思想「弾圧」5

March 21, 2018思想「弾圧」4(天皇機関説事件)の続き「弾圧」という政治用語の妥当性に戻ります。
南原氏も講和条約対応で現政権と意見相違が目立つようになると政府要職から外れていきますが、これを弾圧とは言わないでしょう。
企業でも主流派と反目していると何かの失策を見つけては子会社に左遷されることがありますし、政党内でも党幹部に登用されるかどうかはその時の政権中枢との距離によります。
石破氏のように次の総裁選に出るためにみづから閣外に出る場合もありますが、それを弾圧とは言いません。
野党・文化人?の表現する戦前批判用語として、「弾圧」といえばものすごく酷い・暗黒政治をイメージさせられますが、天皇機関説事件では、美濃部氏が貴族院議員を辞職したにとどまるし、滝川事件では休職処分に追い込まれた程度でしかなく(裏で政府実力者西園寺が、立命館大学へ就職を世話していることを紹介しました)・・しかも野党やメデイアそれを煽って政府非難道具に使ってきた歴史こそ反省すべきです。
メデイア界あげてのキャンペインや野党批判による辞職も弾圧というならば、戦後の失言騒動による辞職も皆弾圧です。
今回の財務省文書書き換え問題で佐川前局長が辞任したのも、戦後弾圧史に残るのでしょうか?
政府与党系ならば疑惑を煽るだけで良いというならば、戦前の著名事件も政府要職者批判・・政権攻撃目的であった点は同じです。
慰安婦騒動も、親が売春仲介人に娘を売ったとしても、売られた女性にとっては任意性がないと言えるでしょうが、その場合には政府の連行強制とは意味が違うのに、いかにも政府が拉致したかのように強制性を強調するために「性奴隷」と翻訳して国外に広めたり、立憲主義違反とか近代法の法理違反とかの言葉のインフレ・メデイアしか情報源のない国民をじわじわと一定方向へ誘導する意図が過ぎるように思われます。
今流行りの財務省文書の修正変更、書き換え,改竄の表現は、まだ事実関係不明の段階で(結果的にのちに正しかったとしても)一方的に改竄事件と報道していたのは一方の立場に偏している印象です。
私の関係する審議会でも終わったあとで議事録案が回ってきますが、正式決定までは、修正可能ですし、これを書き換えともいいませんし、まして改ざんではありません。
会議場(事前に読めるように何十㎝にもなる分厚い資料が事前配布される仕組みです)で参考に配布された付属文書、その場限りで廃棄予定の参考資料や委員が手元資料にその場で書き込んだメモ等は「公文書」ではないように思えますし(持ち帰り資料もいっぱいありますが公文書ならば持ち帰り不能でしょう)公文書でないものをもらった委員が議論の過程でどのように修正しメモ書き加えようとも勝手です・そのための配布資料ですから、これをどう書き換えようと公文書改ざんではありません。
自分で書き加えたものを会議でもらった資料として外部に虚偽公表すのは許されないのは別の問題です。
訪問者と面談した時の官僚のメモが、そもそも公文書なのか?さえ不明・担当者の私的メモを通り越して上司への報告文書になっていたか?報告の結果決済印ある文書なのかさえ不明のまま、「改ざんがけしからん」という一方的情報が出回っていました。
書き換えのおこなわれた文書の性質不明だからこそ「公文書偽造」なのか「変造なのか」内容に変化ないので「変造にも当たらないのか」それとも「公文書ですらない」のかはっきりしない・検察庁も慎重に検討中のような報道が一方で行われていた理由です。
そのような未定報道をしながら同じメデイアが一方的に「改竄」と決めつけていたのは行きすぎでしょう。
事実が決まってから定義づけ報道すべきです。
事件があったかどうか不明の段階で「犯人が・・まだ自白しない」と報道しているようなものです。

