白石の朱子学原理主義→吉宗の現実主義3

放漫財政の後は緊縮政治というのは一応のセオリーですが、ギリシャやイタリアがEUからの緊縮指導に反発しているように、破綻寸前になってからの緊縮では緊急事態に対する追い打ちになる点で無理があります。
不景気で経営が苦しくなって銀行に借りる必要が生じたときに、逆に返済を迫られる・所謂「追い剥がし」に合うようなものです。
元禄直後の宝永の噴火で小田原藩は壊滅的被害を受け、領地の大半を幕府に一時返上して幕府直轄の救済事業に頼るしかないほどの大変な事態でしたが(その分幕府財政負担が増えた)、放漫財政後の物入りだったので大変な事態になりました。
財政赤字体質になれば、支出を削減するばかりではなく新規産業を起こさないと将来がないのですが、不景気で財政赤字(双子の赤字)となれば、金融緩和でカンフル注射しているうちに行政や産業界に頑張ってもらうしかありません。
これが現在の黒田日銀の金融緩和プラス紙幣大量供給・異次元緩和政策であり、この方式を米国もEUも遅れて採用しています。
萩原が今から約300年前に考え抜いて回閉会中による貨幣流通量を増やしたのはこの政策であり、この結果復興需要・・年末の噴火翌年の雨季が来て火山灰が流れ込んだことによる河川敷底上げ→洪水頻発を防ぐための酒匂川の浚渫工事などを円滑にしたのでしょう。
安倍政権後継者が前政権否定のためだけに景気腰折れなど無視して、財政赤字削減を錦の御旗にして、増税および金融引き締め(支柱に出回りすぎている日銀券回収に乗り出せば市場がどうなるかをそうているすれば分かります。
次期政権を引継いだ新井白石は財政危機回避一辺倒で成長による回復の発想がなく貨幣大量発行→奢侈が財政赤字の原因だからと緊縮政治に切り替えるのは、放映噴火後の疲弊状態を見ない現実無視の政策ではなかったでしょうか?
日本でもバブル崩壊後に引き締めを続けたから失われた20年になったという当時の金融政策批判論が根強いですが、新井白石が景気対策よりも「悪貨は良貨を駆逐する」・・奢侈=絶対悪という紀元前からの儒教倫理観の観念正義実現に邁進しすぎたのではないでしょうか?
今のように紙幣(金含有量皆無)の時代になれば、金含有率の議論は意味がない議論であると誰でもわかります。
実際その頃でも幕府中枢(朱子学)が時代遅れであっただけで、西国大名では藩札という紙幣を発行していたことは忠臣蔵、赤穂城明けわしに処理作業で藩札と幕府発行の貨幣の交換処理が出てくるのでおなじみです。
改鋳による貨幣流通量増加効果によって、元禄文化が花開いたわけではなく綱吉の浪費によるものでしたが、結果としてみんなが楽しめたし、現在の文化国家の基礎にもなっています。
日本が世界に誇る浮世絵の元祖菱川師宣が世に出たのもこのころでした。
菱川師宣に関するウイキペデイアです。

