メデイアと学者の煽り6(国際孤立の始まり1)

昨日引用したウイキペデイアによれば日本は

「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。

と、日本政府が格好良く矛を収めたのは、非常に有能というか見事な交渉でしたが、国内の講和反対騒動は高度な駆け引き・・国際常識を知らない田舎者が大騒ぎしていたようなものです。
この大騒ぎを見れば、政府がせっかく紳士風に収めてもエセ学者が国内を煽ったことによって国際社会に馬脚を表していたようなものです。

「上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」

とウイキペデイアにある通り、せっかくの外交交渉の成果をメデイアの煽りが裏で台無しにしていたのです。
日露戦争は基本的に明治維新以降欧米の植民地にならないように抵抗力をつける富国強兵政策の総決算的戦争・・防衛のための戦争であった本質からして、(軍の近代化による防衛力増強・・応援してくれる諸国を増やす努力を含めてギリギリ間に合って)負けないで済んだだけでよかった戦争です。
賠償金を取れない戦争はコストがかかった分だけ勝った方も負けた方もその後の経済が疲弊します。
個人でもそうですが、揉め事を起こして得はありません。
賠償金をたんまり取るべきという強盗的交渉は酷くないか?という国際世論に当時変わりつつあったのですが、エセ学者やメデイアはこの流れについていけない・・今の革新系という超保守政治運動家同様だったことがわかります。
第一次世界対戦でドイツに課した賠償金が重すぎたことが知られていますが、実は日露戦争前の1900年の義和団事件(7博士意見書に書いている日本の呼称は北清事変)の時に決めた巨額賠償金が酷過ぎるという批判を受けるようになって、日本を含めて連合国がそれぞれ)その後中国へ実質返還する動きになっていたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8

義和団事件
賠償金の返却
あまりにも過酷な賠償金請求に対し、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学(1911年~)を創設した。この大学は北京大学と並んで中国を代表する名門大学として成長し、現在でも理系分野ではトップと言われている。
日本も1922年に賠償金の一部を中国に対する東方文化事業に使用することを決定し、中国側に通告した。日本の外務省には、対支文化事業部が新設され、日中共同による「東方文化事業総委員会」が発足した[12]。また、東亜同文会・同仁会・日華学会・在華居留民団など日本国内で日中関係進展にかかわる団体への補助を行ったり、中国人留日学生への援助を行った。

(押し込み強盗ではないのであたり前のことですが)第一次世界大戦では、戦勝国が賠償金を取れなくなったので、敗戦国のみならず戦勝国も双方疲弊し、世界の主導権が欧州から米国に移ってしまったと見るのが歴史上の定説でしょう。
対外的あるいは学校教育的には日露戦争戦勝のプラス面ばかり・・日本が自信をもってしまったのがその後の方向性を誤った原因のように習いますが、(実力以上の自信を持って舞上がっていたのはエセ学者とメデイアのみであって、)政府・識者としては開戦前から借款に走り回っていたことから分かるように、仮に勝ったとしてもその後の負債返済に象徴されるように戦争で失ったものの復旧など大変な国難が待ち受けていることを承知していたことは、開戦には容易に踏み切らなかったことや講和条約対応を見ても容易に推定可能です。
1日も早い講和を望み、講和成立後は戦後復旧費用・内政的に大変な状態・・これをどう乗り切るかの瀬戸際に追い込まれていたことは政府は誰よりもよく知っていたでしょう。
一等国になって実力が上がったのではなく、逆に中堅兵士が多く戦死し前線指揮官の補給が続かなくなっていたことが紹介されていることからも分かるように、戦争後は戦前よりも総合国力が落ちているのですから、本来ならば、体力回復が第一で対外活動を縮小しなければならない状態でした。
ところが軽薄学者やメデイアの方は、世界の一等国になったのだからもっと世界進出し国威発揚すべきと煽りを続けたのでそのギャップに苦しむことになります。
大災害で熟練調理師や熟練工その他の人的被害その他を受けた商店や工場は、まずは復旧に専念すべきであって、店舗拡張や海外工場新設計画があってもそれを一時中止・先送りするか他社との合弁に切り替えて資金や人的負担を分散軽減するのが普通です。
新規投資には膨大なエネルギーが必要ですから、戦争で人材を含めて体力を使い切った直後に満州に日本単独で鉄道敷設等の投資・エルギーをつぎ込むのは無理があったのですから、ここは一歩下がってアメリカの望んでいる満州の共同事業化を日本の方から提案すべきだったのです。
ところが、首の皮一枚でようやく講和を勝ち取ったにも関わらず、エセ学者やメデイアが「国民の貴重な血を流して勝ち取ったものを寸土も譲るな!」という偏狭な主張を繰り返して政府の政策選択の幅をなくしていき、常識的対応をしていた桂内閣を辞職に追い詰めていった流れが日本を破滅の淵に追い込んでいったのです。
日本戦後でいえば、日米同盟とソ連圏との同盟とどちらの選択が正しかったかは、歴史が証明しているところですが、日安保を進めた岸総理が条約成立後退陣を余儀なくされ、安保反対闘争で活躍した人たちがメデイア界で英雄扱いされる変風潮が今も続いています。
歴史を見てわかることは、日本のメデイアやこれに迎合する学者はいつも極論を主張して日本の国益に反する方向へ世論を引っ張る傾向があるように見えます。
日米戦の終戦後復興でみると(戦後国内復興に専念していたにもかかわらず)10数年かかってようやく岩戸景気に始まる成長が始まった例を見ても分かるように、これを敗戦というか終戦というかにかかわらず、もともとそれだけの痛手を受けていた事実はかわらないということです。
原爆投下や焼夷弾攻撃の結果、国内焼け野が原であっても日米講和条約で仮に対等終戦・・日米現占領地現状維持の停戦だった場合を想定すれば・中国現地に大量の兵員など釘付けのままであれば)日本国内復興がもっと遅れたどころか、もっと大変なことになっていたことがわかります。
例えば、戦中戦後の食糧難は、台湾島からの輸送船が撃沈されてことが原因のように言われますが、もともと日本は食料を自給していた上に満蒙開拓団や朝鮮半島等への移住や何百万に上る兵員の外地展開で国内需要は減っていたはずでした。
食料不足は農家の青壮年働き手を根こそぎ徴兵したために起きたことです。
工員不足を補うための女子生徒動員・韓国慰安婦騒動で有名な女子挺身隊などが多く報道されているので有名ですが、工場は10〜20日操業が止まっても目に見えて生産力が落ちますが、農地の草むしりや害虫の駆除・里山の管理など目配りはその程度の手抜きでは目に見える変化がありませんので学徒動員の対象になりません。
即時効のない農業ではつい後回しになりますが、いわゆる10年戦争をやっていると周辺山間地の手入れが後回しになり農地が痩せてきて大変なことになってきた、働き手の大部分が徴兵されてしまった事による生産減少が大きな原因でした。
現状停戦でなく全面撤兵になったことより、大量の労働力が戦地から引き上げてきたので、国内復旧が急速に進んだ面を否定できません。

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