マッカーサーの変化(天皇・マッカーサー会談の効果?)

January 15, 2018,「GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会3」まで書いてきたあと憲法の自衛権論のテーマに逸れていましたので、GHQ・マッカーサーと極東委員会の対立に戻ります。
GHQが日本憲法改正作業に本国/極東委員会の介入を嫌がった理由は何でしょうか?
マッカーサーが天皇との会見後急速に天皇に親近感を抱くようになったことが知られていますが、そのことと関係があるのでしょうか?
http://www.seisaku-center.net/node/122による会見の模様です。
結論は誰でも知っている事ですから、詳細経緯に関心のある方が多いでしょうから、この際、煩を顧みずに大方を引用紹介します。

天皇にお供したのは、石渡荘太郎宮内大臣、藤田尚徳侍従長、筧素彦行幸主務官、通訳の奥村勝蔵外務省参事官など六名。が、会見に同席したのは奥村参事官のみだった。
会見後、奥村は会見の内容についてのメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。
通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったと思われる。
日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから十年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和三十年九月十四日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。
重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約一時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。
次に、その寄稿の一部を紹介したい。重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。
「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」
この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。
「この歴史的事実は陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど十年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」
扶桑社の歴史教科書が引用している『マッカーサー回想記』が出版されたのは、それから九年後の昭和三十九年のことである。
GHQ側の「証言」
ところで、会見のお供の一人の筧氏は、重光外相の寄稿を読んだ感想を、「十年来の疑問が一瞬に氷解した」と記している。氏の「疑問」とは、会見の前後でのマッカーサーの態度の急激な変化である。会見の時間はわずか三十七分であった。が、「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如として、とでも申したいように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現れた」という。会見前後の場の雰囲気を知る当事者として、筧氏は「あの陛下の御言葉を抜きにしては、当初傲然とふんぞり返っていたマッカーサー元帥が、僅か三十数分のあと、あれ程柔和に、敬虔な態度になったことの説明がつかない」(『今上陛下と母宮貞明皇后』)と証言している。これは、マッカーサーが伝えた天皇のご発言を裏付けるいわば状況証拠といえよう。
例えば会見の時に大使公邸にいたマッカーサーの幕僚の証言だ。軍事秘書のボナ・フェラーズ准将は、会見が行われた九月二十七日に自分の家族に宛てた私信で、天皇が帰られた直後にマッカーサーから聞いた話として、こう伝えているという。
「マッカーサーは感激しつつこういった。『……天皇は、困惑した様子だったが、言葉を選んでしっかりと話をした』。『天皇は処刑を恐れているのですよ』と私がいうと、マッカーサーは答えた。『そうだな。彼は覚悟ができている。首が飛んでも仕方がないと考えているようだ』」(升味準之助『昭和天皇とその時代』)
また、会見から一カ月後の十月二十七日、ジョージ・アチソン政治顧問代理は国務省宛てに、マッカーサーから聞いた天皇のご発言について次のように打電した。
「天皇は握手が終ると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだと述べた」
この文書を最初にアメリカ国立公文書館で発見した秦郁彦氏は、「決め手と言ってよい文書」「天皇が全戦争責任を負うつもりであったのは明らかである」と指摘する。また氏は、次のような根拠も挙げている。
「このことは、八月二十九日天皇が木戸内大臣に、『戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて、退位でもして納める訳には行かないだろうか』(木戸日記)と語ったところや、九月十二日東久邇宮首相が、連合国の追及に先立って、戦争犯罪人を日本側で自主的に処罰する方針を奏上すると、即座に反対して撤回させた事実と首尾一貫してくる」(『裕仁天皇五つの決断』)なお、「東条のトリック云々」のご発言にひっかかる向きがあるかもしれないが、秦氏はこう解釈する。
「天皇がこだわったのもむりはない。東郷外相ですら無通告攻撃に傾いていたのを『事前通告は必ずやるように』と厳命したにもかかわらず、奥村在米大使館書記官のタイプミスで結果的に通告がおくれてしまったのだから、痛恨の思いは誰よりも深かったであろう。
しかも、この時点では天皇は真相を知らされていなかったので、東条に欺かれたと信じこんでいたのが、言い訳めいた言動になったと思われる」(『文藝春秋』平成16年1月号)