元和4年〈1618年〉 -元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

菱川師宣の経歴を見ると元禄以前から徐々に需要が広がっていたことがわかりますが、もしも綱吉のブレーンであったならば、苦しいからみんな質素倹約せよ!と金融引き締めをしていたら元禄文化の花が開かずに終わっていたでしょうし、歌舞伎その他文化の基礎固めの時間もなく緊縮し添えナーにゃく一辺倒・お芝居禁止等に進んでいたらのちの浮世絵の展開がどうなっていたかです。
文化は需要があってこそ花開くのですから・・新井白石の出世が遅く元禄文化を楽しんだ後に出てきたのは日本のためによかったのです。
紀元前の孔孟の倫理には経済活動拡大に応じて貨幣量を必要とする原理を知らなかった?でしょうから、貨幣の金含有量を減らすのは「良貨を駆逐する」という倫理だけで終わっていたでしょう。
古代中国からの帝王学として奢侈を戒める決まり文句にどっぷり染まった中国王朝の歴史を読むと各王朝崩壊の原因は、殷の紂王夏の桀王の酒池肉林の故事の焼き直し的表現・・奢侈に耽った描写の連続です。
名君玄宗皇帝も最後は楊貴妃に溺れたので国を誤ったという筋書きです。
白石は(秀才は過去の知恵を理解するのは得意ですが、現実を見る力が弱いものです)骨の髄まで叩き込んだ儒学教養の鬼として元禄時代の華美・奢侈を憎んだのでしょう。
帝王が奢侈に走るのと庶民が豊かな生活をするのとは意味が違う点を履き違えて?紀元前の教養に基づいて政治を実践し前職の荻原を批判していたようにみえます。
(以上は私の思いつき的の個人意見です)
「難しい学問はわかりませんが・・商売が成り立たないのは困ります」というのが、 特産品開発に成功していたか諸大名・現場の声だったでしょう。
諸大名や幕閣内の不満は専制支配強化や金融政策に対する不満だったとしても、御政道批判はリスクが大きいので、政権交代にかこつけて新井白石個人批判・コうるさすぎると言う点に集中していたことになります。
だから、妥協をゆるさない性質のような個人批判中心の記録が残っているのでしょう。
吉宗就任後の白石に対する待遇は苛烈を極めた・と言っても拝領屋敷を取り上げる程度でしかなく、退任後の歴代韓国大統領に対して満遍なく犯罪をでっち上げて処刑するような事をしていない点が日本的です。
吉宗政権成立後の将軍側近であった間部に対する処遇は、大名の地位を得ていたこともあって無役になっただけでしたが、新井白石に対する処遇は屋敷の移転まで要求されるなど厳しいものがありました。
諸大名の怨嗟が彼に集中していたことと、支持勢力との関係で白石の政策そのものを否定をする必要があったからでしょう。
間部詮房に関するウイキペデイアです(失脚の様子に関する部分引用)

詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し、失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)2

吉宗に外様大名の支持がなぜ集まったかについては(私の想像でしかないですが)専制支配強化の害・20日書いた通り異論が許されない窮屈な社会進行に対する国民不満を代弁する声が立場上外様大名中心に広がっていた面があるでしょう。
徳川家内部問題に過ぎない宗家相続に関する彼らの正式発言権は皆無ですから、幕閣・徳川政権内でもこれまでのエリート政治にネをあげる声が内々に広がっていたのを受けた勢力がこれに呼応したと見るべきでしょう。
20日に紹介した寛政の改革・定信の規制やりすぎに対する不満が落首で批判されたので歴史に残っているのですが、白石に対する不満も当時から起きていたが、小気味よく批判する文化が育っていなかったから不満が表面化しなかったように思われます。
もしかしたら、貨幣改鋳によって流通貨幣量減→急激なデフレになって現場を知る諸大名が困ってしまった現実もあったでしょう。
新井白石の正徳の治に関するウイキペデイアです。

正徳金銀の発行
荻原重秀は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(貨幣改鋳による差益)を生じ、一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しく不釣合いになりインフレーションが発生していた。
・・・・白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたもので、これによってデフレーションが発生した[2]。
元禄金銀・宝永金銀(あわせて金2545万両、銀146万貫)と比較すると、正徳の治の間に行われた改鋳量は正徳小判・一分金合わせて約21万両である[2]。社会全体のGDPが上昇する中で、通貨供給量を減少させたことは、デフレを引き起こした[2]。

