1党独裁2と汚職1(中国)

私の司法試験受験時の科目でもあった政治学原論では、(フルシチョフによるスターリン批判直後頃・昭和30年代前中頃に執筆された基本書だったのですが、粛清のおぞましさはスターリン個人の問題であり1党独裁の合理化・賛美が今も続いている)独裁は民意反映システムに乗っており民主主義制度であると習いました。
結果的にナチスドイツも民主的政党国家であり、中ソの共産党独裁は民主主義国家であり対日戦で米ソ手を組んでも民主主義国家群の連合だったというのでしょうが、形式的に合理化されている学問でした。
とはいえ英仏等革命後の政権運営は、民主的制度を整えただけ実質的に権力抑制の機能を果たせない状態・・結果的に独裁に道を譲るしかなかったのですから、素人政治家・権力者の個人的行き当たりばったりの恣意的政治決断をどうするかに行き着きます。
独裁権力者は自己保身のために正当化・批判を許さないためにほとんどの場合、政敵粛清へ流れて行くしかなくなるようです。
中国歴代王朝末期の大暴動の場合、高邁な革命理念がないまま食えなくなった民衆の本能のまま大暴動に発展して王朝崩壊を繰り返してきたのですが、暴動の混乱を制した新王朝はその都度旧来の儒教価値観継承し・・旧制度の復活を目指していくので、西欧の革命後に必然的に起こる混乱・粛清の恐怖政治に陥らずにその都度数百年安定した政権になっていたと思われます。
中国歴代の大暴動の始まりは食えなくなったことに不満があるだけであって、システム自体に不満を持っていないので一定期間の大動乱でくたびれきったところで誰かが統一してくれれば治まるのが普通でした。
・・しかも中国王朝末期の動乱の場合短くても数十年単位・5胡16国や5代10国のように長ければ数百年単位で動乱が続くのが普通ですから、(清朝末期の動乱もアヘン戦争から見れば現政権成立まで約100年です)人民人自身がこれ以上混乱が続くといよいよ食えなくなる限界が来るのでいい加減に終わりにしたくなって(くたびれて?)治る暴動でした。
くたびれた頃に混乱をまとめる武将が出て皇帝になるパターンの繰り返しですから、人民は治安回復さえすればいいので、新君主はできもしない新しい理念や政治を宣伝する必要がありません。
功労のある武将は対等し勢力間の連合ではなく配下武将ですから、功労に応じた地位の保証さえしてくれればいいのであってそれ以上に一旦決まった皇帝の地位を窺う気持ちはありません。
動乱後旧体制を復活する中国人民の知恵については「漢承秦制の思想」として2003/30/10「パックスアメリカーナから中国専制支配へ2」のシリーズで紹介しました。
中国で皇帝になった場合には皇帝は絶対権力であって説明責任がないし、皇帝の地位を狙うこと自体が反逆罪で謀反の疑いありですから、王朝末期の大動乱以外には次を脅かすナンバー2が出る心配がなく有能な人材抜擢が容易です。
昨日紹介したソ連崩壊による平均寿命低下の説明にあるようにその大きな原因のひとつに医療その他全ての分野で賄賂が必要であったことも上がっています。
賄賂といえば中国が本場です。
中国のワイロ政治は、古代から官吏の給与が低すぎて自前で袖の下の収入を稼がないとやっていけない・・低賃金のウエーターのチップみたいな習慣になったという解説が普通です。
しかし、ソ連の例でわかるように、独裁と賄賂はつきもの・・独裁と相まってさらに加速されたと見るべきです。
昨日紹介したロシアの平均寿命低下の解説に医療その他公的施設も賄賂資金がないと利用出来ないと書かれているように・独裁・・何をするにも許可がいる政治体制とこれに伴う供給不足との親和性が高いと見るべきでしょう。
サービスが行き渡っていれば供給側が低姿勢で賄賂を要求出来ませんが、何をするにも許可の必要な社会や恐怖政治によってサービス不足社会になると必然的に割り込み的行動が起きてきます。
共産党政権下での不自由な生活と古代からの習慣が相まって、中国では極端な賄賂社会になってしまったのではないでしょうか?
習近平氏は、今回の全人代とかの会議で世界強国を目指すという宣言をしたようですが、世界の覇者・支配をするには、それにふさわし価値観の確立が必要です。
目の前で振るえる腕力は限られているので、安定した支配者を続けるには「こうすればこうなる」というルールの刷り込みが必須です。
この能力がないために共産主義諸国での粛清による恐怖政治だったのでしょうが、ついに巨木ともいうべきソ連が崩壊し今や中国と北朝鮮が残っているだけです。
日本では身の回りからきっちり整理整頓し隅々まで掃除し(公衆道徳を守り)、同胞相いたわり個々人は名誉を大切にするなどの価値観が徹底しています。
日本人の温和な生き方がアニメの普及もあって今や理想的な生き方として世界で認知され始めました・これこそがソフトな世界支配の一歩です。
中国の場合、道理も何もテンから無視して腕力で公海に軍事基地を作ったり、政治の世界では民の為の政治ではなく、ただ相手を陥れるための権謀術数が優先し、一般人の行動原理では汚職や袖の下の要求と泥棒・サイバーテロなど・共通項は「ずるい」イメージしか湧きません。
ずるくたち回ることしか世界に誇れるものがない国が、ずるさで世界強国になれてもその支配が続くのでしょうか?
いまや中国では何をするにも賄賂提供が当然の前提となっていますから、今後成長が鈍化し始めると賄賂を出す能力のない階層にとってはロシア並みの地獄が来るでしょう。
独裁→賄賂次第での許認可・人治社会ですから、法的には賄賂ではなくとも庶民の就職活動どころか私企業の活動の隅々にまで賄賂/袖の下次第の社会になっています。
賄賂〜袖の下の実態は隠密裏に行うものですから客観性のある報道が難しいですが、中国の刑事立件数を見るだけでもその一端がわかります。
以下は日経新聞の記事ですからある程度客観性があるでしょう。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM13H15_T10C16A3FF8000/

