東博詣で

今年の正月も、我が家の主な外出行事は東博に詣でることになっていて、東博御自慢の長谷川等伯その他の名品を鑑賞するのを楽しみにしています。
東博玄関・正面階段踊り場に大規模な生け花が飾られているのを見るのも楽しみの一つです。
私の青年時代には女性が生け花を習うのが一般的な時代で、その後一般化した郊外の文化住宅の玄関の下駄箱の上に(客間の床の間に生ける代わりに)生け花を飾っているのが普通の時代でした。
最近は、親しい友人宅を訪問することがなくなった上に、(親戚だって滅多に家に上がりこまないでしょう)近所の人が来ても玄関ドアを半開き程度しか開かないで応対する人が増えて、家の中に他人が足を踏み入れることが滅多になくなったせいか?生け花を家庭で生ける習慣がなくなってしまった印象です。
この失われた美意識の遺物展示?になっているのが、お正月だけデパートや美術館玄関に飾られるスケールの大きな生け花というべきでしょうか?
遺物とすれば、東博で正月だけ展示するのは理にかなっています。
この4〜5年以上は、日頃から遠くへ旅行する気持ちがなくなり休日ごとに千葉市美術館を初め、都内あちこちの博物館や美術館(映画も含めて)巡りが主な日課になってきました。
東博だけでも2ヶ月に1回くらいのペースになっている(昨年の縄文展は気に入って2回も行きました)印象です。
ウイークデーでも東京地裁や日弁連に出かけるときには少しの時間を利用して近くの(私の学生時代の名称)元日比谷図書館・今は〇〇文化会館?ホールまたは「センター?とかいうらしいですが、新名称はなかなか身につきませんが、三角形の形が特徴ですのですぐに記憶が蘇ります・・ただし内装は近代化されています)の展示を見るのを楽しみにしています。
そこは江戸の歴史に特化しているし、小さくて短時間で済むのがメリットです。
さらに時間があればちょっと立ち読み程度の本(元は図書館ですから当然ですが・・)も充実しています。
昨年は日比谷公園に行くたびに、日比谷交差点近く日生劇場に隣接するところで建築中だった東京ミッドタウン日比谷の工事中高層ビルが立ち上がる姿を楽しみしていましたが、昨年ついに竣工しました。
日比谷公園では季節ごとに変化する公園内の樹木を見るのも楽しみの一つです。
東京はあちこちで大規模開発が進み、どこもかしこも、大成功?したのか人の群れです。
4〜5年前までは、午前10時の弁論の時には、妻と一緒出かけて、弁論後に三宅坂の国立劇場へ向かって(11時半開場)歌舞伎を見たり、日比谷松本楼で早めに昼食を終えて、日生劇場(午後1時開場)などで観劇するコースでしたが、この4〜5年では日比谷公園から帝国ホテルの脇を通って銀座に出てその辺で娘と待ち合わせるのが定番コースになっています。
(昨年12月初旬には東京駅前のKITTEで待ち合わせましたが)
元気だと思っているうちに、仕事で霞ヶ関に出る回数が次第に減っていき、その内に東京駅〜日比谷界隈が想い出の地になっていくのでしょうか?
若い頃には、「今日できないことを明日以降にはもっとよくできるようになる」成長軌道でしたが、成長の峠を越えた後は・・・昨日までできたことができなくなる・・能力低下・・行動半径が縮小していくのを悟っていく・今日も今年も「無事でよかった」程度の過程に入ります。
すべての経験が徐々に再現不能になって行き、記憶の彼方に押しやるしかないのは寂しいことですが、これが高齢化の現実です。
京都奈良の名刹観光も出来なくなりそうですが、その代わり最近寺宝国宝類が頻繁に東京の博物館にお出ましになって・・いわゆる出開帳の現代版が多く、京都や奈良まで出かけなくとも秘宝の類を東京で観られるようになったのは、ありがたいことです。
この数年だけでも、仁和寺や、興福寺、春日大社展など参観しても拝観できそうもない内陣の様子まで再現してくれるのでありがたい上に、自分が幼い子供らと初めて参観した時の想い出に連なるなどありがたいことです。
仁和寺展では、系列寺院の秘宝まで出展してくれていたのもあり難いことです。
今年も東博では東寺の仏様の展覧が予定されているなど、楽しみです。
東寺の場合、金堂だったか名称を忘れましたが、お堂内に配置されていた堂々たる体躯の仏様群をもう一度拝観できるのは楽しみです。
この10年ばかりどこの美術館でも企画展が流行状態ですので、日本全国どころか、世界の名品の企画展が東京で開催されるようになってきた結果、東京まで出かける気になれば大概のものがお寺にあるかのように展示される時代です・・・このようなことが毎月のように見られるようになっているのがあり難いことです。
この結果、「どこそこの美術館に行かないとこの彫刻や絵画が見られない」ということがなくなりました。
作夏東博で開催された縄文展で言えば、あちこちの市町村教育委員会が保管している縄文時代の発掘品(国宝等)が一堂に会して展覧されました。
それだけではなく、興福寺展では内陣の柱を設営をし、国立新美術館での東山魁夷展では、正倉院の襖絵がその部屋の模型まで設営してその場の雰囲気を再現するような工夫のもとで展覧されるようになりました。
地元で近いのでしょっちゅう行ってる暦博(千葉県佐倉市)でも同様で、
例えば2018年3月6日(火)~5月6日(日)の企画展示「世界の眼でみる古墳文化」でも行って見ると古墳の復元があって、(大分前なので具体的に思い出せませんが、)洞窟様に作られた室内に入ると(ライトアップ・薄あかりがついたり消えたりしして)天井絵や文字が復元されていました。
ドーム型の天井の絵文字などを平板な紙上に再現するのは無理があるのでその工夫です。
地球儀を写真にとるのが無理なのと同じです。
そういえば平成の興福寺金堂復元工事の機会に、天平の昔には描かれていたという法相柱を復活したことが知られていますが、東博で開催された興福寺展覧会でも内陣全体の復元が行われていましたが、内陣の周囲の柱も復元展示していて復活した日本画の写しを貼り付けて?法相柱を復元していました。
現地に行ってもお堂の外から、薄暗いお堂内の御本尊らしきものを拝むだけしかできないのに東博で開帳してくれるおかげで、復元された内陣の隅々まで身近に歩き回って国宝等の仏像を拝観できてありがたいことです。
旅行先でちょこっと見る程度では、企画展のようには至れりつくせりの歴史背景などの説明がありません。
高齢化で遠距離旅行が面倒になっても、都内に出かける気持ち・体力さえ残っていれば、結構楽しめる時代になってありがたいことです。