綱吉時代には、幕府の資金源であった金銀の産出量が減っていた上に宝永の噴火など天災もあって幕府財政は危機に陥った状態でした。
コメに頼り不足分を金銀産出に頼る幕府の経済構造に無理が出たのですから、企業が売れ筋商品に翳りが出れば次の売れ筋商品開発にとりかかるように、幕府財政難対策としては収益源多様化努力すべきだったと思われます。
紀元前発祥の儒学では、こういう経済学的視点がないので朱子学エリートがこの後で主導する寛政の改革や天保の改革は、すべて質素倹約や思想統制政策中心で需要喚起どころか抑制策であったでした。
こうした改革をする都度、商人等新興層の不満を強め幕藩体制の足元を掘り崩すことになっていった時代錯誤性を書いていきます。
金山銀山等を幕府に抑えられている上に、貨幣経済が早く発達した西国大名の場合、コメに頼る産業構造に早くから無理が出ていたので・忠臣蔵で知られる赤穂藩の塩のように特産品にシフトするなどの努力してそれぞれ一応の成功をしてしていました。
幕府も収入源多様化で金銀に代わる収益源を工夫すべきだったのですが、これをせずに・・幕府直轄領はもとより、領地替えの多い譜代大名も戦国大名と違い地元とつながっていないので、地域経済を守る気概が低い上に、いつ領地替えがあるか不明では長期間かけた特産品開発は無理だったのでしょう。
旗本領や譜代大名しかいない千葉県の場合、約300年間なんらの特産品も生まれていません。
せいぜい幕府権力に頼る印旛沼や椿の海の干拓事業など、旧来型コメ生産拡大策程度でした。
ただし、千葉の場合領主による政策というよりは、江戸下町の洪水防止政策のおかげで利根側の付替によって利根川本流の海への出口が銚子になったために銚子河港が東北地域物産の江戸への物資流入口となったため、銚子〜野田方面にかけて大消費地江戸への流通路として銚子のヒゲタ醤油や、野田の現在の)亀甲マン等の醤油生産基地として商品経済の流れにうまく適応できました。
伊能忠敬(地図作製の巨費をほとんど彼が私費負担しました)が佐原から出たのは、この流域経済の発展によるところが大きかったでしょう。
現在でいえば、過密な東京に新空港を作れないので空き地の多い成田に新空港が立地したおかげで、千葉県に巨大スポットができた幸運(千葉県が誘致運動に成功したのではなく逆に激しい反対運動していたのです)と同じです。
ついでに書いておききますと、銚子はもともと飯沼観音の門前町だったらしいのですが、利根川の付け替えによって、東北〜江戸への海運物流の入り口になったことによって、産業集積によって生産基地(漁港化その他)に変身成功していたように成田も不動様の門前町でしかなかったのですが、日本の高度成長に合わせて第二空港が必要になったものの過密都市東京には用地がないためにいきなり成田市郊外に空港ができたことによって、今や空港の町として知られるようになっているのは歴史の不思議さです。
白石に戻しますと、1707年の宝永の噴火等(災害救援資金)ですっかり参ってしまった江戸の活気を取り戻すために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
白石に戻しますと、綱吉の浪費による経済破綻回避のために、萩原は貨幣を大量発行して消費契機を盛り上げ一時的に幕府収入を増やしたのは一石二鳥でもあったのですが、(今の金融政策同様)金融だけに頼ったのを咎めるのは後講釈であって、すでに拡大していた商取引決済に必要な貨幣の供給拡大は必要なことでもあったのです。
貨幣が足りなくなるなんて歴史上未経験のことで、マネタリーベースがどうのという経済学もない(私が知らないだけで当時も貨幣論などの研究者もいたのでしょうが・・)時代に、萩原は独自の工夫力(「独学で考えた」とどこかで読んだ記憶です)でいにしえからの教え(貨幣水増しを禁じる倫理)に逆らい個人の責任(多分考え抜いて)で貨幣大量発行に踏み切ったのはよくやったというべきでしょう。
荻原重秀に関するウイキペデイアです。

貨幣改鋳
元禄時代になると新たな鉱山の発見が見込めなくなったことから金銀の産出量が低下し、また貿易による金銀の海外流出も続いていた。その一方で経済発展により貨幣需要は増大していたことから、市中に十分な貨幣が流通しないため経済が停滞する、いわゆるデフレ不況の危機にあった。それをかろうじて回避していたのが将軍綱吉とその生母桂昌院の散財癖だったが、それは幕府の大幅な財政赤字を招き、この頃になると財政破綻が現実味を帯びたものになってきていた。そうした中で、綱吉の治世を通じて幕府の経済政策を一手に任されたのが重秀だった。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない、という国定信用貨幣論を200年余りも先取りした財政観念を持っていた。従前の金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行することができれば、市中に流通する通貨を増やすことが可能となり、幕府の財政をこれ以上圧迫することなくデフレを回避できる。そこで重秀は元禄8年(1695年)、慶長金・慶長銀を改鋳して金銀の含有率を減らした元禄金・元禄銀を作った。訊洋子が著した『三王外記』には、このときの重秀の決意を表した「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を伝えている。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

