事前規制と事後審査4(ルール整備と訴訟の減少2)

高度成長期以降に生じた公害等の発生・・あるいはいろんな分野で生活スタイルが急激に変化したので、旧来暗黙裡に成立していた社会合意形成によるのでは時間がかかり過ぎて間に合わなくなってきました。
新たな社会合意形成が自然に出来上がるの待っていると時間がかかりますので、この間に日進月歩の科学技術の革新・社会生活様式の絶えざる変化にいつも追いつかないどころか格差が広がるばかりで、・・被害拡大・・社会紛争が多発してしまいます。
自然発生的社会ルール合意の形成を待てないところから、一方で法制定に馴染まない(原子力発電所の細かい規制を考えても分るように技術基準を法で決めるのは無理があります・・化学プラント・建築基準その他全ての分野で)個別の運用基準(法以下の規則やガイドライン)等の整備をする一方で、既に発生してしまった被害発生の救済のために訴訟が必要になりました。
昭和40年代以降労災その他の被害回復訴訟(交通事故を含めて)が大量に発生したのは、規制の追いつかない場面で起きた現象と言えます。
公害や労災訴訟等と平行して,社会の自然発生的合意形成を待っていられない(いろんな分野で専門知識が必要になって来たので自然発生的合意形成に馴染まなくなったことも大きな違いです)ので、公害関連その他規則が充実した結果、世界一公害防止技術の発展した国になり、この種の紛争はなくなりました。
(クルマの普及比で中国その他後進国に比べて交通事故死も激減していることは周知のとおりです)
いつも例として書きますが、日照権紛争も、木造二階建てしかない住宅街にビルが建ち始めた当時はこれに関連した事前の社会合意があり得なかったので、一時続々と日照権紛争が起きましたが、この結果日照に関する条例(日影規制や近隣同意条項)が各自治体で制定されてからは、ほぼ皆無になりました。
ところでモクモクと煙が出るような被害は直ぐに問題点が分りますが、水俣病や石綿(アスベスト)や薬害訴訟等・・当時一般人には危険性さえ分らなかったことが後で分ることがあります。
規制当局や関連業界で早くから分っていたのにイキナリの規制では設備投資した業界が参ってしまうので、一般人に分らないことを良いことにして隠していたり規制を先送りしていた結果、被害拡大したのではないかと言う争いがこれら訴訟の核心です。
ここ数日の話題では福島原発の汚染水が海に流れ込んでいることの発表がありましたが、これが1〜2ヶ月前から井戸の水位計の関係で疑うべきだったのに軽視していた疑い・・社長が知ってから数日置いて公表したことに対する批判で、昔のように数十年単位で隠していたか否かどころか期間が大幅に短縮されて批判を浴びる時代になりました。
カネボウの美白化粧品の問題発表遅れや、三菱のリコール隠し問題も同じです。
高度成長期以降建築その他各種分野で専門技術化が進んでいるので、建築基準や交通ルールその他専門分野での暗黙の社会合意の成立は無理・・不可能になりっています。
(原子力に限らず普通の医療、介護、食品・最も原始的で従来暗黙の合意が可能と思われていた農業でさえ残留農薬基準・遺伝子組み換え等専門知識が必要です・・その他従来常識と思えていた日常的分野でも専門知識化が大幅に進んできました)
こうなると従来のように常識の生成発展に委ねていると(日照被害紛争の頻発で言えば、従来の一戸建て新築に際してご近所へのご挨拶程度・・精々騒音被害に対する意味くらいしかなかったでしょう)無理が出て来たのです。
社会の発展に連れていろんな分野で規制(細かなルールあるいはマニュアル化が)がドンドン必要になって行きこれが信用出来れば、多くの国民はこれに従って行動すれば足りるので便利ですし、事前規制が増えれば訴訟が減ることはあっても増えることはありません。
この結果何かする都度、規制をクリアーしているかの準備に多くのエネルギーがとられる・・迅速性が犠牲になりますが、準備しないで猪突猛進してから損害賠償訴訟に巻き込まれたり設備投資が無駄になるよりは、手堅くやる方がトータルとして経済性が高いと考えるのが先進諸国や簡単に倒産して夜逃げすることの出来ない大手企業の一致した思想です。
訴訟社会と言われるアメリカでも、金融その他先進分野では規制がもの凄く細かく複雑ですから、事前規制が多いのは日本特有のことではなく社会の進展度の差によることが明らかです。
この先端分野では、アメリカでも規制を守るか罰金等をとられるばかりで訴訟社会にはなっていないでしょう。
社会が高度化すれば約束事(上流社会ではTPOに応じて着るもの食事ルールその他礼儀作法がきめ細かくなるものです)が多くなるのはどこでも同じです。
今までアメリカは、遅れている粗野な分野が多過ぎて事前規制が少なかったので訴訟社会になっていたのです。
礼儀正しくしていれば滅多に喧嘩も起きません。

