臣民とは2

正月特別コラムを終了して今日から12月29日まで書いたシリーズの続きに戻ります。
欧米では支配、被支配の階層隔絶が大きいので、経済面で見ても日本と違い格差が拡大する一方のようです。
日本の臣民は臣と民は相互互換性のある関係なので明治13年の旧刑法で国の民=「国民」という用語が採用されたものと思われます。
明治15年施行の旧刑法で法条文に「国民」という単語が取り入れられましたが明治憲法が発布された時に、憲法では臣民としたのでこれに合わせて旧刑法も「臣民」と改称したはずと思いますが、明治40年の現行刑法は以下の通り「国民」として記載していますが、これは明治40年施行時は臣民となっていたが敗戦後現行憲法に合わせて国民と変えた可能性があるでしょう。

明治四十年法律第四十五号
刑法
刑法別冊ノ通之ヲ定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治十三年第三十六号布告刑法ハ此法律施行ノ日ヨリ之ヲ廃止ス
(国民の国外犯)
第三条 この法律は、日本国外において次に掲げる罪を犯した日本国民に適用する。

例えば明治40年以降続いている現行刑法の3条は現在のネット検索では上記引用したように本日現在の条文しか出ないので、戦後改正されて「国民」という用語になったのか、40年現行法制定当時も「国民」であったのかを知ることができません。
これが戦前どうだったかを見るには、昭和8年版六法全書がたまたま我が家にあるので刑法を開いて見ると、3条の文章が文語体であるほかは「国民」という単語が「帝国臣民に之を適用ス」となっているほか全語同じです。
(漢文調が口語体に変わったのは平成になってからです)
これによれば、もしかしたら明治40年制定当時から明治憲法に合わせていたように思われますが、そうとすれば旧刑法も、明治憲法制定に合わせてほぼ同時に国民を臣民と変更していた可能性がありますが、旧刑法については、制定当時の条文しかネットに出ないので明治憲法制定によってどうなったかの変化が今の所私には不明です。
ところで、国民という概念が明治13年の旧刑法記載だけで、一般に知られていなかったのかといえば、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の集会名は国民集会といったようですし、暴徒押しかけ先対象になっていた新聞社名が「国民新聞」と言うようですから、当時在野で「国民」という表現がすでに利用されていたようです。
国民という単語は日本国憲法制定時に創作された単語ではなくずっと前からあったようです。
もともと明治憲法で創作した?臣民という用語の方が我が国古来からの用例から見て無理があったように直感します。
敗戦→新憲法制定の必要性から、国民意識に合わせて是正されたと見るべきでしょう。
私のド素人的語感からいえば、現状のイメージでは「臣」とは支配者あるいは誰かの手足となって働く支配者側の人間であり、「民」とは権力との対で言えば領民・・権力集団の外側にいて支配される側の総称でしょう。
領民の中から権力機構内にいて権力者と主従関係にある状態の人、現在風にいえば従業員の内労働組合に入らない管理職が古代ではオミであり、天皇家直属の大豪族トップを「おおオミ・大臣」中小の豪族を中臣、小臣と言うのではないでしょうか?
江戸時代でいえば大名?小名、旗本、御家人であり、天皇家の朝臣は、江戸時代の直参旗本クラス?御家人や小者までいろいろですが、このように領民中権力機構内の人の中で権力に近いものが臣の系列であり、権力に関係ない支配されていた人を「民」というのではないでしょうか?
権力機構外の民の中にも経営者と従業員がいますが、それらはまとめて民ですし、民間の従業員を臣とは言いません。
今で言えば民間であり政治家で言えば野党です。
身分制がなくなり、今では国家直属の官僚・臣も自治体吏員・公務員も全員「民」であり民間人の子弟が官僚になり官僚が退官すると民間に戻る関係です。
政治家も与党の時はトップの総理大臣以下の各省大臣/政務官などのいわゆる高官ですし、野党になれば官職・戦後用語では公職を辞して在野に出るものの民心の支持次第でいつでも与党に入れ代われる仕組みです。
この点は明治体制下でも一君万民思想で四民平等にした結果天皇家・皇族以外は平等になった点は現在と同じですから、(戦前国会でも与野党の別があり政権交代がありました)臣民と2種類に分ける必要がなかった・・国民と簡明な単語ひとつで良かったことになります。
今でも「官民共同プロジェクト」とか、「官民あげて」「半官半民」というような表現をメデイアが好みますが、国営か民営かの基準をあえて戦前の「臣民」をちょっとお化粧直ししただけの「官民」という古い表現を使っている意識・現状が問題です。
政府の全く関与しない純粋民営ばかりでは、公益上必須のインフラを担当する企業がなくなると困るので、河川や港湾や空港新設や管理、教育や水道供給などは、早くから公営で行うのがどこの国でも普通でした。
これらも市場競争導入による効率化のために民営方式を何割かを導入する中間的経営が必要とされるようになり、これを半官半民とか官民共同の事業と言うようになっているのですが、公益的事業であることから、半官半民とか官民協働という必要があるかの疑問です。
「臣」同様に死語化すべき「官」の用語を今も何故使いたがるかの疑問です。
半官半民的共同事業体を表現する新たな造語能力が欠如しているのか?能力不足というより支配勢力には、今でも「臣民意識」を維持したい願望があるから時代即応の造語を作りたくないままになっているのではないでしょうか?
一時外来語借用の第三セクター大はやりでしたが、税を使う以上は役人の考える合理的目標や、公的な役割を無視できないという思想で事細かに官の立場で監督するために大方の第三セクターは火の車・税の無駄使いに終わっている印象です。