融通むげと(田中耕太郎補足意見)ご都合的原理主義2 

以上見てきた通り、韓国が国家として賠償請求権放棄した以上は、国家権力の一部である裁判所が対日請求を受理すること自体が論理矛盾であり条約違反です。
以上見てきた通り、韓国が無償援助等と引き換えに国家として賠償請求権放棄した以上は、国民の損害に対する国内法整備すべきであり、それを怠っている韓国政府に対する不作為の違法という損害賠償で処理するのが筋でしょう。
らい病でも血液製剤でも石綿被害でも、最初から違法ではないが、一定時期以降は政府や企業の不作為の違法が追及されます。
憲法違反→条約無効論に関する日本の経験で言えば、日米安保条約が憲法に違反するかどうかの判断回避した砂川判決が妥当な扱いでしょう。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816

昭和34(あ)710
事件名
日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反
裁判年月日  昭和34年12月16日 法廷名 最高裁判所大法廷
裁判要旨
・・・・
八 安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。
九 安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲であるか)前提問題となつている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。

原理主義的思考の誤りについては、田中長官が以下のように同判決の補足意見で述べています。
なんでも憲法問題にする原理主義的法律家に対する警鐘でもあったでしょうが、進歩的文化人?には知られたくないことだったからか、この論旨をテーマとして論じた文献を見たことがありません。
学生時代以前の判例については教科書での紹介しか知らない・・私は(高齢化で仕事が暇になったこととネットの発達のおかげで原文に簡易に当たれるようになって)今回初めて目にしたものです。

裁判官田中耕太郎の補足意見は次のとおりである。
私は本判決の主文および理由をともに支持するものであるが、理由を次の二点について補足したい。
一、本判決理由が問題としていない点について述べる。元来本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭である。事案は刑事特別法によつて立入を禁止されている施設内に、被告人等が正当の理由なく立ち入つたということだけである。原審裁判所は本件事実に対して単に同法二条を適用するだけで十分であつた。しかるに原判決は同法二条を日米安全保障条約によるアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題と関連せしめ、駐留を憲法九条二項に違反するものとし、刑事特別法二条を違憲と判断した。かくして原判決は本件の解決に不必要な問題にまで遡り、論議を無用に紛糾せしめるにいたつた。 私は、かりに駐留が違憲であつたにしても、刑事特別法二条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてかりにそれが違憲であるとしても、とにかく駐留と- 6 -いう事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。 およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであつても、一応その事実を承認する前提に立つて法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。違法な事実を将来に向つて排除することは別問題として、既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である。それによつて、ある事実の違法性の影響が無限に波及することから生ずる不当な結果や法秩序の混乱を回避することができるのである。かような場合は多々存するが、その最も簡単な事例として、たとえ不法に入国した外国人であつても、国内に在留するかぎり、その者の生命、自由、財産等は保障されなければならないことを挙げることができる。

以下長文すぎるので引用しませんが、関心のある方は原文に当たってください。
このように韓国の主張する現在の法論理というより人権屋特有の原理主義は、鯨が哺乳動物であるから殺戮を許さないという反捕鯨団体同様に一部論理を拡張している・幼児的主張であることが明らかです。
論理には例外が必要ですが、それにはしっかりした価値観による一定の融通無碍性が必要です。
融通無碍と御都合主義的原理主義との違いは、実態に即した結果的に正義であるかどうかの価値判断を経た意見なのか、相手を批判をするための揚げ足取りかが分かれ目ではないでしょうか?
生活基礎基盤が違う人が違った生き方をするのは「お互い好きにしたら・・と寛容の精神で生きていけるかの違いではないでしょうか?
ゆるい価値観というと基準がないように見えますが自己の主観的基準を相手に押し付けない懐の深さの違いではないでしょうか?
相手批判するのが目的(一種のクレーマー的性格)の人は、硬直的原理主義の批判を受ける行動になりやすいのでしょう。
いわゆるPC・・一見して正義を標榜する行きすぎた批判が最近問題になって来たのは、半可通による「箸の上げ下ろしに類する」ことまで批判の声を挙げ、(ま、言えばクレーマーです)これをメデイア(に限らネット上の炎上騒動もこれの仲間です)が応援して吊るし上げ騒動を引き起こすようになったことによるでしょう。
話題を身分の融通制に戻します。
もともと日本では当事者の合意で婚姻し離婚する仕組み(三行半で知られています)で公権力(どころか集落リーダーの署名不要)というかっちりした権威の介在不要の制度設計(社会規範)でした。
生殖に由来する親子関係でさえ「子」であることによる法効果の相違に合わせて血縁関係重視分野でも嫡出子と非嫡出子の違いを決め、(平成25年最高裁判例でこの差別を違憲としたので法改正されましたが)格式に関する場合には「猶子」家督相続には養子制度という融通の効く体制を構築してきました。
ちなみに非嫡出子差別違憲判例の妥当性は、憲法の平等原則が貫徹されたという原理論によるのではなく、社会実態の変化に合わせた結果と見るべきでしょう。
嫡出子非嫡出子の相続分の違いは、明治30年頃の法制定当時農業人口90何%(うろ覚えの直感的数字です)の時代・家にある子と家の外にある子とでは家産の維持発展に関する貢献度合いがが99%(うろ覚えの直感的数字です)の違いがある時代を前提にしていました。
これが敗戦直後に家の制度解体による見直し時にも修正されなかったのは、家制度という観念体系によるのではなく、世帯単位の分離が進んでいなかった生活実態によるでしょう。

融通むげとご都合的原理主義1

我が国・・・中絶で言えば水子供養するなど、個人のこころの領域で処理することであり、これをしないことを理由に公的不利益どころか、宗教的社会的不利益も受けません。
あちこちのお地蔵さんを大事にするかどうかもそれぞれの気持ち次第です。
これを画一的国家強制が好きな民族の場合、胎児はすでに生命体である→殺人の一種という論理構成して犯罪という方向性に持っていく流儀です。
クジラは魚類ではない→捕獲を許さないという変な論理になると欧米の考え方のご都合主義がわかると思いますが、妊娠等は神の領域であるのにこれを人為的に変更するのは許さないというのは時代遅れなので(異宗教に強制できないので)生命侵害という法論理化に成功している例です。
日本の場合、子供は「天からの授かりもの」大事にすべきという感謝の念があり、古代から子供や小さな生き物すべてをとても大事にする社会でしたが、一方で動物を食用にすることを許さないという価値観がありません。
仏教導入で不殺生の戒律が入っても、鳥類や魚類は除外でしたし、イノシシを山クジラと称して肉を食わせる店があったり、般若湯と称して僧侶が飲酒したり、自由奔放というかルールに対して柔軟でした。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9316に広重の有名な名所江戸百景 びくにはし雪中(せっちゅう)」絵の説明が出ています。

この絵でまず目に飛び込んでくるのは、左に掲げられた「山くじら」(②)の大きな看板です。山くじらは、猪(いのしし)の肉、別の名は牡丹(ぼたん)肉。この店は牡丹鍋で人気の「尾張屋」さんといわれています。当時、表向きは食べられていなかった獣肉ですが、実は「薬喰(くすりぐ)い」と称し、滋養をつけるという名目で肉を食べる人々もいました。他に鹿肉(紅葉肉)、馬肉(桜肉)も食べられていたとか。

