異民族直接支配→植民地支配でない?2

異民族直接支配→植民地支配でない?2

コメコンは域内分業の強制組織でしたが、これは体良くロシア支配の固定化を図るものでした。
ソ連支配圏内の域内分業とは自由主義諸国間で一般的なサプライチェーンの統制版ですが、ソ連解体→コメコン解体=ソ連による権力統制がなくなると、本来の競争力に基づくサプライチェーンと違う弱み・・ロシアから割高品を買わされていた国や地域は、国際相場で他国から買うようになり、国際相場より割安でロシアへの供給を強制されていた国や地域は販路を国際市場に求めるようになります。ソ連崩壊後ロシア共和国の旨みが消えて、ロシア共和国が急激なマイナス成長に落ち込んだ原因(私の個人意見)です。ソ連解体後のマイナス成長の結果についてはあちこちに記事が出ていますが、一例を挙げれば以下の通りです。https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jbic/report/review/pdf/28_07.pdf

第1章 はじめに
ロシア連邦:体制移行の現状と今後の課題*1国際審査部第2班能勢 学小田島 健
1991年12月のソ連解体以降、ロシアを取り巻く政治・経済環境は劇的に変化している。崩壊直後、急進的な経済改革が実施された結果、旧ソ連諸国と比べても大きく生産が落ち込み、ハイパーインフレーションや財政収支、経常収支の悪化に見舞われてマクロ経済は大きく不安定化した(図表1、2)。また1998年にはアジア通貨危機の余波を受けた結果、それまでのクローリングペッグ制が維持できなくなり、対ドルのルーブル為替レートが大幅に切り下げられ、短期国債の事実上のデフォルトが生じた(図表3)。この結果、1997年にプラス成長となった経済も再びマイナス成長に陥り、物価・為替の安定性も喪失された。
・・・豊富な天然資源を有する同国は、1999年以降油価上昇等の対外環境改善の恩恵を受けて目覚しい成長を遂げている。実質GDP成長率は4~10%と高成長で推移し、所得水準は崩壊直前の水準まで回復した(図表4)。

上記図表4を見るとソ連解体後中東欧諸国のGDPが一直線に近く上昇しているのに対してロシアの方は、2000年代に原油相場高騰によるまでマイナス成長でした。
ソ連邦解体直後の上記結果を見れば、約100もあるといわれる多数被支配民族を共産主義名下に一体市場化に成功したロシア民族がいかにうまい汁を吸っていたかが分かります。

現在用語でいえばグローバル論を展開した元祖レーニン主導でロシア革命が成功してソ連邦が成立したのですが、ロシア革命〜ソ連成立後のコミンフォルムとかコミンテルン・世界同時革命論等々一貫して今風にいえばグローバル化論の悪しき原型でした。 仮にソ連邦内で自由競争が行われているグローバル化であれば、中東欧やバルト三国の優秀な企業は鉄のカーテンで仕切ったソ連邦内を独占市場として席巻できたのでしょうが、強制割当制下では遅れた方に合わせられる不都合があったでしょう。

大手企業で不採算部門の損失穴埋めに成長部門が再投資資金を食われてしまい外部専業競合企業より不利になるのに似ています。 中国もこの段階に入ってきた・・・沿海部の収益を内陸部に回すしかない・規模の不利益に直面しています。