国家国民を救った捨て身の御精神
ところで、この歴史的会見の意義を、例えば高橋紘氏は、「『知日派』の総帥は、いまやマッカーサーであった」との象徴的な言葉で評している。どういうことかといえば、当時のマッカーサーには軍事秘書として、日本文化に造詣が深かったボナ・フェラーズ准将、副官には歌舞伎役者の口真似までできる日本通のフォービアン・バワーズなどの知日派軍人が仕えていた。だが九月二十七日を機に、マッカーサーが突如として知日派米国人の最たる存在になったということだ。そして、このことは、その後の占領政策にきわめて重要な影響を及ぼすことになるのである。
当時、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いており、昭和二十年十月二十二日のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)の会議では、マッカーサーに対し、天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報を打つことが承認された。これに対してマッカーサーは翌二十一年一月二十五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、次のような回答の手紙を送ったという。
「過去一〇年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには一〇〇万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)
この手紙を高橋氏は、「天皇の終戦直後の働き」の「結実」とみなしている。つまり、天皇との会見などを通してマッカーサーが抱くに至った天皇へのプラスの認識が、先のマッカーサーの判断をもたらしたというのである。これによって天皇は戦争犯罪人としての不当な訴追を免れ、戦後も天皇制が――象徴という不本意な形にしろ――維持されることになったといえる。そのことが戦後の日本の復興と安定に寄与した意義は計り知れず大きい。

天皇制は、天皇自身の人柄・国民を思うお心が日本民族ひいては天皇制を崖っぷちで守ったことになるのでしょうか?

マッカーサーと連合国とのズレ?の原因1

私はGHQと本国政府プラス連合国は一体であると思っていましたが、実は本国政府との間で日本の天皇制維持に関して亀裂または方向性に微妙なズレが生じていた印象です。
マッカーサーと本国・連合国との間にどのようなズレがあったのでしょうか?
まずは経過から見ていきましょう。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.html

概説
第3章 GHQ草案と日本政府の対応
極東委員会の設置とアメリカ政府の対応
1945(昭和20)年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが合意された。その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約のもとに置かれることが明らかになった。
1946(昭和21)年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。

以下は資料集からです。

3-2 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228) 1946年1月7日
1946(昭和21)年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)。この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、マッカーサーに対する命令ではなく、「情報」の形で同月11日に伝達された。のちにGHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。

概説に戻ります。

GHQ草案の作成
GHQは、起草作業を急ぐ一方で、日本政府に対して政府案の提出を要求、2月8日、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された
GHQ草案の受け入れと日本政府案の作成
2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。
日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに赴いて提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、5日午後、すべての作業を終了した。
日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表された。
憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立
3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。
極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。

以下は資料集からの引用です

1-19近衛をめぐるアチソン政治顧問の動き
米国務省派遣の最高司令官政治顧問であるジョージ・アチソンが、憲法改正にとりかかった近衛について国務省に報告した文書類。
・・・一方、マッカーサーは、本国政府に直結しているアチソンを憲法改正問題から除外し始めた。
11月7日付けの国務次官宛てアチソンの書簡は、マッカーサーが憲法改正問題から国務省を除外しようとしていることを報告している。アチソンはこの書簡を、GHQに読まれる可能性のある電報を避け、わざわざ航空郵便で送った。この時期からマッカーサーは、憲法問題をGHQ内で扱う方向へと向かった。

ただし、この資料だけではマッカーサーが本国政府と別行動をするようになっていたことは分かりますが、何故そうなったか・本国や極東委員会と意見相違があったからでしょうが、何故意見相違が起きたか、マッカーサーが権限逸脱の危険・解任リスクを冒してまで頑張ったかは不明です。
明日から極東委員会と米本国(国政政治力学の変化の萌芽?)とマッカーサーの関係を見ておきましょう。

マッカーサーの功罪5(軍政の撤回3)

米軍占領政治に戻りますと、ソ連や中共に占領されずに良かった・・比較的良かったというだけで、アメリカは謝らなくて済むかは別です。
比喩的に言えば同じ強盗に入られたならあの人でよかったという程度のことで、家族を殺された人が皆殺しに遭わないでよかったと言って、犯人に感謝したり謝ってもらわないままで、納得出来るかと言うことです。
以下、日本側の粘り勝ちで実際には布告されないで終わった幻の布告1〜3号の内容をウイキペデイアからの引用で紹介しておきます。