事前規制と事後審査3(ルール整備と訴訟の減少1)

現行法では、行政への国民の関与については以下条文を紹介しますが、いずれも既に行政が(不作為を含めて)決定した行為を後日争うものばかりです。
(裁判・訴訟制度はすべからくそう言うものです。)
前向き参画の制度がない・・法制度が遅れていることがこれでも分ります。
行政事件訴訟法(昭和三十七年五月十六日法律第百三十九号)
(抗告訴訟)
第三条  この法律において「抗告訴訟」とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟をいう。
(当事者訴訟)
第四条  この法律において「当事者訴訟」とは、当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟で法令の規定によりその法律関係の当事者の一方を被告とするもの及び公法上の法律関係に関する確認の訴えその他の公法上の法律関係に関する訴訟をいう。
(民衆訴訟)
第五条  この法律において「民衆訴訟」とは、国又は公共団体の機関の法規に適合しない行為の是正を求める訴訟で、選挙人たる資格その他自己の法律上の利益にかかわらない資格で提起するものをいう。
(機関訴訟)
第六条  この法律において「機関訴訟」とは、国又は公共団体の機関相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟をいう。

近年の規制緩和政策に関連して、今後は事前規制ではなく事後に不都合があれば裁判で争う方式にするというのが、新しい思潮であるかの如く宣伝されています。
しかし、何もかも規制をなくして事件が起きてから損害賠償を請求すれば良いというのでは、あまりにも粗雑な社会になって、現実的ではありません。
全て規制をなくすという主張ではないのは当然ですが、規制・・予めのルールが少なければ少ないほど良いという主張を煎じ詰めればの話です。
一定の合理的な細かな規制が前もって存在すればそれを基準にみんな行動すれば済むし、(建築基準や保健衛生基準等々)それに反しているかどうか・・あるいは規制自体の有効性等を争う方が裁判も省エネです。
逆に規制出来るものは出来るだけ微に入り細にわたって出来ている方が合理的です。
交通事故で言えば予めスピードや信号機、一時停止義務,追い越し禁止区間などを細かく規制していれば、どちらが規制に反していた否かの事実の当てはめで過失割合が簡単に決まってきますが、速度規制や一時停止等の規制が決まっていない状態で事故が起きたときに、どちらの過失が大きいか、一々手探りで審査して行く必要が起きて効率が悪くなります。
(信号機がなくて一時停止の標識がない交差点の事故の場合、どちらが優先道路かを決めるために双方の道路幅を測るなどその都度無駄な作業が必要ですが、信号機や一時停止標識があれば簡単に決着がつきます。)
建築紛争でも、素人が鉄筋の量や柱が少なくて危険だと争うには(どの程度なら危険なのかの基準が不明瞭で、その都度いろんな学者の意見・・鑑定等が必要になりますが、鉄骨の使用基準が基準法で決まっていれば、基準法に違反しているか否かだけで簡単に勝負がつきます
その他全ての紛争は予め細かく基準が決まっている方が訴訟社会になっても争点が簡単になります。
事前規制を出来るだけやめて事後規制社会にして行くというスローガンで始まった小泉改革は、本来は時代の進運に反した思想です。
粗雑なアメリカ由来の訴訟社会にするのが正しいというだけで、恰も進んだ考えであるかのように誤ってマスコミが宣伝して来たことになります。
訴訟社会とは、ルールがはっきりない・・作れない低レベル社会に必要になる社会システムであって、進んだ社会ではむしろ例外減少と言うべきです。
高レベル・・日本のように高度な合意のある社会では、基準がきめ細かく分っていればどちらがその基準どおりにやったか否かだけが争点になって専門家がそれほど多く要りません。
事前に細かく基準が決まっていれば、訴訟が少ない社会となります。
基準自体が大雑把でアヤフヤですとリーガルセンスに長けた達人が必要になって、事前の法律相談が必要ですし、裁判をやってみないと分らないので紛争が多くなります。
基準が整備されていても社会の変化によって規則や制度自体の合理性が失われているのに、基準の改定が遅れているときにその狭間で起きた事件だけが、基準の合理性を争って是正を求める裁判になります。
もしも、その訴訟の結果既存のルールが違法と決まれば、直ぐにルールを改めて行くので、それが一種の代表訴訟となって新たなルールになって行く社会になります。
一人一人がバラバラと裁判しなくとも基準自体を誰かが代表して争えば良いので、訴訟がホンの少しで済みます。
我が国では訴訟が少ないのは権利意識が遅れているからだと文化人が言いますが、実際には、むしろ微に要り細にわたって社会的に細かくルールが(明文がないとしても価値観が安定しているので暗黙の合意が成立する社会でした)決まっている社会だったから、これ(常識)に従っていれば良いし、これに反すればムラ社会から相手にされない社会だったからです。
企業内の人間関係あるいは企業間でも暗黙のルールがあって、それに従って交渉等をしているのが普通です。

末端行政組織の整備(区制1)

寄留者を管理するための明治初期頃の末端行政組織がどのようなものであったかですが、村役人制度は定住者の多い地方では機能していましたが、住所まで行かないで不安定な生活をしている人の多い都会地では彼らよそ者を担当する組織がどうなっていたかです。
3月6日に引用して紹介した説明では明治2年に東京だけの戸籍整備実施にあたって市中の旧名主制をやめて入札制(今の投票制?)で年寄り・50区制を採用したと書かれていましたが、これによるとその以前から名主制が存在していたことが分ります。
明治2年の戸籍整備は脱藩浪人等不安定居住者の把握を目的で始まったとすれば、名主から発展した年寄りらは、戸籍編成時に寄留者も同時に記録するようになって行ったことになります。
そうとすれば、定住まで行かない人の現況把握にはお寺や神社の協力を必要としていなかったことになります。
ところで、3月5日に紹介した神社にお札を貰いに行くように命じた明治4年の太政官布告322では「戸長」を通じて(戸長の証書を持って)お札を貰いに行くことになっています。
この布告自体で既に戸長の人民管理が神社へのお参りに先行していることが分ります。
戸長とは何かですが、これは法的には、明治5年の太政官布告17号で、従来の莊屋、名主の制度を改めて、戸長にした結果生まれた名称であることが、この太政官布告で分ります。
法令全書のコピーがネットで見られるのですが、写真しか載っていないのでコピー出来ないので、明治5年分の法令全書から莊屋等から戸長に名称変更された布告を手写しで載せておきます。
第117号(4月9日)
「1 莊屋名主年寄等都テ相癈止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱來リ候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事
 1 大莊屋ト称シ候類モ相癈止可申事
 1  以下省略

(漢文では「都テ」は「すべて」と読むことを09/15/09「都市から都会へ」のコラムで説明しております。)
上記のとおり、明治5年4月からそれまでの莊屋名主等はなくなって戸長副戸長制度が出来たのですから、明治4年には戸長の呼称がなかったかのように見えます。
莊屋名主等から戸長への名称変更の布告前の明治4年の布告の中に既に「戸長」が出てくるのは、その頃には戸長と言うものが(全国一律ではないまでもあちこちに)事実上出来ていたからでしょう。
すなわち明治4年の壬申戸籍布告の時に同時に従来の小さな村(10戸前後?)を7〜8ケ村集めて一つの区として、区ごとに戸籍編成をして行ったようですから、このときから同時に区制が行われていたことになります。
この区長を戸長と言うようになっていたのです。
区は地域の区割りのことですし、その長=区長を戸=居住の単位・・普通は建物を現す戸長と何故言ったのか今のところ私には不明です。
上記の通り従来のムラや町の集落とは別に、明治4年当時から区制が行われつつあり、莊屋名主に変わって戸長が既に一般化していたので、明治4年の太政官布告第322では戸長の証明書添付が義務づけられるようになったのかもしれません。
小さな自然発生的集落では、国家としての中央政権の施策を貫徹出来ないので、施策実行に適した人工的な区割り・区制を施行し始めていたのですが、太政官布告と言う統一的布告によらずに実施していた結果一般化していた戸長と言う呼称を明治5年4月に初めて上記太政官布告で明らかにし、国家規模の法的根拠を与えたに過ぎないと言えます。
但し、明治5年4月の布告では単に莊屋等を戸長と呼ぶと公認しただけでその前提たる区制と町村制の関係を明らかにしておらず、混乱が生じていたようです。
これは以下に書いて行くように元々、区制は、今で言うプロジェクトチームのようなもので当初は目的別にいろいろ区を作っていたようですから、まだカッチリした地方行政組織の構想が出来ていなかったので、戸長の名称だけ全国統一にしたものの地方行政組織制度まではまだ布告出来なかったことによるように思えます。
同じ年の明治5年の11月には旧来(江戸時代の)の郡町村制を廃止して大区小区制がしかれ、大区の長が戸長となり小区の長が副戸長になりましたが、地方によってはいろいろだったようです。
後に学区制も紹介しますが、小学校も従来のムラごとに作ったのでは経済的に維持出来ないし構成員も少なすぎるので、もっと広域化して・・500戸単位くらいで一つの学区を作ったようですから、この頃は近代化に追いついていない小規模な従来の単位をいろんな制度ごとに「区」と言うものを作って行った時代でした。
学区制を定めた学制(明治五年八月三日文部省布達第十三)は明治5年8月ですから、着々と「区」を基準にして政策を実現して行く思想を基礎にして実践が始まりつつあったのです。