大晦日(千葉県の災害2)

農業施設に限らず住宅が被災した場合の建て替え・・再建築〜大改造するかの点で迷うのも同様です。
過疎地に限らず中高年齢者がマイホームを取得したり大改装する場合、これで最後までその家に住めるかな?というライフサイクル前提で行うことが多いものです。
この結果80代になって家が少し古くなっても次世代同居でない限り時代即応の大規模改修する気がしないのが普通です。
ということで高齢者はマンション買い替えも改造もしないし、家が古くなる一方になりますが、7〜80代で被災した場合、都会人でももう一度建て替えたい人はいないでしょう。
個人事業でない大企業の場合個人のライフプランと関係ないでしょうが、個人事業主体の第一次産業系と農漁村等で営むサービス業の場合、生身の人間のライフステージに応じたライフスタイルと密接に関連します。
まして・・親の代から家に住む人が被災した場合、都会に出た子供らが戻ってくる可能性もないのに、新築や改修をためらうのは当然です。
東北大震災では日弁連の災害支援活動過程で二重ローンが問題になって立法化された記憶ですが、ローン途中の被災だけでなく既存債務のない人でも、高齢者中心事業の場合新規投資気分になれないようです。
停電も、水害もなかった千葉市内に住んでいて報道だけ見ていると「停電が続いて生活が大変」と言うばかりだったので、停電が収まってよかったねと言う程度の感想中心でしたが、県内で生業を営む人たちにとっては大変な事態がそのまま続いている年末を実感しました。
(ただし、職業柄農村部の人とも交流があるので電気が通じてもビニールハウス等の復旧に汗を流している抽象的な声が少しずつ耳に入っていましたが・皆さん遠慮がちにいうので深刻な事態という印象が薄かったのです)
サラリーマンや勤め人は勤務先が潰れても再就職先があれば、新規職場で慣れるまでの不利益程度ですが、勤人比率が低い農山漁村・たとえば自営の60代半ば夫婦の場合・・自宅修理や泥の掃き出しだけでなく、東北大震災のように生活手段の農地が海水に浸かったり、水産加工場や漁民相手の飲食店が流されたりすると緊急融資を受けても、元気に働けるうちに返せるかの不安に直面します。
近代産業・全国展開のいくつかの工場の一つが被災しても、その工場さえ復旧すればまた全国へ製品を送り出せます。
第一次産業系地域では大規模自然災害を受けると地域全体が壊滅的になるので、自分だけ美容院や飲食店等の商店を再建しても客がいません。
政府の緊急融資や制度保障による融資基準額引き上げや激甚災害の政府補助金は基本的に地方団体のインフラ復旧コストの補助金であって個人に資金提供する制度ではありません。
もともと国家の各種産業補助でも、(太陽光発電補助の場合など)特定事業をした場合その支出の一部補助・太陽光発電の業者に対する支払いの一部を代わって支払うものであって、注文者に直接現金を交付する制度でないのが原則です。
健康保険で言えば、診療費の7割給付ですが7割くれるのでなく7割を医療機関に代わって払う形の保険給付制度です。
個人に直接資金が入る仕組みは生活保護費や失業保険等限定的です。
激甚災害には、例外的に心身障害に対する見舞金があるようですが、ほんの僅かでしょう。
激甚災害被害者救済では法令変更で一時金をいくら引きあげても再建資金を全額賄うの無理があるので共助と自助努力の組み合わせ・・災害保険制度の発達を期待する方が合理的でしょうか?
実際東北大震災以降、地震保険加入者が増えたようですが、今回のような水害や停電等による被害・農地冠水、崖崩れ等・ドロの埋まった農地被害はカバーしないのでしょうか?
千葉県の農家の実情は、死亡事故等世間を騒がす被害がほとんどないものの、長期的にはボデイーに効くような被害に合うと、運が悪いで済ますには気の毒な実情です。
60代の彼らはまだ元気で働き続けたい・・残された人生がある・・農家の人がいきなり都会に出て働く仕事もないし、今後どうして良いかわからない絶望感をどうすべきかでしょう。
災害にはどう対処すれば良いか、新たな災害・温暖化によって?台風が従来よりも北上しやすくなってきた以上は、これまであまり台風のこなかった関東以北地域でも今後に備えて新たな準備が必要になった印象です。
備えあれば憂いなしと言いますが、千葉県の場合、これまでまとも台風被害を受けた経験がなかったので備えが無かったことは確かです。
備えの必要性といえば今年1年の私個人の近況報告もしておきましょう。
この一年元気に働いてきましたが、この1年を振り返ると、春先に突然歯が痛み往生しましたが、歯医者さんに行くと数年前にちょっとした虫歯に詰めていたものが外れて痛み始めたと分かりすぐに治って安堵しました。
夏にはある会議が終わって立ち上がると足腰が急に痛くなって廊下に出てから少し歩くのすら大変になり驚きました。
これは会議室の冷房が効きすぎたので足を冷やしすぎたのか?とわかったので、その後真夏というのに冷房のあるところに出かけるにはレグウオーマーして出かけているうちに秋になって冷房がなくなったので元に戻りました。
その後今のところ元気にしていますが、備えているつもりでも高齢化すると思いがけないことが、しかもいきなり起きます。
私自身や、私を取り巻く千葉県全体でもいろんなことがありましたが、個人限定すれば今の所大過なく1年を過ごせたという安堵感が先に立ちます。
ただし、今年の千葉県の台風被害に対する備え不足同様に・ミスはあとで問題になるものですから、今のところ過去の大過が表面化していないだけかもしれません。
今年最後のコラムになりましたが、個々人でもめでたい年だった人や苦難の1年だった人もいるでしょうが、全て過去の備えの結果ですので被害を受けなかった人も気を引き締めて来年も頑張りましょう。
来年は少しでも多くの人にとってめでたい1年になりますよう祈念して今年のコラムを終わりにします。
みなさま良い年をお迎えできますように!

