国民2(旧刑法1)

ところで法律用語として登場する「国民」と「臣民」「人民」の関係を見てみると、明治憲法〜敗戦まで、我が国では、臣民という用語の他に自由民権運動で憲法制定運動が盛り上がる前の明治14年旧刑法で、すでに「国民」という熟語が出てきます。
ということは、その何年も前から国民という用語が議論対象になっていた(・・江戸時代までには、公卿〜士族や商人農民・・庶民を含めた総合概念)憲法制定運動当時には法律専門家の間では常識化していたことがわかります。
https://ja.wikisource.org/wiki/
刑法 (明治13年太政官布告第36号)

1880年
公布:明治13年7月17日
施行:明治15年1月1日(明治14年太政官布告第36号による)
廃止:明治41年10月1日(明治40年4月24日法律第45号刑法の施行による)
沿革(法令全書の注釈による)

第3節 附加刑處分
第31条 剥奪公權ハ左ノ權ヲ剥奪ス
一 國民ノ特權
二 官吏ト爲ルノ權
三 勲章年金位記貴號恩給ヲ有スルノ權
四 外國ノ勲章ヲ佩用スルノ權
五 兵籍ニ入ルノ權
六 裁判所ニ於テ證人ト爲ルノ權但單ニ事實ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト爲ルノ權但親屬ノ許可ヲ得テ子孫ノ爲メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト爲リ又ハ會社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ權
九 學校長及ヒ敎師學監ト爲ルノ權

上記の通り、旧刑法31条には国民の用語があります。
旧刑法とは現行刑法明治四十年刑法施行まであったものです。
この時点で既に「国民」という用語が採用されていたことに驚きますが、旧刑法制定の経緯を07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載していますが、2006年7月8日のコラムを見直してみると、

「ボワソナードは、来日当初は自分で草案を作成せずに、気鋭の若手に講義する御雇い外国人そのものだったのです。
この講義を聴いた日本人が刑事関係法典の編纂事業に携わっていたのですが、うまく行かず、明治8年ころからボワソナード自身が草案作成に関与するようになったのです。
この作業は、フランス法を基礎としながらも、ベルギー、ポルトガル、イタリア各国の刑法案を参考にして編纂されたものでしたから、この刑法典は、ヨーロッパ刑法思想の最先端を集大成した法典化であるとも言われています。
この法典は約5年の歳月を経て結実し、明治13年(1880年)に太政官布告され、明治15年(1882)年施行されました。」

とあり、5年間も議論にかかったのは、ボワソナード民法が法典論争を引き起こしたように、何を刑事処罰し、刑事処罰しないか、且つ個々の刑罰をどの程度にするかは、他犯罪との比較が重要で民族価値観を敏感反映するものですから、国内価値観との調整などに時間をかける必要があったからでしょう。
例えば、古代から天皇家に対して弓をひくなど恐れ多くて許されないのは常識として武家諸法度その他法令が発達しても刑罰対象になるかの法定をしていませんでした。
例えば伊周の失脚の直接のキッカケは、(一般化されていますが、史実かどうか不明です)子供じみたことですが、女性問題で花山法皇の牛車に弓を射かけたというものでした。
朝廷に対する不敬罪を規定した御法度がなかったように徳川体制に刃向かう・謀反は当然許されない大前提でしたが、そういう常識的な御法度がなくて当然の社会でした。
これらも刑法で処罰関係が条文化されたものです。
もう一度旧刑法を見ておきます。

第2編 公益ニ關スル重罪輕罪
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第2章 國事ニ關スル罪
第1節 内亂ニ關スル罪
以下略

人民〜国民1(私擬憲法)

「市民」を名乗るのは、トキの政府から距離を置く立ち位置を強調するには西洋文明由来なのでおしゃれな印象・・人民より語感印象が良い程度のことではないでしょうか?市民の対語かな?人民についてウイキペデイアで見ておき見ます。
何も知らないで余計なこと言うなと市民活動家に叱られそうですが、ま、いつも書いているようにこのコラムは、思いつきコラムで専門家の論文ではないので、間違いがあればご容赦ください。
ウイキペデイアで見た限りの付け焼き刃知識ですが、人民という熟語は中国古代からあり、共産主義者のオリジナル発明ではないようです。
人民に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