GDP指標の意味2

今の国家や企業運営に置き換えれば、アナリストや統計学者が採用するサンプル対象数字だけを追う経営・・試験問題だけ特化して勉強して好成績を取っている秀才みたいです。
過去問集が市場に出回っていますが、これはそっくり同じ問題が得るという意味ではなく、その問題で求めている論点・思考回路を理解しましょうという意味である程度合理的ですが、そっくり同じ問題を5年も10年も出題すれば、意味不明なまま丸暗記してきた受験生が好成績になり、本来の実力を測れません。
例えば日経平均採用銘柄(ダウも上海総合も皆同じ)中心に買いを入れる、あるいは売り浴びせる偏った運用などがあるとその指標が信用できないのに似ています。
私の子供の頃には、品質を見るために米俵(当時は藁を編んだものでしたので先を尖らせた篠竹を簡単に刺し込めました)のに細い篠竹を差し込んでコメを抜き取って検査する方法がありましたが、これは出荷した大量の米俵のどの部分に検査官がいきなり差し込むか不明なので、結果的に均一化が図られる仕組みでした。
国土防衛が重要なのは領内の住民の生活が、夷狄に荒らされないこと・・いわば強盗から守るこことが目的であって、侵略軍=強盗との戦いに勝って侵攻軍を追い返せば住民を守ったことで英雄ですが、侵略してこない相手に攻撃して勝った場合・どんな戦争でも戦争に勝てば英雄という意味ではなかったはずです。
いつの間にか支配者の自己満足のための戦争でも戦争に勝てば英雄となってしまったように思われます。
こういう政治や企業運営では国民や社員その他ステークホルダーが困ります。
一家の稼ぎ柱のお父さんが猛烈に働くのはありがたいけれども、4〜50歳で倒れてしまうのでは家族が困るでしょう。
アレクサンダーや漢の武帝、ナポレオン等の遠征に次ぐ遠征成功は彼らの名声には寄与したでしょうが、戦役に駆り出される人民にとっては負担が増える(租庸調等人民負担の中でも兵役の義務は最悪でしょう)ばかりで「いい加減にしてよ!」というところで何の意味もなかったでしょう。
アレクサンダー大王は終わりの頃には武将から反対されてインドから引き返したとなっています。
アレキサンダー大王に関するウイキペデイアの記事から一部引用です。

紀元前356年にペラで生まれ、20歳で父であるピリッポス2世の王位を継承した。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設した。戦いでは敗れたことがなく、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。
・・紀元前326年、「世界の果て」に到達するべくインドに侵攻し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族に勝利する。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。
紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で死んだ。その死後、彼の帝国は内戦(ディアドコイ戦争)のよって分裂し、マケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。

その結果中東地域にギリシャ文化が広まった功績・・・ナポレオンの大侵略戦争によりフランス革命の成果が欧州に広まった功績があるとしても、それによってマケドニアの地元民やフランス国民にとって何かメリットがあったのか不明です。
フランスもナポレオンも当初亜h防衛線sのであたtでしょうが次第に防衛の枠を踏み越えて支配欲獲得の動物的欲望に転化していったので、国力を消耗し尽くした結果、次の時代・19世紀英仏の世界規模の覇権争いに負けてしまった・特に北米にせっかく進出していたフランス植民地をほぼ失った原因になったように思われます。
戦国時代のように国内の乱れを統一するのは、戦乱で困っている国民には朗報・・戦乱で逃げまわらなくとも安心して学問や製造販売に打ち込めるなど朗報ですが、外国との戦いでは、負けて異民族支配され略奪されるのは困るというマイナスを防ぐ程度で十分であって、自分から遠征に参加して略奪者の仲間になりたい国民は滅多にいません。
十字軍遠征は、戦利品目的のファンドが組まれたとすら言われますが、そういうことを楽しみにして遠征団に自発的応募する人は、一般国民ではなくもともと生きている意味がない自暴自棄的無頼集団がいっぱい居たというべきでしょう。
まともな生活をしている人が、自分の生命をかけてまで出かけていって掠奪暴行したい人がいるでしょうか?
上記の通り外国との戦争で勝って国王の統治範囲が広がっても、一般人にはほとんどメリットがありません。
例えば、同じ生活水準の国同士で言えば、商人にとっては合体による市場規模の利益があるようですが、これは今でいう関税障壁がなくなるということになります。
負けた国の商人も勝った方の国でも相互商売(スーパーやコンビニ展開)できるので、本当のメリットは関税障壁のない状態の自由競争・・FTA締結したのとほとんど変わりません。
旧相手国が合体した結果相手国に進出して商売に勝てるかは、商人間(バックの製造業・製品レベル)競争で勝つ自信がない限り自国のテリトリーが広がるメリットはありません。
民力の差がないのに軍事力だけ磨いて勝っても、市場一体化後商工業レベルの競争で勝てない限りかえって自国産業が損をします。
アメリカトランプ氏の言動は、米国が国際競争に負け始めたのでグローバル化・経済一体化は損だと気付いて従来標榜していた自由貿易を制限したくなったのを素直(日米繊維交渉に始まり米国はもともとそういう国でした)に言いだしたものです。

