政党支持率と内閣支持率推移2

福田内閣で安定成長軌道に乗ると再び党高政底(リーダシップ政治不要?)に戻ります。
あ〜とかう〜とか何を言っているのか、まるで不明な発音が普通であった大平氏を筆頭に鈴木善幸〜最後は(大平氏に比べて発音ははっきりしているが)「言語明瞭意味不明」と言われた竹下など基本的に「寝業師」中心で何をどうするのか不明の時代が続きました。
この間、政治目標をはっきり主張していたのは「青年将校」と言われていた中曽根氏だけです。
若い頃から総理公選制を唱えるなど主張のはっきりしていた彼が遂に政権を入手すると長期政権になったのは、三角大福中の政権争奪者の中で年齢が一人大幅に開いていた(若かった)からと言われていますが、日本の経済力が警戒されて国際包囲網が形成されていく中で、相応のビジョンを持って国際的人脈形成をして世界に飛び込んで適応できたことがわかります。
人脈的にはいわゆるロン・ヤス関係を構築し、貿易面では国営企業を減らして国内経済では国鉄その他の民営化実現などの自由経済化を進める改革を行うなど国内で痛みを受け入れるべきは受け入れ流などの成果をあげました。
国鉄とJRとのサービス精神の違い超赤い自他室が黒自体室に変わっただけではなく・・その頃を期して公務員の姿勢が民間並みに変わったのを見れば結果的に大きな改革でした。
国際政治的には不沈空母発言等で西側諸国になくてはならない存在を強調するなど第二次世界大戦前夜のような孤立の再現を防ぐのに成功していたことがわかります。
プラザ合意でひどい目にあったという意見が主流ですが、一定の痛みの受け入れによって円高でも稼げる筋肉質の企業に変身させ、他方黒字を稼ぐばかりではなく、儲けを国内還元する・・内需拡大→生活充実・文化度アップに切り替えた功績は偉大です。
このコラムで「失われた20年というが、日本の身近な生活水準が目に見えてよくなっている」ことを繰り返し書いてきました。
内需無視で輸出で儲けるばかりでは国民も不幸ですし、商人や製造業者は一定の儲けがあったらその段階で家族・従業員国民にその利益を還元し国民の消費・文化度アップできてこそ、儲ける意味があります。
韓国の苦しみを見るとここ1〜2年貿易統計上空前の黒字を稼いでいる筈なのに、国民に還元せず国民の多くが低賃金や失業や負債増加に苦しんでいるアンバランスがあり、そのはけ口として文大統領が率先して自分が不法占領している竹島問題を持ちだして日本を刺激し、あるいは解決済みの慰安婦騒動の蒸し返しを図っています。
中国も実は貿易黒字が大きいのですが、国威発揚のために戦略的に無駄な海外投資(軍港確保目的にインフラ融資をして返済できないと港湾を取り上げる高利貸し商法)をしたり、内需(無駄なインフラ投資ばかりで国民を豊かにする消費支出)に回せないために、国民の生活レベルが低いままです。
この不満のはけ口にするために対外強硬主義に走るしかなく、何でも「死活的国益だから譲れない」と息巻いて相手国を恫喝する傾向です。
いくら威張っても、日常レベルの低さを知っている日本人の多くが気にしない・中国人民自身が日本の豊かな生活が憧れの対象になっている要因です。
何かあると譲るのを拒み「国難」だといきり立ってその都度仕返しだと騒いで対外的強硬策で孤立するのが良いものではありません。
中国は国内改革・痛みを拒んで・・開き直って、逆にこの1〜2年で見ると成長が止まった生産過剰分を民間に圧力をかけてどんどん潰して国有企業温存策に転じた上で、国内不満対策で対外強硬策になっているのを見ると、日本が戦前に突き進んだ轍を踏んでいるように見えます。
日本の対米戦は、短期的に見ればアメリカに戦争に追い込まれた面がありますが、その前に「満州死守が我が国の生命線」というような頑なな対応が遠因になっているという反省が必要です。
今になっての後講釈ですが、そのとき少し譲っておいても生命線でも何でもなかったことがわかります。
中曽根氏は小派閥の長でしかなかったために、時の主流派に正面から抵抗できないために妥協を重ねて政界風見鶏と言われ続けましたが、ともかく潰されないで生き残ったことで国鉄その他民営化の大業を歴史に残せました。
この時期には、もはや共産主義か自由主義の選択の時代が終わり(勝敗がついていたので)自由主義陣営内の競争選択の時代が来ていたのです。
内閣支持率が下がっても日本経済が上昇基調にある限り、党の支持率(体制選択不要・社会党/革新系支持率が上がらない)変更にはならなかったことがわかります。
一方で日本の国力増大(1968年西ドイツを抜いてGNP世界2位)→国際的地位・関係が微妙になり始めた時期でもありました。
ニクソンが電撃的に中国訪問(1972年)し、自陣営に引き入れて共産主義陣営の中ソ分断に成功し、一方で西側陣営内で頭角を現わしてきた日本外し(中国による日本批判を裏で承認する方向性)に動いていたのですから、複雑な国際政治経済が始まっていました。
国内政治が複雑になっただけではなく、自由主義陣営参加で占領軍支配以来のやり方・・・アメリカのいうとおりしていれば済む時代でなくなってきたのです。
一方で欧米諸国は、第二次世界大戦の教訓もあって日本を重視する方法も用意していました。
世界の重要事項を決める大国の首脳会議の場・サミットが結成され日本が創立メンバーに入ったのもこのころですがいわば、欧米多数の中に一人アジア人が入っても何も言えない・・「一緒に決めましたよネ!という約束させれる場を作られたようなものです。
その意味はいわゆるプラザ合意も同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
第1回先進国首脳会議は、1975年11月15日から17日までフランスのイヴリーヌ県ランブイエで開催された先進国首脳会議。通称ランブイエ・サミット。
参加者 ヴァレリー・ジスカール・デスタン
ヘルムート・シュミット
アルド・モロ
三木武夫
ハロルド・ウィルソン
ジェラルド・フォード
ニクソンショック〜プラザ合意以降自由陣営内で日本包囲網が形成される時代ですが、日本の選択として中ソ陣営に鞍替えする余地のない時代でした。
キャッチアップ時代が終わって以降現状維持・調整型政治では困る・・構想力・現状打破力プラス国際政治の荒波をくぐり抜ける能力が問われる時代が到来していることになります。
戦前独ソ不可侵条約締結に際して「時の平沼騏一郎内閣は、『欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた』という声明を出し、総辞職してしまった。」http://www.y-history.net/appendix/wh1505-010.html)ようなことの繰り返しでは困ります。
プラザ合意により、超円高〜バブル崩壊後「失われた20年」が始まりました。
「失われた20年」(ただし私は成長の足踏みが続いた結果、より良き日本文化が成熟できた良き時代であったと考えていることを繰り返し書いてきました)の始まりの閉塞感打破を期待されるようになって、トップ交代に対する期待感が再び強まったものの誰がやってもうまくいかない時代が続きました。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC