非嫡出子差別違憲決定の基礎2(空襲→都市壊滅)

昭和22年改正時に非嫡出子差別がなぜ残ったか?社会生活の変化がそこまで進んでいなかったのかを以下見ていきます。
日本産業構造の近代化に連れて(タイムラグがあります)生活様式や意識も親族関係の重みも変わっていきます。
明治時代はまだ人口の大半は旧幕時代の意識濃厚であったでしょうが、明治45年を経て大正時代に入ると生まれたときから文明開化の空気で育った新人類(今で言えば生まれた時から「テレビを見て育った世代」最近では「生まれつきネットで育った新人類」)の時代に入っていたでしょう。
文学分野では、明治末から白樺派など(志賀直哉その他財閥2世?のお坊ちゃん文化)が一世を風靡していましたが、芸術系は発表時に現実多数化している生活変化の後追い表現ではなく、先行心情の先取り傾向があるので文学芸術表現が必ずしもその時代意識とは言えません。
大正時代には産業構造的にも都市化=核家族世帯化がかなり進み、家族関係も変わっていました。
法制度は実態の後追いですから、私の職業上のソース・・法制度で見れば以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%9F%E5%9C%B0%E6%B3%95-75830

借地法(読み)しゃくちほう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
大正 10年法律 49号。借地人の権利の強化を目的とした法律で,借家法とともに制定された。借地人保護の法律としてはすでに建物保護ニ関スル法律があったが,本法は,借地権の存続期間延長と継続をはかり,その反面土地所有者に地代増額請求権を与えたものである。 1941年の一部改正 (法律 55号) によって,東京など一部の地域に限定されていた適用区域を全国に拡大した・・。

都市住民が増えていたことがこのような法律を必要とするようになっていたことがわかります。
大正時代には、大都市化の進んでいた東京だけ対象の法律でしたが、1941年から全国適用になっています。
そこで敗戦によって家の制度がなくなり親族相続編が抜本的改正が行われたにも関わらず、嫡出非嫡出の差別がなぜ残ったか?の疑問です。
敗戦直後都市住民の多くは空襲によってほぼ全部燃えてしまい・・空襲にあったのは東京だけではありません・・千葉市のような小さな町でもほぼ灰燼に帰したばかりの空襲写真展を時々見ますし、全国小都市にあるお城がほぼ空襲で燃えてしまった(空襲を受けずにそのまま残ったのは姫路城や松本城などほんのわずかです)ことでもわかるでしょう。
家もなければ食の手当てもできない→生活できないので故郷の実家を頼って田舎に帰っている世帯多数でした・・。
私自身都内で生まれましたが、東京大空襲にあって住む家もなくなったので母の故郷に戻りそこで成長しました。
GHQの当初占領政策は、日本の工業生産を認めず農業生産しか認めない方針であったことを何回も紹介してきました。
戦後直後は工場関係壊滅したばかりかせっかく空襲を免れた工場機械までGHQの命令で中国や東南アジアへ強行搬出されている時代でしたので、工場労働が縮小する一方で強制的に原始時代に戻ったような時期だったことになりそうです。
農業→家族労働同時代に逆行が始まっていたとすれば、非嫡出子・多くは正妻のいる農家や家業に関係しない子を前提にすれば、半分で良いのではないかという考えが多数だったのでしょう。
戦後民法改正時には、日本を今後江戸時代の農業社会へ退行させるという今考えれば悪夢のような恐ろしい政策がGHQによって実行されている最中だったのです。
以前にも紹介していますが、重要なことですので再度引用しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/連合国軍占領下の日本#貿易で7月7日現在検索すると占領政治は以下の通りでした。

産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。
マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」
と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。

欧米の植民地レベルに落とす政策・・奴隷解放運動をした運動家を奴隷の身分に落とすのと同じやり方・・植民地解放運動した日本を植民地にしてしまう・・日米戦争に引きずり込んだ米国の真意・目的がここに現れていることを何回か紹介してきました。
極東委員会は復興を認めなかった(焼け野が原にしておけ)だけですが、GHQは残っていた工場までスクラップ化を進めたのです。
引用続きです。

こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業や漁業や衣類を主力産業とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした[12]。
1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省(現在の財務省と金融庁)によると、1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。

データの避難準備1(空襲)

今回は自治体データの内戸籍関係だけは法務局に書類が移送される仕組みでしたから、偶然無事だったようですが、第二次世界大戦時にも同じような問題があって、町役場と同一地域にある法務局も米軍の空襲によって焼けてしまい、戸籍関係が焼失してしまう例が多くありました。
ただし、敗戦時に焼失した戸籍簿や不動産登記関係書類は日常的に必要とするデータではないし自治体側から、行政目的に積極的にこれを利用しているデータではありません。
各関係者が必要とする都度、届出て復元すれば足りたようです。
いまの時代住民登録の整備があれば、戸籍簿整備は不要ではないかと言う意見を April 17, 2011「不正受給防止(超高齢者)」まで書いて来ました。
言わば不要な記録だけが、今回の津波被害から助かったことになります。
津波被害では、タマタマ法務局と役場が離れていたから良かったに過ぎず、同じ地域に集中するのは、津波に限らずどのような種類原因による被害があるか分らないのでリスク分散としては危険です。
遠隔地に用地取得して置いて、そこの管理事務所併設倉庫に(紙記録など)バックアップしておくべきだったのです。
私は戸籍簿の喪失に関しては職務上今までいくつか経験していますが、空襲の場合、津波と違って一族・一家あるいは集落構成員根こそぎ死亡することが滅多にないので、生き残った家族らからの聞き取りや届け出及び集落関係者の報告等で戸籍の復元が大方出来ていたようです。
土地台帳・登記所が燃えても、各人が持っている権利証や隣近所の人の持ち寄った公図写しなどで何とか復元出来ていたのです。
(津波のようにムラごと流されて全員なくすようなことはなかったので・・)
何しろ自分の耕している土地や自宅敷地を知らない人はいません。
しかも当時の役所のデータの殆どは現在の膨大な技術的行政文書と違い長期間掛けて関係者が必要とする都度復元すれば足りる・・どちらかと言えば、記憶に頼れる原始的文書でした。
(親や兄弟の氏名生年月日、何時結婚したか姪が何時生まれてどう言う名前か等は正確に知っていることが多いものです。)
現在の行政文書は自分のことでも保険番号や建築確認書類その他を役所に問い合わせないと分らないような・自分で記憶しきれない・管理しきれないデータが殆どです。
行政も国民を管理するだけではなく、今ではデータに基づいて積極的にいろんな施策をしなければならない役割ですから、(介護や生活保護でも細かなデータが必要です)細かなデータがないと自治体も動きがとれなくなってしまいます。
公的資産の管理を考えても詳細設計図書がなくなれば、ちょっとした修理をするにも大変なことです。
土地権利証などと違い今では年金記録その他すべての分野で詳細なデータ化しているので、そのデータ自体を国民が所持している例は少ない筈ですから、一旦消失すると各種行政文書の復元は困難を極めます。
ここでの関心は、これまで書いて来た住民個々人の避難準備不足による被害拡大だけではなく、自治体自身の避難準備・危機管理がなかったことによって、これから徐々に明らかになる損失拡大・事務処理効率のロスに対する懸念です。
ただ、敗戦時の記録復元が簡単だったとは言え、聞き取りに頼る場合正確な漢字表記などに誤りがある事件があって、本人にとっては自分の名前の漢字が違っているのは落ち着かないままで来たのですが、死ぬ前に訂正したいと言うことでした。
そこで、兵役従事中の関係文書や応召前の学籍簿などを証拠に、戸籍上の名前・漢字表記の誤りを訂正するための手続きを昭和50年代にやったことがあります。
ま、こんな程度の誤りは国全体の施策には影響がない程度ですが、現在の行政文書のデータは膨大ですし、膨大な行政文書がないまま行政を執行して行く・・あるいは前向きの施策をするにしても、前提となるデータがまるでないのでは眼をつむって走り回るようなもので、大変な事態になることが明らかです。

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