箱根駅伝

昨日元旦は、近くの神社にお参りしたほかは終日自宅でお屠蘇気分を楽しみました。
正月2日は従来箱根駅伝の実況を楽しむのが定番でしたが、母校は数年前からシード落ちが続いていたことから、この楽しみがだいぶ減少しました。
我が母校は予備選通過グループ・・・上位陣に食い込む楽しみがない・・・低迷中とはいえ、ニュースによれば、出場回数では95回中92回目の出場となっています。
地味・・根気の良さが母校の特色ですが、こんな場面でも特性を発揮しているようです。
スター人材の獲得をしないのが母校の伝統的気風とすれば、今後も長期低迷しかないでしょう。
各区間ごとに5人抜き〜7人抜き等の猛者あるいは区間新が出るので、各区間で平均的走りをしているチームは区間毎に1〜2番づつ順位を落として行く勘定です。
10区間終わると10何位→シード落ちの結果になるのはやむを得ないように見えます。
成績低迷の代わりというか、ここ数年は1月2日は上野の東博詣でが定番になっていましたが、今朝急遽変更して今日は駅伝実況に食らいつきです。
1区が始まったばかりでは、まだ先頭グループ10数名の中(その中でも今の所2位)に入っていて健走中のようです。
優勝候補でもないどころか、ダントツの記録保持者がいないようですので、いつまで先頭集団近辺について行ってくれるかです。
1区の終わりに近づくと縦1列になってきて母校は2位通過です。
地力がないとはいえ幸先の良い出だしです。
これでは最後まで目を離せません。
1区が終われば朝食に入るので、駅伝応援は一旦休憩です。
・・・・ついに最後まで見ましたが、母校は各区間ごとに順調に順位を落とし、往路の結果は12位でした。
見終わってみると想定通りの結果でしたが、それでもみんな「よく頑張ってくれた」という気持ちです。
明日もしっかりガンバって総合10位以内に入って欲しい・・奇跡を祈るばかりですが、年間を通じてあこちでの大会記録・事前の選手データを覆す奇跡は滅多に起きないのが現実です。
見ていると大まかな順位は変わらないものの、優勝争いやシード落ち争いなど部分部分での競り合いでは、それぞれドラマがあって、これが箱根駅伝人気継続の源泉になっているのでしょう。
追記
3日には東博に出かけて、出先で食事中にチェックしたら11位で終わったようで、実力以上の踏ん張りだったと関係者の努力奮闘を讃えたい気持ちです。

