思想「弾圧」3と野党の役割

一時期「日本人とユダヤ人」という著作で1世を風靡した山本七平氏の知恵75のエッセンスと言う以下のコラムに戦前戦後野党の体質を書いているのが見当たりました。
https://books.google.co.jp/books?id=J_omDwAAQBAJ&pg=PA50-IA2&l

五〇  「統帥権干犯ルーツ」と言う部分の最後に以下の通り書いています。

それから昭和期においては2党政治だったから相手をやっつけるためなら何でもいい、そこらに転がっているあらゆる理屈を総動員すると言うこの日本の野党精神、反対のためならどんな屁理屈でも持ち出す。現在の政府がやっている事にはなんでも反対、これが政友会のやった事である。だから社会党はなんでも反対だと言われるのは買いかぶりであって、日本の野党は昔から何でも反対でその方針に独創性も何もないのだ。

野党(議会の少数です)が政権を揺るがし得たのは、民主主義・メデイアの大規模な応援があってのことです。
野党の地球で辞任に追い込まれたのがなぜ「権力による弾圧」になるのでしょうか?
今の野党が政府政策に何でも反対し妨害に精出すのは、外国のスパイが入っているのでないか・・と疑問を呈する人が多いですが、これが政友会の時代から日本野党のレベルであるとすれば一概に中韓の代弁勢力とは言えないでしょう。
この辺はジャーナリストも同様で日露講和条約に憤慨した日比谷焼打事件で紹介し、その後の天皇機関説で政府責任・・合理的根拠なく民衆を煽り政府批判さえすれば良いと言う姿勢で一貫していました。
これでは国家のより良い発展を目指すためにある思想表現の自由の乱用ですし、民主政治に必要な言論機関とは言えません。
日本は古代からボトムアップ・合議制社会ですから、政治決定前に多くの意見集約を経ています。
合理的意見集約過程で多数の支持を受けられなかった極論をいう人材(異端)がメデイアに不満をたれ込む・メデイアはその極論が正義かのように民意を煽ると、極論は単純論理が多いので庶民扇動向き・・扇動マシーンの役割りを果たしてきたように見えます。
極論あるいは実現性がないので審議会等で支持を得られなかった少数意見を取り上げて国民扇動マシーンになっているのが野党に限らず・と言うより野党とメデイアは一体化しているといった方がいいかもしれませんが・・日本のメデイアの伝統的役割です。
戦後の天皇機関説事件の紹介では、メデイアの果たした役割がメデイア界に都合が悪いためにか?ネットその他でも全く出てきませんが、天皇機関説事件の先がけであった上海「新生」報道事件で日本ジャーナリズムの動きを考察した論文が2008年に出ています。
東京朝日新聞記事と中国の報道機関「申報」との記事比較によれば、朝日新聞は言論の自由を守る視点がなく「如何に中国政府を屈服させたか」「日本の言い分を中国政府に飲ませたか」に力点を置いている状態・ひいては天皇機関説事件でも大方の新聞は天皇機関説批判一辺倒であったことが紹介されています。
思想「弾圧?」に果たしたメデイアの役割の続きです。

https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/200803/yo.pdf

楊韜
4ー3「新生事件」と「天皇機関説」との関係
・・・自由主義的な新聞や雑誌は何かの影におびえたように、美濃部の「天皇機関説」を擁護するものはなく、完全に回避的な態度を取り、かすかに残された言論の自由は跡形もなく消えていったと、その後の日本のジャーナリズムの変化を指摘している(前坂195)。無論当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。
『他山の石』で論陣を張り続けた桐生悠々など、少数でありながら美濃部達吉を擁護する声もあった。しかし、やがて日中戦争の長期化や太平洋戦争の突入とともに、日本のジャーナリズムは完全に死に体の時期へと向かって行ったのである。

5 結び
本稿は、1935年の「新生事件」に関する日中両国の動きに関し、主に両国における報道という視点から考察を行った。
中国紙『申報』と日本紙『東京朝日新聞』における記事を分析することにより、天皇の尊厳を守り、「強い」日本政府を日本国民に印象づけようとする『東京朝日新聞』と、中国国民の反日感情に沿った路線を取った『申報』の報道姿勢の違いについて具体的な叙述を行った。
・・・中国政府は、国民党の独裁統制を維持するために日本の圧力を借り、国内の言論自由や報道出版に対する統制を強化させた。一方、日本政府は「新生事件」を利用し「天皇機関説」事件と関連付け、国内での国体明徴運動を推進した。両国の政治状況の違いは、直接、両国の新聞紙面における報道姿勢の違いとして反映されたのである。
「無論、当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。・・桐生悠々など、少数でありながら美濃部達吉を擁護する声もあった。」

と書いていますが、例外事例として、大手中小地方紙を問わず擁護したメデイアの例を挙げられず全国的に知られた有名人でない個人が私的に書いていたコラム程度しか例がない点(・・個人頒布の域を出ない意見を大手も地方紙も取り上げなかったように見えます)を注視すべきです。
大手〜地方紙等のメデイア揃って民主主義死滅方向への軍部の片棒を担いで煽っていたことを言外に明白に示しています。
今の森加計問題もそうですが、国会質疑が世論を動かし政府対応が必要になるには、メデイアによる大規模なキャンペインが必要です。
メデイアが、天皇機関説批判に回っている中で、一人軍部を恐れず応援していた桐生氏関するウイキペデイアの記述です。

桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年5月20日[1] – 1941年9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。
・・・12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は…空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した[22][23]。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた[24][25]。
以後の悠々はその死に至るまでの8年間を愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)にて「名古屋読書会」の主宰者として過ごした。彼自身が紹介したいと考えた洋書を翻訳しその抄訳を会誌で頒布するという仕組みであり、悠々の言論活動は『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」に限られることとなった。

軍の面子丸つぶれの論説を書いても不買運動で辞職を迫られたくらいで特別な迫害を受けず、辞職した後は怖いもの知らずで、あとの余生は個人主催の「他山の石」などで「天皇機関説」をただ一人?擁護していたことになります。「当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。」と言うことは、大部分・大手メデイアが率先して煽っていたことを言外に「明言」していますが、メデイアの応援で食っている文化人はこの辺の研究をしないしメデイア界は絶対に報道しないでしょう。
上記のように遠慮がちであっても、メデイアの痛い所を衝く論文が出たのは中国系研究者・氏名・経歴による研究分野からの想像だけですが・・だからこそ、可能であったのではないでしょうか?

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