天皇象徴性の定着と無答責3(連署制1)

そもそも古代からの詔書、院宣や綸旨には、天皇の署名がなくお聞きした内容を役目によって書き止める形式が主流です。
貴人のお顔や声を直接お聞きするなど「畏れ多い」・・・御前にまかり出る資格のある高位の公卿でも御簾で隔てられた拝謁が原則だったイメージの文書版です。
この結果証書であれ、綸言であれ署名がなく聞き取った関連部署長官(蔵人頭など)の署名で行う形式でした。
明治憲法から御名御璽が必須の制度になっていますが、世上言われてきた天皇神格化の正反対の方向です。
多分中国歴代王朝の形式を真似たのでしょう。
中国では、専制君主ですごいように思われますが、皇帝が何から何まで親裁・自分で威厳のある大きな印(玉で作った持ちにくい巨大な印)を押していたので終日押印作業に追われて肩がぱんぱんであったと言われますが、江戸時代中期以降に役立たずになっていた観念的儒者がこれを理想としていたからです。
(中国皇帝の場合事実上流れ作業的押印に追われるので皇帝お気に入りの高官処刑の決済文書が紛れ込むことがあったようです)
この結果、現天皇陛下の年間署名数は膨大です。
https://diamond.jp/articles/-/112777?page=4

2017.1.4
天皇陛下の1年、知られざる膨大な仕事量
週刊ダイヤモンド2016年9月17日号特集「日本人なら知っておきたい皇室」より
・・・・陛下は昨年、約1000件の上奏書類を決裁されたというが、注意すべきは、例えば1回のご執務で処理される、数百人分の功績調書を含んだ叙勲関係の書類が、まとめて「1件」とカウントされていたりすることだ。
しかも、決裁を翌日以降に遅らせると政治への介入(一例を挙げると、「法律の公布」を1日遅らせると、法律の発効に関する手続きを天皇の都合で1日ずらしたことになり、立法権への介入=憲法41条の国会単独立法の原則などに抵触)となるので、体調が悪くても、ご執務を簡単に休むわけにはいかない。
御用邸で静養中や地方訪問中であっても、火・金曜にぶつかると、内閣官房の職員が午後、新幹線や飛行機で書類を東京から持参し、御用邸やホテルの部屋で決裁していただいている。執務は週2回なので、年間約100回になる。

日本ではこんなバカなことを古代からやっていません。
詔書等に関するウイキペデイアの記事からです。

・・詔書は重要事項の宣告に用いられた。天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。

ウイキペデイアによる宣旨についての記事です

天皇の命令・意向(勅旨)が太政官において太政官符・太政官牒などとして文書化される際、文書作成を行う弁官局の史が口頭で命令・意向を受ける。このとき、弁官史は、命令・意向の内容を忘れないために自らのメモを作成した。このメモが、当事者へ発給されるようになり、文書として様式化していき宣旨となった。文書には、弁官・史などの署名しか記されなかったが、天皇の意を反映した文書として認識され、取り扱われた。

足利時代の「観応の擾乱」の本を読むと施行状等の署名者が誰かが重視されたとあります。
施行状だったか?に誰が署名しているかでその信用力・・・この人が署名しているなら実効性が高いという信用で武士が動いたのです・・を有難がる実務があったということです。
日本社会では古代から、高貴なお方は自ら文書を発しない慣習があるようですし、高貴でなくとも今では知事、市長、社長、理事長等の名義で役人や文書係が代わって大量文書発行することが多いので、(生命保険証書などに社長の印が押されていますが、多分全部社長等が自分で署名や押印をしていないでしょう)公文書を発するには相応の順序(副署しないまでも内部的に稟議決裁文書を保管しておくなど)を踏むようになっているのもこの結果でしょうか?
一つには御璽であれ、市長公印であれ社長印であれ、各種公印は天皇や、市長、知事、社長がいつも携帯していない・保管者が別人である実態があります。
社長等の印の他に社長等が直筆署名すれば真実性担保できるようですが、膨大な文書発行が日常化している実務では、全件社長等が、署名するのは無理があります。
保管者が乱用しないように社長や市長印を押すには、相応の手続きを踏んだ形式(稟議書とそこへ至る各種会議議事録)を残すのが必須(いざとなれば印保管者による冒用か?の検証容易)であり合理的です。
江戸時代には将軍家に対面すること自体「畏れ多い」ほどの貴人ではないですが、それでも公式文書は老中奉書で布告していました。
江戸時代の老中奉書は 幕府文書で天皇家の詔勅や綸旨や院宣とは違いますが、以下の通りです。

老中奉書(ろうじゅうほうしょ)は、日本の文書形式。江戸時代において江戸幕府老中が将軍の命を奉じて発給する伝達文書で、奉書加判は老中の主要な職務であった。
老中が連名で発給する連署奉書と、単独で発給する奉書がある。前者の例としては大名や遠国奉行への命令伝達、後者の例としては将軍家への進物の受け取り確認等があげられる。寛文4年(1664年)4月1日に制度が改定され、小事については老中一判の奉書となった。

江戸期の老中制度になると明治憲法下の内閣とほぼ同様老中の合議であり、老中首座は同格者の筆頭でしかなかった点は明治憲法下の内閣同様ですが、閣議を経た文書は連署形式でした。
ちなみに現在幕閣とか、閣老、閣議というのは、後の内閣制度を老中に当てはめていっているようで当時から幕府とか閣老とかいう名称があったものではないようです。
秋篠宮様記者会見に戻ります。
自分の意見が通らない不満=自分の意見を重視すべきという論建ては、皇室が政治責任を負う体制への変革を主張することにつながり、天皇制維持には危険な主張です。
政治責任を負ってでも政治活動したいならば、皇籍離脱してから私人として行うべきでしょう。
こういう人が後嗣では(一世代約30年後に天皇になると?)皇室の永続性に疑問符がつきます。
この発言に呼応して早速市民団体?が12月中に(宗教行事への公費出費が違憲という)違憲訴訟提起すると発表したようです。
https://www.ootapaper.com/entry/2018/12/02/160930″

秋篠宮さまの誕生日と同じ30日に、市民団体が大嘗祭違憲訴訟を起こすと一斉に報道

あたかも事前に示し合わせたかのような発言とメデイア発表のタイミングに驚きます。
憲法上、予算案・・内廷費で賄うべきか内廷費としてどの程度の出費を認めるべきかは内閣の高度な判断に委ね最終的には国会議決・政治家総体の判断を経て実現する仕組みですから、秋篠宮様公式発言は高度な政治判断・・内閣の助言承認や国会審議に影響を与えようとしているように見えます。

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