平成31年元旦(行事の重要性!)

明けましておめでとうございます。
皆々様 輝かしい新年を迎えのことと存じます。
今年もまた元気で1年を送りたいと思っております。
なんやかやと言っても長年の習慣か?元旦になるとなんとなくおめでたく感じる不思議な日です。
ここで何故元旦がおめでたいかの疑問を考えてみました。
元旦といえば、どこの国でも家庭でもそれなりの行事があります。
何故行事があるのか?行事の効能について、気がついたことを書いていきます。
時間とは何か?と言えばよくわからない言葉ですが、時間に区切りをつけるために行事というものがあるのでしょう。
時間には区切りが何故必要か?
時間は連綿と流れて行くものですが、時間に区切りをつけないと、一定期限のある時間軸での達成目標(今では約束日時の設定)や過去一定期間経過の成果を振り返るなどの、短長期スパーンでの考察が難しくなるでしょう。
山登りなどで途中景色の良い小高い場所に来ると、今まで苦労して登ってきた道を振りかえって「あゝこれだけ登ってききたのだ」という達成感を味わいながら、この先の「胸突き八丁をさらに頑張るぞ!」という元気付ける場になります。
カレンダーの元祖は、月の満ち欠けの周期であったのではないか?という妄想を15年前の大晦日に12/31/03「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)」のコラムで書いたことがあります。
金色夜叉で有名な貫一の名セリフ「今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせて見せる」
約束事をするようになっても「次の満月の夜・今度の三日月の夜」とかで間に合う時代が続いたように思えます。
ただし、このように目に見える形を基準にする程度だと最長1ヶ月しか期間がないので、(縄文時代にすでにどんぐりなどの植林が始まっていたことが分かってきましたが、栽培が発達してくると)もっと長い時間軸を考える必要が出てきます。
「3回目の満月の夜、4回目の三日月の夜」」とかのちょっと長い期間が必要になるので、数を数える必要性や能力が身について行ったのでしょう。
古代には、今の半年が1年だったように読んだ記憶がありますが、(臥薪嘗胆の故事を読めば、いくら誇大表現の好きな漢人とは言え、長すぎるのでこれを半分に翻訳すればまあまあです。)
越王勾践は最初に呉王闔閭を下した武将(諸侯)ですからその時すでに壮年のはずですが、負けた闔閭の子供の夫差が復讐のために臥薪してついに父の仇勾践を会稽山で破る→負けた方になった勾践は嘗胆すること20年にして会稽の恥を雪ぐのですが、ちょっと長すぎないかの疑問です。
その100年ほど前ですが 、晋の文公が覇者になる前の故事・重耳と言われていた時に、やはり19年間もの放浪の末に国に帰って晋公になるのですが、若い頃に読んだ記憶では(若者からみれば19年間も!・・・ものすごい長さですから、長過ぎるな!と思ったものですが・・。
ウイキペデイアの引用です

文公(ぶんこう、紀元前696年 – 紀元前628年、在位紀元前636年 – 紀元前628年)は、中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる。