「布告原文は「マッカーサーの名において」発せられ、「日本國民ニ告グ」で始まり、概ね以下のような内容であった[8]。
布告第一号:立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
布告第二号:日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
布告第三号:日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。
マーシャルはさらに布告第三号に関してB円の現物を鈴木に見せ、すでに3億円分のB円を占領各部隊に配布してあることを伝えた[9]。布告を日本国民に知らせるためのポスターも約10万枚用意してあった[10]。直接的な軍政で日本を統治することが明白な布告であったが、実はこの布告自体が8月7日に最終決定された「ブラックリスト作戦」案と内容を異にするものであった[11]。
布告を突きつけられた鈴木は、マーシャルに布告に反対する旨告げるとすぐさま東京に向かい、政府に事の次第を報告する[9]。東久邇宮内閣は鈴木からの報告により緊急閣議を開き、外務官僚で終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男を横浜に急行させ、命を受けた岡崎はホテル・ニューグランドにいたマーシャルと会談を行った[9]。岡崎とマーシャルの深夜の会談の結果、とりあえず9月3日午前10時の布告公表は差し止めとなった[9]。続いて内閣から重光葵外務大臣が総司令部に赴き、マッカーサーとの交渉に臨むこととなった[9]。
当初計画では布告が発表されて30分後にあたる9月3日午前10時半、重光とマッカーサーの対談が始まる[9]。重光は、布告は「天皇制の維持と政府を認めている」ポツダム宣言に反し、国民も政府を信頼していることを切り出したうえで、布告に関して日本は認めがたく、行政上の問題が生じても政府がタッチできないので混乱が巻き起こるだろうから、布告は受け入れがたいと主張[9]。これに対してマッカーサーは、日本は敗戦国ゆえに課せられた義務は必ず遂行するべきであり、自分もそれを期待している[13]と説いた一方で、日本を破壊したり国民を奴隷にすることは考えておらず、布告は日本政府から発してもよいと述べ、要は政府次第であると返答した[10]。ここで参謀長のリチャード・サザランド陸軍少将が重光の意図をマッカーサーに伝え、布告を「日本政府に対する総司令部命令」を変えるよう進言した[10]。はたして布告は総司令部命令に差し替えられ、同時に布告中止の総司令官命令も発せられて軍政の施行は中止となった[10]、はずであった。」

敗戦に乗じて・・混乱すれば、これを口実に軍政を布けるので米政府の慫慂もあった可能性もありましたが・・違法行為を全国で働いて日本人を挑発したのは朝鮮人ばかりでした。
あちこちでの暴虐ぶりが今や明るみに出ていますが、当時の日本人は眉をひそめるだけで実力抵抗を一際しませんでしたので、米軍の付け入る隙がありませんでした。
これに対して、日本から「奴隷」解放された筈の朝鮮半島では、終戦前にアメリカ本国の作った予定どおりに軍政用の布告が施行されています。
マッカーサーは日本人と朝鮮人民度の違いを直ぐに理解したからではないでしょうか?
なお、GHQの軍令が日本では施行されずに日本による奴隷的植民地支配から解放する予定だった朝鮮では施行された詳細については、August 28, 2013「米軍占領政策1(虎の威を借る狐4)」で引用・紹介した朝鮮人学者から見た論文に詳細が書かれていますので、参照して下さい。

マッカーサーの功罪4(軍政の撤回2)

