政争と粛清3(大躍進政策・モンゴル人等の大虐殺)

頭のいい人・秀才から見れば訳のわからない?人を抹殺しないで、グダグダした言い分を根気よく聞いて「納得」の上で進めないと内政はうまく行きません。
民進党の野田元総理が堅い支持基盤を持っているのは見るかに愚直・言葉にならない気持ちを近いしてくれそうな風貌(具体的に知らない大多数にとっては内容もそうだろうという安心感)によるでしょう。
私の持論ですが、秀才が政治運営するのは無理があります。
秀才?理念先行の集団が政権を取ると面倒な利害調整を端折って党内抗争で勝った方が独裁→計画経済=国民に対する問答無用の強制→抵抗勢力・集団・少数民族に対してはまとめてシベリヤへ強制移住・権力内部では猜疑心の再生産になって終わりのない個別政敵粛清に行き着いたものです。
ポルポト政権の大虐殺も中華人民共和国政府がモンゴル族や満州族、チベット族を大量抹殺したのも説得の手間を省く同じ流れでしょう。
チベット族の民族抹殺政策はインドに亡命したダライ・ラマの抵抗によって世界に知られていて、以下紹介する大躍進政策失敗に関するウィキペデイアの解説にもチベット族関係が出ていますが、モンゴル・満州族等に関しては記述がありません・・外部に逃亡しようのない内陸部の満州族やモンゴル族の大量虐殺はもっとひどかったのにまだ一般化していませんが、そのうち一般化して来るでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/によると以下の通り(引用文献名が地道な調査報告でない点が実態そのものか単なる主張に類するものかどうか頼りないですが、)人口の6割も被害を受けていると書かれています。
(追記10月19日日経朝刊6pの中外時報欄に「楊海英静岡大学教授らの研究によれば内モンゴルで文革中に『モンゴル人のジェノサイド』が起きた。ただその実情を伝える情報は中国の内側では封印されている」してとさりげなく触れているように徐々に大手新聞も扱うようになってきました。)

「内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴル-じんみんかくめいとう-しゅくせいじけん)とは、1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。」

内政を底上げするには根気よく民度をあげるしかない・「急がば回れ」の諺通りですが、民度アップは強制・恐怖政治では無理ですし・・平和な社会でしか民度が上がりませんから(現在のシリアのように日々生命の危険にさらされていると大人も自己啓発できないだけでなく、次世代の教育すらできません)、暴動や革命による社会の混乱は生活水準・民度アップの目的には反したマイナスの結果を生みます。
受け皿になる社会実態の変化がない以上社会を権力で変えようがないのですから、中国のように何回王朝が倒れても同じ政治形態をとってきたのは実態に即した知恵だったのです。
あたらしいスローガンで政権奪取しても、社会がその段階にない場合や社会が新しいステージに入っていても政治運営経験や能力がなくてその実現能力がない場合には、手っ取り早い政権維持のためにクロムウエルやジャコバンのようにエネルギーを政敵を粛清したり政敵駆逐が片付いて独裁体制が固まると今度はナポレンのように外延拡大に向けることになることを書いてきました。
イワン雷帝以来ロシアは外延拡張政策に突っ走ってきて、民生向上に向けるべき資源を民生に向けられなかったので西欧諸国と生活水準で大きな格差が生じていたことが革命を必要とする原動力であった筈ですが、ロシア革命後利害調整の必要な民政能力のない悲しさで、(レーニンも新経済政策・ネップをやったもののうまく行かず、「1歩前進二歩後退」などと失敗をごまかしていましたが)結果的に後継者は外延重視政策に切り替わって行くしかなかったと思われます。
その結果数千万の餓死者を出しながら穀物輸出をつづけ〜国民不満を抑えるためのスターリンの大粛清政治となり、国内では粛清が怖くて批判できず、民生は縮小均衡の螺旋状態に陥っていました。
この辺は毛沢東の何千万の餓死者を出したと言われる大躍進政策(政権奪取→毛沢東の党内基盤確立後民生向上に踏み出した点は正しかったのですが)とこれに続く文化大革命も同じです。
ウィキペデアによる本日現在の大躍進政策の記事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した
しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で米英を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、需要や流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策によるチベットの惨状について
パンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[3]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[3]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[3]、パンチェンラマは次のように書いている[3]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
政策の結末
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[8]
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[9]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

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