混乱収束後の政治体制(ローマの場合)

ロシアの大統領制はソ連崩壊の混乱の中で失うものがない状態で生まれたものですが、中国の場合共産政権が崩壊してもいないのに結果がどうなるか不明(選挙というものはやってみないと結果はわからないものです)の選挙など怖くてすぐにはできません。
(対立候補が出ないように)よほど周到な準備をしてからでないと怖くて選挙をすると言い出せませんので、今は内々にその準備中でしょうが、中国にとっては大統領制のロシアでプーチンが2000年以来約20年も続いている体制が理想となっているのでしょうか?
大統領制で守られているはずのプーチン氏でさえも、家族でさえ信頼できない・・日本が贈った秋田犬だけが心を許せる状態?・・らしいですが・・・。
権力争いに関係のない国民にとっての関心は、習近平の粛清がどの段階でとどまれるか・スターリン粛清のように庶民まで及ぶのかでしょう。
中国歴代暴動では暴動を生き抜いた覇者を次の皇帝にすることで、際限ない闘争に終止符を打ってきた例を10月21に「漢承秦制の思想」として(003/30/10「パックスアメリカーナから中国専制支配へ2」のシリーズで紹介したこと)紹介しました。
一定の民度以下の社会ではどこでも一旦独裁が始まった以上は、終身制・・どころか子孫へ世襲していける皇帝や国王にして安心させない限り独裁者が権力維持のための際限のない猜疑心に陥り大変なことになるのが歴史教訓というべきです。
古代ローマでもシーザーへの権力集中→終身独裁官にまでしたものの、シーザーへの権力集中が進むことへの危機感から「共和制の大義」を守るために有志で?「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」の文句で知られるクー・デ・ターで倒したものの、結果的にそのブルー タスを皇帝にして行った歴史が参考になります。
シーザーに関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/によれば以下の通りです。

ローマ内戦
紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルはクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。紀元前45年3月、ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスやポンペイウスの遺児小ポンペイウス・セクストゥス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。
終身独裁官就任
元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。代わって、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎ともなる。
紀元前44年2月15日、ルペルカリア祭の際にアントニウスがカエサルへ王の証ともいえる月桂樹を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサルが月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルはカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという[28]。 共和主義者はこの行動をカエサルが君主政を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは白昼夢に過ぎない。実体も外観も無く、名前だけに過ぎない」「私の発言は法律とみなされるべきだ」などと発言したとされる[29]。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。
暗殺『カエサル暗殺』(La Mort de César) フランス人画家ジャン=レオン・ジェロームによる1867年の作

 紀元前44年3月15日 (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサル

4〜5年前に松本幸四郎主演の「カエザル」を日生劇場で見た時の舞台装置はこれを参考にしたらしく上記写真のようでした。
以下は、ローマ帝国に関するウィキペデアの記事からです。

「紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。」

上記経過を見るとクロムウエル独裁やナポレン帝政の原型・混乱を鎮めたスターを国王または皇帝にしないと世の中がおさまらない歴史の原型がローマ時代からあったことがわかります。
クロムウエル独裁時に議会が国王になるように求めた例がありましたが、現実的判断の利くイギリス人の一面を表しています。
中国歴代王朝が大暴動で滅びこれを鎮めた武将が次の皇帝になり過去の王朝制度をそのまま踏襲してきたのもその一例です。
北朝鮮がどんなに貧困状態にあっても政治が安定しているのは、意外でもナンでもない・民度レベルからしてできもしない民主主義・能力主義政治あるいは、政策目標を掲げたり約束していない身の丈にあった世襲制政治をしているからです。

政争と粛清5(飢餓輸出・平均寿命低下)

政争と粛清5(飢餓輸出・平均寿命低下)

国民を飢え死にさせてまで穀物を輸出するようなことが、何故起きるのでしょうか?
飢餓輸出に関する本日現在のウィキペデアの記事からです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