支配体制が崩壊すれば、普通の国では分裂どころか無秩序状態・内部対立激化するのが今でも普通です。
最近でもアメリカのミシシッピー下流域での大洪水では、略奪が相次いで軍が出動していました。
昨日のフィリッピン・レイテ島での台風被害でも同じような結果になるでしょう。
殆どの国では大災害その他の理由で支配体制が崩壊して、その地域の警察秩序が臨時に喪失すると、直ぐに略奪がおきます。
バルカン半島での長年の(クロアチア等での)民族間戦争も、言わば強力支配権力崩壊後に生じた空白・・集団間の無秩序化が生み出したものであったと理解出来るでしょう。
この後で書いて行くアラブの春以降のアラブ社会の混乱も同じです。
これに対して・・2011年3月の東日本大災害では、警察権力どころかすべてのインフラ機能が全面喪失する中でも、逆にみんなが助け合い譲り合っている社会構造に世界中が驚嘆したばかりです。
アメリカ政府は敗戦似よって支配体制が崩壊すれば、日本社会が大混乱するであろうことを前提にしていました。
秩序維持のためには軍政を布く必要があるとして軍政を布くための布告を用意して上陸して来たのですが、日本ではこれが全く必要がないと言う日本側の主張に対してマッカーサーが理解して直ぐに撤回したので、結果的に寸時も軍政が施行されないで終わりました。
このときもしも軍政が施行されていた場合には、当然日本のきめ細かな政治と違った乱暴な政治になりますから、忍耐強い日本人でも我慢し切れない一定数の跳ね上がりが出て来ます。
あちこちで抵抗運動が盛んとなって、これに対する弾圧・・報復拡大のいたちごっこで大変なことになっていたと思われます。
その結果、国内でもあいつは裏切り者だとかの反目が生じますし、これを奇貨とする米軍介入の繰り返し・・隷属状態の永続化→日本の復興が大幅に遅れ・・アメリカが目標としていた東南アジア植民地以下の生活水準になったまま現在に至っていた可能性があります。
敗戦後の軍政施行・・アジア植民地以下の国になるのを間一髪で免れ得たのは、日本側関係者による占領直後の大成果でした。
太平洋上の小さな島を最後まで死守していた名もない兵士同様に、敗戦後は攻防の舞台を国内に移して、日本民族の命運を分けるもっと大きな戦争(交渉)が国民(国民も朝鮮人の蛮行に対して我慢して・・)を上げて続いていたのです。
他方から見れば、日本側の努力だけではなく、現実・大局理解能力のあるマッカーサーの大きな成果だったことにもなります。
今になるとアメリカは日本軍に比べてかなりひどい戦争をしたし、戦後処理も問題があったので、その謝罪をすべきだとなってきましたが、アメリカは一応人権重視を標榜していた分だけ、正義に基づく交渉もできたし日本側は理路整然と説明も出来るだけマシな相手でした。
占領軍がソ連や朝鮮民族・あるいは中共政府であればこんな交渉すら出来なかったでしょう。
中共によるチベット侵攻時の様相や満州からのシベリヤ連行同様に、交渉など全くない混乱のままに、強引にドシドシ大量処刑され百万単位の人間が日本本土からソ連や韓国・中国への奴隷として連行されて行ったと思われます。
当時の他所の国との比較・・ソ連や中共政府あるいは朝鮮に占領された場合・・獰猛なトラやライオン同様の相手に説明も何も出来ない状態だったのですから、これらに比較すれば、アメリカは政府が国民に嘘の宣伝をしていましたが国民自身が正義感を失っていなかったので、正義に基づく説得が効果を持つ国でした。
今の慰安婦問題も日本が黙っていれば世界中が真実を理解してくれるのではなく、声の大きい方が理解される社会である以上は、積極的にアメリカ国民に真実を伝えて行く努力が必要です。
ここ数日書いているように我が国では天皇に対する考え方であれ、その他の正義感であれ、暗黙知が行き渡っている社会ですが、その他の国ではこう言う社会ではありません。
自己宣伝するのはハシタナイというのが我が国の価値観ですし、それは高潔な良い精神であることを繰り返し書いていますが、(私も弁護士として業務宣伝するのは恥ずかしいのでしていません)世界が宣伝を中心に決めて行く社会であるならば、ある程度日本も主張すべきはするしかありません。
文字を読む人が少ない国では、絵や漫画で商品紹介して行く必要があるのと同じ感覚が必要・・相手に合わすしかないのです。
この努力を怠って、アメリカも韓国同様に嘘っぱちばかりの国・正義のない国だと怒るのは間違いです。
世界中の正義感というものは、そんなに違いがあるのではなく、変な宣伝に毒されているかどうかの違いでしかないと思われます。
この後に書きますが、韓国人は事大主義だから・・と民族的劣性を強調して終わりにする傾向も間違いで、彼らは間違った反日教育にどっぷり浸かって成長して来たことによるだけで、人間としての価値観はそれほど変わらない筈です。
日本を戦争に引きずり込んだアメリカ国民が悪かったのではなく、国民を煽動したルーズベルトの策略が成功しただけのことですし、どこの国でも国民自身の正義感が狂っているのではなく、アメリカ人も韓国人も(ユダヤ虐殺の)ドイツ人も全て教育や宣伝次第ということです。
1を言えば10分る国民は殆どなくて、アメリカの国民レベル・・1から10まで宣伝しないと理解出来ない民度(日本と違い世界中です)であることを理解して、日本もそれにあわせて行動する必要があります。

マッカーサーの功罪3(軍政の撤回1)

