法人実在説の有用性?

日本では判例上法人実在説が確立しているので、学者は別として、我々実務家では、遠い過去の「終わった」議論になっているはずですが・・・?
20年2月28日現在の法人本質論に関するウイキペデイアの記事です。

法人本質論とは、法人の制度について、その根本の理由を明らかにしようとするものである。
考え方によって、法人に対する法律の運用に大きな影響を与える。法人の本質には、法人擬制説、法人否認説、法人実在説の対立がある。
なお、法人擬制説と法人実在説の論争は法人税をめぐる議論にも存在するが民法におけるそれぞれの立場と同じものではない[1]。
法人擬制説は、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーの提唱した考え方で、自然人の平等な権利能力を前提とする民法において、法が特に人格を擬制したのが法人であるというもの。いかなる実体が法人として認められるかは法の裁量によることになる。
結果として、この理論は、二つの異なる論点を含むことになる。
法によって認められない実体は法人ではない
フランス革命モデルからも明らかなように、近代法の草創期においては、団体というのは個人の自由を阻害するものであると考えられた(ギルドなど)。
近代法は、自然人から構成される平等な市民社会を構想したから、このような団体は敵視され、たとえ団体たる実体を備えた社会的存在であっても、法が人格を認めなければ法人ではない、という思想が適合的であったわけである(樋口陽一の「法人の人権」否認論を想起せよ)。
この思想は、法人について特許主義を採用したい当時の国家の思惑とも合致したために、広汎に支持された。日本民法も33条で法人法定主義を採用しているが、これは、法人擬制説の表れと見ることができる。要するに、法人に対して謙抑的な法政策が採用される場合には、「法によって認められない実体は、法人ではない」という論理が強調されることになる。この学説の当初の思惑は、こちらである。
法によって認められた実体は法人である
これに対して、法人に対して拡張的な法政策が採用される場合には、「法によって認められた実体は法人である」というまったく正反対の方向のモメントが強調されることになる。例えば、現在の日本商法は一人会社を認めているが、一人の個人には社団性はない。しかしながら、法がそれを法人と認めるのであれば、仮令社団性がなくとも、それを法人と認めよう、という姿勢も論理的に演繹できるのである。
また、法人というのは、権利義務の帰属点を提供するための擬制に過ぎないのであるから、権利能力さえ認めれば十分で、行為能力まで認める必要はない(代理人の法律行為の効果が法人に帰属するという構成をとれば十分である)、という考え方と(必ずしも論理必然ではないが)結びつく。民法44条が「理事其他ノ代理人」として、理事を代理人と観念していたことは、起草者が法人擬制説を採用していた一つの根拠であるとされることがある。
法人否認説[編集]
法人否認説は、ルドルフ・フォン・イェーリングなどにより主張された考え方で、法人擬制説を発展させたもの。法人という擬制の背後にいかなる実体(真の法的主体)があるのかを解明しようとする。その解明の結論により、法人の財産が実体であるとする説(目的財産説)、法人の財産を管理する者が実体であるとする説(管理者主体説)、法人の財産によって利益を受ける者が実体であるとする説(受益者主体説)がある。
法人実在説[編集]
下記の法人有機体説・法人組織体説・法人社会的作用説をまとめて、「法人実在説」と呼ぶ。法人擬制説に対するアンチテーゼとして、このようにまとめて扱われることが多い。
日本の判例・学説においては法人実在説がやがて主流となった。この結果、法人擬制説に傾倒している日本民法を、法人実在説的に解釈していくということになった。このことも、次の二つの異なるモメントを包蔵する(但し、法人擬制説の二つのモメントとは異なり、同方向のヴェクトルを指している)
たとい法が法人と認めていない社会的存在であっても、それに相当する実体を備えている場合には、(組合ではなく)法人に準じた法的処理をしようということになる(法人擬制説を採るならば、このような法関係は一律に組合契約として処理することになる)。これが、いわゆる「権利能力なき社団」や「権利能力なき財団」であり、いずれも判例・通説の認めるところとなっている。
たとい法が法人と認めている社会的存在であっても、それに相当する実体を備えていない場合には、法人格を否定しようということになる。これが、いわゆる法人格否認の法理である。法人格否認の法理は、判例の認めるところとなっている。