中国、汚職公務員の摘発続く 15年は5万4249人
2016/3/13 19:0
【北京=永井央紀】中国最高人民検察院の曹建明検察長は13日、北京で開催中の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)で、2015年に汚職で摘発された公務員が前年比1.5%減の5万4249人になったと公表した。贈収賄の金額が100万元(約1750万円)以上の大規模汚職は同22.5%増の4490件。全体の件数は減ったものの、大型の汚職を巡って厳格な摘発が続いていることを裏付けた。」

日経新聞によれば、以下のとおり16年の刑事処罰に至らない党・政府(いわば公務員)の処分件数は41・5万人というのですから(昨年比七人増などと書いている)日本社会から見れば天文学的数字です。https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM06H7L_W7A100C1FF2000/
中国、16年の汚職処分2割増 反腐敗へ新機関も 2017/1/6 21:34

北京=永井央紀】中国共産党の汚職摘発を担う中央規律検査委員会の全体会議が6日、北京で始まった。2016年の党・政府の規律違反処分は41.5万人と前年比2割増えた。習近平総書記(国家主席)は新たな最高指導部を選ぶ今秋の党大会をにらんで反腐敗運動の加速を指示した。新たな取り締まり機関の設置も検討中だ。

ちなみに日本の汚職摘発数は以下の通りです。
http://www.soumu.go.jp/main_content/000328922.pdf

2.汚職事件について
(平成25年4月1日~平成26年3月31日)
この調査は、地方公共団体及び地方三公社、職員共済組合、公益的法人(以下「公社等」という。)において、平成25年度(平成25年4月1日から平成26年3月31日まで)に発覚した汚職事件の状況を把握するために実施したものである。
「平成25年度中に発覚した汚職事件の件数は112件(対前年度比9件増) 、これらの事件が発生した団体は99団体(対前年度比10団体増) 、当事者として汚職事件に関係した職員は112人(対前年度比7人増)である。」
汚職事件を種類別にみると、横領事件が85件(対前年度比2件増) 、収賄事件が15件(対前年度比4件増)であり、両者で全体の89.3%を占めている。
また、関係職員(当事者)数を種類別にみると、横領事件に85人(対前年度比2人増) 、収賄事件に15人(対前年度比3人増)が関係しており、これらの事件に関係した者が全体の89.3%を占めている。」

