戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟1)

昨日紹介した論文https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf
の続きです。
論文記載の鹿児島県等の1984年(昨日紹介した就学率でいえば、1885(明治18)就学率49.62%の翌年ですが)の自署率は以下の通りです。

明治初期に文部省によって実施された自署率(6歳以上で,自己の姓名を記しうるものの割合)の調査に注目し,学制公布まもない時期の識字状況をしらべている。その結果はいくつかの県しかわかっていないが,滋賀県:64.1%(1877年),岡山県:54.4%(1887年)と50%をこえる県がある一方で,青森県:19.9%(1884年),鹿児島県:18.3%(1884年)など,20%に達しない県もあった(八鍬友広:2003,p.56)。

近江商人で知られる滋賀県は1877年でも64%の効率なのに青森や鹿児島では84年でも20%に届いていません。
文字を必要とする社会か否かにかかっていることがわかります。
http://www.tastytables.net/history/の「義務教育の歴史」によると以下の通りです。

日本での義務教育の歴史というと、まず1871年に国のでも文部省を設置し、翌年の1872年(明治5年)に日本で最初の学校制度を定めた教育法令である『学制』が公布され、義務教育推進運動が始まったというところが原点となっています。その当時は義務教育を推進しながらも授業料を徴収していたためそれほど普及することがなかったのです。その後1890年に改正された小学校令で尋常小学校の修業年限であった3年間または4年間を修了するか、学齢の8年間までが義務教育期間と定められており、3年間〜8年間と過程主義と年齢主義の併用をおこなっていたのです。たとえば、尋常小学校を3年間で修了した場合にはそれで年齢に関係なく義務教育は修了となるのですが、それでも修了できない場合は年齢制限である14歳になるまで義務教育が続くというものです。
1900年に小学校令が全面的に改正され、ここで尋常小学校の修業年限が4年間となったために義務教育期間が4年間からになっています。またこの法令により尋常小学校の授業料が無料になるなどしたために通学率がこれを機にどんどん上昇していったのです。1907年には尋常小学校が今と同じ6年間となったために6年間〜8年間となり、また1941年になるとこの尋常小学校の名称が国民学校初等科と変わっています。

上記の通りで、3年や4年小学校に通っても、多くの児童はちょっとした文字を習う程度でしかなかったでしょう。
在野というか自己意見・現状無視原理論が採用されないで下野したものは、民意重視と言っても漸進的にやるしかない・・この辺の機微がわからないで民衆を焚きつけて政府批判をするのが共通項です。
民権運動の功績を大げさに歴史で習いますが、条約改正のためにも近代法整備・・憲法その他の法制度準備と訓練期間・教育の普及等々を総合してどの程度のスピード・準備が必要か・・社会が混乱しないで受け入れ可能かの判断の違いでしかなかったことになります。
現在の「保育所落ちた日本シネ」の標語も同じですが、保育所増の必要性について与野党共に意見相違がない・現行法制との兼ね合いで、どこまで規制を緩めるか近隣住民の新設反対運動などをどうするか・保育士の人材供給など具体的な提案競争であるべきですが、野党はイメージ主張で対策が遅い批判しかできないのが自由民権・板垣時代から続く野党の特徴です。
ここで、在野系が組閣した大隈板垣内閣で政治が混乱した歴史を紹介しておきます。
最近でいえば民主党政権であり、韓国も全学連的政治家と言われる現代の文政権同様のことを明治30年代に起こしていたことがわかります。
第一次大隈内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備(のちの立憲政友会)のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下して組閣された。
首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によって固めたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。
この首相奏推の元老会議は御前会議として行われ、お通夜のような雰囲気の中、明治天皇は「本当に大丈夫なのか」と何度も念を押したと語り草になっている。
実際に寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展した。
そして代議士が大臣だけでなく省庁の次官・局長の地位までも占めたために、行政は大混乱した(所謂「キャリア官僚」制度はこの反省により生まれた)。
またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。そして組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。

これが政党政治の始まりでした。
救援を求めてきたハワイを助けたい気持ちは正論としても、在野が政権を握ると常識に欠ける傾向がある点では今も同じです。
民主党菅総理が原発事故に対して(緊急性があったにしても)トップは具体的行為を指示すべきではなく方向性や大綱表明に止めるべきなのに、(合戦でいえば総大将が末端組織の動きまで直接指示したのでは混乱します)むやみに介入して官僚機構〜東電指揮命令系統が大混乱した点も同じです。
その後政党政治を理想とするキングメーカー西園寺公望をバックにヨチヨチ歩きの政党を暖かく育てる動きが続いたのですが、昨日紹介したように政敵攻撃ばかりでまともな政策提言能力が育たないまま昭和恐慌を迎えて、なすスベもなくついに終焉を迎えたのです。
国民能力という点で普通選挙施行の1925年を見ると、昨日見た表で言えば、就学率が99.43 ですが、選挙権者が25歳以上ですから19年前に小学校入学した子供がようやく25歳です。
有権者平均年齢が仮に40歳前後とすれば、約35年前=1880年の就学率・識字率レベルが対象です。
個々人を見れば深い素養のある人もいますが、一人一票ですから大衆を基準に考えるべきです。
こういう状態で普通選挙実施になると政治家は浅薄な感情に訴える傾向が強めて行くしか無くなります。
1935年の天皇機関説事件では機関車や機関銃にたとえて感情を煽る宣伝が横行しました・・。
政治家レベルは選挙民のレベル次第と一般的に言われますが、以後政党政治は堕落・・レベル低下の一途をたどっていったのです。
日本の産業革命は模倣から始まったのでキャッチアップ速度が速く、短期間に世界強国の一角を占めるまで上り詰めたものの、裾野からの政治意識の成熟には模倣や「西欧ではこうだ」という啓蒙だけでは無理があった・・普通選挙実施は民度レベルから見て早すぎたのではないでしょうか?
日本人のレベルが低いのではなく、戦後民主主義が根付いたのは明治以降2〜3世代くらい時間が必要だったからでしょう。
普通選挙法に関するウイキペデイアの記事からです。

有権者数は、1920年(大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。

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