民法44条の削除はhttps://www.minnpou-sousoku.com/commentary-on-civil-law/44/によれば以下の通りです

本条は2008年12月1日の法人整備法(正式名称「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」)、法人法(正式名称「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」)、公益認定法(正式名称「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」)の施行により、削除されました。
旧民法44条の規定は、次のとおりです。
旧民法第44条第2項(法人の不法行為能力等)
1 法人は、理事その他の代理人がその職務を行うについて他人に加えた損害を賠償する責任を負う。
2 法人の目的の範囲を超える行為によって他人に損害を加えたときは、その行為に係る事項の決議に賛成した社員及び理事並びにその決議を履行した理事その他の代理人は、連帯してその損害を賠償する責任を負う。
昨日見たttps://www.minnpou-sousoku.com/commentary-on-civil-law44の引用続きです。
2008年の民法改正以降の本条に対応する新規定は、法人法第78条・第117条・第118条です。
また、法人の不法行為能力に関しては、法人法に多くの関連規定があります。
とありますので、略称法人法を見ておきます。
七十八条 一般社団法人は、代表理事その他の代表者がその職務を行うについて第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
(役員等の一般社団法人に対する損害賠償責任)
第百十一条 理事、監事又は会計監査人(以下この款及び第三百一条第二項第十一号において「役員等」という。)は、その任務を怠ったときは、一般社団法人に対し、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
民法旧規定の「役員その他代理人は」という民法旧規定の「代理人」をなくして、「代表者が」と変更しています。
商法では早くから代表者代表取締役という名称が採用されていたのに対して民法の改正が遅れていただけのことでしょう。
ちなみに現行商法は明治32年法律第48号最終改正:平成30年5月25日法律第29号
ですが、平成17年に会社法部門が独立法になって削除されるまで、商法中に会社法がありました。
私が法学部に入った頃には、すでに代表取締役の文言があったのでいつからそうなっていたかでしょう。
旧商法に関するhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945296/8・・(官報. 1890年04月26日)を見るとロエスレル商法全文が記載されているので、これの186条を見ると「取締役代理権」という文言になっているので、当時は民法同様に代理権という考え方だったようです。
旧商法の施行期間はhttp://www.i-design-lab.jp/companyvalue/corporate-governance/によれば、以下の通りです。

この法律は明治23年に施行されて8ヶ月で施行延期?されたもので、日本で本格的に施行された商法は現行商法(1899年明治32年)になります。
ロエスレル商法草案が脱稿したのが明治17年ですが、旧商法が公布されたのは明治23年、それも8ヶ月で施行延期となり、会社法・手形法・破産法など一部が施行されたのが明治26年、新商法として施行されるのは明治32年と完全施行までなんと15年の月日を要している・・・。
http://www.waseda.jp/hiken/jp/public/sousho/pdf/41/ronbun/A79233322-00-0410175.pdfはロエスレル商法の研究論文ですが、(取締役3名以以上との規定があるが取締訳解の規定が欠けているという流れの中で明治32年の新商法169条、170条で、「取締役各自執行、各自代表」になっているとの紹介があります。
ということは明治32年段階で既に代理ではなく「代表」とする法制度が始まっていることになります。
以上によれば民法の旧条文に代理と書いていることを理由にする(だけではないですが)部分は、法人擬制説は揚げ足取り的主張としてついにで行った程度でしかないので基本法である民法を改正するまでもないと長年放置されていたのではないでしょうか?
必要な議論は、一定の組織集団には独自の経済主体性がある・・だからこそ社会的有用性があって議論しているのですから、・・のでその集団にその名で一定の権利を享受する資格・当事者適格を与えるべきかどうかの問題でしょう。
誰でも集団を名乗ればそういう資格を得られるのでは、社会が混乱するのでどういう資格をどういう集団に与えるべきか→それにはどういう要件がいるか?その基準・要件を国家が決めてその要件・基準を満たしている限り一定の資格を与えるという制度です。
それを法人と言うかどうかは別として、一定の活動能力を与え、活動させる以上は、それに必要な資金や資産の保有者でないと契約も何もできません。