草花も生き物ですし、毎日庭で生き物として手入れすると草花もこちらの気持ちに応じて生き生きとするものですが、季節がくればまとめて引き抜いて、次の季節の草花に植え替えるのを厭いません。
生命があるからと日々大事にしている気持ちと引き抜く気持ちが矛盾しない(とはいえ、一日延ばししたい、心情に苦しみますが・・)のが不思議です。(私だけかな?)
日々の食卓を賑わすものは肉類に限らず全て元は生命体です。
このように、一定の矛盾を融通無碍(生命尊重は例外を許さない絶対論理ではない)に受け入れていくのが日本人の特殊性と言うべきではなく、全ての摂理ではないのでしょうか?
キリスト教の神学(ドグマ・原理主義)→その流れをくむ西洋流の法論理は硬直的すぎて生き物のあるべき原理としてどこか無理があるよう思われます。
韓国では徴用工や慰安婦問題を人権侵害だから消滅時効がないといい、個人の人権侵害被害を国家間で決めるの許されないという論理を進歩系?日本学者もメデイアも全く批判しません。
しかし強制労働や慰安婦強制は重大な人権侵害であるから時効がないという論理は、もっと重大な生命侵害・殺人罪強姦罪等に時効を認める韓国を含めた世界中の法体系と矛盾しています。
要するにご都合主義的人権屋の原理主義です。
国家間約束は国家が守るべきであり、韓国裁判所も韓国国家機関の一部である以上国家間約束を守る義務があるはずです。
国家内でお互いに独立性を尊重するのは国家内部の権力分配の論理であって国外に対して国家権力として不統一権力行使をする論理ではありません。
条約精神に抵触する国内法令があれば、それを改正する義務があります。
憲法に違反するかどうかは国内統治の原理であり、これに違反すれば、国内法だけで処理できる場合は純粋な違憲無効かどうかの判断で良いでしょうが、対外効果の生じる条約の場合、関係者の政治責任の問題であって国際協定の有効性を国内最高規範である憲法違反かどうかで論じることは許されません。
対等な主権国家間の協定・条約の解釈は、国際司法裁判所その他中立国の仲裁等によるべきでしょう。
比喩的な例をあげれば、外国人に危害を食えないようにするという条約を結んでおきながら、「外国人を殺せ」という国内法を温存したままにしておいて、この法律があるので外国人殺害犯を処罰できないというのでは条約違反です。
慰安婦合意をしながら、公共空間に慰安婦像設置を許可するのは矛盾ですから、自治体の勝手ではなく自治体が条約を守るように公園等の利用関連法令改正(自治体は法令の範囲での自治があるにすぎません)するのは国家義務です。
日本自治体の権限は以下の通りです。

憲法
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

個人で言えば契約しておきながら「家内が承知しないので」と契約履行しないことが許されるか!といえば分かり良いでしょうか。
家庭内で奥さんの発言権が強い・・女性尊重で立派かどうかの問題ではなく(軍部がいうことを聞かないとか、野党が承知しないとか)発言力が強いならその承諾を得てから契約署名すべきことであって、署名した後に契約不履行の口実に使うのはルール違反です。
TPPで言えば農民等貿易協定によって不利益を受ける分野との地道な対話の上で対外交渉すべきで条約を締結してから「国内で納得を得られないから条約を守らない」というのではまともな交渉相手・一人前とみなされなくなるというべきでしょう。
政権が変われば前政権の約束不履行が許されるかの問題では、ロシア革命後新政府ソ連がこの口実を使ったままほっかむりをしてきましたが、ソ連崩壊後、後継の現ロシア共和国が旧ソ連時代の債務履行をしない限り国際社会復帰できないことから、ついにその約束を履行しました。
このように政権が革命的に変わろうと国際社会の信用を重視する限り、過去の国家間約束を守るべきが国際法理です。
https://www.afpbb.com/articles/-/3122795

ロシア、旧ソ連時代の対外債務を完済へ
2017年3月26日 18:03 発信地:モスクワ/ロシア [ ロシア・CIS ロシア ]
1991年のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行責任を負ってきた。債務の大半は「ペレストロイカ(改革)」で民主化が推進された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト(債務不履行)に陥った。ただ、2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、06年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を返済した。

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