者や親が「監督責任」を怠った・・と認定して企業等に責任を負わせる判決をするのですが、親や経営者・企業担当者に対する固有の責任認定・・過失があると言うだけで・・あなたが「悪かった」と端的には言ってませんが、「過失があるから責任がある」と言われている方はあなたが悪かったと言われているような感じを受けます。
親だから・・親方だから、仕事中の事故についてはあなたが、責任を取ってくれと言われた方が納得し易いのです。

民法
(責任無能力者の監督義務者等の責任)
第七百十四条  前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2  監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。
(使用者等の責任)
第七百十五条  ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
2  使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。
3  前二項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。
動物の占有者等の責任)
第七百十八条  動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない。
2  占有者に代わって動物を管理する者も、前項の責任を負う。

自分は親として、使用者として子供や従業員の不始末に対して責任を負う必要があるのは分るが、自分に過失があり、悪いことをした本人であるかのように言われると釈然としない国民が大多数です。
車で言えば、国が免許を与えているのを信用して運転手を雇っているのに、経営者が何故運転手の運転ミス・交通事故について「過失」責任を持つのだと言う意見もあります。
要は「あなたが悪い」と言うのではなく、
「従業員・あなたの子供の方が悪くてこう言う結果が出れば、組織体として、親としての責任を取るべきでしょう」
と言う私のような弁護士が説得をすると、古代からの日本社会の価値観自体を否定する人は滅多にないので、(自分が何か悪いことしたかのような裁判には納得していませんが)私の説明には納得して引き下がっているに過ぎません。

近代法理の変容8(社会防衛と人権擁護2)

浅野内匠頭の殿中での刃傷行為が仮に乱心した結果とされていても、それは故意にルール破った=幕府の掟破りをしたのではない・・その結果、お家取りつぶしを免れる可能性があると言うだけで、個人責任を全く取らないことまでは予定されていません。
この点は私の推測ですので、タマタマ自宅にある牧英正・藤原明久編著「日本法制史」227pを見てみると、公事方御定書では乱心の場合も殺人は死刑が原則ですが、被害者の宥免願いが考慮され(今でいう示談解決)、また連座・縁坐責任が免除されると書いてあります。
浅野内匠頭でいえば、犯人である彼自身が処刑(切腹を命じ)されても連座・縁坐・・累が及ばない可能性があったと言うことです。
意思能力のないものは責任能力がないから犯罪不成立と言う観念的なルール・・西欧で半可通的に発達した近代刑法の「理念」に従うと行為者も誰も責任を取らなくて良いことになって不都合ですから、我が国の江戸時代に成立していた刑事法制の方が合理的でした。
明治以降西欧の近代?法原理を導入した結果、俗にいう気違い・狂人・意思能力のない場合、すべて無罪放免→誰も責任を取らないで放置して来たのですが、これでは社会の安全が保てません。
政治責任者は相手・原因者が、悪意でやったか・気違いだったかは別として兎も角、(意思に関係のない天災であれ何であれ、)一定の被害から社会を守る必要があります。
為政者にとって、意思に基づくか天災によるかに関わらず結果としての国民の安全確保が最重要課題です。
マスコミ・文化人は、西洋伝来の意思主義にこだわるから、天災が起きてもこれに今後どのように対応するかの議論よりは、何でも人災に結びつけ・責任者探しに走りたがります。
個人責任主義の思想に毒されているので、何でも誰か個人の責任にしないと前に進まないと思っているのです。
日本政府・民族の分裂弱体化を狙うアメリカの置き土産に合致し、その後を狙う中韓両国の思惑に合致するからでしょう。
近代法の仕組みも同じで、何かあると無理に意思責任主義にこじつけるために雇用主や上司の監督責任にしていますが、(未成年者の起こした不法行為事件について親の責任を問うために、判例も親の監督責任を(擬制)認定していますが、実はその基準は恣意的です・・夜遊びを知らなかったと言っては親の監督責任を問い、知っていて何度も注意しても聞かないので困っていたと言うと、知っていながら注意するばかりでそれ以上何もしないで放置していた責任を問うなど、不良息子が外で何かした場合、親が結果的になんやかやと責任を問われる印象です。
責任感のある親の方が、こんな息子では知らない都会に追い出すと(そこで何をしても離れたところにいる親には責任がなく)やって行けなくなって世間に迷惑をかけるのではないかと心配して手元に置くと、却って監督責任を問われてしまうしくみです。
秋葉原事件で言えばもしも親と同居していれば、親は大変な社会非難を受けたでしょう・・どちらが良いか分りませんが、この大きな違いは個人の意思責任に還元して監督責任と言うフィクションを用いているところによると思われます。
こんな無茶苦茶なこじつけ裁判結果・・兎も角親に責任を問う結果になっても親が不服を言わないのは、監督責任と言う意思主義以前に「子供の行為は、親が責任を取るべき」と言う国民精神・・意思責任ではないと言う暗黙の合意があるからです。
交通事故があると、運転手のハンドル操作のミスや子供の飛び出しに気づくのが遅かったことに会社・経営者がどう言う監督責任があるか意味不明です・・。
裁判では、充分な教育が足りなかったと言うフィクションや、・・飲酒運転事件では、運転開始時のチェック体制が緩かったとか・・何でも責任を負わせる理由は付けられます。
このように何でも個人意思に責任を求める考え方や論理が、素朴な国民感情に合致していない・・あちこちで無理が来ています。
西洋近代の誤った個人の意思責任論にこだわる結果、交通事故が起きたり子供がいじめっ子になったりすると会社や親の監督責任と言う図式を作り上げてフィクション化しているのですが、国民はこのフィクション自体を納得して受入れているのではなく、古来からの団体責任思想を受入れているので、その基準をはみ出していない限り不満を言わない・・別の日本の法理で納得していることになります。