臣民と人民の違い2

臣民概念では、民から臣になる人もいるし臣が退官して民に戻る人もいます。
今で言えば官僚になる前は民ですし、官僚が退官するとまた民に戻ります。
これに対して人民という単語は、社会構成のなかで支配されている人々のことで、上記臣民で言えば「民」にあたる人を言うのですが、上記のような相互交流の余地がない階級区別を前提にしている観念です。
支配される存在だから人民というのであって、リンカーンのゲチスバーグ演説は支配者と被支配者の地位が交換される余地がなく支配されっぱなしだった人民・・・この仕組みが一般的だった時代に、リンカーンが

これまで支配されるだけのものと考えられてきた人民が政治も今後政治の主人公になれるしそうなるべき

という趣旨で演説したので、多くの期待を集めて歴史に残る名演説になったのでしょう。
これを一言で表現する熟語として人民主権.国民主権という標語が行き渡ったのですが、男女平等とか標語さえ唱えれば男女平等になるわけでないのが現実です。
個々人でいえば、東大合格とか甲子園優勝とかの標語を自室の壁に貼り付けてもその通りになるとは限りません。
多くはその実現が難しいからこその標語であることが多いのです。
ところで、企業が「工場労働者誰もが社長になる資格がある」と標語を工場に掲げて、幸いその通りに現場労働者から社長になった場合、その人はもはや労働者ではありません。
人民が現実に主権者になって支配されるばかりではなくなったのであれば「人民」という単語は今や過去の表現になっていることになります。
人民が主権者になったらもはや人民ではないので(青虫が羽化すれば青虫と言わないと同様)それに変わる新たな用語が必要なのに欧米ではまだそれが理念に止まり実現できていないので実現したのちの表現が生まれていないのでしょう。
日本の場合、朝廷は儀式等を主催する権威が残っていたものの藤原良房が自分の娘所生の道康親王を皇太子にするために恒貞皇太子の廃太子に成功した承和の変(842年)から良房を継いだ藤原基康による阿衡の紛議(887〜888年)・・これは即位した宇多天皇が前天皇の摂政であった基康に対して就任と同時に関白に任ずる詔勅を発したところその文言が気に入らないと職務放棄して朝廷を困らせたという(前代未聞)文字通りの紛議(今でいうサボタージュ)でした。
百官は藤原氏の権勢に恐れをなして、皆朝廷に参内できない状態だったのかな?
詔勅起案した官僚に責任を取らせるなど、権勢を見せつけたうえで事態収拾になったのですが、これによって天皇は藤原氏の言うがままにするしかない権勢を百官に広く見せつけたと言われます。
なんとなく始皇帝後を継いだ2代皇帝胡亥に対して、趙高が皇帝に優先する自己の権勢を誇示するために?あるいは自己に従わない高官をあぶり出すために、皇帝の眼前に鹿を引き出して、皇帝に向かって「珍しい馬を献上する・・」 といったので、皇帝が「鹿でないのか?」と聞き返すと趙高が「いやあれは馬です。そうだな!」と居並ぶ群臣に同意を求めて皇帝に恥をかかせるとともに、誰が自分の意見に反対するかをテストした故事・・バカの語源の一つの説として知られていますが・・。
皇帝の意見を支持した高官はその後全員処刑されたと言われます。
権勢を誇った君側の奸の代表として平家物語冒頭に出てくる第一人者ですから、尾ひれがつくのが普通・「この人ならこの程度のことをやりかねない」というのが事実に昇格している可能性の方が高いですが・・.
方広寺に秀頼が奉納した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に家康が難癖つけたのは、家康(金地院崇伝?)の発案でなくこの阿衡の紛議の故事に倣ったのでしょうか?
家康の場合、文字を分割してのこじつけですので、文字通りの難癖ですが、阿衡事件は古典の解釈論争によるので一応平安貴族らしい高度なテクニックを利用したものです。
日本での天皇家は君主と言っても、上記の通り800年代末から始まった摂関政治から保元平治の乱を経て武家政権に移っていき政治主導権を完全に失ってからでも800年以上経過しているので、天皇家だけ権力を握る仕組みが摂関家に移り、武家政権になると政権を握れるのが公卿(朝臣)だけでもなくなりました。
武士とはもともと農民層から戦闘専門家に分化してきたグループのことで、江戸時代でも戦国大名系家臣団の多くは半農半士・一朝事あれば一族郎党引き連れて駆けつける仕組みが普通でしたので、日常生活は庶民そのものでしたし、民情に通じている・・実務能力の高い集団でした。
ただし徳川家旗本限定では、知行地が遠くしかも細分化されていたので、(例えば千石の旗本でも、50石〜70石等々(例外でしょうが 一つの集落の農地が数名の旗本の数石何升単位の小さな知行地に分かれていた例が文献にでています。)バラバラに房総半島に知行地がある場合代変わりに一回行くのも大変)ですので、結果的に今の都民同様になっていたので幕末戦闘力はほとんどなくなっていた実態をSep 11, 2016 12:00 am欧米覇権終焉の開始2と、12/28/04(2004年)「兵農分離4(兵の強弱と日常生活)(コサック騎兵)」前後で連載したことがあります。
日本社会はこのように庶民・現場力の高い集団内での権力交代が可能になってからでも約800年経過です。
庶民も能力さえあれば政権担当できる社会・互換性のある社会になっていたので日本社会は観念論に走らず時代即応した着実な進展変化を遂げてこられたことになります。
明治新政府は、王政復古を旗印にして成立した政権である関係上表面上だけ古色蒼然たる主張をしてきたものの、政権掌握後は時間をおかず現実的政策を果敢に打ち出して後醍醐天皇のような天皇親政を採用せず実務官僚機構を整備して、古色蒼然たる平安朝以来の公卿堂上人を華族として棚上げし、実務は江戸時代の下級武士層・実務官僚が実権を握る体制を築き上げました。
廃藩置県で藩知事に横滑りした元の大名は短期間に罷免されて、中央から派遣される実務官僚が知事に入れ替えられた経緯も08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介しました。
こういう大変革途上にあって制定した明治憲法では、表向き天皇大権とか臣民とはいうものの(神棚に棚上げした一君と(明治初期から逐次始まった士族等の階級名称廃止政策・・四民平等の徹底化で)万民思想が徹底してきたのですから、内実は戦後の国民主権体制と変わりません。

