女性天皇論1

小泉政権当時から女性天皇制の是非が議論されていますが、(秋篠宮家に男子出生によって今は下火ですが、将来の課題として残っています)
「古代に女帝が一杯あったじゃあないか」
という女帝容認論に対して、天皇になるべき子が幼なすぎるその他(蘇我氏が擁立した推古帝の外、中大兄の皇子がなかなか即位せずに一旦母親に2カ目の践祚をして貰い・女帝を建てたりしました)複雑な政治駆け引き上の繋ぎ目的であって、女帝に皇族以外の夫がいてその子が皇統を継ぐようなことが予定されていなかったと反論されています。
現在の女帝容認論は、他に皇嗣になるべき皇族男子がいないことを前提にしているのですから、その結果は全く皇統に関係のない系列に皇位が移って行くことを前提にしているので、古代に女帝がいたこととは本質がまるで違っています。
皇統がどうあるべきか・・皇統が連続するとは男系のみを言うのか等の本質論を避けた議論をしていては議論がかみ合いません。
イギリス王室の例で見れば分るようにイギリスでは、現エリザベス女王の子が次期王位継承者ですから、・・即ち夫は王室外ですから、男系にこだわっていないことが分ります。
日本の女帝は(次期皇位継承者がいることを前提にして権力均衡を計るためも含めて)次期本格政権への繋ぎ(当然皇位継承すべき皇族男子がその他大勢いて)目的が中心であったことは相違ないでしょう。
本論に戻りますと、このように我が国古代の女帝は政権の繋ぎ=皇位を一時預かりしているに過ぎない性質から政治は抑制的になり、中国で経験している前回紹介したような垂簾政治のように強力な独裁・恐怖政治を生み出さなかったのです。
漢の呂后、唐の則天武后、清末の西太后その他垂簾政治は政権簒奪している負い目もあって却って強権、恐怖政治になり勝ちです。
日本の場合、負い目があれば遠慮勝ちになるのですが、中韓両民族では逆にいきり立つと言うか強がり・強行策に終始する傾向があるのは、古代から現在に至る大きな違いです。
国民の支持を前提にする社会であれば、開き直りのような強行策・弾圧強化政策は却って人民の支持を失いますので、このような政策選択はあり得ないことになります。
開き直りこそが最有効とする価値観が盤石になっているのは、古代から強権政治に領民が反抗するすべを全く持たなかった・・人民はすごく弱い・・強権政治・恐怖政治に徹することこそが、却って政権安定の基礎であったと言う実績・経験があるからでしょう。
中国地域では、古代から政権は我が国のように昔から人民の支持によるのではなく、権力獲得競争は武力の優る方が勝ち、その後の政権維持に関しては政権内の反対勢力に関心がありますが、人民に対しては支持よりは弾圧能力にかかっているという単純社会を予定しています。
中朝両国有史以来続いた専制政治制とは本質的にこう言うものでしょう。
現在では重火器の発達で重火器を保有し得ない人民の暴動などとるに足りない・・いくらあっても政権が倒れる心配がないと言うのが中共政府の考え方でしょう。
外国の介入・・人民への外国からの兵器補給さえなければ、今の時代どこの国でも暴動弾圧には困らない時代であることを以前から書いています・・シリア反政府運動が長引いているのはこのせいです。
民主化が進んで人民意志を無視出来ないのではなく、刀や槍しかない時代と違って人民と政府間の武器力格差がもの凄く広がっているので、今は逆に現在中国のように人権など問題にしないで開き直って徹底弾圧すれば何の心配もない時代が来ています。
(刀や槍しかない時代には人民は竹槍で向かっても数が圧倒していれば正規軍に太刀打ち出来たことを以前書きました)
今もチベット族、ウイグル族あるいは(異民族対策とは関係がない)法輪功その他に対する中国政府の対応方法を見ると、強権・弾圧政治こそが全てを解決すると言う政策を実行している国柄です。