近代法理の変容7

共謀罪法案反対論者は、近代刑法の原理・法理違反と主張していることを紹介しましたが、現在は近代ではなく現在の法理に変容しつつあると書いている内に話題が横へそれていましたが、元に戻します。
2014/12/04「近代法理の変容6(故意・過失から業界標準へ)」の続きになります。
現在進行中の民法改正の方向性では、過失責任主義から行為時の標準取引基準に変容する予定になっています。
即ち意思責任主義が変容しつつあって民法もこれにあわせて改正しようとする動きになっています。
これは法律が変わることによって社会意識が変わるのではなく、社会意識変化にあわせて法も変わって行くべきことを表しています。
例えば医療事故で言えば、当時の医学水準でどうだったかが問われるのが前世紀以来普通になっていて、担当医の内心を探求して過失や故意を議論しても始まりません・・。
民法改正の動きは、こうした前世紀以来続いて来た社会変化の実態追認・・現在化のための改正でしかありません。
既存法理が社会を規定するのではなく、社会がその社会に応じた法理を生み育てて行くものです。
既存法理に当てはめて考え、固執する人は社会の変化を無視したい勢力となります。
刑法分野でも重大結果を引き起こしたのに意思責任を問えない場合でも、結果が重大な事件に限って医療観察法が制定されていることは09/08/06「保安処分13と心神喪失者等医療観察法8(入院通プログラムの重要性)」等で連載して紹介しました。
この法律によって医療とは言うものの、行為者・危険な人に対する事実上の社会隔離が進んでいます。
この医療観察法による強制医療は医療とは言うものの、重大結果に限るところが、結果責任を問うような仕組みになっていることや再犯の恐れの条項もあるので、本質的に医療と相容れないと言う批判・・、弁護士会や法学者からこの法律制定時に(・・近代刑法の確立した原理に反すると言う)厳しい批判が出ていました。
当時医療観察法は社会防衛思想・保安処分の焼き直しだと言う批判だったと思いますし、私も当時同じ懸念を持っていましたが、いま考えると社会防衛思想の行き過ぎで人権侵害になるかどうかこそが問題であって、人権侵害にさえならなければ良いのであって、その兼ね合いを考えながらの社会防衛自体は必要です。
車は危険ですが、ブレーキ等安全装置や運転の仕方次第で有用な道具になっているのと同じです。
共謀罪制定反対論・・文化人の拠りどころにする近代刑法の法理によれば、殺人事件を次々と起こしても精神疾患等で行為時に意思能力がない以上は無罪だからとして、その都度釈放・・野放しで良いのか?と言う社会の現実がありました。
犬は人間同様の能力がないから咬んでも仕方がないと言わないで、咬まないように躾したり放し飼いにしないなどの相応のルールが生まれています。
意思責任主義を近代法の基本と言う意見が多いですが、我が国では忠臣蔵で有名な浅野内匠頭による松の廊下の刃傷事件が元禄14年3月14日(1701年4月21日)ですから、フランス革命よりも約100年近く前でも、取り調べに際して「乱心致したのだな!」と助けるために問いただす場面が有名です。
吉祥寺の放火事件・・八百屋お七の場面も同じです。
ただし我が国では以前から繰り返し書いているように、庶民の実情からいろんな制度が発達して来た社会ですから、西欧のようにペルシャやローマから文字や言葉までラテン語を輸入して成り立っていた・・観念論から発達したものではありません。
昨日紹介したような社会実態を無視した観念論・反日暴動を引き起こした石原氏が悪い・・テロ行為より総理発言の方が悪いと言う・・観念論を振り回して有り難がっているのは、社会実態をみる脳力のない左翼・文化人だけではないでしょうか?

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