壬申の乱前後の武闘時代2

豪族間の武闘中心主義社会の最後を締めくくった蘇我氏が、権力を握ってから専横政治をしたことを理由に中大兄皇子のクーデターによって失脚しましたし、平家も同様でした。
平家物語に始まり現在のいろんな歴史小説を見ても、我が国では古来から専横・独裁政治を嫌う風潮があることが分るでしょう。
以後鎌倉以降武家政権でも、専横を慎み合議を尊重する習慣に戻りました。
戦国時代を勝ち抜いた信長は蘇我氏や平清盛同様に過去の習慣・伝統に反して専横性・独裁性を強くし過ぎて本能寺で倒れました。
勝ち抜いばかりのときにはその延長戦の気持ちもあって、そう言う気持ちがないとやって行けないところがあるのでしょう。
唐の太宗のように「創業と守成いづれが難きか!」と重臣に聞くような区別意識がなかなか身に付かないものです。
どこの国でも長期の戦乱を鎮めた最後の勝者による政権が短命(春秋戦国時代を終わりにした秦の始皇帝、5胡16国(魏晋南北朝)時代をまとめた隋、院政期の騒乱をまとめた平家、応仁の乱以降の戦国時代をまとめた織豊政権など全て短命政権の宿命はこうしたところにあります。
独裁権力・専横政治は長い戦乱を武力統一した勢いのあるうちだけ可能なのであって、それでも直ぐに無理が出るのですが、幕末の井伊大老は(先祖は四天王の一人といて活躍したとしても彼自身)何ら武力面での実績もないのに、幕府という抽象的な権力(権力がガタガタになっているので強気を見せるために独裁権力行使を必要としたのですから、矛盾関係)によって独裁権力を行使しました。
歴史上の経験によれば、実績があっても戦時以外には独裁権力行使は無理が来るのに、なんら実績のない彼が幕府権威喪失著しい状態で役職上の権威のみに頼って独裁的権力を行使するとあっという間に桜田門外で倒れました。
乱世を統一したばかりの高揚期でさえも統一後の強権政治維持が難しくなるのに、政権末期の権威喪失を糊塗するための強権弾圧はかえって政権倒壊の引き金になり易いものです。
武断主義・独裁性の強かった天武天皇は一種の創業者としての強みで強行策の連発をしても生存中の政変がなくて無事病死でしたが、清盛だって混乱の中とは言え病死でした。
清盛の死後清盛の専横政治に対する反感があって(平家物語に出て来る平家批判は「奢れるものは久しからず」の精神だけです)源氏の天下に変わるのですが、もっと独裁制の強かった天武天皇死亡後どうなったのでしょうか?
天武天皇は自分が天智天皇の後継者を武力で倒したように自分の息子も倒されるのではないかと恐れていたらしく、天武天皇は天下をとってから軍事力の整備にはひとかたならぬ力を入れてました。
皇位継承者で日並(ひなみし)の皇子と称された草壁の皇子(こう言う特別な尊称を要求していた行為自体異常でした・・その後の皇太子にはこう言う尊称が私の知る限りですが、全くありません・・他の系列に皇位を行かせないという強固な意志表示だったでしょう)に対しても、必死に軍事訓練をしていました。
柿本人麻呂の「ひむがしの野にカギロイのたつ見えてかえり見すれば月カタブキヌ・・」の歌は、この皇子に対する調練開始の場面を描いたものであることを、09/24/05「独自日本の形成6(万葉集2)柿本人麻呂」のコラムで紹介したことがあります。
彼・皇太子が早死にした御陰で、持統天皇以降女帝が続きました。
中国では劉邦死後の呂后や唐の則天武后・清末の西太后等垂簾政治になるとやり過ぎる弊害がいつも起きるのですが、我が国の場合逆に女帝の連続による宥和政策が大和朝廷を安定期に導いたのではないでしょうか?

壬申の乱前後の武闘時代1

ここから先はどこかで読んだことによるつぎはぎ的知識に私の独断・思いつき意見を展開するものです。
この時期、朝鮮半島支配を始めたツングース族の高句麗との間で、百済を巡る戦争が続いていたことから、対外的必要から軍事能力の有用性が高まっていました。
平和国家・非武装政策こそ平和を守る最善の方法と言って諸国民の道義心に頼って安心していた日本が、中国の侵略的行動開始や、竹島騒動がイキナリ起きたので安閑としていられない・・軍事力の必要性に目覚め始めた現在と似ています。
周辺で武断的行動が頻発すると、自然とこちらも自衛のために武装強化・軍事意識が高まり軍人の地位が上がって行くのは自然です。
江戸時代に泰平の世を謳歌していたところに西洋列強が押し寄せて来た結果、幕末から明治に掛けて軍備増強が進み国民も血気盛んな人材が幅を利かすようになりました。
朝鮮半島では、日本と親交のあった百済がジリ貧になって来たので、百済の滅亡前から、・・亡命貴族や職能集団を受入れていたこと・・この結果多くの技術系渡来人・・◯◯職人集団を「◯◯品」として政権内に取り込んでいました。
(戦前ジリ貧の中国から多数の中国人エリートが日本に留学していたのと同じです)
彼ら職人集団をつかねていたのが蘇我氏で、蘇我氏自身が渡来人だったか否かは別として(渡来人説を読んだことがありますが・・)蘇我氏は渡来人的思考・武断政治に馴染んでいたことは確かでしょう。
縄文時代からの生活様式からすれば、例外に属する武力に頼る騒乱続きに飽き飽きしていた・・困りきっていた日本人の良心の象徴が聖徳太子であり、「和をもって尊しとなす」という思想に結実して行ったと思われます。
敗戦後全ての日本的価値が米軍によって否定されたときでも聖徳太子に対する尊崇の念を全面否定出来なかったのは、占領軍が天皇制を否定出来なかったのと同様に我が国の心そのものの表現だからでしょう。
古代での蘇我対物部の戦いに始まる戦国時代を締めくくった(中世戦国時代を終わりにした信長同様に)大海人皇子は即位後軍制の整備に意を注ぎ・・過去の大豪族らとの合議制を覆して独裁政治(皇族だけ相手にする皇親政治)に邁進しています。
独裁的政治推進に比例して各種大改革が実現し、現在の日本の基礎を築いた大君主に成ったのですが、(皇親政治)それまでオオキミ(大王)の称号であったのに、自分を秦の始皇帝のように自らを「天皇」と称し始める(それまでの国号「倭」を日本と改めたのも彼です)など信長が同様に大自信家でした。
ところで、大海人皇子を渡来人系ではないかという意見をどこかで読んだことがあります。
その根拠は忘れましたが、天智天皇が何歳も離れた弟である筈の大海人皇子に対して腫れ物を触るように気を使っていたのが私には不思議です。
即位後の天武天皇の政治のやり方が旧来の日本人とあまりに違い過ぎることや天智天皇の弟とするには年齢が何故かはっきりしないなどの問題がある(兄の天智天皇より年長だったという説もありそうです)上に、彼自身大男でもあってこれもおかしいと言えるようです。
何故大男と言えるかと言うと、文暦2年(1235年)天武天皇陵は盗掘被害にあって銀で出来た棺桶が盗まれたものの、遺骨はその近くに棄てられていたので、足の骨その他体中の寸法を測った調査記録が残っていて、これによると身長175センチメートルという詳しいことまで分っています。文字による我が国歴史の始まり(彼が日本書紀等の編纂を命じて史書が始まったものです)に位置する最重要人物である大海人皇子=天武天皇自身の出自がよく分らない(彼自身の出自がはっきりしない)ままになっているのはおかしなことです。
その後大和朝廷の実権が失われて行くので、朝廷内の権力争い目的の戦乱はなくなりますが、その後も蝦夷征伐や将門の乱に始まり源平騒乱から戦国時代まで国内戦乱が続いています。
(武家政権への移行期と見ることが可能です)

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