文献上は戦国時代の『周礼』や『孟子』に既にみられる。『周礼』には、君主や群臣などの支配者と相対する被支配民としての「人民」の概念が述べられている。『孟子』の「盡心下」篇によると、孟子曰く、「諸侯の宝は3つある。土地・人民・政事である。珠玉(真珠や宝石)を宝とする者は、殃(わざわ)い必ず身に及ぶ。」(孟子曰、「諸侯之宝三。土地・人民・政事。宝珠玉者、殃必及身。」)
日本語の文献においては、古く8世紀の『古事記』、『日本書紀』の中に現れる。当時は、「おおみたから(大御宝)=天皇の宝」・「みたから」、「ひとくさ(人草)」という和訓が当てられていた。
「おおみたから」の訓をあてる語は、他に「黎元」や「庶民」もあり、「ひとくさ」は語義のまま青人草(あおひとくさ)と書く例がある。同じ意味で使われる言葉には、「衆人」「世人」「百姓」「諸人」「万民」などがある。「人民」は『古事記』に少なく、『日本書紀』と六国史において一般的な語であった[1]。
「人民」は特別な用語ではなく、君主の統治対象という以外の限定を付けない幅広い概念であった。たとえば「庶人」・「庶民」は無位か低い位階の人々を指し[2]、「平民」は奴婢・浮浪人・蝦夷を含めない身分的な概念だが[3]、「人民」にそのような線引きはない。また「人民」は、統治の良否や自然災害・事件の影響で富んだり悩まされたりする文脈で記され、「人民反乱」のような使用例は古代にない[4]。権利や行動の主体にはならず、もっぱら受け身の文脈で用いられた。

我が国でもこの流れで青人草や庶民等の和語になりこれが中世には土民となり、江戸時代には百姓となり、基本的に支配対象としての呼び名であって、時に土一揆、百姓一揆などの呼び名にもなっていきます。
政治の対象を表現する概念だった「人民」を政治主体者概念に一変させたのが、リンカーンのゲテスバーグ演説だったようです。
いわゆる「人民の人民による人民のための政治」(「government of the people, by the people, for the people」) です。
この演説が、人民をそれまで政治の対象でしかなかった人民を政治主体者と宣言したことになります。
これを受けた明治の自由民権運動期には、運動家の間では「人民」が流行し、憲法草案華やかなりし頃には、多くの私擬憲法では「人民」という用語を主張したようです。
例として植木枝盛の憲法草案の一部を見ておきます。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51592

自由民権運動の潮流から私草された憲法案には、基本的人権を認め、国民主権を明確に定めるものも少なくなかった。なかでも最も急進的だとされるのが、植木枝盛(えもり)の『東洋大日本国国憲法按』(1881年起草)である。
植木の憲法草案の先進性は、全220条中36か条におよぶ人権規定と、第72条に示された政府への抵抗権に表わされている。
第5条「日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス」、第42条「日本人民ハ法律上ニ於テ平等トナス」、第49条「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」と人民の自由・平等を保障。
第72条には「政府恣(ほしいまま)ニ国憲ニ背キ 擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ 建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ 日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」と定めて、国民による革命の権利まで認めている

上記の通り民間の草案は今でも普通にありそうな(政府に気兼ねせずに考えればこうなるのが普通ということでしょうか?)人権重視草案でしたが、人民→政府転覆の権利まで突き進む点で政府の警戒を受けたらしく、すでに明治14年旧刑法で採用されていた「国民」用語も使わずに政府案は「臣民」という後戻り的発想の定義になってしまったようです。
明治憲法で「臣民」という用語が採用された後、人民用語は臣民という用語を不当とする反抗的ニュアンスで使用されたり反政府運動家愛用の特殊用語化し、なんとなく一般人が使いにくくなり、社会の片隅に追いやられていったようです。
現在用語法もこの延長上にあり、人民という響きになんとなく現行秩序否定したいイメージを感じるのはこうした歴史に由来するのかもしれません。
また私が育った戦後から昭和終わりころまで「我々人民は〜」と叫んでいた人たち自身も、現秩序に対する否定的感情をそのまま表す人が普通でした。
これが余計社会から孤立化を進めたので現在日本では「人民」を使う人が減ってしまった原因でしょう。