法人本質論

ウイキペデイアによる解説です。

法人格否認の法理とは、法人格が形骸にすぎない場合や法人格が濫用されている場合に、紛争解決に必要な範囲で、法人とその背後の者との分離を否定する法理。
アメリカの判例理論に由来する法理である。日本の法律に明文の規定はなく、1969年(昭和44年)の最高裁判所第一小法廷判決[1] 、最高裁によってその法理としての採用が初めて認められた。以降、裁判例での採用が相次ぎ、学会での研究も進んだが[2]、実定法上の根拠は商法・会社法上には存在せず、民法1条3項などの一般条項に求められる[3]

私が法律の勉強を始めた頃の基本書には法人は法の擬制によるのか?法人ってほんとに人なのか?
まだ、法人擬制説と実在説の両論があってその優劣が論じられるのが勉強の始まりでした。
いまどきそんな議論をする人はいるのでしょうか?
日本では判例上法人実在説が確立しているので、学者は別として、我々実務家では、遠い過去の「終わった」議論になっているはずですが・・・?
20年2月28日現在の法人本質論に関するウイキペデイアの記事です。

法人本質論とは、法人の制度について、その根本の理由を明らかにしようとするものである。
考え方によって、法人に対する法律の運用に大きな影響を与える。法人の本質には、法人擬制説、法人否認説、法人実在説の対立がある。
なお、法人擬制説と法人実在説の論争は法人税をめぐる議論にも存在するが民法におけるそれぞれの立場と同じものではない[1]。
法人擬制説は、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーの提唱した考え方で、自然人の平等な権利能力を前提とする民法において、法が特に人格を擬制したのが法人であるというもの。いかなる実体が法人として認められるかは法の裁量によることになる。
結果として、この理論は、二つの異なる論点を含むことになる。
法によって認められない実体は法人ではない
フランス革命モデルからも明らかなように、近代法の草創期においては、団体というのは個人の自由を阻害するものであると考えられた(ギルドなど)。
近代法は、自然人から構成される平等な市民社会を構想したから、このような団体は敵視され、たとえ団体たる実体を備えた社会的存在であっても、法が人格を認めなければ法人ではない、という思想が適合的であったわけである(樋口陽一の「法人の人権」否認論を想起せよ)。
この思想は、法人について特許主義を採用したい当時の国家の思惑とも合致したために、広汎に支持された。日本民法も33条で法人法定主義を採用しているが、これは、法人擬制説の表れと見ることができる。要するに、法人に対して謙抑的な法政策が採用される場合には、「法によって認められない実体は、法人ではない」という論理が強調されることになる。この学説の当初の思惑は、こちらである。
法によって認められた実体は法人である
これに対して、法人に対して拡張的な法政策が採用される場合には、「法によって認められた実体は法人である」というまったく正反対の方向のモメントが強調されることになる。例えば、現在の日本商法は一人会社を認めているが、一人の個人には社団性はない。しかしながら、法がそれを法人と認めるのであれば、仮令社団性がなくとも、それを法人と認めよう、という姿勢も論理的に演繹できるのである。
また、法人というのは、権利義務の帰属点を提供するための擬制に過ぎないのであるから、権利能力さえ認めれば十分で、行為能力まで認める必要はない(代理人の法律行為の効果が法人に帰属するという構成をとれば十分である)、という考え方と(必ずしも論理必然ではないが)結びつく。民法44条が「理事其他ノ代理人」として、理事を代理人と観念していたことは、起草者が法人擬制説を採用していた一つの根拠であるとされることがある。
法人否認説[編集]
法人否認説は、ルドルフ・フォン・イェーリングなどにより主張された考え方で、法人擬制説を発展させたもの。法人という擬制の背後にいかなる実体(真の法的主体)があるのかを解明しようとする。その解明の結論により、法人の財産が実体であるとする説(目的財産説)、法人の財産を管理する者が実体であるとする説(管理者主体説)、法人の財産によって利益を受ける者が実体であるとする説(受益者主体説)がある。
法人実在説[編集]
下記の法人有機体説・法人組織体説・法人社会的作用説をまとめて、「法人実在説」と呼ぶ。法人擬制説に対するアンチテーゼとして、このようにまとめて扱われることが多い。
日本の判例・学説においては法人実在説がやがて主流となった。この結果、法人擬制説に傾倒している日本民法を、法人実在説的に解釈していくということになった。このことも、次の二つの異なるモメントを包蔵する(但し、法人擬制説の二つのモメントとは異なり、同方向のヴェクトルを指している)
たとい法が法人と認めていない社会的存在であっても、それに相当する実体を備えている場合には、(組合ではなく)法人に準じた法的処理をしようということになる(法人擬制説を採るならば、このような法関係は一律に組合契約として処理することになる)。これが、いわゆる「権利能力なき社団」や「権利能力なき財団」であり、いずれも判例・通説の認めるところとなっている。
たとい法が法人と認めている社会的存在であっても、それに相当する実体を備えていない場合には、法人格を否定しようということになる。これが、いわゆる法人格否認の法理である。法人格否認の法理は、判例の認めるところとなっている。

法人の成立要件

法による定義が普及したのは、人によって単語の意味が違うと困るからです。
自然人の場合、外見だけで子供か大人かわかりますが、法人はちょっとした外見からでは一人前の集団かどうか不明ですので、内部組織や資本などの内部がしっかりしたものしか法人格を認めないということで信用を確保するようになっています。
人間の場合、子供か大人くらいはわかるがその人の人格や能力は不明なので大雑把に知るには学歴が大きな指標になりますし、どこそこの従業員といえばその信用になるのですが、どこの所属しているかではなく、個々人の具体的能力を公に示すには運転免許その他各種技能資格が発達していきます。
医師や弁護士のようにその資格だけで生きていければ、どの集団に所属しているかにこだわる必要が低くなります。
今や、法人の場合も全て法で決められた基準に合致したものだけが、証券会社や銀行などの特定の名称を名乗れる時代です。
「人」は生まれながらにして・・生まれたこと自体で直ちに平等に権利主体になれるのですが、人と同じように何かの権利主体になれるのは、法で決められた基準に合致する組織にしたうえで設立手続(登記)した集団だけと宣言したのが民法です。
人は能力や家柄身分に関わらず等しく権利能力の主体ですが、法人の場合、公益法人や医療法人あるいは財団法人等々法人の仕組みによって多種多様ですし、登記して初めて法人として生まれる・成立するのですが、人は生まれたこと自体で人の資格がある・・出生届しなくとも人です。
財産法では登記手続きを了していることは一般的に対抗要件ですが、法人に関しては成立要件です。
会社法の会社は昔から登記が成立要件でしたが、民法の公益法人は主務官庁の許可によって成立する方法でした。
公益法人3法という法律成立・施行後は一般社団〜一般財団は許可制でなくなったので会社法同様に登記によって成立することになりました。

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律

(平成十八年法律第四十八号)
第五款 一般社団法人の成立
第二十二条 一般社団法人は、その主たる事務所の所在地において設立の登記をすることによって成立する。

公益法人は、この一般社団・財団が一定の後継事業の基準に合致した場合に公益法人としての特典が得られる仕組みですので、結局は特別法によって設立される法人以外の一般的民間団体は、登記が成立要件になっていると見るべきでしょう。
基本的理解として言えることは政府の許可を得て成立する法人は、政府や国会の厳格な審査によって法人格が認められたものであるが、法人の有益性が強調された商業分野では設立自由化論が盛んになって、会社設立が盛んになったのですが、民間が一定の基準さえクリアーすれば自由に法人を作れるようになると、一般には基準をクリアーした法人かどうか不明なので登記した時点で法人と認めることにしたということだったのでしょう。
公益目的の場合許可主義・がちがちの監督を緩めてもっと自由化しようとなったので、公益法人も許可主義をやめて(何が公益かの基準が不明朗だったのを詳細なガイダンス等で透明化した?)いわゆる準則主義に変えたようです。
その代わり登記が成立要件になったということでしょうか。
ロボット同様の人造人間?なので法・国民合意の範囲内でどのような種類・能力(性能?)のある法人を作るのも勝手ということでしょうか?
ロボットが勝手に動き回ると困るので?法人は設立目的の範囲内でしか行為能力がないという議論もあります。
人間の場合、家業を継がせる目的で子供を産んで育てても子供は親が産んでくれた目的に従う義務がありませんが・・。
法人は法によって権利能力を与えられているので、法によってその権利能力を制限することも可能です(民法34条)。
八幡製鐵所最高裁判例があります。
八幡製鐵所事件のウイキペデイアの記事からです。