壬申の乱前後の武闘時代2

豪族間の武闘中心主義社会の最後を締めくくった蘇我氏が、権力を握ってから専横政治をしたことを理由に中大兄皇子のクーデターによって失脚しましたし、平家も同様でした。
平家物語に始まり現在のいろんな歴史小説を見ても、我が国では古来から専横・独裁政治を嫌う風潮があることが分るでしょう。
以後鎌倉以降武家政権でも、専横を慎み合議を尊重する習慣に戻りました。
戦国時代を勝ち抜いた信長は蘇我氏や平清盛同様に過去の習慣・伝統に反して専横性・独裁性を強くし過ぎて本能寺で倒れました。
勝ち抜いばかりのときにはその延長戦の気持ちもあって、そう言う気持ちがないとやって行けないところがあるのでしょう。
唐の太宗のように「創業と守成いづれが難きか!」と重臣に聞くような区別意識がなかなか身に付かないものです。
どこの国でも長期の戦乱を鎮めた最後の勝者による政権が短命(春秋戦国時代を終わりにした秦の始皇帝、5胡16国(魏晋南北朝)時代をまとめた隋、院政期の騒乱をまとめた平家、応仁の乱以降の戦国時代をまとめた織豊政権など全て短命政権の宿命はこうしたところにあります。
独裁権力・専横政治は長い戦乱を武力統一した勢いのあるうちだけ可能なのであって、それでも直ぐに無理が出るのですが、幕末の井伊大老は(先祖は四天王の一人といて活躍したとしても彼自身)何ら武力面での実績もないのに、幕府という抽象的な権力(権力がガタガタになっているので強気を見せるために独裁権力行使を必要としたのですから、矛盾関係)によって独裁権力を行使しました。
歴史上の経験によれば、実績があっても戦時以外には独裁権力行使は無理が来るのに、なんら実績のない彼が幕府権威喪失著しい状態で役職上の権威のみに頼って独裁的権力を行使するとあっという間に桜田門外で倒れました。
乱世を統一したばかりの高揚期でさえも統一後の強権政治維持が難しくなるのに、政権末期の権威喪失を糊塗するための強権弾圧はかえって政権倒壊の引き金になり易いものです。
武断主義・独裁性の強かった天武天皇は一種の創業者としての強みで強行策の連発をしても生存中の政変がなくて無事病死でしたが、清盛だって混乱の中とは言え病死でした。
清盛の死後清盛の専横政治に対する反感があって(平家物語に出て来る平家批判は「奢れるものは久しからず」の精神だけです)源氏の天下に変わるのですが、もっと独裁制の強かった天武天皇死亡後どうなったのでしょうか?
天武天皇は自分が天智天皇の後継者を武力で倒したように自分の息子も倒されるのではないかと恐れていたらしく、天武天皇は天下をとってから軍事力の整備にはひとかたならぬ力を入れてました。
皇位継承者で日並(ひなみし)の皇子と称された草壁の皇子(こう言う特別な尊称を要求していた行為自体異常でした・・その後の皇太子にはこう言う尊称が私の知る限りですが、全くありません・・他の系列に皇位を行かせないという強固な意志表示だったでしょう)に対しても、必死に軍事訓練をしていました。
柿本人麻呂の「ひむがしの野にカギロイのたつ見えてかえり見すれば月カタブキヌ・・」の歌は、この皇子に対する調練開始の場面を描いたものであることを、09/24/05「独自日本の形成6(万葉集2)柿本人麻呂」のコラムで紹介したことがあります。
彼・皇太子が早死にした御陰で、持統天皇以降女帝が続きました。
中国では劉邦死後の呂后や唐の則天武后・清末の西太后等垂簾政治になるとやり過ぎる弊害がいつも起きるのですが、我が国の場合逆に女帝の連続による宥和政策が大和朝廷を安定期に導いたのではないでしょうか?