発生原因
国家財政が破綻するなど経済情勢が極端に追いつめられた局面で発生する。
宗主国が植民地(国)に対して行う強要。
外貨獲得のための単一作物の一辺倒な作付けによる、主食となる食糧生産量の減少。
20世紀、一部の計画経済の国では、国力の限界を超過した重工業化が行われ、その為の手段として、外貨獲得の為にその国の食料需要を無視した食料輸出が頻繁に行われ、発生した。
実例など
ロシアでは、ロマノフ朝末期から西欧諸国(特にフランス)への債務返済の目的で、小麦の飢餓輸出をおこなっていた。飢餓輸出はソ連時代になっても、外貨獲得の手段として続行された。ウラジーミル・レーニンは市場経済廃絶も兼ね、根こそぎ強制搾取で500万以上の死者を出し、ヨシフ・スターリンによる強引な農業集団化政策の影響で、1932年‐33年にウクライナで大飢饉が発生した際も、スターリンの命令により、引き続きウクライナから大量の小麦が輸出目的で搬出されたことで、飢饉の影響はより深刻かつ凄惨なものとなった。
近年で有名なところではルーマニア社会主義共和国の元首、ニコラエ・チャウシェスクの行ったものである。西側諸国からの累積債務返済のため、飢餓的な輸出を強行し、生活用品や食料品も不足したとされ、ルーマニア革命の遠因ともなった。
日本の1993年米騒動では、日本国内で米が不足したため海外から米を輸入することとなった。そのため米を輸出したタイ国内では逆に米が不足、高騰を招く事態となった。海外では、当時の日本国内には米以外の十分な食料があったことを皮肉って、ある種の飢餓輸出と呼ぶこともあった。
北朝鮮では国内各地で食糧不足が深刻化しているにもかかわらず、外貨を獲得するために飢餓輸出を続けているとされる。主な輸出品目はマツタケや魚介類である(ただし、正確な情報の不足から完全な把握は困難)。
中国の大躍進政策で多数の餓死者を出す原因となったのは、ソ連からの借款の返済に農作物を充てていたことが一因となったという指摘もある。

上記を見ると表向きは出てきませんが、中国大躍進政策による餓死者について18日に見たようにチベットなど少数民族の餓死率が極めて高いなど国内に抱える被支配民族に対するジェノサイド目的が背後にあったと見ればソ連との共通項が見えてきます。
大躍進政策失敗責任で一旦公職を退いた毛沢東が失地回復のために打ったのが文化大革命という名の大規模粛清でしたが、この気狂いじみた大粛清の大嵐がスターリンに比べて短期間で終わったのは、毛沢東が死去したことにより側近として猛威を振るった4人組が失脚したことによります。
粛清政治が一旦始まるとガン細胞のように巨大化する一方でスターリンやクロムウエル同様に権力者の病死、あるいはナポレンやヒットラーのように外征の失敗以外に終わらないのが特徴です。
粛清政治の連鎖による民生圧迫・疲弊の螺旋状強化に歯止めをかけるべくスターリン死亡後登場したフルシチョフのスターリン批判〜ゴルバチョフのペレストロイカ→ソ連崩壊後のエリツイン政治へと粛清政治をリセットしてみると社会が大混乱に陥りました。
これを収拾するにはプーチンの強権的政治にもどるしかなかったようです。
民主化に端を発した大混乱の総合結果であるロシアの平均寿命の急落を見れば、いかに民主化による混乱がひどかったかがわかります。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8985.htmlからの引用です。
これによると単に生産が減って食料等不足になっただけではなく、恐怖時代に社会のあらゆる場面に病根が広がっていた結果によることを具体的に見ることができます。

