人民〜臣民〜国民3(明治憲法〜日本国憲法)

12月21日の国民や人民の用語に戻ります。
日本国憲法制定時に明治憲法の「臣民」をそのまま残すのは国民主権と矛盾し不可能になったのでその代わりの表現をどうするかが、当然大議論になったと推測されます。
明治憲法草案論争時に人民を主張していた人たちにとっては臣民になってしまって言わば論争負け組にとっては、日本国憲法制定時に人民と表記すべく巻き返しのチャンスだったはずです。
現憲法はGHQによる事実上の強制・原案を示されたのは、周知の通りです。
日本語の「国民」をピープルに訳したかの順序次第ですが、もしも英語原文が先行していた場合原文のpeopleをどう翻訳するかが重要だったと思われます。
もしも日本国憲法の原文がマッカーサーに示されてそれを日本語化したものとすれば・・ゲチスバーグ演説を下敷きにしたpeopleが当時一般的に「人民」と翻訳されていた・後に紹介する日米和親条約第1条に日本語版には「その人民」」という文字がありますので、これが一般的翻訳だったのでしょう・・とすれば、これを憲法上も人民と表現すべきという主張があったと見るのが素直でしょう。
日本国憲法草案としてマッカーサーが示した原文は以下の通りであったと本日現在のゲテイスバーグ演説に関するウイキペデイアに出ています。

1946年、GHQ最高司令官として第二次世界大戦後の日本占領の指揮を執ったダグラス・マッカーサーは、GHQによる憲法草案前文に、このゲティスバーグ演説の有名な一節を織り込んだ。
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.
— GHQによる憲法草案前文。強調引用者。
この一文がそのまま和訳され、日本国憲法の前文の一部となった。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

日本側との交渉の結果、完成したのが以下現行法であり、その英訳です。
日本国憲法英文を見ると前文冒頭は以下の通りです。
http://www2.kobe-u.ac.jp/~akihos/en/grenoble_docs/07CONSJAP1946.pdf

THE CONSTITUTION OF JAPAN
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity・・・.
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.

日本語の前文です。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

従来のピープルの翻訳や国内用語論争の経緯からすれば、人民と書くのが素直な結論のようですが、日本では古代から支配対被支配の根源的対立社会でないので、もしも明治の初めから人民と翻訳していたすればそれがそもそもの間違いだったのか?
・・私の拙い翻訳能力で言えば庶民〜領民が妥当か?不明ですが、・・憲法制定交渉のおおよその流れについては、このコラムで紹介したことがありますが、文言表現交渉の逐語的議事録まで読んだことがないので経緯不明ですが、結果から見ると日本側はピープルを人民と訳さず「国民」という用語に巻き返したように見えます。
とすると「人民による人民の・・」という明治以来の翻訳が間違いという主張をしたとすればその後の翻訳が「国民による国民のための・・」と変わる筈ですが、今に至るまで変わっていないようです。
私がゲティスバーグ演説の原文を読んだのは大学に入ってから・すなわち戦後約16〜7年経過頃ですが、その当時でも日本語訳は「人民の人民による・・・」というものだった記憶です。
高校大学にかけて漢詩や和歌、短歌その他気に入ったフレーズ丸暗記の年齢でしたので今も「人民の人民による〜」と口について出ます。
以来現在まで「国民の国民による・・」という翻訳を見たことがありません。
多分憶測ですが、「虐げられている段階では人民であるが、主権を握った後は虐げられている人民ではない」二項対立を脱却した以降は主権者であるから抵抗勢力ではあり得ないので、民主主義=民の主権国家になった以降の領民は、権力機構の一員でもあり、権力者の構成員でもあり、構成員として参画して決めた法に従う関係でもある・・総合的概念である「国の民」であるべきだというものだったのではないでしょうか?
続いて臣民概念について書いていきますが、「臣と民」の合体した上位概念として国民が考案採用されたのです。
明治憲法は、領民の中には、「臣と民」がいるという程の意味しか明記せずに、「臣と民」を合わせて何というかの総合概念としての国民概念をあえて採用しなかったようです。
人民にこだわるグループも総合概念ではなく、明治政府同様の「臣と民」の内、「民」の部分を政府転覆権=抵抗権を強調する立場ですし、明治憲法の臣民概念は、民にはそこまでの権利がないという言外の意味を込めたものだったのでしょう。
デモ等の行動を見ると民衆・大衆の行動というにふさわしく、「国民行動」というとなんとなく違和感を感じるのは私だけでしょうか?