March 21, 2018思想「弾圧」4(天皇機関説事件)の続き「弾圧」という政治用語の妥当性に戻ります。
南原氏も講和条約対応で現政権と意見相違が目立つようになると政府要職から外れていきますが、これを弾圧とは言わないでしょう。
企業でも主流派と反目していると何かの失策を見つけては子会社に左遷されることがありますし、政党内でも党幹部に登用されるかどうかはその時の政権中枢との距離によります。
石破氏のように次の総裁選に出るためにみづから閣外に出る場合もありますが、それを弾圧とは言いません。
野党・文化人?の表現する戦前批判用語として、「弾圧」といえばものすごく酷い・暗黒政治をイメージさせられますが、天皇機関説事件では、美濃部氏が貴族院議員を辞職したにとどまるし、滝川事件では休職処分に追い込まれた程度でしかなく(裏で政府実力者西園寺が、立命館大学へ就職を世話していることを紹介しました)・・しかも野党やメデイアそれを煽って政府非難道具に使ってきた歴史こそ反省すべきです。
メデイア界あげてのキャンペインや野党批判による辞職や解任も弾圧というならば、戦後の失言騒動による辞職も皆弾圧です。
今回の財務省文書書き換え問題で佐川前局長が辞任したのも、戦後弾圧史に残るのでしょうか?
政府与党系ならば疑惑を煽るだけで良いというならば、戦前の著名事件も政府要職者批判・・政権攻撃目的であった点は同じです。
慰安婦騒動も、親が売春仲介人に娘を売ったとしても、売られた女性にとっては任意性がないと言えるでしょうが、その場合には政府の連行強制とは意味が違うのに、いかにも政府が拉致したかのように強制性を強調するために「日本軍性奴隷」と翻訳して国外に広めたり、立憲主義違反とか近代法の法理違反とかの言葉のインフレ・メデイアしか情報源のない国民をじわじわと一定方向へ誘導する意図が過ぎるように思われます。
今流行りの財務省文書の修正変更、書き換え,改竄の表現は、まだ事実関係不明の段階で(結果的にのちに正しかったとしても)一方的に改竄事件と報道していたのは一方の立場に偏している印象です。
私の関係する審議やいろんな会議でも、終わったあとで議事録案が回ってきますが、正式決定までは修正可能ですし、これを書き換えともいいませんし、まして改ざんではありません。
まして会議場(事前に読めるように何十㎝にもなる分厚い資料が事前配布されるのが一般的です)で参考に配布された付属文書、その場限りで廃棄予定の参考資料やメモ等は「公文書」ではないように思えますし(持ち帰り資料もいっぱいありますが公文書ならば持ち帰り不能でしょう)公文書でないものをもらった委員が議論の過程でどのように手持ち資料を修正しメモ書き加えようとも勝手です・そのための配布資料ですから、これをどう書き換えようと公文書改ざんではありません。
自分で書き加えたものを会議でもらった資料として外部に虚偽公表すのは許されないのは別の問題です。
書き換えのおこなわれたと言う文書の性質不明だからこそ「公文書偽造」なのか「変造なのか」内容に変化ないので「変造にも当たらないのか」それとも「公文書ですらない」のかはっきりしない・検察庁も慎重に検討中のような報道が一方で行われていた理由です。
そのような未定報道をしながら同じメデイアが一方的に「改竄」と決めつけて大規模報道していたのは行きすぎでしょう。
事実が決まってから定義づけ報道すべきです。
事件があったかどうか不明の段階で「犯人が・・まだ自白しない」と報道しているようなものです。

思想「弾圧」4(天皇機関説事件)

メデイアの煽りといえば、天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記述です。

松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。
同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは一部拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。
しかし、3月に再び天皇機関説問題を蒸し返し、議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]
これに乗じて、野党政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論んだ。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、・・・」

美濃部の告発まで進みます。
日露講和条約反対で言えば、講和の損得などの機微について詳しく知らない庶民や右翼が、焼き討ちするまで盛りあがるには、盛り上がるにたる一方的な(国民を煽る)情報を流布して反政府運動をもり上げるメデイアがあったからです。
このようにメデイアと野党の二人三脚による追及で失脚するのを弾圧事件と言うのが正しいかどうかは別として、失脚の程度を天皇機関説事件に先立つ滝川事件について見ておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6によれば以下の通りです。

1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解[注 2]などを理由として発売禁止処分[4]を下した。翌5月には齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行した[5]。

この休職処分(ここ数日のテーマ関心は処分が正しいというのではなくこれを「弾圧」とは過激な表現でないかの疑問で書いています)に教授会や学生が抵抗したので大騒ぎになったものです。
上海の「新生」事件では、中国政府は懲役1年2月の実刑判決を宣告し、発行者は実際に服役しています。
日本で教職や辞職すれば済むのとは大違いです。
紹介した論文の一部引用です。
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/200803/yo.pdf