罪刑法定主義2(生麦事件)

日本人が当然知っているべきモラルを知らない外国人が来るようになった場合、日本人ならば当然知っているべきモラルの同一性がありません。
例えば、薩摩藩が幕末に起こした生麦事件が有名ですが、大名行列に乗馬で乗り入れるなど日本人から見れば「不敬」そのものでしょうが、外国人から見ればいきなり斬り殺されて大騒ぎになったものです。
乗り入れた英国人一行の方は、前方から東海道筋を道路いっぱいに進んで来る久光の行列を見て困惑したらしいですが、(通訳が随行していなかったのが事件発生の大きな原因だったでしょう)どうして良いか分からずにいると、先払いの者から身振りで道路脇によれと言われたように思って・・現在よくある光景・・山道や狭い道路で対向車に出くわすとお互い左右に避けながらゆっくり進むような感覚で脇によって進めば行列も右脇に寄ってくれるのかと思って騎馬のまま進んで行ったようです。
道が狭く久光の行列が道一杯に進んでくるので、結果的に英国人の騎馬グループと行列が衝突する形になり、先行の足軽などが馬を避ける結果、次第に行列の中程まで(すなわち久光の籠近くまで)行列をかき分けて乗り入れてしまう結果、護衛の武士団は黙って見過ごせない・・血相変えた戦闘モード満々の武士団の殺到に直面した英国人一行が馬主を巡らして引き返そうとしたが時すでに遅し!大事件に発展した瞬間だったらしいです。
日本の場合、古代から牛車や行列が行き合えば、身分格式の低い方が道を譲り脇に控えるのが礼儀でしたし、これは江戸城内の廊下で大名同士が出会っても同じルールです。
西欧でも例えば、西洋由来の軍隊組織では初見の人同士では相手の階級の見分けが付かないので肩章襟章等外見で階級が分かるようにしていて、階級の低い方が最敬礼して脇に下がって見送る仕組みです。
英国でも似たようなルールがあった・・・格上格下の礼儀ルールは洋の東西を問わず同じとしても、よそから来た英国人が島津の行列かどうか(旗印や家紋程度で分かるはずもないし)の判断もつかない上にそれが分かったからと言って、島津が何ほどの家柄か、自分と比較して自分がよけるべきかどうかの判断までは付かなかったでしょう。
ましてこの時、島津久光が700人もの軍勢を率いて江戸に出て来て、公武合体論に基づく一橋慶喜の将軍後見職任命や春嶽の政事総裁職任命等を迫って実現させて意気軒昂な帰路(は400人)でした。
こういう事情も全く知らなかったでしょう。
ただ、今でも、個人が何らかの集団とぶつかりそうになれば、言葉が通じなければ集団の通過を待つのが普通で、まして危なそうな軍の列であればなおさらではないでしょうか?
この辺に英国人側に常識論で見ても、一定の落ち度があったように見るのは、日本人としての贔屓目かも知れません。
この事件処理で幕府が英国の要求する巨額の賠償金を払ったものの、薩摩側はこれに応じなかったので薩英戦争につながるのですが、このように、大名行列と出会ったときの礼儀ルールをきちんと法令化していれば相手国からの文句に対する立場が大きく違っていた・・こんな危険な国だから、不平等条約が必要という論拠にされて明治以降の不平等条約解消が難航した下地でした。
人権擁護のためではなく国内的には権力意思貫徹には周知が前提・・対外的には国家主権確保のためにも、生類哀れみの例のような明文法が必要になります。