壬申の乱前後の武闘時代1

ここから先はどこかで読んだことによるつぎはぎ的知識に私の独断・思いつき意見を展開するものです。
この時期、朝鮮半島支配を始めたツングース族の高句麗との間で、百済を巡る戦争が続いていたことから、対外的必要から軍事能力の有用性が高まっていました。
平和国家・非武装政策こそ平和を守る最善の方法と言って諸国民の道義心に頼って安心していた日本が、中国の侵略的行動開始や、竹島騒動がイキナリ起きたので安閑としていられない・・軍事力の必要性に目覚め始めた現在と似ています。
周辺で武断的行動が頻発すると、自然とこちらも自衛のために武装強化・軍事意識が高まり軍人の地位が上がって行くのは自然です。
江戸時代に泰平の世を謳歌していたところに西洋列強が押し寄せて来た結果、幕末から明治に掛けて軍備増強が進み国民も血気盛んな人材が幅を利かすようになりました。
朝鮮半島では、日本と親交のあった百済がジリ貧になって来たので、百済の滅亡前から、・・亡命貴族や職能集団を受入れていたこと・・この結果多くの技術系渡来人・・◯◯職人集団を「◯◯品」として政権内に取り込んでいました。
(戦前ジリ貧の中国から多数の中国人エリートが日本に留学していたのと同じです)
彼ら職人集団をつかねていたのが蘇我氏で、蘇我氏自身が渡来人だったか否かは別として(渡来人説を読んだことがありますが・・)蘇我氏は渡来人的思考・武断政治に馴染んでいたことは確かでしょう。
縄文時代からの生活様式からすれば、例外に属する武力に頼る騒乱続きに飽き飽きしていた・・困りきっていた日本人の良心の象徴が聖徳太子であり、「和をもって尊しとなす」という思想に結実して行ったと思われます。
敗戦後全ての日本的価値が米軍によって否定されたときでも聖徳太子に対する尊崇の念を全面否定出来なかったのは、占領軍が天皇制を否定出来なかったのと同様に我が国の心そのものの表現だからでしょう。
古代での蘇我対物部の戦いに始まる戦国時代を締めくくった(中世戦国時代を終わりにした信長同様に)大海人皇子は即位後軍制の整備に意を注ぎ・・過去の大豪族らとの合議制を覆して独裁政治(皇族だけ相手にする皇親政治)に邁進しています。
独裁的政治推進に比例して各種大改革が実現し、現在の日本の基礎を築いた大君主に成ったのですが、(皇親政治)それまでオオキミ(大王)の称号であったのに、自分を秦の始皇帝のように自らを「天皇」と称し始める(それまでの国号「倭」を日本と改めたのも彼です)など信長が同様に大自信家でした。
ところで、大海人皇子を渡来人系ではないかという意見をどこかで読んだことがあります。
その根拠は忘れましたが、天智天皇が何歳も離れた弟である筈の大海人皇子に対して腫れ物を触るように気を使っていたのが私には不思議です。
即位後の天武天皇の政治のやり方が旧来の日本人とあまりに違い過ぎることや天智天皇の弟とするには年齢が何故かはっきりしないなどの問題がある(兄の天智天皇より年長だったという説もありそうです)上に、彼自身大男でもあってこれもおかしいと言えるようです。
何故大男と言えるかと言うと、文暦2年(1235年)天武天皇陵は盗掘被害にあって銀で出来た棺桶が盗まれたものの、遺骨はその近くに棄てられていたので、足の骨その他体中の寸法を測った調査記録が残っていて、これによると身長175センチメートルという詳しいことまで分っています。文字による我が国歴史の始まり(彼が日本書紀等の編纂を命じて史書が始まったものです)に位置する最重要人物である大海人皇子=天武天皇自身の出自がよく分らない(彼自身の出自がはっきりしない)ままになっているのはおかしなことです。
その後大和朝廷の実権が失われて行くので、朝廷内の権力争い目的の戦乱はなくなりますが、その後も蝦夷征伐や将門の乱に始まり源平騒乱から戦国時代まで国内戦乱が続いています。
(武家政権への移行期と見ることが可能です)