市民と人民〜地球市民?2(白樺派)

日本のNGOは出自・スポンサーの多くが日本であるという事実によって、国際的発言力があり国際的行動力(日本のパスポートは世界最強と言われています)が担保されている点を軽視すべきではないでしょう。
一方で世界市民・・一方で日本の経済力や日本人というだけでイメージされる信用力を背景に事実上日本の良心代表のような発言や発表しているのは、良いとこどりではないでしょうか?
武者小路など白樺派の同人らで「新しき村」を作って移り住みましたが?彼らお坊ちゃんたちの理想主義は、それをやれる財力を背景にしていた点でほとんどの日本人はその偽善性を内心感じていたのではないでしょうか。
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%8D%E6%9D%91-25865

〈新しき村〉の精神は,自他を犠牲にすることなく自己を生かすことにあり,村民は,みずからの労働によってみずからの生活を支えたうえで,自由を楽しみ,個性を生かせる生活を全うすることをめざした。ロシア革命の成功による社会主義思想の普及,国内の政治的経済的混乱,大正デモクラシーの運動など多様な社会的要因に,実篤のトルストイズムが結合した白樺派人格主義の実践は,とくに青年層に大きな反響を呼び起こした。

白樺派に関するウイキペデイアの解説です。

大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した
同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている[3]。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。
彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であり、トルストイの影響を強く受けたことや有島武郎がその晩年に自分の財産を小作人に分かち与えたこと、武者小路の「新しい村」の実験に見られるような急進主義にもそうした傾向はよくあらわれている[4]。

私自身青春期に思想背景など知らずに武者小路を中心に白樺派の文学を愛読しましたが、一方で財閥系の子弟中心でおぼっちゃん文学の批判もあったかも知れませんが、お坊ちゃんの良さが横溢してい文学作品が私の青春期の心を捉えたのかもしれません。
いわゆる空想的社会主義に対する偽善性を抱くのと同様の無意識の疑問もあったでしょうが、若い頃はともかく白樺派の青春もの?に惹かれて愛読していました。
その後大人になってこの種の文芸を卒業していたので遠い歴史事実と化していたのに、弁護士になってから武者小路実篤の死亡記事が出て、驚いたことがありました。
10年ほど前になるかな?大阪へ行ったついでに奈良ホテルに2泊した時に、夫婦で新薬師寺に詣でた帰路偶然志賀直哉旧宅を見学したことがあります。
子供部屋に気を配った今風の斬新な考えに感じ入ったものですが、大正デモクラシーの陽光を目一杯吸収した時代の申し子らの集まりだったのでしょう。
ただし、文学的にはそうですが、絵画方面では椿貞夫など白樺派文学主流と出自が違うイメージで、それほど一般化しなかったのではないでしょうか?
民族主義対グローバリズムの潮流に話題を戻します。
英国EU離脱の動きは、まさにグローバル化行き過ぎに対する英国民の我慢の限界を示したものですが、これに対して時代錯誤の動きであるかのような批判を滲ませるメデイアなどのトーンは、彼らにとって親和性のある世界連邦化=非武装社会実現の夢に逆行する点で許しがたいのでしょうか?
中国や旧ソ連のように巨大権力を握った方は国内粛清やりたい放題になりますが、世界支配していない限り、香港の場合、国外の目があるのでまだ政府も弾圧するには思い切ったことができないようですが、これが世界支配になると世界中がウイグル族のような弾圧を受けても逃げ場がなくなります。
左翼系文化人はソ連の厳しい粛清にだんまりを通し、中国の文化大革命という狂気の粛清に対しては手放しで賛美してきました。
メデイア界は基本的に民族主義を毛嫌いする傾向があり、その延長で英国のEU離脱を馬鹿げた行動であり時代錯誤であるかのような批判的論調が普通です。
ところが、ロシアや中国の民族主義的主張や行動が前面に出た周辺領土領海拡張主義や威嚇行動には何も言いません・・一刻も早い世界国家が出現のためにはやむを得ない一里塚という評価なのでしょうか?
でもこういう国々が世界支配するときの状態って、本当に怖い気がしませんか?
日本は古代から合議制の国であり幕藩体制も大名の連合体のヘゲモニーを徳川氏が握っている程度でしたから(徳川政権内も合議制)独裁による恐怖政治の経験がありません。
いわゆる大陸の中央集権体制自体に馴染みがないのです。
イギリスのEU離脱の方向性は、海洋国日本にとって将来の可能性を残す試みであって、好意的に見たい・・育って欲しい気持ちの日本人が多いのではないでしょうか?
日本の進歩的文化人はソ連支配が最上という刷り込みで育ったDNA・・三つ子の魂百までと言いますが、ソ連創設の共産主義国家の世界拡大の道具思想・・同時革命論〜コミンテルンの運動を進めていた本家ソ連が崩壊し、その後継政権のロシアは民族主義の権化みたいな行動をしています。
本家本元のロシア・プーチンの行動原理は、民族主義一辺倒に戻っている・・コミンテルン指令?はもともと自国勢力伸長のための道具思想だった本質を表していますが、ソ連勢力拡大のお先棒担ぎこそ見果てぬ夢・・深層意識への埋め込みがまだ効いているのではないでしょうか?