年齢別の死亡率から計算される平均寿命はその国の健康状態、経済発展、社会病理の状況を集約して示す指標である。
2015年の平均寿命は、男は66歳、女は77歳である。男の平均寿命が60歳代半ば、すなわち定年年齢程度である点はやはり目を引く。ロシアでは年金問題は生じないとも言われる位である。男性の平均寿命が短い点とともに男女差が世界一大きい点がロシアの特徴であるとされる(図録1670参照)。
ゴルバチョフが企業の独立採算制と自主管理制を導入する経済改革などペレストロイカ政策を本格実施しはじめた87年から、いったん低下したアルコール消費量の再拡大と平行して、平均寿命は再度低下しはじめた。1991年のソ連邦崩壊後、1994年にかけては、一層急激な平均寿命の低下をみており、この時期の社会混乱の大きさをうかがわせている。
労働市場の改革、1990年代の深刻かつ長期にわたった景気後退、そして社会保障の崩壊が人々の心理的ストレスを増やす結果となったと考えられる。これは、アルコール消費量とアルコールが原因の病気に表れている。同時に、法、秩序および治安を扱う国の制度が崩壊したことに伴い、暴力的な犯罪が増加している。インフォーマルな経済活動や、暴力にものを言わせた取り立ても、平均寿命低下の原因となっている。1990年代前半だけで男性の殺人被害者は2倍に増えた。
裕福な世帯の多くは新たな民間の医療サービスに頼るようになっており、多くの貧困世帯にとっては、あらゆるところで賄賂その他の正規外の支払いを求められるために、「無料」の公的医療サービスは手の届かないものになってしまった。」

政争と粛清3(大躍進政策・モンゴル人等の大虐殺)

頭のいい人・秀才から見れば訳のわからない?人を抹殺しないで、グダグダした言い分を根気よく聞いて「納得」の上で進めないと内政はうまく行きません。
民進党の野田元総理が堅い支持基盤を持っているのは見るかに愚直・言葉にならない気持ちを近いしてくれそうな風貌(具体的に知らない大多数にとっては内容もそうだろうという安心感)によるでしょう。
私の持論ですが、秀才が政治運営するのは無理があります。
秀才?理念先行の集団が政権を取ると面倒な利害調整を端折って党内抗争で勝った方が独裁→計画経済=国民に対する問答無用の強制→抵抗勢力・集団・少数民族に対してはまとめてシベリヤへ強制移住・権力内部では猜疑心の再生産になって終わりのない個別政敵粛清に行き着いたものです。
ポルポト政権の大虐殺も中華人民共和国政府がモンゴル族や満州族、チベット族を大量抹殺したのも説得の手間を省く同じ流れでしょう。
チベット族の民族抹殺政策はインドに亡命したダライ・ラマの抵抗によって世界に知られていて、以下紹介する大躍進政策失敗に関するウィキペデイアの解説にもチベット族関係が出ていますが、モンゴル・満州族等に関しては記述がありません・・外部に逃亡しようのない内陸部の満州族やモンゴル族の大量虐殺はもっとひどかったのにまだ一般化していませんが、そのうち一般化して来るでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/によると以下の通り(引用文献名が地道な調査報告でない点が実態そのものか単なる主張に類するものかどうか頼りないですが、)人口の6割も被害を受けていると書かれています。
(追記10月19日日経朝刊6pの中外時報欄に「楊海英静岡大学教授らの研究によれば内モンゴルで文革中に『モンゴル人のジェノサイド』が起きた。ただその実情を伝える情報は中国の内側では封印されている」してとさりげなく触れているように徐々に大手新聞も扱うようになってきました。)

「内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴル-じんみんかくめいとう-しゅくせいじけん)とは、1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。」