 

1党独裁とデータのデタラメさ1

ロシアの人口急減データを昨日紹介しましたが、中国の場合どうだったかと平均寿命で世界ネタ帳を見ると、1980年以降しか出ていないので大躍進時代の平均寿命変化は分かりません。
現在は10年に1度の国勢調査をしているようですが、人口自体が未だにはっきりわかっていない・数億単位(11〜12億から15億?)の誤差のある推定しかないと言われている状況です。
ソ連の経済統計の水増しも大変なものでしたが、人口や死亡年齢までごまかしていないだろうという気持ちで引用したものです。
18日に大躍進政策のウィキペデイアで紹介したように、地方政府や人民が中央の無理な政策に迎合して数字だけ合わせようとするのでその歪み(地方政府が大増産を達成したと虚偽報告していたように2人目の出生を届けないなど)が現れています。
本日現在の中華人民共和国に関するウィキペデイアの記事からです。
一人っ子政策の歪みは以下の通りです。
「戸籍上は子供を一人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わないことによって黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍を持たない子供が激増したり、貧乏な農家の子供たちが人身売買のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生した。また、統計上では総人口は約13億人であるが、黒孩子や盲民と言われる浮浪民の存在のため、潜在的な人口は15億人を超えているとも言われる[79]。また、清水美和東京新聞論説委員によると、10年ごとに行われている国勢調査では、2000年度調査は統計は13億人だったが、実際は15億人だったという。 」
人間というより生き物の基礎的権利ともいうべき出産の数にまで国家が介入する「何でも強制管理主義」の弊害です。
無理な強制があれば、無理に比例して公式数字と実態がかけ離れてきます。
いろんな統計数字が合わないというと趣味の問題のように見えますが、これにともなう実害は甚大です。
公式届出できない幽霊人口は、文字通りの幽霊であって人間扱いされていません・学校に行く資格もなければ(文盲のままです)保険もないし、就職するにも名前すらない・・正規な就職不能で学歴もなく一生涯日陰者です。
殺されても、交通事故にあってもそもそもその人間がいたことになっていないのですから、・それなりに救済する運動もあるでしょうが、原則と例外の関係を書いています・・人間扱いされていないどころの話ではありません。
内政の結果を総合的に表すバロメーターである(後漢末の混乱から曹操〜曹丕〜司馬懿による西晋王朝までに人口が10分の1に減ってしまったという推定例を数日前に書きました)ロシアの平均寿命低下の原因を19日に見てきましたが、社会混乱・・強権政治が綻びるとすぐに「1990年代前半だけで男性の殺人被害者は2倍に増えた。」結果男女の寿命差が開いたというのですから凄まじい社会です。
強圧的に抑えつける者がなくなると強盗等が横行して殺人被害が2倍になる社会レベルでは、何らかの強権政治が必須です。
いろんな場面で書いてきましたが、幼稚園児や小学低学年生〜中高校生を集めて「自主的に話し合って決めなさい」と言っても、年齢相応に決められる能力レベルがあって年齢能力を超えたテーマの場合には無理です。
民度というのは平均的レべルのことですから、場合によっては隔絶した偉大な人材が出て来ることがあります。
近現代史で見れば複雑なユーゴスラビアをチトー大統領のような人物がカリスマ支配ができる場合です。
以下はユーゴスラビアに関するウィキペデイアの記事からです。

「ユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。」

しかも混在が進んでいたために、一たび民族間紛争・殺し合いが始まるとそれぞれの民族集住地域にいる少数民族は悲惨なことになり、世界中が放って置けなくなったのがボスニア・ヘルツェゴビナその他次々と起きた紛争でした。
この大きな原因は、偉大な指導者いる場合、多種多様な矛盾関係を包容包摂してまとまっていることがおおいのですが、指導者がいなくなるとそれぞれ我慢していた利害集団が我も我もt「エゴ・我」を主張し始めると収拾がつかなくなります。
チトー死亡(1980)後ソ連が崩壊する共産主義の強制力・ソ連に対する恐怖がなくなったのを機会に帳尻合わせが一気に始まった印象です。
この結果、異民族混在のユーゴスラビアは四分五裂して凄惨な市街戦を繰り返して見るに見かねたEUの介入で漸く小民族に分かれて落ち着いたばかりです。
古代からの王国建国はこの種の突出した偉大な人材が出た時に成立したのではないでしょうか?
民度レベルとの格差に反比例して支配者には大きな権力を持てる代わりに権力者の自己抑制と民意を積極的に汲み取る能力教育→帝王学を身につけさせて、無茶をさせない慣習的ルールが成立していたのは能力格差を前提していたのでしょう。
西欧では(議会との)能力格差が縮まったことを反映してイギリスのマグナカルタ成立以来徐々に王権縮小過程にあったのに、大航海偉大〜重商主義時代の到来に気を良くした西欧各国で最後のあがきのように王権神授説を背景に絶対王政・・国王の権力再拡大を志向したので、(太平洋プレートの滑り込み圧力のエネルギーがたまって大規模地震が起きたような)反動が起きたのが英仏の革命だったと見ることが可能です。
幼児には自己決定能力がないのに比例して両親の指導強制力プラス深い慈愛が必要なのと同じで、上下の関係は能力格差に裏打ちされれているものです。
能力格差が低いのに権力だけ強いと革命が起きるし、能力差があるのにこれを無視して人権とか高邁な理念だけで平等論を主張するのは、裏付けになる能力差を無視した空論です。
実態無視の意見に煽られた単細胞グループが、親や上司、先生などなど目上のひとたちに日頃(自分の能力不足を補って)大事にされている現実を見ないで「造反有理」という言葉に酔いしれて文化革命騒動の真似事をしていたのが、その頃の日本学生運動でした。
中国の場合年の行かない少年を紅衛兵に仕上げ、これが全土に猛威をふるったのですから、正気の沙汰ではありませんが、実は中国人民の不満が爆発寸前にまで鬱積していたので、これを煽ってみたら成功したと見るべきでしょう。
文化大革命は時系列で見れば、大躍進政策の失敗による困窮不満でしたから、本来は元凶である毛沢東に向かうべきエネルギーを現政権への不満へと方向づけた毛沢東の手腕は恐るべきものでした。
少年兵/紅衛兵が暴れまわって大事な人間関係をぶち壊して見ても、ぶち壊した少年兵の方には上から下までそれぞれの分野で(ちょっとした宣伝に簡単に乗せられてしまう程度の低レベル)自立能力すらない・実際の運営能力がないために結局は大混乱しかなく最終的には独裁政治になるしかありません、
日本では、毛沢東語録を聞きかじり、造反有理と称して少しの疑問もなく、大学教授を根拠なく吊るし上げて学内の反対意見を蹴散らして大学自治会をスターリンのように独占支配して(いわゆる内ゲバ・粛清の行き着くところが浅間山荘事件で白日の下に曝されましたが、)百%実践してきたのがいわゆる3派10流と言われた全学連でした。
一応自治会選挙で選ばれたというのでしょうが、誰も寄り付けないようにしているのですから民主「的」かもしれませんが「民主的」運営でないことは結果から見ても誰の目にも明らかです。
革命後の独裁政治の場合、長年の権力行使に付随して発展してきた王権発動にあたっての抑制的システムまでぶち壊してしまって存在しなくなっているのが難点です。
クロムウエルやジャコバンの形式的な議会の議決、ソ連のスターリン独裁や現在進行中の中国の全人代の運営を見ても全て全会一致の採択ですから、権力抑制に対する実際的意味のある装置でなかったことは明らかです。

政争と粛清5(飢餓輸出・平均寿命低下)

政争と粛清5(飢餓輸出・平均寿命低下)