 合議を基本とする日本社会2

我が国の話し合い・譲り合い政治に戻ります。
外国では交渉相手が現地ルールで来ますので、こちらも海外では現地仕様(方式)に合わすしかないとしても、国内では古代からの譲り合い社会のママで行きたいものです。
そもそも王朝成立はどこの国でも武力統一によるもので、世界中でその辺の英雄神話に事欠かないのですが、我が国大和王権ではそうした英雄神話が全くないし、伝わっていません。
神武天皇の東征神話は如何にも武力統一したかのようですが、これは壬申の乱で勝利した大海人皇子の転戦ルートを拡大して書いたものという意見もあるように、神話時代の国づくりそのものではありません。
言うまでもなく壬申の乱のずっと前(何百年も前)に大和王権は成立しているので、神武天皇の東征神話はその辺の歴史の描写にはなり得ません。
本当の原始的大和王権成立時の神話としては、話し合いによる国ゆずり等の神話しかないことになります。
我が国は古代大和王権成立自体を武力で決めないで話し合い・・国ゆずり(神話)でやって来た経緯に分るように、日本列島では文字資料のない古代から話し合い=譲り合いでやって来た社会です。
この神話の実証研究が最近進んで来たようですが、以下私の素人的意見・経験から見ても、比叡山山麓にある日枝神社だけではなく、あちこちの神社でそこの祭神だけではなく八百万の神・各地方の神々を祭り続けて来た、大和王権の姿勢からも推測されます。
我が国では、犬、猫、牛あるいは各種道具(針塚・◯◯塚等で供養をします)や山川草木全て神が宿るものとして大切にする習俗がありますが、欧米のように万物の霊長などと威張っていて自然を征服するなんて発想はありません。
我が国では、武力で勝てば相手を奴隷・・動物並みに貶めて良い、何をしても良いと言う思想がないのは、元々武力で決着を付ける習慣や歴史がない・・縄文時代から万物共生を旨として生きて来た歴史がそうさせるのでしょう。
邪馬台国論争で有名なとおり邪馬台国がどこにあったかさえ分らない・・大和王権成立初期の頃の実態が良く分っていませんが、魏志倭人伝では卑弥呼の死亡後一旦乱れたがその娘トヨだったかが出てふたたび一体化し(平和が戻った)たとも書かれているようです。
魏志倭人伝でも武力統一や英雄の話は出て来ません。
途中で王朝が入れ替わった可能性の高い(定説とは言えないと言う意味です)継体天皇・王権の成立(・・これが簒奪か有力豪族間の話し合いだったかは説が分かれるでしょうが・・)への転換の流れを見ても、そこには大規模戦争の痕跡や記述がありません。
(イワイの乱があるので九州豪族が承服していなかったことが推定されるだけです)
こうしたことは全て大規模な戦争によらず、話し合いでやって来た古代からの経験・背景があってこそ可能であったと思われます。
邪馬台国がどこにあったかの邪馬台国論争も,元はと言えば倭人伝での距離・方向感がおかしいことにありますが、その他に話し合いで王権があちこちに移って来たことに原因がある可能性があります。
私の意見は大和王権は各地で成立した独立の地域王権の連合体で始まったという仮説が正しければの意見です。
(古代史は仮説が多い上に、私がよく勉強していないで個人的思い込みで書いていることもあるので、そのつもりでお読み下さい)
平和的政権交代が我が国で文字資料の出来る前から普通に行なわれていたとすると、その直前の蘇我氏が台頭し始めた頃の物部氏との戦争や、蘇我氏が実権を握ってから蘇我氏を倒すクーデター・(乙巳の変)、更には壬申の乱まで戦争(と言っても畿内だけのホンの狭い範囲でのヘゲモニー争いだったと思われますが・・・)が続いたのかということになります。

 現地仕様1(製品と道義)