内政を底上げするには根気よく民度をあげるしかない・「急がば回れ」の諺通りですが、民度アップは強制・恐怖政治では無理ですし・・平和な社会でしか民度が上がりませんから(現在のシリアのように日々生命の危険にさらされていると大人も自己啓発できないだけでなく、次世代の教育すらできません)、暴動や革命による社会の混乱は生活水準・民度アップの目的には反したマイナスの結果を生みます。
受け皿になる社会実態の変化がない以上社会を権力で変えようがないのですから、中国のように何回王朝が倒れても同じ政治形態をとってきたのは実態に即した知恵だったのです。
あたらしいスローガンで政権奪取しても、社会がその段階にない場合や社会が新しいステージに入っていても政治運営経験や能力がなくてその実現能力がない場合には、手っ取り早い政権維持のためにクロムウエルやジャコバンのようにエネルギーを政敵を粛清したり政敵駆逐が片付いて独裁体制が固まると今度はナポレンのように外延拡大に向けることになることを書いてきました。
イワン雷帝以来ロシアは外延拡張政策に突っ走ってきて、民生向上に向けるべき資源を民生に向けられなかったので西欧諸国と生活水準で大きな格差が生じていたことが革命を必要とする原動力であった筈ですが、ロシア革命後利害調整の必要な民政能力のない悲しさで、(レーニンも新経済政策・ネップをやったもののうまく行かず、「1歩前進二歩後退」などと失敗をごまかしていましたが)結果的に後継者は外延重視政策に切り替わって行くしかなかったと思われます。
その結果数千万の餓死者を出しながら穀物輸出をつづけ〜国民不満を抑えるためのスターリンの大粛清政治となり、国内では粛清が怖くて批判できず、民生は縮小均衡の螺旋状態に陥っていました。
この辺は毛沢東の何千万の餓死者を出したと言われる大躍進政策(政権奪取→毛沢東の党内基盤確立後民生向上に踏み出した点は正しかったのですが)とこれに続く文化大革命も同じです。
ウィキペデアによる本日現在の大躍進政策の記事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した
しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で米英を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、需要や流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策によるチベットの惨状について
パンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[3]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[3]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[3]、パンチェンラマは次のように書いている[3]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
政策の結末
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[8]
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[9]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

政争と粛清2(未熟社会3→革命)

フランスやロシア革命の推移はよく知られているので、ここでは独裁政治途中短期間で病死したために独裁→恐怖政治になってしまう弊害に至らなかった・・(日本の信長のように短期間)あまり知られていないクロムウエルの独裁について紹介しておきましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-041.htmlから以下の通り引用して紹介しておきます。

「権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。また反革命運動を抑える口実で、アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。
1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの対立を深め、翌年から英蘭戦争が始まった。1653年には長期議会を解散させ、護国卿に就任した。クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようとし、艦隊を送った。同時に「西方政策」と称して、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。
クロムウェルの独裁
ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。」

