国(くに)とは?4(日米和親条約)

現在人はいわゆる華夷秩序が意識の前提にあるので、自分の支配地域を国というと中国王朝の属国・・半独立国のイメージになるような固定観念が邪魔するのですが、華夷秩序は超古代から存在するものではなく国の上に君臨する秩序を宣言したのは秦の始皇帝が最初です。
それ以前には他地域支配者相互に国と表現していたのではないでしょうか?
相手が帝国というなら帝国でもいいし合衆国というならそれでもいいという日本の態度であり、華夷秩序外の欧米同様の態度ではないでしょうか?
実際に日米和親条約時の米国の態度はそういういうものでした。
日米和親条約をウイキペデイアで見てみました。

英文における正式名称は「Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)」であり、前述のように「Treaty of Kanagawa」と通称される。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ratification_of_the_Japan_USA_Treaty_of_Peace_and_Amity_21_February_1855.jpg?uselang=ja
これによると第一条に
「日本と合衆国とは、其の人民は永世不朽の和親を取結び・・・」

「安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[31]。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった[32][33]。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」[34]、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた[35]」

国際社会では、誰が日本を代表するのかを気にしていますが、日本が帝国か、皇帝か国王かなど気にしていないのです。
双方署名欄部分のコピーが見られないので日本をどのように表現して署名していたか不明ですが、日本は第一条ではアメリカを国と表現しています。
ステートを国と習いますので、United States というのはまさに日本が三河国や尾張国などいくつかの国等で成り立っているという表現と同じです。
岩倉使節団のビクトリア女王宛の全権大使委任状を見ると大日本帝国と書かずに日本国天皇としています。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/Iwakura-mission/photo/ininjou/index.html
公文附属の図・国書御委任状・第五号 大不列顛愛倫皇帝ウィクトリア陛下
請求番号:附A00302106 国立公文書館所蔵

日本の朝廷が大王(おおきみ)から天子、天皇の称号を唱えるようになるのは、聖徳太子の頃のようですが、正式公文書で決められたのは大宝律令(701年)以降のようです。
皇帝に関するウイキペデイアの説明によると以下の通りです。

「天皇」号の使用は、607年聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。
701年の大宝律令の儀制令と公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている[27]。

以上によると聖徳太子の頃から中国の王朝に冊封された王とは違うという意味で強がって天子と名乗ったことがわかりますが、だからといって帝「国」と主張した訳ではありません。
自国は帝国ではないので「国」であるが、華夷秩序に入って属国として「冊封された国ではない」という意味で天子と名乗ったのでしょう。
日本は中国歴代王朝に冊封されず、独立国の立場でやってきたというのが一般的理解ですが、聖徳太子以前の紀元前からの歴史がよくわからない教育をされ、それを鵜呑みにして迂闊にも私はその前時代を考えたことがありませんでした。
しかし近年考古学の大発見が続き日本の古代史が大きく変わってきました。
三内丸山遺跡発掘でわかってきたように、実は紀元前の縄文時代から大規模な集落を営み、かつ広域の交易をしてきたことがわかってきました。
聖徳太子から始める歴史(上記ウイキペでイア説明を含め)は無理が出て来ました。

三内丸山遺跡とは

三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。

しかも、これだけの規模の集落が営まれてきたことから大規模な交易が行われてきたことも分かってきています。
ここから分かることは、聖徳太子以前の4〜5千年も前から日本列島外の諸集団と国際交流が行われていたことになります。

ロシアの脅威7(日露和親条約)