国民を飢え死にさせてまで穀物を輸出するようなことが、何故起きるのでしょうか?
飢餓輸出に関する本日現在のウィキペデアの記事からです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

発生原因
国家財政が破綻するなど経済情勢が極端に追いつめられた局面で発生する。
宗主国が植民地(国)に対して行う強要。
外貨獲得のための単一作物の一辺倒な作付けによる、主食となる食糧生産量の減少。
20世紀、一部の計画経済の国では、国力の限界を超過した重工業化が行われ、その為の手段として、外貨獲得の為にその国の食料需要を無視した食料輸出が頻繁に行われ、発生した。
実例など
ロシアでは、ロマノフ朝末期から西欧諸国(特にフランス)への債務返済の目的で、小麦の飢餓輸出をおこなっていた。飢餓輸出はソ連時代になっても、外貨獲得の手段として続行された。ウラジーミル・レーニンは市場経済廃絶も兼ね、根こそぎ強制搾取で500万以上の死者を出し、ヨシフ・スターリンによる強引な農業集団化政策の影響で、1932年‐33年にウクライナで大飢饉が発生した際も、スターリンの命令により、引き続きウクライナから大量の小麦が輸出目的で搬出されたことで、飢饉の影響はより深刻かつ凄惨なものとなった。
近年で有名なところではルーマニア社会主義共和国の元首、ニコラエ・チャウシェスクの行ったものである。西側諸国からの累積債務返済のため、飢餓的な輸出を強行し、生活用品や食料品も不足したとされ、ルーマニア革命の遠因ともなった。
日本の1993年米騒動では、日本国内で米が不足したため海外から米を輸入することとなった。そのため米を輸出したタイ国内では逆に米が不足、高騰を招く事態となった。海外では、当時の日本国内には米以外の十分な食料があったことを皮肉って、ある種の飢餓輸出と呼ぶこともあった。
北朝鮮では国内各地で食糧不足が深刻化しているにもかかわらず、外貨を獲得するために飢餓輸出を続けているとされる。主な輸出品目はマツタケや魚介類である(ただし、正確な情報の不足から完全な把握は困難)。
中国の大躍進政策で多数の餓死者を出す原因となったのは、ソ連からの借款の返済に農作物を充てていたことが一因となったという指摘もある。

上記を見ると表向きは出てきませんが、中国大躍進政策による餓死者について18日に見たようにチベットなど少数民族の餓死率が極めて高いなど国内に抱える被支配民族に対するジェノサイド目的が背後にあったと見ればソ連との共通項が見えてきます。
大躍進政策失敗責任で一旦公職を退いた毛沢東が失地回復のために打ったのが文化大革命という名の大規模粛清でしたが、この気狂いじみた大粛清の大嵐がスターリンに比べて短期間で終わったのは、毛沢東が死去したことにより側近として猛威を振るった4人組が失脚したことによります。
粛清政治が一旦始まるとガン細胞のように巨大化する一方でスターリンやクロムウエル同様に権力者の病死、あるいはナポレンやヒットラーのように外征の失敗以外に終わらないのが特徴です。
粛清政治の連鎖による民生圧迫・疲弊の螺旋状強化に歯止めをかけるべくスターリン死亡後登場したフルシチョフのスターリン批判〜ゴルバチョフのペレストロイカ→ソ連崩壊後のエリツイン政治へと粛清政治をリセットしてみると社会が大混乱に陥りました。
これを収拾するにはプーチンの強権的政治にもどるしかなかったようです。
民主化に端を発した大混乱の総合結果であるロシアの平均寿命の急落を見れば、いかに民主化による混乱がひどかったかがわかります。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8985.htmlからの引用です。
これによると単に生産が減って食料等不足になっただけではなく、恐怖時代に社会のあらゆる場面に病根が広がっていた結果によることを具体的に見ることができます。