国民2(旧刑法1)

ところで法律用語として登場する「国民」と「臣民」「人民」の関係を見てみると、明治憲法〜敗戦まで、我が国では、臣民という用語の他に自由民権運動で憲法制定運動が盛り上がる前の明治14年旧刑法で、すでに「国民」という熟語が出てきます。
ということは、その何年も前から国民という用語が議論対象になっていた(・・江戸時代までには、公卿〜士族や商人農民・・庶民を含めた総合概念)憲法制定運動当時には法律専門家の間では常識化していたことがわかります。
https://ja.wikisource.org/wiki/
刑法 (明治13年太政官布告第36号)

1880年
公布:明治13年7月17日
施行:明治15年1月1日(明治14年太政官布告第36号による)
廃止:明治41年10月1日(明治40年4月24日法律第45号刑法の施行による)
沿革(法令全書の注釈による)

第3節 附加刑處分
第31条 剥奪公權ハ左ノ權ヲ剥奪ス
一 國民ノ特權
二 官吏ト爲ルノ權
三 勲章年金位記貴號恩給ヲ有スルノ權
四 外國ノ勲章ヲ佩用スルノ權
五 兵籍ニ入ルノ權
六 裁判所ニ於テ證人ト爲ルノ權但單ニ事實ヲ陳述スルハ此限ニ在ラス
七 後見人ト爲ルノ權但親屬ノ許可ヲ得テ子孫ノ爲メニスルハ此限ニ在ラス
八 分散者ノ管財人ト爲リ又ハ會社及ヒ共有財産ヲ管理スルノ權
九 學校長及ヒ敎師學監ト爲ルノ權

上記の通り、旧刑法31条には国民の用語があります。
旧刑法とは現行刑法明治四十年刑法施行まであったものです。
この時点で既に「国民」という用語が採用されていたことに驚きますが、旧刑法制定の経緯を07/08/06「明治以降の刑事関係法の歴史6(旧刑法・治罪法1)(実体法と手続法)」前後で連載していますが、2006年7月8日のコラムを見直してみると、

「ボワソナードは、来日当初は自分で草案を作成せずに、気鋭の若手に講義する御雇い外国人そのものだったのです。
この講義を聴いた日本人が刑事関係法典の編纂事業に携わっていたのですが、うまく行かず、明治8年ころからボワソナード自身が草案作成に関与するようになったのです。
この作業は、フランス法を基礎としながらも、ベルギー、ポルトガル、イタリア各国の刑法案を参考にして編纂されたものでしたから、この刑法典は、ヨーロッパ刑法思想の最先端を集大成した法典化であるとも言われています。
この法典は約5年の歳月を経て結実し、明治13年(1880年)に太政官布告され、明治15年(1882)年施行されました。」

とあり、5年間も議論にかかったのは、ボワソナード民法が法典論争を引き起こしたように、何を刑事処罰し、刑事処罰しないか、且つ個々の刑罰をどの程度にするかは、他犯罪との比較が重要で民族価値観を敏感反映するものですから、国内価値観との調整などに時間をかける必要があったからでしょう。
例えば、古代から天皇家に対して弓をひくなど恐れ多くて許されないのは常識として武家諸法度その他法令が発達しても刑罰対象になるかの法定をしていませんでした。
例えば伊周の失脚の直接のキッカケは、(一般化されていますが、史実かどうか不明です)子供じみたことですが、女性問題で花山法皇の牛車に弓を射かけたというものでした。
朝廷に対する不敬罪を規定した御法度がなかったように徳川体制に刃向かう・謀反は当然許されない大前提でしたが、そういう常識的な御法度がなくて当然の社会でした。
これらも刑法で処罰関係が条文化されたものです。
もう一度旧刑法を見ておきます。

第2編 公益ニ關スル重罪輕罪
第1章 皇室ニ對スル罪
第116条 天皇三后皇太子ニ對シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第117条 天皇三后皇太子ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ處シ二十圓以上二百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
2 皇陵ニ對シ不敬ノ所爲アル者亦同シ
第118条 皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス其危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期徒刑ニ處ス
第119条 皇族ニ對シ不敬ノ所爲アル者ハ二月以上四年以下ノ重禁錮ニ處シ十圓以上百圓以下ノ罰金ヲ附加ス
第120条 此章ニ記載シタル罪ヲ犯シ輕罪ノ刑ニ處スル者ハ六月以上二年以下ノ監視ニ付ス
第2章 國事ニ關スル罪
第1節 内亂ニ關スル罪
以下略

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