都市国家(天守閣復元と地域密着度)2

四国各地は、秀吉の四国征伐後に入封した大名(蜂須賀家や)関ヶ原で敗軍の将となった長宗我部氏の支配地であり、主に関ヶ原後に各地に徳川家の論功行賞によって大名家が入ってきて支配した・・地元民信条としては徳川体制下での反徳川機運の強い地域だったことになります。
特に高松城は、全国的に知られた大規模な天守閣が自慢のようですが、自慢の天守閣なのになぜ今だに復興できないかをネットで見ると、もともと地元に保存意欲がなかったようで、明治に入って解体されてもともとなくなっていたもので、米軍空襲によって無くなったものではないようです。
入封した大名家は、四国の抑えとして徳川一門松平氏の入封によるもので、もともと敵地占領支配の象徴的役割を担っていたので現地民に威容を示す必要から天守閣もご大層なものにしたように見えます。
山内一豊の場合、掛川から土佐への移封後長宗我部遺臣のいわゆる一領具足が怖くて、何年も領地入りできなかった故事が有名ですが、山内家だけでなく四国中の大名家全部が占領軍の気分そのままで地元民敵視・警戒のままで、幕末まできたような印象です。
そういう目で見れば、徳島の蜂須賀家も秀吉の四国征伐の恩賞でもらったもので地元自然発生的武士団ではない・・徳島に行っても城跡があるのみで、天守閣が復元されていません。
よそ者支配といえば、和歌山城も徳川御三家でよそ者ですが、現地地生え大名を滅ぼしての入封ではない点の違いでしょうか?
徳川家家臣団が付いてきたでしょうから、支配層上部は地元代表の武士団でないものの、紀ノ川平野は根来寺や高野山領など宗教系支配地が入り組んだ地域で(雑賀衆、根来衆という戦闘プロ集団が有名ですが・・)地生えの戦国大名=一円支配大名が育たなかった?結果、国規模の支配層がいなかった空白地に入り込んだので平和裡に入れ替われたのかもしれません。
地元小豪族の乱立状態のお国入りの場合、佐々成政の肥後国支配の失敗の例にあるように、地元小豪族・国人層との折り合い能力にかかってきます。
上記のように紀伊家の領地は複雑な地域を包含した特異地域でしたが、(穀倉地帯の紀の川沿いだけでなく、紀伊半島全体で見るとほぼ海外線中心ですから、産業的には九鬼水軍を筆頭にした漁業専門地域で、陸戦向けに特化している三河武士団にとって最も不得手な産業構造の地域です。
にも関わらず現地融和が進んでいたのは、多分紀伊家初代以降の政治力が高く地元融和に成功したのでしょう。
「てんてん手毬の手がそれて・・紀州の殿様お国入り・・・・」の童謡が知られるように、敵意に囲まれてのお国入りではなかったのでしょうか。
子供の頃になんとなく耳に残っている童謡を思い出してここに書きましたが、念のためネット検索して見ると意外に新しいようです。
毬と殿さま   作詞 西條八十  作曲 中山晋平
とわかりました。
昭和4年の作品らしいですが、戦後全盛期だった作詞家ですから、子供の頃から耳に残っているわけで、江戸時代からの地元民の気持ちを表すとは言い切れませんが、東京生まれの西條八十が、紀州の殿様と手毬唄をどういう時代考証あるいは直感で?結びつけたか不明ですが、人口に膾炙するような童謡の詩にしたのは、紀州の殿様に対するなんらかの好感度があったのでしょうか。(全く根拠ありません)
日本では異民族支配を受けたことがないので、上は天皇から下は路上生活者まで同胞としての一体感は古代からのものですが、西洋では民族国家概念はナポレン戦争に始まる新しい概念にすぎません。
日本書記の仁徳天皇の「民の竈」を気にかけた故事は事実かどうかが問題ではなく、その時代の書物にこのようなことを気にかけた人徳のある方であったと書いていることが、こういう人こそ「帝王の鑑みである」とする価値観で編纂されている・民族的価値観の基礎が古代からあるという事実です。
これが平成天皇が重視した同胞意識・・絆重視の姿勢につながっているのでしょう。
明治憲法前文も似たような趣旨・・・祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民・・で貫徹しています。
大日本帝国憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・