宗門改めから戸籍整備4

徳川政権で認められていた仏教寺院の宗門人別改め権限(・・このときでも登録は名主層等村役人の仕事でした)を取り上げて、これを神社に移管した象徴として前回紹介した太政官布告が一般的に紹介されているようですが、実態は違うようです。
国民管理構想は壬申戸籍どころかその前の明治2年6月4四日民部官達をもって府県に対し示した、京都府編製の戸籍仕法書(長州藩の制度が採用されたとか言います)が頒布されて全国施行された庚午戸籍(明治3年3月施行)に始まるようですが、このときから既に名主等の旧組織利用による言わば行政府が独自に管理する方向で準備が進んでいたもので、江戸時代との違いはお寺抜きになっただけです。
戸籍制度の直後に布告された前回紹介の布告が宗教選別権をお寺から取り上げて神社に与えた布告であるとは一概に言えないでしょう。
全国版ではないので法令とは言えませんが、明治政府は天皇の行幸に間に合うように東京だけの戸籍管理を応急的に実施していますが、この段階で既にお寺経由ではなく、名主制に代えて年寄りの仕事になっていたこと(お寺や神社の関与がなくなったこと)が分ります。
この戸籍管理は、東京には脱藩浪人や失業武士が溢れていて治安に問題があったので、(治安維持名目に旧幕臣を中心に彰義隊が結成・鎮圧された経過を想起しても良いでしょう)彼ら旧幕臣ら失業武士の実態把握・・第一に治安確保目的に人別管理を行うために急遽実施していたのがその基礎にあります。
今でも地域の交番は、域内居住者の動静把握に熱心ですが、治安維持にとって先ずどこにどういう人が住んでいるかの情報把握こそが、基礎・第一歩です。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_nihon_k1.htmからの引用です。
「東京では明治2年〔1869年〕3月ころに「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」(以下これを二法という)が施行されていた。
 それは同月の天皇の東京行幸と遷都に関し、東京の都市下層窮民の救済と無禄無産の者の取締、総合すれば治安対策のために制定された。
 とりわけ「脱藩者」への取締が急務となっていた。彼らが生活に窮し暴動など起こされては遷都自体が無意味になるからである。
 同月10日に市中改正により旧名主が廃止され、彼らの入札により中年寄、添年寄が任命され、50区制が発足した。彼らの第一の仕事が帳籍編製だった。まず、「現在人別調」をこの時点ですでに「入別入」している者と「無人別」の者とに分け、別々の帳籍に登載して把握するというものであった。
 こうして把握された「脱藩者」などが全国各地の開墾事業に動員されたのである。
現在、静岡県では茶の栽培が有名であるが、これもそのときに行われた旧武士階級の救済のためのものである。」
とあります。
明治政府は元々脱藩者・・浪人・武士の失業者は存在自体が危険な存在としてどこに誰が住んでいるかの実態把握を急いでいたので、彼らが真言宗か浄土宗か(仮に切支丹であっても)にあまり関心がなく、先ずは誰がどこに住んでいるのかの実態把握を急いでいたのです。
その記録ついでに、宗派も分れば良い程度であって、お寺による宗教に関するチェック機能を事実上問題にしていなかったと見るべきでしょう。
宗門改めのお触れをMarch 4, 2011「牢人から浪人へ」のコラムで紹介しましたが、江戸時代初期以来刃物を持った武士の失業者は、切支丹同様に危険視されていたのです。
天草の乱も浪人が関与しなければあそこまで大きな事件にならなかったでしょうし、明治になってから起きた上野の山の彰義隊の戦い・各種不平士族の反乱は士族がいなければ事件にならなかったし、有名な秩父困民党事件も浪人・失業士族が絡んで騒ぎが先鋭化したものです。
現在のリビアの争乱も、デモ隊側に寝返った元兵士がデモ隊側に参加し、内乱の様相を呈してくると政府軍側も丸腰の民衆・デモ隊相手とは違い武装兵士相手なら思い切って銃火器の使用をしやすくなり、却って争乱が長引き・・一種の内乱状態に発展してこれまでアフリカ諸国で長引いた内乱に似た状態になりかねないリスクを抱えています。