社会混乱のマイナス視点で見れば、理念を伴った西欧の革命も中国歴代王朝末期の理念なき大動乱と同じですが、中国の場合、勝ち残って自分が皇帝になれれば大満足であって、勝ち組に参加した将兵も功労に応じた地位を得ればそれで満足ですから、さらなる権力闘争がありません。
結果的に権力維持のための外征をする必要がなかったことと、数十年単位に及ぶ大騒乱の結果国内経済衰退・人口激減などで体力が弱ってしまうのが普通でした。
例えば後漢末期の大混乱では人口が6分の1に減り周辺地域に設置した楽浪郡などを維持できなくなり現地政府(楽浪郡庁)を縮小したことで、朝鮮半島で現地民族が興隆しひいては日本列島人の自立が始まったたことが知られています。
魏晋南北朝に続く五胡16国、 唐末の五代10国、 清朝末期の動乱期も同様で周辺国に出て行くどころか、混乱期には周辺少数民族が入ってきた歴史です。
このように、中国の大義なき動乱の場合には、周りに迷惑をかけるどころではない・・その後2〜3代の皇帝は、国力回復に専念するしかないのが普通でした。
周辺民族への迷惑度から見れば、勝ち残った方が倒した前王朝とそっくり同じ政治制度を踏襲する中国の理念なき動乱の方が、すぐに安定政権になるメリットがありました。
日本の学者だけか?知りませんが、西洋の革命思想・理念先行を賛美する傾向がありますが、革命動乱後に理念先行の場合、もしかしたら新たな社会制度が生まれるメリットがありますが、革命に成功してすぐに穏健な民主化に成功した国はどこにもありません。
この点は戦争規模が大きければ大きいほど科学技術その他の大発展の契機になり新しいステージが開かれる・・次の時代に変わることが多いのですが、だからと言って大戦争到来を賛美するのが間違っているのと同じです。
このコラムで繰り返し書いてきたところですが、仁徳天皇が「民の竈を心配し」何事を決めるにもボトムアップで行う日本のような社会では大混乱になる革命を起こす必要がありません。
赤ちゃんが泣きわめく前に母親がちょっとした表情を察知しておむつを取り替えたり至れり尽くせりケアーする環境では、幼児期になって母親を信じているので駄々をこねたりしません。
青年期になっても親子で大げんかしなくとも(欧米の下手な子育てを前提に日本の青年に反抗期がないのはどうのと・・悦に入っている学者が多いのは・・革命賛美と同じ発想です)相互に気配りして家の伝統・文化を守りながら徐々に成長して行く社会の方が皆が幸せです。
日本は長年絶えざる発展をしながらも、古来の文化伝統を大切にして来られた所以です。
このようにして育った次世代が成長して中間管理職あるいは企業トップ、政治家・指導者になっても常に末端従業員や庶民の表情を読むこと・・気配りに長けています。
民意無視政治の結果、不満が爆発して権力に対して命がけで抵抗するのが革命(青年期の反抗)ですから、(中国歴代王朝末期の暴動も実質は同じです)そのような支配層しか持っていない民族民衆も思いやるレベルがどっこいどっこいであって、庶民レベル方が高いはずがありません。
庶民層がいきなり権力を握っても(育ちが悪いので)民主主義や人権尊重理念だけでうまく経営できる訳がありません。
経営不振や不祥事の社長や経営陣を吊るし上げて労組支配になって、うまく行った企業があるでしょうか?
ロシアで言えば、革命後に革命に協力 勝利したグループ内の抗争に勝利した支配グループもいざ実務に入ると政治経験のないズブの素人が利害の錯綜している内政(国民も革命成功により、前より良くなると新政権に期待しているのでなおさらです)をどうして良いか不明で混乱するのが当然です。
中国の場合、大動乱を経て権力を握ると直ちに 新皇帝に推戴されて歴代王朝の先例踏襲だけですから苦労がありませんが・・革命の場合過去のやり方を「がらっと変える」と主張して政権を取るから苦労することになります。
小池氏がチェンジと言い「リセットする」というから、却って何をするのか「さっぱり不明」という批判が起きるのです。
中国歴代暴動後の王朝の場合、大混乱を沈めて民の塗炭の苦しみからの解放が第一の仕事であって、民が暴動前の平穏な生活に戻れさえすれば良いのです。
ところが、毛沢東もスターリンも党内での権謀術数のプロではあったでしょうが、民生・利害調整をどうするか?という方向での政治経験がないし、王朝支配はよくないと立ち上がった結果、過去の王朝支配の真似をできないので、どのような政治をすればいいのかまるで分からなかったと思います。
専制支配下で特徴的な権謀術数は 政敵の足をすくって失脚させればおしまいです・・政敵が再起し報復できないように「罪9族に及ぶ」と言うほど徹底根こそぎ処刑するのが普通・・今回で言えば、薄熙来や周永康のように一度失脚したら再起できない仕組みです。
ところが、内政は民がいてこそ権力者ですから、民を丸ごと策略やざん言でひっかっけて目の前から消しさる訳には行きません。
民生の場合には、負けた方を丸ごと抹殺すれば良い訳ではなく、調整して納得させる技術が必要です。
民族丸ごとの移住強制はいわば個々人に対する粛清の大量処理版というべきです。
スターリンは政敵抹殺大規模版として自作農丸ごと、民族丸ごとシベリア流刑・移民強制をしていたし、ナチスはユダヤ人を丸ごと収容所に入れたと言われますが、これは少数民族にたいしてだけできることであって国民全般向けでは不可能です。
多数国民相手の民生では策略でゴマカし、陥れる権謀術数は効きません。