ナポレオン戦争以降は近代植民地(市場獲得)戦争に勝ち抜くための総力戦には支配対象であった土民の協力が必要なので、単なる支配対象ではない・民族一緒にがなバルという掛け声が必要になり、民族意識を便宜上持ち出し利用してきたに過ぎないので未だピンと来ない人が多い・・希薄なのでしょう。
この代表格で、まだ民族国家より地元中心意識が強いのがイタリアというイメージです。
現在のEU設立は過剰民族国家意識緩和のための揺り戻しではないでしょうか?
この視点で見れば、13日英国の総選挙で保守党大勝→ブレグジット・EU離脱条件取り決めないままの離脱が現実化してきましたが、ナポレン戦争以前から島国の関係で大陸諸国より早く民族性が形成されていたイングランド(同じキリスト教社会に入っても国教会をローマ法皇から独立させるなど)では、もともと民族意識強固なのでこれに我慢して付き合ってきたが、我慢の限界がきたということでしょう。
離脱するための事前交渉がまとまるかどうかに関わらず早く縁を切りたいのが、保守党支持者中心であり、EU残留に色気があるのが労働党というのは、世界市民意識の強い革新との違いがはっきりした選挙結果です。

本国人の在日嫉妬心2(中韓の棄民思想1)

韓国本国人の在日に対する視線の現状(と言っても18年のことらしいです)紹介です。
https://matome.naver.jp/odai/2146272915783454301

更新日: 2018年10月28日
この記事は私がまとめました  makaizouさん
在日朝鮮人が資産を処分して次々と帰国!?
不況に苦しむ韓国の若者に在日は「特権」を持っていると映る
慰安婦問題を巡る昨年末の日韓合意以降、朴槿恵政権は公式の場での「反日」を封じ、今年1月の国民向け年頭談話や、日本からの独立記念日である8月の「光復節」でも歴史認識問題や慰安婦問題に触れることはなかった。
朴政権の反日がトーンダウンしたことで、韓国国民は不満の捌け口を失い、その矛先が在日コリアンに向かっている。ネットでは日本批判にかわって、在日を厳しく糾弾する書き込みが目立ち始めた
「2012年に兵役法が改正されるまで、在日韓国人男性のほとんどが『在外国民2世制度(*)』によって実質的に兵役を免除されていました。韓国での滞在期間や就業にも制限がないから、韓国と日本を往来して大金を稼いでいた者も多い
私たちが在日を韓国人と認めないのは、彼らがまったく祖国に貢献せず、与えられた“特権”に胡坐をかいているからです」(30代・韓国人男性)
朴政権の反日封印でネットでは日本批判にかわって在日糾弾
韓国社会には「在日1世は強制徴用で日本に連行された可哀相な人々」との共通認識がある。歴史認識の是非はともあれ、海外に暮らす同胞に特別な心情を抱くのは、同じ民族として当然のことだろう。
一方で、韓国が在日に対する差別意識を抱き続けていることもまた事実である。特に、日本生まれの在日2世以降に対する風当たりは強い。
裏金疑惑で目下、世論とマスコミの袋叩きに遭っているロッテグループの一連の騒動でも、韓国社会における在日差別が露呈した。
在韓ジャーナリストの藤原修平氏は、「在日への差別意識が高まった背景には韓国社会に充満する嫉妬心がある」と分析する。
「当時は日韓の経済格差がまだまだ大きく、韓国人は裕福で身なりが洗練された在日に接するたびにショックを受けていたそうです。それはやがて嫉妬心に変わっていきました。さらに、日本から来た在日が起業やビジネスで成功すると、『自分たちの生活を脅かす目障りな存在』と疎むようになったのです」
その後、韓国はアジア有数の経済大国になるまでに発展した。
しかし、未だ「在日への警戒心は拭えない」と、韓国の大手企業に勤める20代男性が本音を漏らす。
「在日出身者には優秀な人材も多く、韓国人社員を差し置いて重要な役職に登用される者もいます。
韓国人はこれが許せない。在日は、私たちにとって“よそ者”であり、自分たちの仕事を奪われるという危機感もある」
韓国のネット掲示板には、「日本の嫌韓感情の悪化は在日が原因。ヤクザ、パチンコ、売春産業の多くに在日が携わっている」「在日どもは韓国籍を捨てないことで吸える蜜が多いので日本に帰化しない」などと、根拠のない理由で攻撃している。
これまでの日本批判に代わって在日を厳しく糾弾する書き込みが目立ち始めた。韓国社会の鬱屈した暗い情念が噴出した形だ。