年齢別の死亡率から計算される平均寿命はその国の健康状態、経済発展、社会病理の状況を集約して示す指標である。
2015年の平均寿命は、男は66歳、女は77歳である。男の平均寿命が60歳代半ば、すなわち定年年齢程度である点はやはり目を引く。ロシアでは年金問題は生じないとも言われる位である。男性の平均寿命が短い点とともに男女差が世界一大きい点がロシアの特徴であるとされる(図録1670参照)。
ゴルバチョフが企業の独立採算制と自主管理制を導入する経済改革などペレストロイカ政策を本格実施しはじめた87年から、いったん低下したアルコール消費量の再拡大と平行して、平均寿命は再度低下しはじめた。1991年のソ連邦崩壊後、1994年にかけては、一層急激な平均寿命の低下をみており、この時期の社会混乱の大きさをうかがわせている。
労働市場の改革、1990年代の深刻かつ長期にわたった景気後退、そして社会保障の崩壊が人々の心理的ストレスを増やす結果となったと考えられる。これは、アルコール消費量とアルコールが原因の病気に表れている。同時に、法、秩序および治安を扱う国の制度が崩壊したことに伴い、暴力的な犯罪が増加している。インフォーマルな経済活動や、暴力にものを言わせた取り立ても、平均寿命低下の原因となっている。1990年代前半だけで男性の殺人被害者は2倍に増えた。
裕福な世帯の多くは新たな民間の医療サービスに頼るようになっており、多くの貧困世帯にとっては、あらゆるところで賄賂その他の正規外の支払いを求められるために、「無料」の公的医療サービスは手の届かないものになってしまった。」

政争と粛清3(大躍進政策・モンゴル人等の大虐殺)

頭のいい人・秀才から見れば訳のわからない?人を抹殺しないで、グダグダした言い分を根気よく聞いて「納得」の上で進めないと内政はうまく行きません。
民進党の野田元総理が堅い支持基盤を持っているのは見るかに愚直・言葉にならない気持ちを近いしてくれそうな風貌(具体的に知らない大多数にとっては内容もそうだろうという安心感)によるでしょう。
私の持論ですが、秀才が政治運営するのは無理があります。
秀才?理念先行の集団が政権を取ると面倒な利害調整を端折って党内抗争で勝った方が独裁→計画経済=国民に対する問答無用の強制→抵抗勢力・集団・少数民族に対してはまとめてシベリヤへ強制移住・権力内部では猜疑心の再生産になって終わりのない個別政敵粛清に行き着いたものです。
ポルポト政権の大虐殺も中華人民共和国政府がモンゴル族や満州族、チベット族を大量抹殺したのも説得の手間を省く同じ流れでしょう。
チベット族の民族抹殺政策はインドに亡命したダライ・ラマの抵抗によって世界に知られていて、以下紹介する大躍進政策失敗に関するウィキペデイアの解説にもチベット族関係が出ていますが、モンゴル・満州族等に関しては記述がありません・・外部に逃亡しようのない内陸部の満州族やモンゴル族の大量虐殺はもっとひどかったのにまだ一般化していませんが、そのうち一般化して来るでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/によると以下の通り(引用文献名が地道な調査報告でない点が実態そのものか単なる主張に類するものかどうか頼りないですが、)人口の6割も被害を受けていると書かれています。
(追記10月19日日経朝刊6pの中外時報欄に「楊海英静岡大学教授らの研究によれば内モンゴルで文革中に『モンゴル人のジェノサイド』が起きた。ただその実情を伝える情報は中国の内側では封印されている」してとさりげなく触れているように徐々に大手新聞も扱うようになってきました。)

「内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴル-じんみんかくめいとう-しゅくせいじけん)とは、1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。」

内政を底上げするには根気よく民度をあげるしかない・「急がば回れ」の諺通りですが、民度アップは強制・恐怖政治では無理ですし・・平和な社会でしか民度が上がりませんから(現在のシリアのように日々生命の危険にさらされていると大人も自己啓発できないだけでなく、次世代の教育すらできません)、暴動や革命による社会の混乱は生活水準・民度アップの目的には反したマイナスの結果を生みます。
受け皿になる社会実態の変化がない以上社会を権力で変えようがないのですから、中国のように何回王朝が倒れても同じ政治形態をとってきたのは実態に即した知恵だったのです。
あたらしいスローガンで政権奪取しても、社会がその段階にない場合や社会が新しいステージに入っていても政治運営経験や能力がなくてその実現能力がない場合には、手っ取り早い政権維持のためにクロムウエルやジャコバンのようにエネルギーを政敵を粛清したり政敵駆逐が片付いて独裁体制が固まると今度はナポレンのように外延拡大に向けることになることを書いてきました。
イワン雷帝以来ロシアは外延拡張政策に突っ走ってきて、民生向上に向けるべき資源を民生に向けられなかったので西欧諸国と生活水準で大きな格差が生じていたことが革命を必要とする原動力であった筈ですが、ロシア革命後利害調整の必要な民政能力のない悲しさで、(レーニンも新経済政策・ネップをやったもののうまく行かず、「1歩前進二歩後退」などと失敗をごまかしていましたが)結果的に後継者は外延重視政策に切り替わって行くしかなかったと思われます。
その結果数千万の餓死者を出しながら穀物輸出をつづけ〜国民不満を抑えるためのスターリンの大粛清政治となり、国内では粛清が怖くて批判できず、民生は縮小均衡の螺旋状態に陥っていました。
この辺は毛沢東の何千万の餓死者を出したと言われる大躍進政策(政権奪取→毛沢東の党内基盤確立後民生向上に踏み出した点は正しかったのですが)とこれに続く文化大革命も同じです。
ウィキペデアによる本日現在の大躍進政策の記事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した
しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で米英を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、需要や流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策によるチベットの惨状について
パンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[3]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[3]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[3]、パンチェンラマは次のように書いている[3]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
政策の結末
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[8]
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[9]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

政争と粛清2(未熟社会3→革命)

フランスやロシア革命の推移はよく知られているので、ここでは独裁政治途中短期間で病死したために独裁→恐怖政治になってしまう弊害に至らなかった・・(日本の信長のように短期間)あまり知られていないクロムウエルの独裁について紹介しておきましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-041.htmlから以下の通り引用して紹介しておきます。

「権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。また反革命運動を抑える口実で、アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。
1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの対立を深め、翌年から英蘭戦争が始まった。1653年には長期議会を解散させ、護国卿に就任した。クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようとし、艦隊を送った。同時に「西方政策」と称して、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。
クロムウェルの独裁
ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。」