江戸時代産業構造の変化2(工場制手工業)

昨日引用の続きです。

そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。
これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。
量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。
織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。
マニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)
中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩と長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。
「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。
田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」
だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。
定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ

上記意見でも定信の改革?の時代錯誤性を書いています。

藩が主役になる産業・・専売制度は長州が有名ですが、例えば阿波徳島に旅行した時に見学した藍屋敷・・の藍の専売制度もそのような一例でしょう。
産業構造変化については、木綿産業限定ですが具体的記述のある以下の論文がネットで見つかりました。
https://repository.kulib.kyotou.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134214/1/eca1403-4_105.pdf

昭 和 62年 9・10月 京都大学経済学会
江戸後期における農村工業の発達 日本経済近代化の歴史的前提としての一一 中 村 哲
II 近世社会〔江戸時代の社会〉の経済的性格と木綿
日本では,中世社会〈鎌倉・室町附代〉と近世社会〔江戸時代〉は封建社会 という点で共通した面をもっているが,他面,非常に異質である。経済的側面 におけるもっとも大きな相違は,商品経済の発達であるυ
・・・幕末開港以後の主要 貿易品,すなわち輸出の生糸,茶,輸入の綿織物,砂精などは, もともと日本 にはなかったものであれ中世には輸入品であり,中世末から近世初に国屋化 されたのである。低技術の生糸は古代からあったが. 15位紀から発達した高級 絹織物である酉陣織の原料となる生糸はすべて輸入であり中世末,近世前期 (16~’17世紀)においては生糸は最大の輸入品であった。
木綿は・・・日本で国産化されたのは. 15世紀末からで 16世紀に全国に普及した。最初は かなり高価であったと思われるが,普及するにつれて大衆衣料となった。
この木綿をはじめとして,中世末から近世初にかけて,それまで輸入品であっ た砂糖,たばこ,茶,絹織物,生糸,磁器などが国産化されていった。
それによって日本人の生活が大きく変った。国産化された場合,農民でも生活するためには,商品経済関係に入 らなければならなくなったのである。
・・・木綿は16世紀, とくにその後半か ら急速に全国に普及し, 17世紀の初めに庶民衣料としての地位を確立したとみ られる。
ところがこの頃から商品生産としての綿作(原綿栽培), 綿工業は畿内(大阪,京都を中心とする地域で,当時,日本で経済的にもっとも進んでい た)に集中する傾向がみられ,畿内では農工の分離が始まる。
北陸,東北,九 州など綿作の立地条件のよくないところは畿内から大量の原綿を買い入れ,原 綿から綿糸を作って綿織物にするようになり,東北J 九州という後進的な農村 も全国的な商品経済のネットワークの中に入ることになる。
・・・1714年に大阪に集められた商品は銀44万貫余と いう巨額に達するが,そのうも35.8%は蔵米, 即ち年貢米であった。幕府,藩 は農民からとり立てた多量の年貢米を大阪に送って販売し,その金で大阪で必 要な物資を買うか,江戸や国元(自分の領国〕に送金して財政を維持していた。

上記によれば1714年(吉宗の将軍就任1716年の2年前)時点で、大阪の商品取引高中で米の比率はすでに35、8%しかなかったことがわかります。
引用続きです。

III 近世後期 (18世紀後半以後〉の商品経済の発展
近世的経済構造は18世紀中期以後解体してゆく。
文化・文政期には,主要商品しかわからないが, 米以外の商品の中で,集荷量の不明のものが,判明する商品と同じ割合でこの 1世紀聞に増加したものと仮定すると,文化・文政期には蔵米は 150万石(1 石は約 5ブッシェル〉で1714年の112万石より増えているが,価額では全商品の13.7%に低下している。
他の商品のふえ方がはるかに多いことと,米の他の 商品に対する相対価格が下ったためである。
蔵米を 100として, 1711年に綿関係商品は18 であったが, 1736年に31となり, 1804~29年には 105 となっている。つまり木綿 関係商品が蔵米より多額になっているのである。
しかもこの資料には 18 4~29 年の綿関係商品には相当多額にあったと思われる縞木綿〔先染の綿織物〉と綿糸が欠けている。 蔵米と綿関係商品はたんに物として(素材的に)ちがう(米と衣料というように〉ということだけでなしその経済的性質が本質的にちがっている。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道2(秀才の限界3)