加計問題と政争

8月9日紹介記事の筆者は、やはり総理の意向が働いたこと「図らずも・・・・陰画のように浮かび上がらせたのである」と批判的意見で結んでいますが、私はこれがなぜ批判対象になるのかわかりません。
まさに大きな岩盤をつき崩すには大きな政治力が必要・・政治力がなくて既得権益擁護しかできないのでは総理の器とは言えません・・実行力があってなぜ悪いのか疑問です。
問題は総理が友人の便宜を図って加計1校だけに絞ったのかどうかでしょう。
いわゆる4条件は、むしろ石破氏らの岩盤規制構築勢力によって15年からきまっていたし、今治市の申請で戦略特区指定の条件として獣医師会側の抵抗空しくどうしても特区指定されるならば(せめて)「1校限定」要請によって指定容認された段階で10年以上前から同地での開設準備をして来て他に競合申請準備していた学校がなかったとすれば加計学園になるのは事実上決まっていたのですから、抵抗・獣医師会側から1校だけにしてくれと妥協案が出た時点で勝負あった筈です。
大学学部新設計画などの大事業は計画から資金準備人材手当等々内部的根回しや候補地選定など相当の長期計画になる上に、文系と違って牛馬等の動物飼育が必須ですから大規模な用地手当ての下準備も必要です。
企業が遠隔地に新工場をたてるのに必要な下準備と似ています。
今治市では10年ほど前から加計学園が1度申請していると言うのですから、結局この時点でもし認可申請が出れば加計学園に決まっていたことになります。
これを覆して仮にいきなり京都の別大学に決まったとすれば、その場合こそ強引な政治家関与の疑惑がうわさされるべき筋合いです。
インドネシの新幹線受注が日本の詳細な計画で進んでいたのに大統領が変わった途端にその経過に実績のない中国に決まったことを日本人多くが怪しいと思うのと同じです。
ただしそこは政治の奥深さで、1校指定だと加計学園しかなくなる、、それでも安倍さんやれるのですか?と言う落とし穴・謎かけだったように見えます。
もしそのまま強行すれば獣医師会側の族議員のみならず福岡選挙で恥をかいた麻生副総理を巻き込んで大規模な政局にする脅しが背後にあって、「やってやろうじゃないか」と強行したことで今回の政局が起きたとも読めます。
こうした流れがネットで出て来たことによって加計学園騒動は安倍総理の友人が経営する学園に決まったという結果から根拠なく「疑惑」を煽っているメデイアの論法は一方の政治利権に組して煽って来た疑いが出て来ました。
ただし戦略特区指定容認と加計学園の申請に4条件不要になるかは別問題とすれば4条件クリアーしていないのに総理の意向で強引に決めたかの論点は残りそうです。
4条件がそのまま残るのでは、戦略特区制度の意味がないはずという一般論程度しか今は分かりません。
もし、この一般的理解が正しければ「違法でも疑惑でもないが総理のおともだちに決まったことじたいがゆるせない」と問題が擦り変わるのでしょうか。
慰安婦がいたかどうかではなく軍が強制したかどうかが焦点だったのに、これが虚偽とわかると今度は慰安婦制度があったこと自体女性として許せないと問題をすり替える議論に似ています。
一連の騒動に石破氏が関連しているというネット報道が出て来ましたが、安倍総理の友人の経営する学園に決まったという結果だけから、総理が怪しいに決まっているという飛躍のある「疑惑」をメデイアが煽るのは「報道の自由」乱用の疑いがあるのと同様に「もしかして?」と思う程度は自由ですが、それ以上の事実関係を押さえないまま憶測で石破氏の陰謀を断定的に主張するのではメデイアと同レベルになります。
ですからその真偽は不明ですが、防衛省の内部情報漏れも石破氏が防衛省に確固たる地盤を持っていることとどこか(当然石破氏は否定するでしょうが・・)共通すると言えば共通します。
稲田朋美防衛大臣辞任直前に制服組トップが一緒に引責が決まったのは、石破氏の意で動いていた疑いによる(安倍氏による報復人事?)政治的脈絡関連が後になるとわかるかも知れません。
http://www.sankei.com/politics/news/170728/plt1707280052-n1.html
「南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報問題の混乱を受け、防衛省、背広組、陸上自衛隊のトップ3人の交代が決まった。」
8月9日に引用した記事によると「石破プラス麻生副総理プラスその他次期政権での処遇期待組による岩盤連合が安倍一強政権が切り崩したい」という権力闘争があって、これに前川氏及び背後の文科省役人層が肩入れした可能性が背景にありそうに読めます。