社会混乱のマイナス視点で見れば、理念を伴った西欧の革命も中国歴代王朝末期の理念なき大動乱と同じですが、中国の場合、勝ち残って自分が皇帝になれれば大満足であって、勝ち組に参加した将兵も功労に応じた地位を得ればそれで満足ですから、さらなる権力闘争がありません。
結果的に権力維持のための外征をする必要がなかったことと、数十年単位に及ぶ大騒乱の結果国内経済衰退・人口激減などで体力が弱ってしまうのが普通でした。
例えば後漢末期の大混乱では人口が6分の1に減り周辺地域に設置した楽浪郡などを維持できなくなり現地政府(楽浪郡庁)を縮小したことで、朝鮮半島で現地民族が興隆しひいては日本列島人の自立が始まったたことが知られています。
魏晋南北朝に続く五胡16国、 唐末の五代10国、 清朝末期の動乱期も同様で周辺国に出て行くどころか、混乱期には周辺少数民族が入ってきた歴史です。
このように、中国の大義なき動乱の場合には、周りに迷惑をかけるどころではない・・その後2〜3代の皇帝は、国力回復に専念するしかないのが普通でした。
周辺民族への迷惑度から見れば、勝ち残った方が倒した前王朝とそっくり同じ政治制度を踏襲する中国の理念なき動乱の方が、すぐに安定政権になるメリットがありました。
日本の学者だけか?知りませんが、西洋の革命思想・理念先行を賛美する傾向がありますが、革命動乱後に理念先行の場合、もしかしたら新たな社会制度が生まれるメリットがありますが、革命に成功してすぐに穏健な民主化に成功した国はどこにもありません。
この点は戦争規模が大きければ大きいほど科学技術その他の大発展の契機になり新しいステージが開かれる・・次の時代に変わることが多いのですが、だからと言って大戦争到来を賛美するのが間違っているのと同じです。
このコラムで繰り返し書いてきたところですが、仁徳天皇が「民の竈を心配し」何事を決めるにもボトムアップで行う日本のような社会では大混乱になる革命を起こす必要がありません。
赤ちゃんが泣きわめく前に母親がちょっとした表情を察知しておむつを取り替えたり至れり尽くせりケアーする環境では、幼児期になって母親を信じているので駄々をこねたりしません。
青年期になっても親子で大げんかしなくとも(欧米の下手な子育てを前提に日本の青年に反抗期がないのはどうのと・・悦に入っている学者が多いのは・・革命賛美と同じ発想です)相互に気配りして家の伝統・文化を守りながら徐々に成長して行く社会の方が皆が幸せです。
日本は長年絶えざる発展をしながらも、古来の文化伝統を大切にして来られた所以です。
このようにして育った次世代が成長して中間管理職あるいは企業トップ、政治家・指導者になっても常に末端従業員や庶民の表情を読むこと・・気配りに長けています。
民意無視政治の結果、不満が爆発して権力に対して命がけで抵抗するのが革命(青年期の反抗)ですから、(中国歴代王朝末期の暴動も実質は同じです)そのような支配層しか持っていない民族民衆も思いやるレベルがどっこいどっこいであって、庶民レベル方が高いはずがありません。
庶民層がいきなり権力を握っても(育ちが悪いので)民主主義や人権尊重理念だけでうまく経営できる訳がありません。
経営不振や不祥事の社長や経営陣を吊るし上げて労組支配になって、うまく行った企業があるでしょうか?
ロシアで言えば、革命後に革命に協力 勝利したグループ内の抗争に勝利した支配グループもいざ実務に入ると政治経験のないズブの素人が利害の錯綜している内政(国民も革命成功により、前より良くなると新政権に期待しているのでなおさらです)をどうして良いか不明で混乱するのが当然です。
中国の場合、大動乱を経て権力を握ると直ちに 新皇帝に推戴されて歴代王朝の先例踏襲だけですから苦労がありませんが・・革命の場合過去のやり方を「がらっと変える」と主張して政権を取るから苦労することになります。
小池氏がチェンジと言い「リセットする」というから、却って何をするのか「さっぱり不明」という批判が起きるのです。
中国歴代暴動後の王朝の場合、大混乱を沈めて民の塗炭の苦しみからの解放が第一の仕事であって、民が暴動前の平穏な生活に戻れさえすれば良いのです。
ところが、毛沢東もスターリンも党内での権謀術数のプロではあったでしょうが、民生・利害調整をどうするか?という方向での政治経験がないし、王朝支配はよくないと立ち上がった結果、過去の王朝支配の真似をできないので、どのような政治をすればいいのかまるで分からなかったと思います。
専制支配下で特徴的な権謀術数は 政敵の足をすくって失脚させればおしまいです・・政敵が再起し報復できないように「罪9族に及ぶ」と言うほど徹底根こそぎ処刑するのが普通・・今回で言えば、薄熙来や周永康のように一度失脚したら再起できない仕組みです。
ところが、内政は民がいてこそ権力者ですから、民を丸ごと策略やざん言でひっかっけて目の前から消しさる訳には行きません。
民生の場合には、負けた方を丸ごと抹殺すれば良い訳ではなく、調整して納得させる技術が必要です。
民族丸ごとの移住強制はいわば個々人に対する粛清の大量処理版というべきです。
スターリンは政敵抹殺大規模版として自作農丸ごと、民族丸ごとシベリア流刑・移民強制をしていたし、ナチスはユダヤ人を丸ごと収容所に入れたと言われますが、これは少数民族にたいしてだけできることであって国民全般向けでは不可能です。
多数国民相手の民生では策略でゴマカし、陥れる権謀術数は効きません。

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