2-1 杜重遠と『新生』
・・・1934年『新生』を発行した。1935年7月、「新生事件」で懲役1年2ヶ月の判決を言い渡され、上海の漕河涇監獄に入り、1936年9月に刑期を終え出獄した。

今でも習近平政権になってからの政敵弾圧では、失職どころか全て長期服役が原則です。
スターリン粛清のようにシベリヤ流刑になるどころか、以下に紹介するように滝川事件では次の大学教授の職まで政府が用意しているのです。
昨日見たウイキペデイア続きです。

瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった[注 3]。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の松井元興総長[注 4]が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。
松井総長は、辞表を提出した教官のうち瀧川および佐々木惣一(のちに立命館大学学長)、宮本英雄、森口繁治、末川博(のちに立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授のみを免官[6]としてそれ以外の辞表を却下し、さらに鳩山文相との間で「瀧川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。
事件のその後
滝川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などの形で移籍した。また、瀧川自身も事件後は立命館で講義を行うようになった[7]。立命館への受け入れは、立命館総長・中川小十郎が西園寺公望の意向を踏まえ、元京大法学部長で立命館名誉総長だった織田萬と相談の上で運ばれた[8]。結果、立命館をはじめ京大以外の関西圏大学法学部の発展を促すことにもなった。
・・・この事件で予期せぬ漁夫の利を得たのは、立命館大学だった。立命館は、安い給料で当時一流の学者を招聘できた。また、戦後になって立命館がGHQに睨まれた際にも、この京大事件で追われた末川博を総長に据えるなど、大学の民主化を図って切り抜けた。

上記によれば、西園寺公望の政治力で、立命館で彼らを引き受けることにして収拾を図ったようですが、同氏は当時政界随一の実力者でした。
西園寺公望に関するウイキペデイアの紹介です。

明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった[1]。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

右翼も立命館教授になった滝川教授らをそれ以上追求しないで終戦を迎えています。
日本の思想弾圧とか戦前の「暗黒時代」という大げさな報道や教育刷り込みの割に実は極めて穏健なものです。
中国のように皇帝の逆鱗に触れるとすぐに九族皆殺しにあったり、トーマス・モアのようにヘンリイ8世の離婚がキリスト教の教えに反すると言い張って死刑になってしまったイメージとはまるで違います。
キリスト教国の異端審問・・思想自体を裁くものとしては、ジャンヌダルクの火あぶりの刑で知られているように過酷です。
ソ連では「収容所列島」と言われたようにスターリンのご機嫌を損ねるとたちまちシベリヤ流刑になる時代が続きました。
アメリカではアメリカ国籍を持っているにも関わらず日系人というだけで(文字通り人種による処罰です)全財産を没収した上で女子供を含めて荒野に鉄条網で囲った収容所に閉じ込め犯罪人扱いをしましたが、(男女年齢を問わず収容所送りと言う点では、ガス室に送られなかった点が違うだけでナチスの人種迫害と変わりません)日本は日本国籍を持たない在日米国人に対してさえそんな事をしていません。
日本政府の反対思想に対する対応は「弾圧」と言う禍々しい表現よりも、ソフトな不利益待遇(政府権力者による弾圧よりは、メデイアがうるさいからちょっと閑職に退いてくれないか)程度ですから、諸外国に一般的な弾圧という表現は実態にあっていません・・政治不利益扱い〜抑圧程度に表現するのが適当でしょう。

思想「弾圧」3と野党の役割

一時期「日本人とユダヤ人」という著作で1世を風靡した山本七平氏の知恵75のエッセンスと言う以下のコラムに戦前戦後野党の体質を書いているのが見当たりました。
https://books.google.co.jp/books?id=J_omDwAAQBAJ&pg=PA50-IA2&l

五〇  「統帥権干犯ルーツ」と言う部分の最後に以下の通り書いています。

それから昭和期においては2党政治だったから相手をやっつけるためなら何でもいい、そこらに転がっているあらゆる理屈を総動員すると言うこの日本の野党精神、反対のためならどんな屁理屈でも持ち出す。現在の政府がやっている事にはなんでも反対、これが政友会のやった事である。だから社会党はなんでも反対だと言われるのは買いかぶりであって、日本の野党は昔から何でも反対でその方針に独創性も何もないのだ。