戸籍制度整備3と連座制の廃止

 

親元から系統を辿って国民を把握して行く芋づる式方式は、February 16, 2011「戸籍制度整備2(芋づる式)」で書いたように早期に国民を把握するには適していましたが、実際に一緒に住んでいない人まで一つの戸籍に登録すること自体が観念的な取扱ですから、親元に記録する戸籍制度が出来たときから、観念的な家の制度に発展しやすい素地を持っていたことになります。
庚午戸籍あるいは壬申戸籍は、その前提として各戸の存在する場所での現状登録(戸籍作成時の居住地=本籍)を基本とし、そこから出て行って現に同居しなくなった元の未成熟の子(成人した人)までこれに併合して登録するようになったとしても、最初は直系血族だけだったので、今の核家族とほぼ同様で大したことがなかったと言えます。
しかし、この仕組みでは外に出た子の子(孫)まで登録して行き、その後、親(祖父母)が死亡して長男が次の戸主になっても、長男の甥姪(傍系)までその戸籍に記載されたままなってしまい、これを繰り返していくと一戸籍に傍系の傍系まで広がって膨大な数の人が登録されて行く事になります。
この結果転籍手続きが重たくなってしまい寄留簿の流用に繋がって行ったことを20日前後に書きました。
急激な社会変革・・維新進行による旧来の共同体意識解体に対する不満勢力・・醇風美俗を守れと言う反動思想を押さえ込むために、新たな家集団の編成を唱えれば便利だったことから、新戸籍制度による膨張体質が家の制度の説明に結びつき「家の制度」と言う大層な観念が生まれて来たように思われます。
明治政府は国を家に擬制した国「家」と表現し、ムラの内部の集落を字(あざ)と言って、あたかも人為的につくった行政組織である村を親に見立てて従来からあった集落をその子のようにしてしまい、(26日に少し書きましたが「字」の漢字の意味は家にいる子と言う意味ですが、これについては村と邑の違いを書く時に再論します)何もかも家の仕組みに擬制して行きます。
徴兵、徴税その他の目的で、国民に対する国家直接管理が進んで行った結果、郷里を出て行っても出身地の名簿(戸籍)から抹消できなくしたのが新たな戸籍制度ですが、その代わり刑事での連座制が廃止されました。
それまでは累が及ぶのを恐れて除籍していたのですから、除籍を禁止するには連座制を廃止するしかなかったでしょう。
忠臣蔵で仇討を決意した大石内蔵助が妻子に累が及ぶことを恐れて離縁状を書くシーンが有名ですが、明治の40年の刑法では個人責任主義に徹していて、家族の名簿に載っているだけで連座責任を負うことはなくなったのはこうした背景があります。
(たまたま、昨年12月14日赤穂浪士の討ち入りの日の午前に東京地裁の弁論があったので、その終了後に三宅坂の国立劇場に回って「仮名手本忠臣蔵」・・討ち入りを含む通し狂言(幸四郎と染五郎外一門出演)を見て来ましたが、この離縁のシーンはありませんでした・・元禄忠臣蔵で出てくる場面だったかな?)
ちなみに、私ごとですが最近結構な歳になって来たので、仕事ばかりではなく東京地裁の事件が午前中にある時には、直ぐに事務所に帰らずに弁論終了後(証人尋問ん問う長いときは別ですが・・・)に妻と日比谷の松本楼でゆっくり食事して、近くの日生劇場その他開演時間の合う劇場へ行って演劇等を楽しむことにしています。
話を連座制に戻しますと連座制の歴史が長かったので、今でも借金その他不祥事・刑事事件があると離婚した方が良いかの相談を受けることが結構あります。
(先に離婚届を出してしまってから相談に来る人もいます)
連帯保証さえしていなければ夫婦であることと夫の借金とは関係がないと説明するのですが、November 22, 2010「男の存在意義3」その他で「金の切れ目は縁の切れ目」のテーマで書いているように、妻の方はこの機会に離婚したい本音がある場合もあって実際は色々です。

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