合議を基本とする日本社会2

我が国の話し合い・譲り合い政治に戻ります。
外国では交渉相手が現地ルールで来ますので、こちらも海外では現地仕様(方式)に合わすしかないとしても、国内では古代からの譲り合い社会のママで行きたいものです。
そもそも王朝成立はどこの国でも武力統一によるもので、世界中でその辺の英雄神話に事欠かないのですが、我が国大和王権ではそうした英雄神話が全くないし、伝わっていません。
神武天皇の東征神話は如何にも武力統一したかのようですが、これは壬申の乱で勝利した大海人皇子の転戦ルートを拡大して書いたものという意見もあるように、神話時代の国づくりそのものではありません。
言うまでもなく壬申の乱のずっと前(何百年も前)に大和王権は成立しているので、神武天皇の東征神話はその辺の歴史の描写にはなり得ません。
本当の原始的大和王権成立時の神話としては、話し合いによる国ゆずり等の神話しかないことになります。
我が国は古代大和王権成立自体を武力で決めないで話し合い・・国ゆずり(神話)でやって来た経緯に分るように、日本列島では文字資料のない古代から話し合い=譲り合いでやって来た社会です。
この神話の実証研究が最近進んで来たようですが、以下私の素人的意見・経験から見ても、比叡山山麓にある日枝神社だけではなく、あちこちの神社でそこの祭神だけではなく八百万の神・各地方の神々を祭り続けて来た、大和王権の姿勢からも推測されます。
我が国では、犬、猫、牛あるいは各種道具(針塚・◯◯塚等で供養をします)や山川草木全て神が宿るものとして大切にする習俗がありますが、欧米のように万物の霊長などと威張っていて自然を征服するなんて発想はありません。
我が国では、武力で勝てば相手を奴隷・・動物並みに貶めて良い、何をしても良いと言う思想がないのは、元々武力で決着を付ける習慣や歴史がない・・縄文時代から万物共生を旨として生きて来た歴史がそうさせるのでしょう。
邪馬台国論争で有名なとおり邪馬台国がどこにあったかさえ分らない・・大和王権成立初期の頃の実態が良く分っていませんが、魏志倭人伝では卑弥呼の死亡後一旦乱れたがその娘トヨだったかが出てふたたび一体化し(平和が戻った)たとも書かれているようです。
魏志倭人伝でも武力統一や英雄の話は出て来ません。
途中で王朝が入れ替わった可能性の高い(定説とは言えないと言う意味です)継体天皇・王権の成立(・・これが簒奪か有力豪族間の話し合いだったかは説が分かれるでしょうが・・)への転換の流れを見ても、そこには大規模戦争の痕跡や記述がありません。
(イワイの乱があるので九州豪族が承服していなかったことが推定されるだけです)
こうしたことは全て大規模な戦争によらず、話し合いでやって来た古代からの経験・背景があってこそ可能であったと思われます。
邪馬台国がどこにあったかの邪馬台国論争も,元はと言えば倭人伝での距離・方向感がおかしいことにありますが、その他に話し合いで王権があちこちに移って来たことに原因がある可能性があります。
私の意見は大和王権は各地で成立した独立の地域王権の連合体で始まったという仮説が正しければの意見です。
(古代史は仮説が多い上に、私がよく勉強していないで個人的思い込みで書いていることもあるので、そのつもりでお読み下さい)
平和的政権交代が我が国で文字資料の出来る前から普通に行なわれていたとすると、その直前の蘇我氏が台頭し始めた頃の物部氏との戦争や、蘇我氏が実権を握ってから蘇我氏を倒すクーデター・(乙巳の変)、更には壬申の乱まで戦争(と言っても畿内だけのホンの狭い範囲でのヘゲモニー争いだったと思われますが・・・)が続いたのかということになります。

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