野党(議会の少数です)が政権を揺るがし得たのは、民主主義・メデイアの大規模な応援があってのことです。
野党の地球で辞任に追い込まれたのがなぜ「権力による弾圧」になるのでしょうか?
今の野党が政府政策に何でも反対し妨害に精出すのは、外国のスパイが入っているのでないか・・と疑問を呈する人が多いですが、これが政友会の時代から日本野党のレベルであるとすれば一概に中韓の代弁勢力とは言えないでしょう。
この辺はジャーナリストも同様で日露講和条約に憤慨した日比谷焼打事件で紹介し、その後の天皇機関説で政府責任・・合理的根拠なく民衆を煽り政府批判さえすれば良いと言う姿勢で一貫していました。
これでは国家のより良い発展を目指すためにある思想表現の自由の乱用ですし、民主政治に必要な言論機関とは言えません。
日本は古代からボトムアップ・合議制社会ですから、政治決定前に多くの意見集約を経ています。
合理的意見集約過程で多数の支持を受けられなかった極論をいう人材(異端)がメデイアに不満をたれ込む・メデイアはその極論が正義かのように民意を煽ると、極論は単純論理が多いので庶民扇動向き・・扇動マシーンの役割りを果たしてきたように見えます。
極論あるいは実現性がないので審議会等で支持を得られなかった少数意見を取り上げて国民扇動マシーンになっているのが野党に限らず・と言うより野党とメデイアは一体化しているといった方がいいかもしれませんが・・日本のメデイアの伝統的役割です。
戦後の天皇機関説事件の紹介では、メデイアの果たした役割がメデイア界に都合が悪いためにか?ネットその他でも全く出てきませんが、天皇機関説事件の先がけであった上海「新生」報道事件で日本ジャーナリズムの動きを考察した論文が2008年に出ています。
東京朝日新聞記事と中国の報道機関「申報」との記事比較によれば、朝日新聞は言論の自由を守る視点がなく「如何に中国政府を屈服させたか」「日本の言い分を中国政府に飲ませたか」に力点を置いている状態・ひいては天皇機関説事件でも大方の新聞は天皇機関説批判一辺倒であったことが紹介されています。
思想「弾圧?」に果たしたメデイアの役割の続きです。

https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/200803/yo.pdf

楊韜
4ー3「新生事件」と「天皇機関説」との関係
・・・自由主義的な新聞や雑誌は何かの影におびえたように、美濃部の「天皇機関説」を擁護するものはなく、完全に回避的な態度を取り、かすかに残された言論の自由は跡形もなく消えていったと、その後の日本のジャーナリズムの変化を指摘している(前坂195)。無論当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。
『他山の石』で論陣を張り続けた桐生悠々など、少数でありながら美濃部達吉を擁護する声もあった。しかし、やがて日中戦争の長期化や太平洋戦争の突入とともに、日本のジャーナリズムは完全に死に体の時期へと向かって行ったのである。

5 結び
本稿は、1935年の「新生事件」に関する日中両国の動きに関し、主に両国における報道という視点から考察を行った。
中国紙『申報』と日本紙『東京朝日新聞』における記事を分析することにより、天皇の尊厳を守り、「強い」日本政府を日本国民に印象づけようとする『東京朝日新聞』と、中国国民の反日感情に沿った路線を取った『申報』の報道姿勢の違いについて具体的な叙述を行った。
・・・中国政府は、国民党の独裁統制を維持するために日本の圧力を借り、国内の言論自由や報道出版に対する統制を強化させた。一方、日本政府は「新生事件」を利用し「天皇機関説」事件と関連付け、国内での国体明徴運動を推進した。両国の政治状況の違いは、直接、両国の新聞紙面における報道姿勢の違いとして反映されたのである。
「無論、当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。・・桐生悠々など、少数でありながら美濃部達吉を擁護する声もあった。」

と書いていますが、例外事例として、大手中小地方紙を問わず擁護したメデイアの例を挙げられず全国的に知られた有名人でない個人が私的に書いていたコラム程度しか例がない点(・・個人頒布の域を出ない意見を大手も地方紙も取り上げなかったように見えます)を注視すべきです。
大手〜地方紙等のメデイア揃って民主主義死滅方向への軍部の片棒を担いで煽っていたことを言外に明白に示しています。
今の森加計問題もそうですが、国会質疑が世論を動かし政府対応が必要になるには、メデイアによる大規模なキャンペインが必要です。
メデイアが、天皇機関説批判に回っている中で、一人軍部を恐れず応援していた桐生氏関するウイキペデイアの記述です。

桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年5月20日[1] – 1941年9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。
・・・12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は…空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した[22][23]。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた[24][25]。
以後の悠々はその死に至るまでの8年間を愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)にて「名古屋読書会」の主宰者として過ごした。彼自身が紹介したいと考えた洋書を翻訳しその抄訳を会誌で頒布するという仕組みであり、悠々の言論活動は『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」に限られることとなった。

軍の面子丸つぶれの論説を書いても不買運動で辞職を迫られたくらいで特別な迫害を受けず、辞職した後は怖いもの知らずで、あとの余生は個人主催の「他山の石」などで「天皇機関説」をただ一人?擁護していたことになります。「当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。」と言うことは、大部分・大手メデイアが率先して煽っていたことを言外に「明言」していますが、メデイアの応援で食っている文化人はこの辺の研究をしないしメデイア界は絶対に報道しないでしょう。
上記のように遠慮がちであっても、メデイアの痛い所を衝く論文が出たのは中国系研究者・氏名・経歴による研究分野からの想像だけですが・・だからこそ、可能であったのではないでしょうか?

メデイアや野党による政府追及1と思想弾圧2

実際に美濃部達吉の天皇機関説事件では内務省がメデイア世論に押されて告発したものの、検事調べで起訴猶予処分になって終わっていますし、京大の滝川事件でも、大学を(国家公務員の地位を)追われるかどうかだけで刑事処罰されたものではありません。
美濃部事件では野党政友会によるもので政府が対応するしかなくなったのですが、政府中枢どころか、天皇陛下でさえ美濃部説を支持していたと言う発言記録があるほどです。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記事からです。

昭和天皇の見解
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている[7]。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。
主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ — 『西園寺公と政局』

滝川事件も以下で紹介するように政府中枢がメデイアの煽る世論に仕方なしに妥協的な処分をした裏事情が出ています。
半可通の右翼青年が政治力を何故持つようになったかといえば、民主主義がなかったのではなくむしろ民意重視の古代からの我が国で民意・・世論を偏った方向へ煽るメデイアの害が大きかったのです。
日露戦争講和条約に対する不満(戦勝したのに戦利品が少ない不満)で集まった暴徒による日比谷公園焼き討ち事件が知られていますが、素人が日ロの戦力比や国際情勢の機微を知る由もないので、半可通の極論を言う一部人士の言説をあたかも正義のようにメデイアが煽ってこれに軽薄な階層(メデイアを読む当時の知識人?)が反応したに過ぎないことは歴史が証明して・・ポーツマス条約は国際的根回しの成果・・当時の国際環境下では最大の成果であったことについて争いがないでしょう。
日比谷公園焼き打ち事件に関するウイキペデイアの記事です。

ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州(中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎はロシアとの交渉決裂を恐れて8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。 この条件は、国民が考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 – ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。

