7博士意見書と学問の自由1

明治維新以降「民主化こそ良いもの」と言う信仰的流れの下で、騒動を起こすものが民意の代表とは限りませんが、これといった見識もないメデイアが民衆を煽るのに好都合な「弱腰外交批判」方向ばかりに陥ったのが日露戦争以降の日本でした。
満州への独占進出となれば日本だけ相手なので中国は欧米をバックに抵抗し易い・・(義和団事件などの例を見ればわかるように列国横並び進出の場合には日毎の競争関係を抜きにして共同対処できたのです)欧米は一緒に満州に進出できれば中国の不満を押さえる方に回りますが、欧米諸国としては日本に締め出されるならば中国の日本批判の後押しをします。
こういう知恵があるのでイギリスは自分が戦って香港を得たにも関わらず、中国進出には独占しないで、他の国が戦わないで後追い進出するのを黙認・・おこぼれを与えていざという時に多国籍軍組織化可能な状態にしてきたのです。
アメリカが、日本占領支配でも朝鮮戦争やイラク〜アフガン戦争でも国連〜多国籍軍にこだわるのはこの知恵の承継です。
だいぶ前にソニーだったか何かの部門で、先行していたのに独自技術にこだわったために世界標準になり損ねてしまった報道を記憶していますが、今になるとはっきりしません。
うろ覚えのVHSで検索すると以下の記事が出てきました。
これによると電子部門だけでも各種の規格戦争が繰り広げられていることがわかります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E6%88%A6%E4%BA%89
引用省略
満州単独進出により国際孤立した苦い経験がありますが、この10年前後でいえば携帯分野でのガラパゴス化も知られていますが・・満州進出時の苦い教訓を生かしていないことによります。
日本文化の独自性は簡単に文化侵略されにくい良い面がありますが、他方で世界標準を握りにくい弱点もあります。
山岳民族は防衛に強い反面広い世界の支配原理を持たないのと同じで、日本列島は蒸気船発達までは、海の防壁によって大量物流や大規模軍事侵攻の対象になりにくかったものの、文化流入程度の輸出入には事欠かなかったので、良い面だけ取り入れてうまくやってこられました。
(空海のように本を買って帰る程度ではエログロなどの猥雑なものは捨てられて、良いものだけ厳選されて入ってきます・大航海時代が来ても日本は意図的に窓口を出島に限定するなど・明治維新開国後の欧米文化の翻訳輸入も同じです)
蒸気船が発達するまでは、日本列島は文化を含めた防衛に最強でしたが、その分独自性も強い・・良い面もありますが、世界標準を先導する競争になると不利な面があります。
汎用品になると、今のように部品輸出で勝負するのが性に合っているとも言えます。
日露戦争の後始末に戻りますと日露戦争に勝って列強の仲間入りしたと言っても力を使い尽くしていたので、戦争前よりも内実は国力が弱っていました。
国力脆弱で満州を自力で守りきれないのですから、アメリカの要望・・元々その目的でアメリカは日本を応援したのですから・・門戸開放・・共同支配に一歩下がるべきだったのです。
三國干渉を受け入れたのと同様の知恵・・独仏露のように露骨に「俺にもよこせ」と要求しないアメリカの意を汲んで行動していれば、アメリカの後押しのある日本に中国が抵抗することもなく、円滑に国力拡張していけたでしょう。
この点は中国植民地支配の成功が人道的によかったかどうかの視点を別にして日本孤立化防止に限定しての意見です。
あと講釈はだれでも言えますが・・・。
日露戦争後に欲張りすぎて国家破滅の道を進むしかなくなった原因は、現実無視のエセ学者らの過激な要求が勢いを持ちすぎて政府・・政治が振り回されるようになって行ったことによります。
大分間が開きましたが、ポーツマス条約に関するウイキペデイア記載の日露戦争の年譜を引用しておきます。

年譜
5月28日 – 日本海海戦が日本大勝利のうちに終わる。
5月31日 – 小村外相が高平駐米公使にあててセオドア・ルーズベルト米大統領に日露講和の斡旋を依頼するよう訓電。
6月1日 – 高平公使、ルーズベルト大統領に仲介の斡旋を依頼。
6月2日 – ルーズベルト大統領、高平公使の依頼を承諾。
6月9日 – ルーズベルト大統領、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案。
7月7日 – 陸軍第13師団、南樺太に上陸。
7月31日 – 樺太のロシア軍が降伏。樺太全島が日本軍政下に。
8月10日 – ポーツマス会議が始まる。第1回本会議。
大阪朝日新聞が、ポーツマス会議で賠償金が獲得できないことを号外でスクープ。日本国内騒然となる。
8月12日
第2回本会議。
第二次日英同盟条約締結。
8月17日
第6回本会議。
講和問題同志連合会、東京明治座で集会。講和条約譲歩絶対反対決議を採択。
8月21日 – ルーズベルト米大統領、ニコライ2世あてに善処を求める親電を発信。
8月22日 – ルーズベルト米大統領、日本全権団に賠償金要求放棄を勧告。
8月23日 – 第8回本会議。ウィッテ、日本側妥協案を拒否。
8月24日 – 戸水寛人東京帝国大学法科大学教授、講和会議に反対する論文で休職になる(戸水事件)。
8月28日 – 御前会議で賠償金、領土割譲に関し譲歩してでも講和条約締結を優先することを決定。小村全権に訓令。
8月29日 – 第10回本会議で日露講和成立。
9月1日
日露休戦条約を締結。
国民新聞を除く有力各紙が日露講和条約に反対する社説を掲載。
9月2日 -立憲政友会代議士会及び院外団有志、憲政本党政務調査会がそれぞれ政府問責決議と講和条約反対を決議する。
9月3日 – 大阪市をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開催される。
9月5日
日露両国、講和条約(ポーツマス条約)に調印。
日比谷焼討事件。
9月6日 – 東京市、東京府5郡に戒厳令。
9月14日 – 大山巌満州軍総司令官、全軍に戦闘停止命令。
9月21日 – 東大七博士、講和条約批准拒否を上奏文を提出する。
10月10日 – 日本、講和条約を批准。
10月14日 – ロシア、講和条約を批准。

7博士意見書に対する当時の伊藤博文等政府要路の反応に関するウイキペデイアの記事からです。

東京帝国大学教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午の7人[1]によって書かれた。6月11日に東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞4面に全文掲載された。
内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫ったものであった。
この意見書は主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかったが、伊藤博文は

「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。

なお、戸水は日露戦争末期に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣久保田譲は1905年(明治38年)8月に文官分限令を適用して休職処分とした。ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。このため、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、翌年1月に戸水の復帰が認められた(「戸水事件」)。
実務を知らない学者の空論など相手にしないと言う伊藤博文の意見・態度は文字通り卓見です。
当時から上記の通り学問の自由は大切にされていたことがわかりますが、講和条約反対論は学問意見発表と関係のない政治意見でした。
具体的事情も知らないで?どういう根拠で東大7博士が上奏文(意見書)を書けたのか不思議です。

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