定信や水野忠邦の政治はいわば時の流れに棹さす・・反動政治ですから、これを歴史家が何故改革というのか不思議です。
定信は気に入らない学問を禁止したりすること自体、広く多くの意見を元に前向きに活性化しようとする気持ちがなかったことがわかります。
吉宗が自分の知らない意見を求めて目安箱を設置して広く意見を求めたのとは大違いです。
農業生産に頼る経済構造ではなくなりつつあったから、江戸等の大都市に人が集まってきた・・地方では食えないから集まっているということは、江戸大阪等の大都市の方が食える道(職)があるという嗅覚によるのですから・これを地方に返すと言っても無茶な政治です。
「農は国家の大本なり」という漢文を高校時代に読んだことがありますが、漁労採集の生活から農耕社会に移行した移行期の思想・・文字ができるかどうかの超古代思想(先秦諸子百家時代でも古すぎる思想として重視されなかった農家思想)としては理解可能ですが、こういう超古代思想を学んで江戸時代後半期に超古代社会に戻そうとする(現実無視の)理想?政治実現に奔走したから、教養重視の)学者にとって理想的政治家像になっているのでしょうか?
徳川政権草創時には、大名その他の経済力基準を米の収穫力・・何万石とか何俵何人扶持などと表現して軍役その他の基準にしていましたし、徳川政権発足後各大名も一円支配を利用して各領地内での水田稲作拡大(新田開発)に務め1600年〜1700年頃までも大多数の大名家では耕作地をほぼ倍増させていたとどこかで読んだ記憶です。
房総半島ではこの間ほとんど生産増がなかったことを何回書いてきましたが、これは大多数が旗本領に細分化されていたために、いわゆる一円支配がなかったことによると思われます。
新田開発には前提として水路整備のインフラ工事先行が必須ですが、千葉県では旗本の知行地が細分化されていたので、(一つの集落全部ではなく共有?・・極端な場合、一つの水田を複数の旗本が領有するような事例が紹介されているように)領主側にインフラ投資資金力もなければ意欲もなかった・現状維持政策に終始していたことによるでしょう。
このために(旗本規模での新田開発は無理があるので)幕府の公共工事として椿海と言われた干潟(現在の旭市)干拓事業や印旛沼干拓事業など推進していますが、その都度失敗しています。
吉宗がこれの延長上で直轄地での新田開発・米の増産に励みましたが、その頃には米の増産による武家の収入増政策は限界に達していたので、増産すれば相場下落に苦しみ、「米将軍」と揶揄されたのです。
食料不足は生命の危機ですから絶対的不足社会(エンゲル係数重視)では増産が重要政策ですが、(戦後物不足時代には作れば儲かる時代だったので、設備投資資金さえあれば儲かる時代でした)必要を満たすようになれば、増産だけでは価格下落するだけ・大阪堂島で米相場が必要になった所以です。
今ではコメも豚肉鶏肉野菜類も全て銘柄にならないと売れないし、洋服も洋服でさえあれば売れる時代ではありません。
ブランド化が必須になってきます。
元禄以降では、飲食店も食べ物さえ供給すればいいのではなく、味の良さ、しつらえのよさ、(1800年代に入りますが)笠森お仙のような客呼び版画などが流行るようになります。
性産業でさえ高級娼婦になるには深い教養教育して、付加価値をつける必要が出ていました。
次々と都会に人が集まるのは相応の需要があるからですから、それに見合ったインフラを整え、産業を興す必要性に思い至らず元の農村に戻れという定信の政策は、改革と言えるでしょうか・・無策すぎませんか?
今の日本経済を見ればわかるように人口の9割を農業に従事させるのは無理がありますし、コンピューター化について行けない人もいますが、そういう人救済のためにコンピューター化禁止するよりは、IT化適応教育訓練する方が合理的です。
大手メデイアは過疎化を悪しきものとして、しょっちゅうUターンを奨励し、ある小都市が最も幸福度が高いとか住みやすさ日本1などと4〜5年に一回の割で報道しては、Uターンした若者を英雄のように報道します。
過疎地の集落消滅を困ったものだという一方的な視点で報道しています。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道1(秀才の限界2)