反日運動できなくなった代償として在日批判しているかのような書き方ですが、内容実態を見ると在日に対する相応の不満が溜まっているように見えます。
韓国人の反日感情の基本は欧米の風下に立つのは気にならないが、同じアジア人の日本の風下に立つのだけはイヤっという変な妬みを基本としたものです。
韓国経済が勃興して外資(主として日本)が進出すると、せっかくの高レベル職場が彼ら在日Uターン組みに奪われてしまう不満があるようですが、これは雇用環境の良い本土に進出した外資や民族系先端企業が香港出身者大卒優先雇用するのと似た構図です。
日本の場合、ブラジル等移民2〜3世が就労目的で帰国しても現場労働中心ですが、韓国や中国に進出する外資にとっては日本人ばかりで現地企業運営するよりは、現地事情や人脈のある中韓からの留学生や在日を現地企業幹部として派遣する方向になるからです。
中国と香港の関係も同様で、香港大卒の就職先として北京、上海等が人気のようです。
外資の場合、例えば米国系企業で米系人が企業幹部として赴任してくるのは気にならないが、香港人や在日に顎で使われるのは気になるし、せっかく外資のいい職を奪われているような気持ちになるのでしょう。
中韓本国政府も、国外で苦労する同胞を慈しむよりも、国内政治不満はけ口に利用しようとする点は同じです。
12月8日歴博で、ハワイ移民歴史展示を見てきましたが、下層労動者として移民し、苦労の末にその地でようやく生きていく根を下ろしたのですが、せっかく築いた生活基盤を日米戦争によって奪われ艱難辛苦の生活に陥った状況をツブサに見てきました。
本国の後ろ盾を失って現地政府と母国が戦うようになると、外地在住者は本当に弱い立場です。
日韓、日中で争うようになるとそれぞれの国に在住する在日、在中韓日本人それぞれが苦しい立場に追い込まれます。
黙っていても苦しい彼らを積極的にいたわる度量が必要で、逆に弱いものいじめをするような(風説?を流布して)追い込むようなことをしないように心すべきことです。
敵性人として白眼視されていた立場の苦しいハワイ在住日系人が敗戦直前の沖縄戦等々で米軍捕虜になった日本兵がハワイに移送された時に、日本兵捕虜収容所への慰問や差し入れを行なって異国の地に送られた日本兵捕虜が心慰められた状況が紹介されていました。
以前書いたことがありますが、戦後食糧難の時に大量配布された粉ミルクで多くの生命救われたのですが、子供の頃には豊かな米国のおかげと感謝していましたが、着の身着のままで収容所に入れられて無一文になっていたアメリカ本土日系人が収容所から解放後に母国のために基金を集めて粉ミルクを買い集めて日本へ送ってくれたものでした。
日本人同胞意識はいつも強固ですし、敗戦時日系米国人に世話になったからではなく、もともと内地の人も外地にいる日本人を見捨てるような民族ではありません。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC