メデイアと学者の煽り2(日露戦争1)

3月27日まで見てきたように、日本で史上言論弾圧事件と言われている大部分(ほぼ100%)は少なくとも野党やメデイアの集中砲火で政権が辞職に追い込まれ、その結果天皇機関説を教えること自体が犯罪になってしまい、その後は野党が処罰しろと騒がなくとも治安当局が検挙するようになっていたのですから、それを政府による「弾圧」というのは自己矛盾的主張ではないでしょうか?
戦前は軍部・右翼が怖くてメデイアは迎合するしかなかったという言い訳もありそうですが、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の例を書きましたが、軍部が怖くて迎合するしかなかったというのは言い訳に過ぎません。
むしろ軍部内の跳ねっ返り・ 「勇ましいことを言えば格好いい」という程度の浅薄な軍部内少数意見をメデイや野党が引き受けてあたかも正しいかのように世論を煽っては軍部内の慎重穏健派を蹴落としていく役割を果たしてきた・存在を示してきたと見るべきでしょう。
メデイア界の主張を通すための箔づけに最近では国連調査官報告や憲法学者連盟声明を利用しているように、当時は「帝大学者意見書」を発表しては、世論誘導に励んでいた点では今のやり方の先駆けパターンです。
以下日露戦争前後における「エセ学問見解」?やメデイアの動きと客観事実を紹介しますが、無責任報道が昔から「学問の自由」「報道の自由」を錦の御旗にしていかに蔓延っていたかが分かります。
24日「政党の終焉」で見たように軍部よりも政友会総裁の方が軍部を煽る過激主張していました。
日本国内報道過熱が先行して中韓の反日運動が過熱したのと同じ構図で、外野の軍部を利用しすぎたのです。
日露戦争開戦と講和時におけるメデイアによる跳ね返り学者利用による民衆に対する煽りの激しさは、以下に紹介する通り半端ではありません。
日露開戦の是非や講和の損得などの機微について前提事実を詳しく知らない庶民や右翼が、焼き討ちするまで盛りあがるには、盛り上がるにたる一方的な(国民を煽る)情報を流布して反政府運動を盛り上げるメデイアやエセ学問的意見や政治家の後押しがあったからです。
日露講和条約の理解には客観情勢の理解が必須ですし、この読者にとっては多くの方がある程度知っていると思いますが、キッチりした時系列を確認しながらお読みいただく方が良いので煩雑で長くなりますが、何回かに分けて引用して行きます。
今日から先ず客観的時系列解説記事を紹介し、それを前提として当時学者の言う「学問の自由」とは何であったか・学問研究と関係のない政治意見・アジテートを「学問の自由」と主張したことで、かえって学問の重要性を貶める効果を果たしていったのではないかの視点で7博士の意見とその評価を紹介します。
ポーツマス条約に関するウイキペデイアによれば、日露戦争と日露講和条約の概要(長くなるので一部引用)は以下の通りです。

1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損害が甚大で払底しつつある他、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、さらにロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた[1]。
1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。
5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使[注釈 1]にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた[2]。
ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた[3]。
中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満州を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである
・・1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった[2]。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している[2][注釈 3]。
・・・・ウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった
すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた[12]。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。
そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった[注釈 5]。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである[12]。
すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた[12]。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた[11]。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった
首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。
児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという[16]。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。

上記のとおり講和条約反対の日比谷焼き討ち事件はメデイアの期待に応える無知(実態無視)な学者のアジテート・扇動によって始まったものです。

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