Jul 24, 2019「社会変化→秀才の限界 1」以来横道にそれましたが、日本社会はしょっちゅう社会も権力構造も変わっていて適応力が問われる社会で、中国や朝鮮のように千年も2千年も同じ思想行動様式で続く社会ではありません。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び如何に精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょう。
それでも約300年毎に大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返しているのですが、その後また同じスタイルの王朝が繰り返され進歩=変化がないのは驚くばかりです。
殷の紂王の妲己、夏の桀王・末喜に始まり呉越の戦いの西施〜玄宗の楊貴妃まで美姫寵愛や奢侈(これも紂王の酒池肉林に始まりいつも同じパターン)に走ったから国が滅びた・というお定まりの批判でことを済ますからでしょう。
実際の原因は毎回そんな単純なものではない筈ですが、儒学では古代思想のママ現実当てはめをしないでことを済まそうとするからこうなるのでしょう。
江戸時代の改革の必要性と対応力の差に戻します。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょうが、(それでも約300年毎の大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返してきました)昨日まで見てきたように絶え間なく社会変化のある日本の場合古代思考の学習では解決出来るはずがありません。
各大名家は、藩政改革・貨幣経済発達とコメ生産に頼る経済システムの無理を正すために特産品奨励(=コメ以外の商品生産を工夫する改革)に励んだ西国大名系の改革が相応に成功していたのに対し、幕府はあくまで朱子学思考・・質素倹約・貨幣改鋳禁止・古代的思考の繰り返しに終始していたので幕末頃のは大きな差がついたのではないか?というのが私の関心です。
要するに産業構造を改を(リストラクチャリングして時代遅れの部門を縮小して新規需要のアリそうな分野に人材資源を回)して時代即応の商品生産拡大する視点が欠けていたか希薄であったということでしょう。
ちなみに上杉鷹山の改革成功は、定信〜水野らと違って生産拡大路線である点は西国大名と同じでしたが、旧来型農業生産向上策による成功でしたが、中部以西の西日本では貨幣経済化に対する構造変化能力(元禄時代にすでに赤穂藩では塩の生産商品化成功していたことが忠臣蔵で知られます)が求められていました。
これに気がついて構造改革に努力・成功していたかどうかで幕末にかけての経済力や人材教育レベルが違っていったのです。
徳川時代の三大改革・・・享保・寛政、天保改革に関するウイキペデイアによれば以下の通りです。

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する[1]。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては享保20年(1735年)や延享2年(1745年)とするなど複数説がある。
主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。

https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_3.html

蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。

先例に捉われない大改革によって、平賀源内のような奔放な人材が次々と出現できたし、結果的に合理化思考になれて、明治近代化に必要な人材の準備ができたのです。
吉宗の出自・・生まれつきの宮廷教育を受けなかったプラス面が出たのでしょう。
次の寛政の改革です。

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代に松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。
定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。また、一連の改革は田沼が推進した重商主義政策とは異なる。蘭学の否定や身分制度改定も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
改革は6年余りに及ぶが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
寛政異学の禁
柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
処士横議の禁
在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
旧里帰農令
当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、強制力はなかった[1]

吉宗の改革は文字通り社会の変化に対応するための大掃除リニューアル・・革新的なものでしたが、定信〜水野忠邦になると社会構造の変化を否定し、新たに生まれtきた戯作その他都市文化を禁止し、人口の都市集中の動きを農村へ戻そうとするなど、社会構造変化を元に戻そうとする努力中心です。

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