当時はまだ民主主義制度が根付いていなかったので、政府は半可通知識にもとずく極論・暴動を無視していればよかったのですが、大正時代に入ってくると、メデイアによる世論形成効果(読者層が増えてきた)・・アオリ効果が多くなってきたので、半可通の知識人?やメデイアによる右翼扇動が(メデイアの一方的な報道がなければ条約交渉の推移など一般人が知る余地がありません)世論を形成し、国政を左右するようになって国家の方向性を誤らせてしまったのです。
戦前の軍国主義・いかに政府権力が怖いか・政府がいかに悪かったかを戦後メデイアや文化人が他人事(自分が被害者)のように宣伝をしていますが、右翼思想を煽って際限ない吊るし上げ政治・言論を萎縮させて行ったのはメデイアであり、半可通知識人だったのです。
ちなみに現在政府批判の急先鋒である朝日新聞は戦前には右翼の主張を煽って政府批判していた代表的メデイアであり、(上記日比谷事件でも朝日新聞の名が出ている他、後記上海新聞事件に関する論文を見れば天皇機関説事件その他で政府批判をしては、その都度軍部の力が伸長するのに貢献してきた疑いがあります。
メデイア界はこぞって軍部に媚びては次々と普通の学問まで標的にしてはまともな政治を出来なくしていったものであり、占領軍が来ると今度は占領軍軍政方向に協力し、占領軍がいなくなると中ソの宣伝機関化して戦前暗黒時代の宣伝に邁進するようになります。
日本社会の戦前戦後の違いは、メデイア界が右翼を煽るか左翼を煽る(対中韓失言報道を煽っては大臣罷免を要求するなど)かの違いであり、メデイアの誘導する民意?に基づく政治を前提にする点は同じです。
天皇機関説事件に関するウイキぺデイアの記事です。
天皇機関説事件とは1935年に起こった事件。当時の岡田内閣を倒閣させるための野党などによる攻撃に天皇機関説という憲法解釈が利用され、文民である内閣による軍事への影響力の根拠である「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が政府の輔弱を受けて行使する」が攻撃された。
議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。
最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]。
上記によれば、政府が弾圧したと言うよりは、現在政治同様に政策論争よりは野党の揚げ足取り政府批判に端を発し・これをメデイアが大々的に報じて世論を誘導して、内閣が対応するしかなくなった事件です・権力による弾圧ではなくメデイア攻勢に権力が屈した事件です。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC-102675による解説です。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
天皇機関説
一木門下の東大教授美濃部達吉(みのべたつきち)は、日露戦争後、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたG・イェリネックの学説を導入し、国民代表機関たる議会は内閣を通して天皇の意思を拘束しうるとの説をたて、政党政治に理論的基礎を与えた。京都帝大教授佐々木惣一(そういち)もほぼ同様な説を唱え、1920年代には天皇機関説がほとんど国家公認の憲法学説となった。
【政友会】より
… 続く岡田啓介内閣も中間内閣として成立したため,政友会はこれを支持せず,入閣した3閣僚は政友会を脱党した。一方,1935年に軍部や右翼が中心となって国体明徴問題がおこると,政友会はこれに同調し,民政党などとともに国体明徴決議案を提出して鈴木総裁みずからが提案説明に立ち,政友会は立憲主義を基礎づける美濃部達吉の天皇機関説を否定するという政党にとっての自殺的行為に踏み出した。

上記の通り政党自身が政党のよって立つ憲法学説を批判して否定の論で気炎をあげる・「政敵を攻撃するためには何でもやる・・日本の将来など気にしない」と言う政党の低レベル行為が、日本の代議制民主主義の病理現象を拡大し日本を破滅の淵に追い込んでいった・まだ民主主義を使いこなせなかったように見えます。

占領政策の変化(レッドパージ・日本戦前思想弾圧とは?1)