(最高裁判所大法廷判決昭和45年6月24日 民集24巻6号625頁/判時596号3頁)
政治献金は会社の権利能力の範囲内である。
会社は定款所定の目的の範囲内において権利能力を有する、との前提に立ち、目的の範囲内の行為とは定款に明示された目的に限らず、その目的遂行のために直接または間接に必要な行為すべてを含む。
会社も自然人同様、社会の構成単位であり、社会的作用を負担せざるを得ない。その負担は企業の円滑な発展に効果があり、間接的ではあるが、(定款所定の)目的遂行上必要といえる。
政治献金も同様で、政党政治の健全な発展に協力することは社会的実在たる会社にとっては当然の行為として期待される。
会社の政治献金は参政権違反ではない
会社は自然人同様、納税者たる立場において政治的意見を表明することを禁止する理由はない。
憲法第三章「国民の権利及び義務」は性質上可能な限り内国の法人にも適用すべきであり、政治的行為の自由もまた同様である。

内部規律・組織が法人となるにふさわしい内実を持っていても、設立登記をしていない集団は、権利能力なき社団とされていますし、逆に形式的に法人となる設立基準に合致した書類を揃えて登記したとしても、実質的に個人組織と変わりがないときには、法人格が否認されることがあります。
これが法人格否認の法理です。

法人の成立と事業目的の必須性

法人実在説等の紹介から、だいぶ話題が逸れてましたが、March 2, 2020 「法人3(自然村と法律村)」の続きになります。
法人の場合、人間のように生まれたことだけで権利能力があるというのではなく、法が特に認めてある集団に人格を認めるには、社会的有用性があるからそういう制度の必要性があり、法人格を認めようとなったものです。
ですから無目的な法人の設立はない(社会的有用な仕事をする目的もないのに法人格を認めない)ので、法人の設立に際して法人の目的を決めるのが必須要件です。
人間のように生まれてから「俺、何のために生まれてきたのか?」と自問する余地(悩みがなくて良い?)がありません。
法人は無目的に成立することがないので、いわば行為能力と権利能力は合体しています。
法人という抽象的なものはなく、10数年ほど前までは大きく分ければ公益法人と営利法人の二種類でしたが、公益法人3法ができて以来営利系の株式会社とその他の会社があり、株式会社の中でも証券や金融系、製造系サービス系の会社などに別れていきます。
公益法人というジャンルとの中間に一般社団・財団法人があり今は3分類時代というべきでしょうか?
何れにせよ法人になるには当初lから何々法人という法人としてやるべき目的別ジャンルが決まっている仕組みです。
人の場合には、歌舞伎役者の後継と決まっているような人もいますが、それは事実上そうなることが多いというだけであって、本人が別のことをしたければ何をしようと勝手です。
目的が決まるだけではなく目的に応じた運営規則も決まっています。
会社法という法規制に合致して設立されると会社といい、株式会社と言うためにはその方式に従った内部組織や設立手続きを経て株式会社と言えるのですが、その設立目的を定めないと法人設立ができません。
法人設立の場合「法人の目的」が必要的記載事項になっています。

http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.htmlによれば、公益法人3法成立前の民法旧規定(法人設立の基本法)は以下の通りでした。

(定款)
第三十七条 社団法人を設立しようとする者は、定款を作成し、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  目的
二  名称
三  事務所の所在地
四  資産に関する規定
五  理事の任免に関する規定
六  社員の資格の得喪に関する規定

これが各法人ごとの法律に基本的に承継されています。
例えば以下の通りです。

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律
(定款の作成)
第十条 一般社団法人を設立するには、その社員になろうとする者(以下「設立時社員」という。)が、共同して定款を作成し、その全員がこれに署名し、又は記名押印しなければならない。
第十一条 一般社団法人の定款には、次に掲げる事項を記載し、又は記録しなければならない。
一 目的
二 名称
三 主たる事務所の所在地
四 設立時社員の氏名又は名称及び住所
五 社員の資格の得喪に関する規定
六 公告方法
七 事業年度

すなわち無目的の法人設立は認められない点が、無目的に生まれてきても良い人間(自然人)との違いです。
法人は成立前にやるべき仕事や名称を決める必要がありますが、人間は生まれてから親が名前をつけるし、いつになったらどんな仕事するかもわかりません。
その中でも銀行業を営むには銀行に特化した規則に則った規則を作りその法律による業法の免許を得て初めて銀行業を行えるのであって、「法人」という抽象的なモノを設立すれば銀行業を行えるものではありません。
証券会社、日本航空なども皆同じです。
人といえば誰でもわかるような気がする人が多いでしょうが、人の終始・出生により始まり死亡によって終わるのですが、何をもって出生というかは実は微妙なので判例学説で細かく決まっています。(一部露出説、全部露出説)
それでも人情に反する場合に対応するために相続限定ですが、のちに生まれた場合に限り、胎児の段階で「生まれたものとみなす」規定が置かれています。
このみなし規定も解釈が分かれて、停止条件説と解除条件説があります。
この辺については、どういう実務上の違いが起きるかは大分前に解説したことがあります。
コラム内検索してみると1/20/02「胎児の権利能力(民法11)3」前後で7〜8回連載していることが分かりました。
初めの頃は一回のコラムが短かったので番号順に通して読んでもらう必要がありそうです。
住所とか家といってもどういう要件があると家というかも住所というかも民法で決まって行きました。
人によって単語の意味が違うと困るからです。
ただし、いろんな資格ができてくるとそれぞれの法目的に応じた住所や建物や言葉の定義ができてきます。
そこで最近では法律ごとに「この法律ではこれこれを〇〇という」という定義規定を設ける法律が増えてきました。
住所の場合も、選挙人名簿を作るとか国民健康保険や税金等の法技術上の必要から、住民票記載の住所をさしあたり基準にしますが、最終的には民法の定める住所であるか否かで決めることになっています。
訴訟などでは、登記上の住所とか住民票上の住所と本当の住所とを併記して書くことがしょっちゅうあります。(離婚事件ではしょっちゅうです)
10年以上前かな?起きた有名な事例では当時の長野県知事が、木曽地方に住民票を移していた点が問題になり、訴訟結果そこには住所がないという結果になり耳目を騒がしましたし、武富士事件では香港だったかに移転していた住所が正しいかで争って、武富士側(正式には創業者の息子個人)が勝って2000億円前後の税の還付を受けた事件がありました。
建物も建築基準法で規制すべき建物と民法でいう建物とは違うので、(一定規模以下の建物は基準法の規制外です)少しズレがあります。
ですから建築準法で建物扱いしないからとか、違法に建てたものだから建物でないということはできません。
土地明け渡し事件では、敷地内にある小屋類が建物かどうかをいつも判断して訴訟しています。
建物であれば、「土地明け渡し」だけの主文で建物収去の主文がない場合、取り壊しの執行できず、もう一度判決の取り直しになってしまうからです。
昨年秋に終わった事件では昭和40年頃に建てた10数坪の貸家に隣接して借家人が建てた鉄骨2階建ての建物が、元の古家に付合したもので2つ合わせて一個の建物かどうかで悩んだ事件でした。
独立の建物とすれば土地明け渡し判決だけでなく、建物収去を認める判決主文プラス収去命令がないと建物収去の間接強制できませんが、単純な建て増しでなくお互い外壁もあるが、屋根だけ繋いであって鉄骨新築にはトイレや台所もない水も出ないし建物の効用から見て独立性がないので一個の建物とすれば、大家所有ですから自分のものを相手に壊せと主張できません。
相手は自分のものとして固定資産税を払ってきたとしても、この際の基準にはなりません。

法人3(自然村と法律村)

話題を法人に戻します。
法人は前もって存在目的やそのような組織にするための設計を定めないと成立自体ができないと書いてきましたが、この考え方はロボットその他人工物は前もって存在目的や目的実現するに足る機能を備えたものであるという設計図?と機能等を定める必要がある点は同じです。
建物は建築前に用途を決めて、その目的にあわせて基準法に合致した設計図を揃えて新築(生まれてくる)されます。
ところで視点を変えると人間の場合もDNA(建物の設計図?)で実は生まれる前からいつ頃こういう病気になるとか役割が決まっているとすれば、今の所それこそ「神の領域でしょう」とすぐ思いたくなるのが凡人である私の習癖ですが、実存哲学では「神は死んだ」というニーチェの宣言を前提に発達した思想のようで、「神にお任せ」と言えない点が厄介です。
身体障害で生まれた子も、「自分で運命を切り開いて行くべき」となりますし、生まれつきの虚弱者に限らず劣悪環境も「運が悪かったと開き直るのでなく)自分でどうやって切り抜けて行くかの知恵次第・可能性を提示したのは実存哲学の功績ですが・・みんながみんなそういう能力があると限らないのが辛いところです。
もちろんそのハードルを下げるための社会的底上げ政策は必要ですが・・。
それは健常者や社会的成功者による所得分配→インフラ整備によるので、(卑近な例で言えば駅にエスカレーターやエレベータの設置、障害者用トイレ設置普及率)結果的に豊かな社会で生まれるか貧困地域で生まれるかの運次第ともなります。
インフラだけでは異性から愛されるかの究極的願望は解決できません。
個々人の生き方の蓄積が人格形成するのですが、インフラは画一的平等化を進めるもののヒトは他者との違い・・個性を重視するものですから個性・他者との違いをどのように形成するかは、文字どおりDNAによるところ大です。
これが劣っているために誰からも愛されない状況に陥ると政治の力で解決するのは不可能です。
モテない男にとってはサルトルのいう自由刑に処せられている牢獄に生きるようなものでしょう。
サルトルとボーボワールは実存・自己実現競争社会の勝者として、一世を風靡したので若者にはまぶしかったというべきです。
(異性にモテる人よりモテない方が多数です)その矛盾を直感的に感じている若者に対して(パリでのカルチェラタンの占拠学生運動)彼は「既存秩序をぶち壊せ!」社会活動扇動によって落ちこぼれる若者の不安に応えたのでしょうか?
昭和40年代前半の世界で吹き荒れた「荒れる大学の時代」が終わって彼ら夫婦?の偶像がしぼんで行ったと見るべきでしょう。
唯物史観・・下部構造が概ね上部構造を規定していく面があるとしても、これに対すr反動もあれば金融政策や財政出動等で景気下降を防ぐなどのいろんな修正要素があるように実存哲学もある一面の真理を表しているに過ぎなかったのでしょう。
話題を人工物に戻します。
ビルも飛行機や車も薬品も民間の創意工夫によって新製品が生まれるとしても、最終的に商品として世に出るには、国家が決めた基準に合致する申請をして許可を受けて初めて出荷や建築可能です。
このように(物品であれ法人であれ法制度であれ)人工のものはAIによって動くロボットやドローンであれ、概ね国家が認める方法によって製造され完成品検査を受けて合格して初めて流通するというか、規格品になります。
国家が関知しない製品もありますが、それは自由に任せても大した危険がないから許容範囲として細かいことまで許認可を必要としないだけです。
人間の場合、妊娠前に国家の許可がいらないし、生まれてから完成検査を受けて問題ないと合格して初めて人間になるわけではありません。
障害者も貧困者も生きる権利があります。

憲法
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
このように人としての権利主体性があるとしても、法人と人とはだいぶ違うので法人制度ができる前の人を法学上「自然人」と言い、法の定める規準規格合致で初めて権利主体となれる法人と区別しています。
明治以降の村をその道の専門家が行政村といい、村に昇格する前および、昇格しなかった集落を自然村ということをFeb 18, 2020 12:00 am「さと」(郷と里)2(村)で紹介しましたが、自然人と法人の区別に関連する関心からいえば、行政上の村?と言うより法律上の村と自然村と区別すべきかと思われます。

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