産業構造や社会生活が複雑化してくると、技術的規制は日常常識では判断しかねるので明文化して起き、プロでもその都度確認する必要が起きてきます。
建物建築でも「家はこういうものだ」「柱と柱の間隔は一間にきまってる」という経験による工事では間違うので、今ではいちいち図面を確認しながら作業していく必要があるのと同じです。
社会の仕組み=商品の種類が単純な時代には、いわゆる名僧知識の禅問答的御託宣で間に合ったしょうが、商品経済が複雑化してくると、具体的ルールや細則がないと現場でどうして良いか・個々人の裁量で行うと精密な機械が故障する時代になってきました。
精密部品・・普通の電化製品でも寸法は何センチ何ミリまでピタリ合っていないと不具合が起きる時代ですが、法制度もこれに比例して細かく細かくなる一方です。
世の中になぜ専門家が増えてくるかといえば、法律家でも金融商品取引ルール証券取引ルール、道路交通法、原子力安全規則などなど分野ごとに膨大精密すぎて、税務関係は税理士などそれぞれの専門家が必要な時代=それだけ法令(だけで足りずその先の規則、細則〜ガイドライン(別紙技術基準)等々分野ごとに細かくなっているからです。
これに加えて人の移動広域化・・異民族間移動の場合、元々の基準である道義意識も違ってくるので技術的規制だけでなくいわゆる自然犯でさえも明文化していないと外国人には、思いがけないことで処罰を受けるリスクが増えます。
現在では金融・証券取引や道路交通法あるいは各種環境規制や食品衛生や建築などの安全基準 のように専門化してくると、明文法に処罰すると書いていない限り処罰できないようにしてくれ・という逆転現象が起きてきます。
早くルールを明文してくれないと商品開発しても普及(ドローン利用のサービスや車自動運転、電子通貨関係など)できないという逆転現象が起きています。
罪刑法定主義が人権擁護という政治論より、産業発展によりいろんな分野でのルール化が求められるようになったことが、ルール化が進んだ基礎事情でしょう。
西洋では、絶対君主制・・恣意的処罰が横行したので絶対君主から領民の人権を守るために生まれたと習いますが、我が国の場合、支配者が慣習法や道徳律に反するルールを新たに決めた場合、特別な法令が必要な社会が到来していた・逆方向からの発達であったし、これが今の潮流と理解すべきではないでしょうか?
中国は独裁・専制・法治国家でなく人治国家と揶揄されていますが、商品経済が進み、産業構造が高度化すると政治家の思いつきで製造基準を変えられない・・精密ルール化は避けられないはずですので技術基準の法令化・ルール化が進む点は、同じではないでしょうか?
問題は(共産党幹部であろうとなかろうと、)誰もが等しく「ルールを守らねばならない」という法の下の平等ルールを守れるか次第ではないでしょうか?
そのためには司法権独立が必須ですが、中国政府は香港の覆面禁止条例無効判断をした高裁判決を否定する主張をしているようで、政府が司法権を軽視しているようでは、法を守る気がないと自己主張しているようなものでこれこそを重視すべきです。
諸葛孔明の故事に「泣いて馬謖を斬る」という故事がありますが、上に立つものは自分の決めたルールを守らないのでは、配下がルール・命令を聞かなくなるからです。