政治の裏は部外者にはわかりませんので、以下は素人がうろ覚えの報道記憶のおさらいをする程度の域を出ませんが麻生氏の絡みは以下の流れがあります。
振り返ってみると、福岡での故鳩山邦夫氏の地盤継承をめぐる昨年秋ころの自民党内の分裂選挙で、麻生副総理の推す蔵内陣営(日本獣医師会会長)と管官房長官の推す候補者の一騎打ちの結果待ちだったところ、菅官房長官派の勝利で一気に獣医学部新設の動きが進んだという報道を見たことがあります。
http://www.sankei.com/politics/news/161011/plt1610110066-n1.html
2016.10.11 23:04
「11日に告示された衆院福岡6区補欠選挙は、鳩山邦夫元総務相の次男の鳩山二郎氏と、党県連会長の長男、蔵内謙氏の自民党系の2人が立候補し、分裂選挙に突入した。鳩山氏に対しては邦夫氏が旗揚げし、菅義偉官房長官が顧問を務める派閥横断グループ「きさらぎ会」が応援するが、麻生太郎副総理兼財務相や閣僚の一部は蔵内氏を支援。選挙戦は、政権中枢が双方に分かれての“代理戦争”の様相を呈する骨肉の争いとなった。」
安倍政権としては、福岡の勝利を見定めてついに岩盤をこじ開ける方向に動き始めたことが大規模な反安倍包囲網が形成される契機となり、その反撃によって窮地に落ちいったことになります。
スーダン派遣自衛隊の日報開示請求が起きたのはちょうどそのころです。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/263592.htmlによると以下のとおりです。
「問題の発端は、去年10月、ジャーナリストの男性が、部隊が2016年7月7日から12日までに作成した日報の開示請求を行ったことでした。」
次に出て来た森友学園問題も財務相所管疑惑ですから情報の出し方は麻生氏の手の内にあります。
政局が思うように行かなければ裏からいくらでもリークさせる構えでしょうか。
ユーチューブによる国会中継を見ているといつもニヤニヤしながら座っている麻生氏の態度が気になっていましたが、複雑な権力抗争が背景にあったからでしょうか。
安倍政権が、ここぞとばかりにメデイアに叩かれ続けて支持率が下がり苦境に落ち込むのを待っていたように、政権受け皿を狙うかのように麻生氏関連の派閥大合併が行なわれました。
次期内閣改造が必至になってからのことですからその処遇睨みでどの程度協力するかの駆け引きもあるでしょう。
https://news.nifty.com/article/domestic/government/12198-91074/ 自民党の麻生派、山東派など3派閥が合併に向け協議 細田派に次ぎ党内第2派閥に
2017年05月22日 20時25分
記事まとめ
自民党の麻生派など3つの派閥会長が、合併に向け大詰めの協議を行った
麻生太郎副総理、山東昭子元参院副議長、佐藤勉衆議院議院運営委員長が会談した
新しい派閥のトップは麻生氏が務める見通しで、細田派に次ぎ党内第2派閥になる」
安倍政権崩壊直前に石破氏をこの件で目立たさせれば安倍氏の恨みを買って直接の政権移行は無理がある・・安倍政権を(麻生氏が高齢化し過ぎる前に)次回の任期で終わらせれば、麻生氏は石破氏へのリリーフとしての禅譲を期待できるし麻生氏にとって損のない仕掛けです。
石破氏も高齢の麻生氏なら期間が短いので「譲るだろう」という見立てもあり得ます。
中堅以下の議員にとってはまだ数十年議員生活がありますし、2〜3回当選議員にとっては下っ端すぎて今の政権に取り立てもらう希望もないのですから、今の政権より次期以降の政権の方が気になる結果、彼らを巻き込んだ権益構造・反安倍連合が出来上がってくるのは簡単です。
もっと任期満了まで長い事務方も同様で、次期以降の政権に縁を持ちたい官僚・内部告発の造反?組が次々と出る根拠がわかります。
安倍一強とは言っても終身制ではないので、再任されても数年先には任期満了がきます・・。
その時に備えて次の芽に近づくのは次期政権への擦り寄り・・自己保身の点数稼ぎに励んでいると見るべきでしょう。
正義感がある硬骨漢であるならば、岩盤規制をつくった12年になぜ体を貼って抵抗しなかったのか?
あるいは、総理の意向という忖度程度で何らの指示もないのになぜ反対しなかったのかの疑問が湧きます。

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