時間観念の発達→季節の移ろいに戻します。
果実等の収穫を基準にする時代には実りの秋がくれば、1サイクルが終わったからこれを次の期間単位にする・・月の次に必要な長期単位としたとすればうなづけます。
漢字の稔(みのる)という字は、「ねん」とも「とし」とも訓読みし、作物の稔る期間を表すとも言います。
稔る期間を年(とし)といったのかもしれません。
秋から次の春までは実りがありませんが、この期間を裏年と理解していたのでしょう。
半導体の0と1の繰り替えしがセットになっているような理解です。
今でも庭先の柿などは1年おきに良くなる(翌年は身があまりつかない)ので、今年は「裏年なので・・・」という言い方が残っています。
秋から春までの1年は、裏の年ということになります。
表年と裏年が何故あるかというと、柿やミカンの実がなるには相応の栄養蓄積が必要なので、表年にいっぱい実がなって、前年からの蓄積を吸収してしまうからと言われています。
人間だって毎年赤ちゃんを産むのは母体に負担がかかるので、(私の世代では4歳違いの兄弟が普通でした)早くて2年ごとに産むのが普通です。
農地で言えば冬の間に地力を養う期間だったのでしょう。
ついでに1日の方も2003年の大晦日に「カカなべて」で書いたように夜(夜間は体力回復時間)と昼で別に数えていたことが上記引用した「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)古代の歌でわかります。
「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」
月の変化の回数を基準にしていると12回前後で似たような気候がくり返されることが知られてきます。
今でも世界中で12進法が結構残っていることからして、人類が最初に知った基幹数字は12だったと思われます。
お月様が12回周期で気候が概ね一巡する変化を知るとその繰り返しに合わせて、(周知のように月を基準にすると、うるう年がないと徐々にズレてくることが古代から知られていますが、数を数えるようになり始めの頃には、その程度の誤差は問題がなかったでしょう?)草木の成長があり、小鳥その他動物の産卵・出産時期も連動していることがわかる・・農作物のタネまき田植え時期〜収穫時期がくることもわかってきます。
農業社会の歴史の長い人類では、世界共通的に暦の重要性が知られて行ったでしょう。
24節季は太陽暦になってから古代中国中原の気候に合わせて生まれたものでしょうが、これでは日本の気候に合わないので二十四節季のほかに、「土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れたようです。
この機会に余談ですが24節季と雑節の関係表があってわかり良いので、正月早々ですが、お勉強好きの方のために引用・紹介しておきます。
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/からの引用です。

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/24sekki.htmlによると雑節は以下の通りです。
二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。

二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。土用、彼岸は入りの日付けを示す。

名称 太陽黄経 説明
土用 (どよう) 27°, 117°, 207°, 297° 太陰太陽暦では立春、立夏、立秋、立冬の前18日間を指した。最近では夏の土用だけを指すことが多い。
節分 (せつぶん) 季節の分かれめのことで、もとは四季にあった。立春の前日。
彼岸 (ひがん) 春分と秋分の前後の3日ずつの計7日のこと。初日を彼岸の入り、当日を中日(ちゅうにち)、終日を明けと呼ぶ。
八十八夜 (はちじゅうはちや) 立春から数えて88日目をいう。霜が降りることが少なくなる頃。
入梅 (にゅうばい) 80° 太陰太陽暦では芒種の後の壬(みずのえ)の日。つゆの雨が降り始める頃。
半夏生 (はんげしょう) 100° 太陰太陽暦では夏至より10日後とされていた。
二百十日 (にひゃくとおか) 立春から数えて、210日目の日。

各種行事は時間の流れにメリハリをつけて、新しいステージが始まる合図号砲みたいな役割・・ためにあるのでしょう。
我が家でも妻のアイデアで四季折々のいろんな行事を楽しんでいますが、様式美にこだわるのも良いものです。
元日はその年の始まりの日であり・旦とは水平線や地平線に日が昇ること・時間の始まりですから、「元旦はその年の時間の起点」生命が新たに芽吹く起点・・「神聖な時間の始まり」です。
元旦は年間行事の起点・・最も重要な行事として、人類共通行事になっているのでしょう。

大いに祝うべし!

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