左翼系再生産の仕組みは、占領時に大学やマスコミ等で地位を確保したこの種グループに属さないと大学教授・研究職に採用されないし・・マスコミも採用しません。
大学の指導的グループに気に入られないと採用されず安定収入を失うし、個人が勇気を出して独自の研究をして民間で発言・発表してもマスコミは全く取り上げず出版も出来ない・・発表の機会がないことになります。
収入源・・生きて行くには大学の主流やマスコミ迎合するしかないと言う繰り返しで、学者のマスコミ迎合意見が洪水的に報道されて来た原因です。
戦後70年の間にマスコミ界は、マスコミが選別報道すれば米中韓露に都合の良い噓の歴史教育も出来る・・政治誘導出来ること(まさにユダヤ的価値観浸透成功?)に味を占めてしまいました。
これに味を占めた人材・・これを利用したい勢力がマスコミ界にドンドン浸透して行く・・昇進して行くシステムになっていく・・承継再生産して現在に至っているように見えます。
ただ4〜5年前から、マスコミとは別のネット空間が影響力を持ち始めたのでさすがにアメリカ(コミンテルンとの合作)によるマスコミ支配の遺産・・今は中韓ベースのマスコミ界の影響力が色あせてきました。
これが昨今の欧米覇権衰退に繋がっていることが確かでしょうが、この問題はネット発達とマスコミの弱体化や「欧米覇権終焉」等のテーマで16年9月に別に書いて来ました。
アメリカの日本占領政策は、共産主義に親和性を持っていたルーズベルト→トルーマン政府下で始まり、実務を担ったGHQの民政局(GS)は、共産主義者で知られる民政局長「ホイットニー」が中枢を担って日本共産党などを合法化して行った歴史です。
その後中共政権成立・朝鮮戦争などを経て冷戦時代に突入すると、アメリかも容共政策ばかりでは済まなくなってきます。
アメリカは日本を叩き潰すために共産主義者を利用して来ただけ・・お互い相手の利用が終われば本来の喧嘩が始まったと言うことでしょうか?アメリカ本国では1950年から赤狩り・マッカ−シー旋風が起こり、これに歩を合わせてそれまで共産主義伸長援助関係にあった日本占領軍もレッドパージに大転換します。
占領直後の勅令では、https://ja.wikipedia.org/wikiによれば、
「聯合国占領軍の占領目的に有害な行為に対する処罰等に関する勅令(昭和21年勅令第311号)として1946年6月12日に公布され、同7月15日より施行され」ています。
「占領目的に有害な行為」を「連合国最高司令官の日本帝国政府に対する指令の趣旨に反する行為」「その指令を施行するために、連合国占領軍の軍、軍 団又は師団の各司令官の発する命令の趣旨に反する行為」「その指令を履行するために、日本帝国政府の発する法令に違反する行為」と定義していた。
占領目的に有害な行為をした者は10年以下の懲役若しくは罰金又は拘留若しくは科料に処すると規定された。」
「軍国主義破壊」と言う意味不明の占領目的で占領した結果、これを具体化するには「占領目的に有害行為」と言う漠然とした定義で処罰するしかなかったのでしょう。
https://kotobank.jp/word・・団体等規正令が施行されます。
「昭和 24年政令 64号で,いわゆるポツダム政令の代表例。「平和主義及び民主主義の健全な育成発達を期するため,政治団体の内容を一般に公開し,秘密的,軍国主義的,極端な国家主義的,暴力主義的及び反民主主義的な団体の結成及び指導並びに団体及び個人のそのような行為を禁止することを目的」 (1条1項) として制定された。」
以下レッドパージに関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の記事です。
「GHQの主導権がGSから彼と対立関係にあった参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。」
1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放し、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。
こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告及び、9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放 (解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放が殆ど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)」
上記のとおり、レッドパージと言っても主義主張だけで区別するのは無理があるので、米軍指令に従って型通り(やったことに)しただけで、よほどの筋金入りだけ・それ以外のいわゆる左翼系思想家は何ら問題になっていません。
もともと日本は戦前から思想信条の自由がかなり保証されていた・具体的国家転覆行為に関与しない限り処罰される仕組みではなかったことに由来します。
ありもしない戦犯でっち上げの東京裁判や慰安婦騒動同様で、戦前の思想圧迫がひどかったという米軍政に都合のよい宣伝が行われ、これに便乗・誇大表現する意見が多すぎることを検証し直すべき時期が来ています。
弾圧と言うほどのものか・企業でもどこの組織でも派閥類似のものから外れたり敵対グループに属すると出世から外れたり子会社に出向させられたりしますが、これを弾圧とまでは言いません。
非常事態下で一定の行き過ぎがなかったとは言えないでしょうが、行き過ぎた面がどのくらいあったか、あったとした場合、その程度が戦争直前〜戦時中の諸外国の国内締め付けに比べて日本の方が厳しかったかどうだったかを検証しないと本当の歴史がわかりません。
20世紀の大思想家と言われるハイデガーでさえ、ナチス迎合があったと言われますが・ナチスと比較して日本の規制がゆるいと言っても仕方ないとしても、その100前の時代のヘーゲルだって、ドイツ君主制に気兼ねした論文になっていたと言われます。
どこの文献で読んだか探せないので、ウイキペデイアによると結論だけですが、以下の通り解説されています。
ヘーゲルの立場と影響
・・かれの哲学思想は、全体としてドイツの市民革命の前夜の動向を反映しながら、他方で現実の君主国家に妥協する面も写しだしていた。

南原繁氏が戦時中の1942年に発表した全体主義批判の論文(「国家と宗教」を中心に彼の思想を紹介してきましたが、同氏は価値平行論でナチスの全体主義を批判しただけでなく、ナチス思想を日本的応用?主張する便乗的思想家に対する批判も書いているのですが、当時の内務省はこれを問題にしないままにしていました。
暗黒時代というものの思想発表だけでは獄につながれるような過酷なものではなかったのです。
何か政権維持に不都合な発言等を問題視してメデイアによる集中砲火的的批判を浴びて国務大臣を罷免されることがありますが、これを弾圧と言うならば、「靖国神社参拝批判その他の発言を理由に弾圧された政治家が数知れず・暗黒の戦後」となります。
南原論文を問題・発禁処分しない理由とするところは「学術論文に過ぎないから」(難解すぎてレベルの低い右翼やメデイアには理解できないだろう・・社会問題にならないだろう)と言うものだったようです。
治安維持法によるの暗黒時代といいますが、「弾圧」を叫んで煽ったのはメデイアだったのでメデイアに問題視されなければ良いというのが内務省の立場でした。

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