関税と違って主権にかかわるので重要性が違うという人がいるかも知れませんが、治外法権制度も領土さえ失わなければ実際に不都合な事件が起きれば・・例えば沖縄でちょっとした?事件が起きる都度米軍地位協定の見直しが行われてきたのを見ればわかるように、不都合な事態が起きればそれに合わせた修正可能です。
また治外法権でなくとも、幕末に異人の殺傷事件が起きると幕府は放置できず幕府は厳罰に処してきました。
米軍関係の治外法権を残すのが嫌・米軍基地も出ていかないなら返してもらう必要がない・・・ということはこういうものが残るならば主権回復不要論となりますが、この種のバカげた主張がメデイアと旧社会党意見でした。
このメデイア攻勢のために、早期円満返還を求める政府としては何もかも反対では返還交渉ができないので基地を原則現状維持とする外密約が残ったことになります。
今でも基地が残ったことに対して沖縄にだけ「負」を押し付けているというのですが、押しつけているのではなく、基地付きでも返還された方が良いから返還を求め沖縄県民も一刻も早い日本復帰を求めた結果を無視した意見です。
基地付きでないと返還が無理であった現実を前提にその後出来るだけの基地縮小交渉や地位協定等を少しずつ改正しながら現在に至っているのですから、沖縄県だけに日本全体が押し付けているのではありません。
国際情勢の変化で三沢基地等の比重が下がったのに対し、中国の台頭により沖縄の戦略的比重が上がった結果沖縄基地の重要性が低下しないのであって特に沖縄に対して意図的に犠牲を強いているものではありません。
沖縄の基地反対の論理は基地付きでもいいからと返還してもらった後で、主権国家に米国基地があるのが許せないという無茶を言っていることになります。
韓国の徴用工問題などの蒸し返しに似た思考法ですから、どこの国がバックにいるのかと疑問に思うのは仕方のないことです
基地問題は、これを受け入れて平和裡に返還された以上は、価値的に相容れない反対運動ではなく、地位協定の条件改定運動同様に文字通り対話によって粘り強く米国と交渉していくしかない分野です。
ソ連の側から見れば、アメリカによる戦利品・・占領地である沖縄の返還=日本主権回復は困る・・北方領土返還運動に発展するから無条件返還という米国が飲めるわけのない完全条件要求運動を応援したい・沖縄返還交渉を決裂させたいのは分かりますが、日本人の立場からすれば、不完全でもまず主権回復の方が良かったのです。
サンフランシスコ講和条約の時も革新系政党はソ連を含めた全面講和以外絶対反対・何十年先にあるかすらわからない半永久的・・米ソ冷戦が終わるまでは日本は独立する必要がない・・米軍による日本占領支配が続いた方が良いというのが革新系政党とメデイアの主張でした。
米ソ冷戦が終わっても今なお米露が争っているように、完全平和などあり得ない条件をつけていると日本は本日現在も主権回復していなかった・・結果的に今なおアメリカの占領支配下にあれば、米国産業を脅かすことなど許される余地がない・・高度成長などできなかったし、現在の繁栄もあり得ない・・今の北朝鮮のように食うや食わずのままで独りよがりを言っていた可能性があったでしょう。
講和条約で言えば、完全無欠でなくとも一刻も早く独立国家になることが先決であるのと同様に、沖縄返還も国益を総合すればかなりの部分で譲歩しても領土主権をまず確保することが先決です。
領土主権さえ確保すればあとは時間をかければ、細かな条件は円満な関係が続けば何とかなっていくものです。
背後の中ソ応援を受けていると円満な付き合いよりは対立を選ぶでしょうから、余計こじれるのです。
現在も中国さえ日本を威嚇しなければもっとスムースに基地縮小が進むはずです。
一方で威嚇して基地縮小が進まないように仕掛けながら、もう一方で背後で基地反対運動をけしかける・・それに乗るグループがいるから複雑化します。
幕末の不平等条約締結のメリットに戻ります。
問答無用のロシアの圧力・危機緩和のためにはさしあたり英米を中心とする西欧勢と条約を結び領域確保するしかない・・その結果ロシアもその例に倣うことにならざるを得ないように仕向けたメリットがあったのです。
1854年3月に日米和親条約が締結されるとこれがその他西欧諸国の基本例規になり、ロシアもこれに従って55年2月の日露和親条約となり、函館に領事館をおくようになったことを9月15日に紹介しました。
この点は江華島沖事件の紹介で少し書いたと思いますが、簡単でないものの大まかにいうと条約締結していない国との間では(領土範囲が決まっていない以上?)どこ国の船が湾内に入ろうが自由であるというのが不文律の国際ルールになっていたようです。
ロシアは和親条約を締結した以上は、勝手な湾内侵入権がなかったし、ましてや勝手な上陸権などある筈がありません。
日露和親条約で国境線確定に至らなかったカラフトについては、アイヌ人の居住区域で分ける基本線を前提にしていたのですが、アイヌ人の居住区域がはっきりしない面があって、将来の成り行きで決めようと言う現実的交渉の結果国境線確定が先送りになったようです。
また以下によると領土以外は変更が簡単・片務契約の点は双務にすぐに変更されています。
日露和親条約に関するウィキペデイアの記事からです
主な内容
千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする
ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
ロシア領事を日本に駐在させる
裁判権は双務に規定する
片務的最恵国待遇
本条約では最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の安政5年(1858年)に締結された日露修好通商条約で双務的なものに改められた。
樺太国境交渉
条約交渉開始時点では樺太の国境を画定する予定だったが、両国の主張が対立したため国境を画定できなかった。
長崎での交渉の中でロシア側は、樺太最南部のアニワ湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した。日本側はそれに対して、北緯50度の線で日露の国境とすることを主張した。
安政2年12月14日(1855年1月31日)、樺太に国境を設けず、附録で、日本人並に蝦夷アイヌ居住地は日本領とすることで一旦は合意した。このとき、川路は蝦夷アイヌ、なにアイヌと明確に分かれているので混乱の恐れはないと説明した。2月2日の交渉で、ロシア側は附録の部分の蝦夷アイヌを蝦夷島アイヌとすることを提案した。翌日、日本側は、蝦夷島同種のアイヌとすることを提案したが、ロシア側の反対が強く決まらなかった。4日、ロシア側から、附録は無しにして、本文に是迄通りと書けば十分ではないかと提案があり、5日にはロシア側提案通りに決定した
その後、樺太国境問題は、慶応3年(1867年)の日露間樺太島仮規則を経て、明治維新後の1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ることになる。」

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