日本人にとっては、天皇が人間宣言しようとも・・憲法の文言から「神聖不可侵」の文言が消えようとも、国民の心には「神聖不可侵」の天皇が今も続いています。
これの顕著な事例が韓国前大統領による天皇侮辱発言に対する日本全国民の強烈な拒絶反応であり、・・これには左翼もマスコミも何の反対も出来ないほどの大きなリアクションでした・・。
最近では、参議院議員山本太郎氏が秋の園遊会出席時に天皇陛下に対して直接手紙を差し出した非礼行為に対する大反響でしょう。
そのときに書きましたが、マスコミが表向き論じている政治利用の問題ではなく、国民が驚いたのは直接差し出すという非礼行為だったので、山本氏も政治利用に関してはいろいろ言い訳していましたが、その内黙ってしまいました。
およそ神にまします天皇に対しては、古代から伝奏を通してしか発言することすら許されないしきたりです。
人間宣言を受け入れないまま頑張っていて、仮にもアメリカ軍によってその辺の泥棒のような辱めを受けて絞首刑に処せられたとなっていれば、その衝撃は2011年の東北大震災の比ではありません。
今になるとそんなリスクはなかった思っている人が多いでしょうが、サンフランシスコ講和条約時にソ連が戦争の最高責任者である天皇の責任を追及しないのはおかしいと言い張っていたものの、アメリカが相手にしなかったことでことなきを得ています。
日本左翼によるソ連を含めたいわゆる全面講和論ですと、天皇責任論(を蒸し返すのが主目的であったかも知れませんが・・)が正面の議題なっていたことになります。
天皇機関説については、06/07/03「天皇機関説事件とは1」以下で紹介しました。
象徴天皇制・・これが実態であると日本側で必死に説いたことによって、マッカーサーが納得し、天皇制を維持を決断するのに成功した決め手になったと思われます。
戦前から天皇機関説が学界の通説であったことが、GHQを天皇制維持方針に転換させ、天皇責任論を修正させた原動力になります。
彼は赴任後直ぐに天皇制が戦争を起こした原因ではなく、天皇は民心の象徴に過ぎないし、天皇制をなくしても日本人の心を変えることは出来ないと理解したと思われます。
それに赴任してみると人民と天皇の関係が分って、天皇の戦争犯罪を追及して実行すると民族間の恨みが半永久的になって、将来日米関係が取り返しのつかない関係になることを理解したでしょう。
(11月1日から2日に掛けて日本民族は謝ってさえくれれば許せる民族だとは書きましたが、天皇まで言いがかりで処刑されたとなると・・傷痕の深さが半端ではなくなります。)
日本人は戦犯裁判はでっち上げであると主張していることと、この報復をアメリカに対してするべきということと同次元で主張している人はごく少数・・皆無に近いと思います。「民族のために犠牲になった人を尊崇したいという心を邪魔するな」というだけです。
戦国武将が城兵の助命と引き換えに腹を切った場合、その城主を懇ろに弔うことと敵将を恨むこととは、まるで次元が違います。
敗軍の将を辱めるどころか,逆に神にして祭る智恵が行き渡っているから、日本人は過去を水に流して恨みをいつまでも引きずらずに結果的に一体感を強く持って来られたのです。
日本人は仕返しするために靖国神社にお参りしたいと言っているのではありません。
この点をアメリカが思い違いして,裏で妨害していると却ってこじれてしまうリスクがあります。
アメリカが中韓を唆して虚偽報道を裏で煽り続けていると日本人が感じるようになりつつありますが、その勢いが余って、アメリカの方がもっと悪いことをして来た・・報復感情が高まる方向に行く心配をしています。
マッカーサーは占領後アメリカや西洋あるいはその他の国のように、日本では指導者に盲目的に従う国ではない・・天皇が戦争に引っ張って行ったものではないことが直ぐに分ったようですから、彼に向かって一生懸命進言した日本人関係者の努力もさることながら、彼の理解力の高さ・公正な姿勢を理解し評価すべきです。
実際彼はアメリカ議会で、日本がいかにして開戦に追い込まれて行ったかの実態を克明に証言し、日本への理解を得るための大演説をやっています。
そこまで彼を親日派に転換させたのは(国難に際して国内分裂がなかった)日本の官民挙げての暗黙知による努力の賜物です。
マッカーサーの離日に際して、期せずして沿道に見送りの日本人が溢れたことを紹介したことがありますが、暗黙知ほど大切なものがありません・・。
支配体制が崩壊すれば、普通の国では分裂どころか無秩序状態・内部対立激化するのが今でも普通です。
最近でもアメリカのミシシッピー下流域での大洪水では、略奪が相次いで軍が出動していました。
殆どの国では大災害その他の理由で支配体制が崩壊して、その地域の警察秩序が臨時に喪失すると、直ぐに略奪がおきます。
バルカン半島での長年の(クロアチア等での)民族間戦争も、言わば強力支配権力崩壊後に生じた空白・・集団間の無秩序化が生み出したものであったと理解出来るでしょう。
この後で書いて行くアラブの春以降のアラブ社会の混乱も同じです。
これに対して・・2011年3月の東日本大災害では、警察権力どころかすべてのインフラ機能が全面喪失する中でも、逆にみんなが助け合い譲り合っている社会構造に世界中が驚嘆したばかりです。

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