元旦

あけましておめでとうございます。
皆様輝かしい新春をお迎えのことと喜び申し上げます。
私自身「めでたさも中くらいなり・・」の心境ですが、中くらいが一番居心地がいいという気持ちで新春を迎えることができました。
今年も思いつくママを書き連ねて行きますが、昨年を通して自身の高齢化を反映した意見・内容がじわじわと増えた印象ですが、今年もご愛読よろしくお願い申し上げます。
昨年末大晦日のコラムで気がつかないミスをしていないかの心配を書きましたが、今年は新年の気負い・抱負を語るより守りの姿勢強化の話題になりそうです。
こうしてみると幾つになっても試練が待っているようで、「40にして惑わず」と言いますが、退屈するどころではありません。
今年も高齢化進行による能力低下を真摯に受け止めて、その範囲内で元気に?生きて行く予定です。
高齢化進行は自分にとっては日々新た・・・全て初体験(こんなことができなくなるのか?と)で見るもの聞くもの全て新鮮ですので、老化による初体験を書き連ねることになりますがご容赦願います。
思い起こせば70歳になった頃には、
「自分もその内高齢者になっていくのだなあ」
という漠たる将来像しかなかったのですが、昨年あたりから新聞を読み進むうちに前後意味が取れないので、読み直すと冒頭の熟語をなぜか読み間違っていたことに気づくことなどが増えてきて老化進行を実感すること頻りです。
メガネのピントが合わなくなってきて、大まかな輪郭で漢字を読む習慣になってしまったせいらしいのです・・・・。
昨年の歯痛や突然の神経痛もそうでしたが、いつもその後に原因が分かるのですが・・。
仕事の場合、ミスが後でわかっても取り返しがつきませんのでこれが悩みのタネです。
あと10年もすれば、「あの頃はそんな程度で驚いていたのか!若かったなあ!」と思うことになるのでしょうが・・。
老化は目に見える足腰だけでは無いのが怖いところです。
これからは、世の中のために役立つどころか、皆様にご迷惑をかけないように気をつけて生きていくように心がけるしかない歳になってきました。
聞き間違い、読み間違いなどでご迷惑をかけることがあるかもしれませんが、今年も何卒よろしくお願いします。

平成31年元旦(行事の重要性!)

明けましておめでとうございます。
皆々様 輝かしい新年を迎えのことと存じます。
今年もまた元気で1年を送りたいと思っております。
なんやかやと言っても長年の習慣か?元旦になるとなんとなくおめでたく感じる不思議な日です。
ここで何故元旦がおめでたいかの疑問を考えてみました。
元旦といえば、どこの国でも家庭でもそれなりの行事があります。
何故行事があるのか?行事の効能について、気がついたことを書いていきます。
時間とは何か?と言えばよくわからない言葉ですが、時間に区切りをつけるために行事というものがあるのでしょう。
時間には区切りが何故必要か?
時間は連綿と流れて行くものですが、時間に区切りをつけないと、一定期限のある時間軸での達成目標(今では約束日時の設定)や過去一定期間経過の成果を振り返るなどの、短長期スパーンでの考察が難しくなるでしょう。
山登りなどで途中景色の良い小高い場所に来ると、今まで苦労して登ってきた道を振りかえって「あゝこれだけ登ってききたのだ」という達成感を味わいながら、この先の「胸突き八丁をさらに頑張るぞ!」という元気付ける場になります。
カレンダーの元祖は、月の満ち欠けの周期であったのではないか?という妄想を15年前の大晦日に12/31/03「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)」のコラムで書いたことがあります。
金色夜叉で有名な貫一の名セリフ「今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせて見せる」
約束事をするようになっても「次の満月の夜・今度の三日月の夜」とかで間に合う時代が続いたように思えます。
ただし、このように目に見える形を基準にする程度だと最長1ヶ月しか期間がないので、(縄文時代にすでにどんぐりなどの植林が始まっていたことが分かってきましたが、栽培が発達してくると)もっと長い時間軸を考える必要が出てきます。
「3回目の満月の夜、4回目の三日月の夜」」とかのちょっと長い期間が必要になるので、数を数える必要性や能力が身について行ったのでしょう。
古代には、今の半年が1年だったように読んだ記憶がありますが、(臥薪嘗胆の故事を読めば、いくら誇大表現の好きな漢人とは言え、長すぎるのでこれを半分に翻訳すればまあまあです。)
越王勾践は最初に呉王闔閭を下した武将(諸侯)ですからその時すでに壮年のはずですが、負けた闔閭の子供の夫差が復讐のために臥薪してついに父の仇勾践を会稽山で破る→負けた方になった勾践は嘗胆すること20年にして会稽の恥を雪ぐのですが、ちょっと長すぎないかの疑問です。
その100年ほど前ですが 、晋の文公が覇者になる前の故事・重耳と言われていた時に、やはり19年間もの放浪の末に国に帰って晋公になるのですが、若い頃に読んだ記憶では(若者からみれば19年間も!・・・ものすごい長さですから、長過ぎるな!と思ったものですが・・。
ウイキペデイアの引用です

文公(ぶんこう、紀元前696年 – 紀元前628年、在位紀元前636年 – 紀元前628年)は、中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる。

時間観念の発達→季節の移ろいに戻します。
果実等の収穫を基準にする時代には実りの秋がくれば、1サイクルが終わったからこれを次の期間単位にする・・月の次に必要な長期単位としたとすればうなづけます。
漢字の稔(みのる)という字は、「ねん」とも「とし」とも訓読みし、作物の稔る期間を表すとも言います。
稔る期間を年(とし)といったのかもしれません。
秋から次の春までは実りがありませんが、この期間を裏年と理解していたのでしょう。
半導体の0と1の繰り替えしがセットになっているような理解です。
今でも庭先の柿などは1年おきに良くなる(翌年は身があまりつかない)ので、今年は「裏年なので・・・」という言い方が残っています。
秋から春までの1年は、裏の年ということになります。
表年と裏年が何故あるかというと、柿やミカンの実がなるには相応の栄養蓄積が必要なので、表年にいっぱい実がなって、前年からの蓄積を吸収してしまうからと言われています。
人間だって毎年赤ちゃんを産むのは母体に負担がかかるので、(私の世代では4歳違いの兄弟が普通でした)早くて2年ごとに産むのが普通です。
農地で言えば冬の間に地力を養う期間だったのでしょう。
ついでに1日の方も2003年の大晦日に「カカなべて」で書いたように夜(夜間は体力回復時間)と昼で別に数えていたことが上記引用した「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)古代の歌でわかります。
「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」
月の変化の回数を基準にしていると12回前後で似たような気候がくり返されることが知られてきます。
今でも世界中で12進法が結構残っていることからして、人類が最初に知った基幹数字は12だったと思われます。
お月様が12回周期で気候が概ね一巡する変化を知るとその繰り返しに合わせて、(周知のように月を基準にすると、うるう年がないと徐々にズレてくることが古代から知られていますが、数を数えるようになり始めの頃には、その程度の誤差は問題がなかったでしょう?)草木の成長があり、小鳥その他動物の産卵・出産時期も連動していることがわかる・・農作物のタネまき田植え時期〜収穫時期がくることもわかってきます。
農業社会の歴史の長い人類では、世界共通的に暦の重要性が知られて行ったでしょう。
24節季は太陽暦になってから古代中国中原の気候に合わせて生まれたものでしょうが、これでは日本の気候に合わないので二十四節季のほかに、「土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れたようです。
この機会に余談ですが24節季と雑節の関係表があってわかり良いので、正月早々ですが、お勉強好きの方のために引用・紹介しておきます。
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/からの引用です。

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/24sekki.htmlによると雑節は以下の通りです。
二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。

二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。土用、彼岸は入りの日付けを示す。

名称 太陽黄経 説明
土用 (どよう) 27°, 117°, 207°, 297° 太陰太陽暦では立春、立夏、立秋、立冬の前18日間を指した。最近では夏の土用だけを指すことが多い。
節分 (せつぶん) 季節の分かれめのことで、もとは四季にあった。立春の前日。
彼岸 (ひがん) 春分と秋分の前後の3日ずつの計7日のこと。初日を彼岸の入り、当日を中日(ちゅうにち)、終日を明けと呼ぶ。
八十八夜 (はちじゅうはちや) 立春から数えて88日目をいう。霜が降りることが少なくなる頃。
入梅 (にゅうばい) 80° 太陰太陽暦では芒種の後の壬(みずのえ)の日。つゆの雨が降り始める頃。
半夏生 (はんげしょう) 100° 太陰太陽暦では夏至より10日後とされていた。
二百十日 (にひゃくとおか) 立春から数えて、210日目の日。

各種行事は時間の流れにメリハリをつけて、新しいステージが始まる合図号砲みたいな役割・・ためにあるのでしょう。
我が家でも妻のアイデアで四季折々のいろんな行事を楽しんでいますが、様式美にこだわるのも良いものです。
元日はその年の始まりの日であり・旦とは水平線や地平線に日が昇ること・時間の始まりですから、「元旦はその年の時間の起点」生命が新たに芽吹く起点・・「神聖な時間の始まり」です。
元旦は年間行事の起点・・最も重要な行事として、人類共通行事になっているのでしょう。

大いに祝うべし!

平成30年元旦

あけましておめでとうございます。
みなさまお元気で晴れやかな新年をお迎えのこととお喜び申しあげます。
我が家一家も皆元気で新年を迎えました。
ありがたいことです。
若い頃には、自分で勝手に生きているようなイメージ・・今考えれば無茶苦茶でしたが、高齢化の結果か?目に見えない多くの方々のお陰で支えられて無事生きられている・・何でもありがたいように感じられるようになりました。
ただ、ただ、健康で新年を迎えられることをありがたく感じています。
まだまだ美味しいものを食べたい、いろんなものを見たい経験したいという意欲があるものの、ちょっと歩くと疲れるし、少し食べるとお腹いっぱいになるなどあっけない結果に驚くようになってきました。
この1〜2年気持ちと体力の衰えの違い・自覚に驚くことが多くなりました。
これからは意識が追いついた頃には、その間に体力がさらに衰えていることの繰り替えしでいつも後追いで生きていくことになりそうです。
ただ、公共の場所ではエスカレーターやエレベーターなどがあって便利になっていて、ありがたいと感じるこの頃です。
まだ現役で働いているので老後ではありませんが、時間に余裕のある老「真っ最中」の1年を今年も元気に楽しみたいと思っています。
ただし、結構な歳になっていますので、事件でお会いする時にはお手柔らかにおねがいして、新年のご挨拶とさせていただきます。

2017年元旦(目出たさも・・)

あけましておめでとう御座います。
今年もあらたな1年が始まりました。
皆様晴れやかな新年をお迎えのことと存じます。
若い人にとっては,希望に燃えた新春の始まりでもあるでしょう。
我が家もこれと言った目出たいことはないものの,まあまあの新年の始まりと言うわけで,何か困ったことがないことが目出たいと言うところです。
大晦日のコラムでふと思い出した武者小路実篤の作品?に多い心境と同じかも知れません。
武者小路実篤が「仲良きことは美しきかな」などと言う軽いタッチの心境をさらさらと書いてデパートなどで売り出していたのは,1976年同氏死亡の約5〜10年前後前・・晩年近くのことですから,私はまだ晩年には遠い現役ですので,まだ達観するには少し早いようにも思えますが・・。
小林一茶の俳句「目出たさもちうくらいなりおらが春・・」がイキナリ浮かんだのですが,もしかして武者小路が野菜と一緒に書いたものと印象がどこか似ているからかも知れません。
その頃の新築住宅の玄関の下駄箱の上などにかかっているのを良く見かけたように記憶していますが(「仲良きことは良きことかな・・」とかいろんな文字があったのでこの種の言葉もあったろうと言う程度できっちり覚えているわけではありません)・・そんなところです。
結婚前後ころの記憶ですから,昭和40年代中頃だったと思うのですが高度成長の恩恵がサラリーマンに及んで私のちょっと上の人たちが東京郊外の一戸建て住宅に移り始めた頃だった記憶です。
いわゆる◯◯寮(または◯◯方)〜アパートに移り,「◯◯荘」〜郊外の新興住宅を手に入れて◯◯市何丁目何番地に三段跳びで住所移転して行った(物価もドンドン上がりましたが・・)夢多き時代でした。
今のように各人が本物のプロの絵を自宅に飾れる時代ではなかったので,プロの絵描きではない実篤が余技でサラサラと書いた程度のカボチャやナスなどの絵(俳画だったかな?)に気の利いた文字を書いた(大量生産品だったと思います)のをデパートなどで買い求めて,先輩達が文化生活が始まった時代です。
今は,あちこちに美術館があって気楽にホンものを見られる時代ですが、当時は美術図鑑などで有名絵画の写真を図書館で見る程度でした。
そう言えば上野の西洋美術館に来たミロのビーナスを何時間も並んでみたのは、いつの日だったか?
いま思い出すと当時の郊外の分譲住宅の多くは新建材の建物で,(今は殆ど全部建て替えられてしまいましたが・・)その程度の軽いまがい物?でも文化の香りを楽しんで,皆喜んで飾っていた時代でした。
私自身で言えば,結婚してからだけでも現在の自宅になるまで6回も移り住んでいます。
2回目(昭和47年)では瞬間湯沸かし器(それでも冷たい水で食器類を洗わなくて良くなったのは画期的なことでした)だったのが、4回目の家(昭和51年)では給湯式でお風呂にはシャワーがついているし洗面所もお湯が出るのに感激し,5回目の家では(昭和61年)当時最先端のウオッシュレットを顧問先からプレゼントしてもらいました。
今の家は全て二重サッシュですし,床暖房で変化のめまぐるしさに驚くばかりです。
昭和45年の結婚当時と今を比較すると失われた20年とか30年とか言われるものの,現在の快適な生活ははるかな彼方からやって来た・・成長を遂げて文化生活レベルもはるかにアップしたものだなあ・・と感慨頻りです。
ところで、「ちうくらい」とは一茶の地元の言葉で「中」ではなく「いい加減な」と言う意味らしいです。
〈から風の吹けばとぶ屑屋はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける〉と前書付きの俳句で、一茶57歳の作ですから,老い先短い元旦を迎えたときの感慨を表現した俳句らしいです。
「いい加減」とは,だらしないと言う意味ではなく文字どおり[加減が良い」と言う・・(分相応の?)「良い塩梅だなあ」と言う意味(私個人の勝手な解釈です)でしょう。
学生時代に野尻湖湖畔でゼミの合宿があって、その帰りに小林一茶の旧居を見学したことを思い出しましたが、本当に狭い・土蔵とも言えない・・あら土で塗り籠めただけのあら壁の小屋が空き地にぽつんと建っているだけでした。
立派な業績を上げた人のツイの棲家の質素さ・・一茶の素朴な?作品を連想したものです。
(今行けば,廻りが整備されて立派な観光資源になっているでしょうが・・)。
ところで一茶の作品は子供心にも分り易いので素朴な印象を受けますが,難しいことを平易に表現するのが本当の達人とすれば,一茶の達人ぶりは半端でありません。
私は勿論一茶のような偉人ではありませんので、奥深い意味はありませんが,新年の心境を俗っぽい意味で言えば「ちょうどこんなモノ・・」だなあと言えるのかも知れません。
自分の心境を言い表すのにヒトサマの俳句を借りて表現するしかない・・無能と言えば無能ですが,俳句や詩,絵画あるいは芸術作品はおよそ凡人の心境を代わって表現してくれることにプロとしての存在・意味があるのかも知れません。
名句・名画〜名作とは万人の心に訴えることの出来る表現(共感)性の高いものと言い換えられるでしょう。
旅行などの写真を見ても自分の写したものと,プロの写真とはまるで出来が違いますが,その代わり自分の写した写真には自分や家族の具体的記憶が詰まっている・自分または関係者だけの価値です。
他人が見ても面白くないわけです。
個人の日記、故人(父母)の形見の多くは共感する範囲が自分一人または遺族だけですが,歴史に残る各種日記や遺品が個人だけの共感ではなく,民族の共通遺産になると「作品」となります。
同じ形見の衣類でも[家康の陣羽織」となれば共感者の範囲がぐっと広がり博物館の展示物になります。
明治村にある漱石の旧居は建築としては何の変哲もないものですが,漱石の住んでいた家となれば,座敷のたたずまいを見ているだけでいろんな作品の風景が偲ばれ価値が高まります。
これは公開のコラムですので,(気の利いた句をつくれない言い訳ですが・・)自分にしか通用しない自己満足の俳句や詩よりは通用性の広い名句を借りるしかないのは仕方のないところです。
プロの作者は大衆の気持ちの代弁者とすれば,人口に膾炙すればするほど作者の満足度が高まると言うもので,折角の名句を利用させて頂いてこそ、小林一茶が草葉の陰で喜んでくれるでしょう。
「去年今年貫く棒の如きもの」 高浜 虚子
は凛として決まっていますが,私には荷が重い感じがするので,今年は小林一茶の名句の心境で新年を始めたいと思います。
小林一茶は苦労した偉人ですが、凡人の心境を気負わずに表現しているのが、庶民文化社会のファンの心をつかんでいるのでしょう。
今年も根拠のない個人的思いつきを書いて行きますので、意見の合う限度でお読み下さるよう・・どうかよろしくお願いします。

平成28年元旦(人生を味わう1)

あけましておめでとう御座います。
皆様におかれましては、おめでたい元旦をお迎えのことと存じます。
私も家族も御陰さまで元気に新年を迎えることが出来ました。
「今年も心機一転この一年頑張るぞ!」と言いたいところですが、ここ数年?あまり頑張らなくとも良いか!と思うようになりました。
若い人にとっては、勿論元気に飛躍の歳になるように頑張るのは良いことですので、読者の中で若い人にとっては、年齢相応に元気で良い歳になりますように祈念します。
私の方は、ま、あまり意気込む必要もないので、今年も年齢相応にゆったりした一年を過ごしたいと思っています。
60歳の還暦の頃にいよいよ高齢者の仲間入りか!と感慨頻りでしたが、今になると、あんなに若いときに何でそう思ったか?と言うところです。
そのころは、皆そう言う気持ちだったので、事務所・関係弁護士がパーティーをして下さるなど還暦を祝って戴いたものですが・・・。
最近では70歳の古希祝いも滅多に聞かなくなり、私もいつの間にか素通りしました。
80台は今でも元気な人が多いですから、私が80台になる頃には、もっと元気な人の比率が高い時代になっているでしょう。
今のところ、どこと言って具合が悪い訳でもないし、いつも自分中心と言うか自分から見て若い人が増えたなと言う価値観で来たのですが、若いと思っていた人たちの年賀状に、「子供が育って夫婦2人の生活になりました」と書いて来た人が何組かあったり甥や姪に孫が生まれたとあるのを見ると、さすがに自分世代の時代は終わったのだ!実感するしかありません。
体力的には自覚が乏しいものの、周辺情報や年齢を数えると高齢化したかな?言う程度ですが、人から見ればいろんな能力が落ちているんだろうなと自戒している状態です。
大晦日に書いたように時間が早く過ぎるように感じること自体が、能力の衰えの徴候です。
情報処理力や移動能力が落ちて来る代わりに、高齢者には時間が充分にあるので昔10分で歩いた距離を15〜20分かけてゆっくり歩けば良いことです。
食べるものも量を食べられなくなれば、良いものを少し楽しめば良いことです。
若いときには将来のための教養を積むとか、家を建てるとか老後のためとか、すべて蓄積目的の生活でしたが、高齢者は蓄積の必要がなく、(長寿で知られた金さん銀さんが質問されて「老後のため・・」と答えたことが知られていますが・・)その時間時間の刹那を楽しめば良いので気楽です。
子世代のことが気になる(煩悩を断ち切れない)ものの、何となく達観するようになって来たことを、昨年元旦のコラムに書きました。
高齢社会では(食べ物に限らず文化を含めて)量に関心がなくなり、良いものを素直に愛でる消費が増えるので、文化が更に発展する・・文化が上質化して行くのが楽しみです。
江戸時代の文化に限らず、その前から日本のいろんな文化は、高齢者が支えて来た上質文化が基礎にあるように思われます。
情報にも上質情報と粗悪情報が当然あります。
同じ映画でもこく味のある映画とアメリカ映画のようにただ元気がいいだけのもあるように、詩歌であれ上質情報が増えるようにして行けば、高齢者も短い時間で楽しめます。
高齢化すると時間が早く過ぎてしまうように思えますが、その代わり高齢者にはたっぷり時間があります。
今年は良いものを少しずつ楽しむ年にしたいものです。
ここから大晦日のコラムの続きですが、今後ますます能力低下が進み、時間が過ぎるのを早く感じるようになるのでしょうが、能力低下に合わせて、じぶんが感じるままの時間の流れに任せて生きて行きたいと思っております。
一年を半年に感じる人はその分に比例して情報処理能力・受容量が落ちている可能性があります。
厳然たる不都合な事実をそのまま受入れるしかない・・人によっては若い者に負けないぞ!とトレーニングに励み、◯◯学校に通う人もいますが・・偉いのか、◯◯なのか人によって評価が違うでしょう。
大げさかも知れませんが、寿命が尽きて行く方向への心の準備と言うか、私のような凡人でも高齢化して来ると体力の衰えの実感から、悟り・・あきらめ・向上意欲衰えの正当化?に近づいているような気がしてきます。
若い頃には、昨日あることが出来たら今日・明日は練習すれば、もっと良く出来ると言う価値観で50年ほど生きてきました。
ところが60歳前後のあるとき気が付いてみると昨年より今年の方がレベルが下がっているのじゃないかと気が付くようになりました。
比喩的に言えば、10個の英単語をやっと覚えたと思うと、10日前に覚えた12個の単語を忘れているような感じです。
この10年ほど、気に入った詩歌があっても記憶しておこうとしなくなりました。
こうなると時間の流れに抗うよりは悟りに近づいた気持ちになるしかないような気がしますが、(知らぬ間に判断力がついているのかも知れませんが・・これは詩歌をいくつ覚えたと言うように客観的に分りません)能力ダウンを逆手とって楽しくやって行きます(・・・結局は自分中心価値観に帰するようですが・・)ので、今年もよろしくお願いします。

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