アメリカではロビー活動(資金力)次第で政治=法律=正義が決まる・本来の正義などどこ吹く風という社会です。
「そんな社会っておかしいよね」と思っていても、アメリカでは黙っていると(資金を使った方が声が大きくなる社会です)大きな声で嘘を言っている方が正しいという政治=法律がそのまま出来てしまう社会ですから、酷いものです。
ロビー活動次第のアメリカでは、白を黒と言っても資金力のある方の意見・・法律になってしまう社会で、これがアメリカ型民主主義というものの現実です。
これを大したものだと崇めてる国が世界の大多数というのですから(内心バカにしている国が多いかも?)、日本も対外的には、外国標準仕様にして行かないと口惜しい思いばかりさせられます。
明治維新当時こうした豺狼のごとき欧米の行動にびっくりした日本は、和魂洋才で欧米的交渉力・・富国強兵に努めた結果、欧米の奴隷的植民地にならずに済み、ある程度まで行きましたが、第二次世界大戦突入に追い込まれて結局一敗地にまみれました。
狡いやり方では相手の方が上手ですから、日本が下手に狡いやり方を真似するとその辺ばかりうまく批判されてしまいます。
非人道的な植民地支配をしていた欧米が自分の非を棚に上げて、日本の非人道行為をでっち上げて日本を道義で責めるならば最早道義に反したことをされる心配はないだろうと言う読みがあって、やはり日本古来の国際信義を重んじる方式でやって行こうという気になったのが新憲法前文です。
(何回も引用していますので「憲法前文」で検索してください)
連合国がよってたかって東京裁判という形式を使って日本を道義批判している以上は、信義を重んじない国はない筈だという信念(皮肉を込めて)・・戦後60年以上もやって来ましたが、相手の道議批判を逆手にとるこの国策も、最近の中韓のあまりにも理不尽な非難のエスカレートや恫喝的外交の前に風前の灯になりました。
中韓の道義に反した脅迫・虚偽風説の流布活動に対して、腹が立つからと言ってこちらも感情的になると、負けると分っているのに戦争に引きずり込まれてしまった第二次世界大戦の二の舞になります。
感情的にならずに、さしあたり我が国政治スタイルもある程度現地仕様に踏み出すことから始めるしかないでしょう。
狡いやり方では相手の方が上手ですから、日本が下手に狡いやり方を真似するとその辺ばかりうまく批判されてしまいます。
明治維新以降欧米に飲み込まれないように欧米列強と同じ方向に進みながらも、我が国独自の植民地政策・・欧米とは違い、現地人の自立に心を砕いて来たのですが、これが却って欧米に憎まれてしまいました。
非人道的欧米の植民地政策を正そうとした我が国が、勝ち目のない戦争に向かわざるを得ないように巧妙に追い込まれ、予想どおりに負けたものの辛さで、逆に非人道国の汚名を着せられてしまいました。
戦後も挫けることなく、地道に励んで来た結果今や世界中で日本人の信用は高まるばかりですが、これに焦った(アメリカの意を受けた)中国・韓国政府が日本に挑発を繰り返しています。
已むなく日本も現地仕様に乗り出すについては、韓国の無茶な要求や中国の恫喝のバックに日本叩きをけしかけている国があることに気を付ける必要があります。
挑発に乗って日本が同じようなことをすると待っていましたとばかりに汚い罠が待っているリスクに気をつける必要があります。
先日韓国行なわれたサッカーのアジアリーグだったかの試合で、例によって韓国側が歴史問題の大横断幕を掲げた事件がありました。
韓国側ではこれを先に日本が旭日旗を掲げたからやったと言い訳しているようですが、徐々に分って来たところでは、韓国系で日本国内で活躍している在特会をシバク会・シバキ隊の隊員が韓国の横断幕を掲げる計画者と連絡を取り合ってシバキ隊側が日本人として先に旭日旗を掲げる手はずだったということらしいです。
これはネット報道であって必ずしも正確性の保障がありませんが、こうしたことが蔓延して日本を罠にはめようとする悪巧みが世界中に満載です。
日本が現地仕様に踏み出すについては、再び嵌められて第二次世界大戦に追い込まれた歴史の轍を踏まないように細心の注意を払う必要があります。

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