旧刑法2(罪刑法定主義1)

ちょっと話題がずれますが、皇族に対する罪というか、やってはいけないことは、日本民族にとっては法以前の自明の存在であるべきでした。
内乱・いわゆる謀反や親殺しが許されないことも同じでしょう。
内乱罪等を明記するようになった前提として考えられることは、まず西洋で発達した罪刑法定主義の思想・明文なければ処罰できない・・明文化するかしないかの論争があったはずです。
ボワソナード主導の立法作業でしたので、当然西欧の到達していた法思想を前提に行った筈ですが、法以前の存在であると思われていた皇族に対するルールを明文化=これを国会(国民の意思)で決めたときに限り初めて犯罪になることには抵抗があってもおかしくありません。
天皇の超法規的神格否定につながるものでそれ自体が明治政府にとっては大事件で大きな論争があってもおかしくなかったと思われますが、民法典のような大した政治論争ももなく?すんなり法制定されるまで行ったように見えます。
当時の国民意識では、討幕のための旗印として王政復古を掲げたものの、実際には古代からの象徴天皇程度の意識・・敗戦直前のような極端な神格化意識がなかったからではないでしょうか?
王政復古を看板にする明治維新体制は時代錯誤性が大きかったのですが、新政府は看板の建前上古代律令制に基づく二官八省制を一時採用しましたが、維新直後三治政治〜廃藩置県に始まる地方と中央関係組み替えによる地方組織整備などどんどん変えていく(司法官などの人材育成→西欧留学性派遣による世界の法常識の吸収も焦眉の急でした)中で、中央政体も二官八省制をどんどん形骸化していきます。
こうした明治初年の新政府体制再構築過程を紹介してきましたが、(旧刑法編纂や刑事法制や司法制度整備もその一環として紹介していたものです)これらを法制度として整える必要から司法卿ができ、並行して神祇官などの二官八省体制を改組して現行の各省体制の基礎を作っていくなど、実務面では着実に近代化が進んでいたので明治維新が成功したと思われます。
古代から連綿と続く天皇制の根本に関しても近代化の動きの総決算が明治憲法制定ですから、その下準備的各種法整備の一環である刑法制定作業においても政権の目指す本音の方向に動いて行くしかなかったのでしょう。
政権の要路にある人々は、政府・権力というものは民族全体の無言の賛同によって成り立っていることを知っていたし朝廷に対する尊崇の念も法で強制するものではないと心の底で知っていたでしょう。
ちなみに戦後皇族に対する罪全部がなくなったのは、天皇制存在の理由は国民の支持(といっても賛否を問う形式論ではなく、暗黙のこうあるべしという民族の価値観)によるのであるから、特別な法類型を決めなくとも良いのでないか!という意見であったように記憶していますが、あるいは尊属殺事件の憲法解釈であったかも知れません。
明治維新前の刑罰制度を大雑把に言えば、常識に属することは、明文で決めなくとも処罰できる・・「人を殺したり物を盗むな!」という御法度がなくとも、そんな道徳があると知らなかったと言わせない基本社会であったと言えるでしょう。
こういう社会の場合、法網を潜る(工夫)余地がありません。
中国の場合「天網恢々疎にして漏らさず」という古代からの名フレーズがあり、現在では、「上に政策あれば下に対策あり」「上有政策、下有対策」と言われるように法対策が盛んです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit

中国には「上有政策、下有対策」という有名な言葉がある。元々は国に政策があれば、国の下にいる国民にはその政策に対応する策があるという意味だが、現在は「決定事項について人々が抜け道を考え出す」という意味でほとんど使われている。ここではいくつかの実例を挙げ、「上に政策あり、下に対策あり」の原因を探ってみる。
以下略

上記には4個の主張があるのですが、私に言わせれば中国人は私益あって公益意識がないというに尽きると思っています。
我が国では、公益=地域共同体→日本民族の共同利益を守るための道徳が先にあるのですから、明文法規はその例外的位置付け・・書いていないことにこそ真善美があると考える国民性です。
物事の理解には余白を重んじる・・音楽で言えば絶え間ない音の連続も綺麗ですが、お琴では「手事」と言いますが、あくまで手先の技のことです)むしろ音のない「間」を重んじ、沈黙は金といい、眼光紙背に徹するというようにすべて基礎的原理が同じです。
知識をいくら並べても限界があるデータのない先や余白から物ごとの本質を見抜く力にこそ価値があるのです。
詩で言えば余韻を重んじる点では、俳句こそがその最高形態でしょうか?
我が国では、法網をくぐる工夫をすること自体「恥ずべきこと」という意識ですから、タックスヘイブンとか法にさえ触れなければ何をしても良いという発想には驚きます。
中世以降の「非理法権天の法理」を紹介してきましたが、次第に権力が強くなってきて、道義や慣習任せにしないで権力者の定めるルールが最優先するようになると「犬を追い払ってはいけない」などの新ルールは社会常識的道徳律では気がつかないことになります。
為政者が、新たに今度これも禁止するから・・と決めた場合(禁中諸法度→紫衣事件は事前に「お達し」していたのに、従来慣習法?でやったのに何が悪い?と開き直った事件でした)知らない人が多くなるので、周知のために御法度を定めて江戸時代以降の各種御法度や生類哀れみの令・・注意を促すという仕組だったことになります。
価値観同一社会では、天皇家や徳川家に対して日本の道徳から見て許されない行為が何かの規定がなくとも、慣習を変えるとか、常識に反する新たな制定ルールだけお達し・公布すればよかったのでしょう。

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