寄留者の管理2(旅館業法1)

戸籍制度整備・・準備が進むに連れて、お寺の従来の権限をどうするかの議論が当然あったでしょうが、宗派の管理は明治政府にとって重要なことではなかったので、住所登録まで行かない現地所在場所の管理・・現況把握の必要性だけが議論になって行ったのでしょう。
現地登録制度がないままですとせっかく除籍(江戸時代の無宿者扱い)を禁止しても、親元で息子の居場所についていい加減な場所を申告しているかどうかの突き合わせが不可能になります。
寄留者の滅多にいない農村地帯は別として都会では、寄留者の比率が高かったでしょうから、これが現にどこにどのくらい住んでいるかの把握が行政上必須です。
前回書いたように代々の居住者よりは、移動性の高い人物の方が政府にとってはより把握の必要性が高かったからです。
現在でもホテル等に宿泊するには宿泊者名簿の記載が法律上要求されているのはこのためです。

旅館業法(昭和二十三年七月十二日法律第百三十八号)

第六条  営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2  宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。
第十二条  第六条第二項の規定に違反して同条第一項の事項を偽つて告げた者は、これを拘留又は科料に処する。

ホテルに泊まる時に、浮気がばれないように気楽に偽名で止まる人がいるかもしれませんが、上記のとおり、お上のご機嫌に触れるとこの法律を楯に言いがかりみたいな嫌疑でイキナリ身柄拘束されても文句言えません。
その議論の中で現地登録機関・・身分証明書発行程度の機能をどこに認めようかとなったと思われます。
明治初期には、行政組織による管理・把握に不安があったので、全国展開している組織であるお寺か神社に・・従来どおりお寺に任せるか、新たに神社に任せるかの議論は当然起きたと思われますが、3月5日に紹介した明治4年太政官布告322によれば、過去のいきさつがあって神社に軍配が上がったものと思われます。
徳川政権の人民管理の下請け的立場にあったお寺に対する反発と今後日本は神道で行くと決めた方向性もあり、さらにはお寺は葬式仏教化していて、お寺参りなどは先祖のあるところで行うに過ぎず、寄留地・出先にいる人がその近くのお寺には縁が薄いことから、現況把握に向かない点もあったでしょう。
どういう議論があった結果か分りませんが、結果として上記太政官布告によって神社が寄留者にお札を授けることになり、その受付簿を整備して行けば・戸籍地に同居していない寄留者管理用の名簿を現地で備えられる方向に発展可能だったことが推測出来ます。
これが寄留者登録機関として発展しないで、何故消滅してしまったかの関心でこの辺のコラムを書いています。

寄留者の管理1

 

江戸時代でも宗門人別の手続きの実際は、お寺で宗派の認証を受けてそれを村役人に届けて名主等の村役人が署名して村役人が管理する仕組みでしたが、明治になって、お寺の認証を経る前段階がなくなった点が江戸時代の人別帳と庚午戸籍以降の戸籍制度の関与機関の相違と言えます。
05/09/10「お寺の役割4(宗門人別帳1)」前後で書いたように、江戸時代の人別帳制度始まりの動機が切支丹選別にあって、同時に切支丹と結びついた時には戦力になる浪人の締め付けをすることにあったのに比べれば、明治では切支丹の選別よりは、旧幕臣を中心とした不穏分子の動態把握にあったのですから、宗派の認証は二の次でした。(旧幕臣が切支丹である可能性は低いでしょう)
この時期の脱藩浪人は、失業者と言うよりは、主家に迷惑をかけないように自ら脱藩して何とか薩長土肥政権に意趣返しをしたいと言う者が多かったこともあります。
徳川政権初期も失業武士は元豊臣方残党か幕府によって取りつぶされた大名家の元家臣が中心ですから、元々徳川政権に対する不満分子でしたし、明治初期の廃藩置県前の失業武士もその多くは旧幕臣や元会津藩士などいわゆる賊軍系・・薩長土肥政権からすれば旧敵方の残党とも目される武力グループでした。
徳川初期にはこの不満分子の武力・エネルギーが切支丹と結びついて大事件になったものですし、明治では、これが新政権のお膝元となるベき東京に住み着いていたのですから、なおリスキーでした。
ちょうどエネルギーが上野の山に溜まったところで、徳川政権の残党とも云うべき者達のエネルギーをまとめて叩きつぶして、(慶応4年=明治元年5月14日僅か1日の作戦で)不満分子を江戸から潰走させ、他方で彰義隊に参加しなかったものに対しては懐柔策として前回(3月7日)書いたように静岡茶の栽培その他の開拓に誘導して行ったので、(北海道開拓などは旧賊軍系元藩士が中心でした)旧賊軍系を中心にした不満分子に対する問題は解決を見ました。
この後は、不満分子の担い手は旧幕臣系から廃藩置県(明治4年7月14日)によって失業した新政権側の失業武士、不平士族に移って行くのです。
話を戸籍整備に戻しますと、慶応4年(9月に明治への改元です)5月の彰義隊攻撃でその余燼の冷めやらぬ翌明治2年3月には前回紹介した戸籍登録開始・・言わば残党狩り的調査とも言える現況調査を始めたのが明治2年の東京での戸籍整備開始でした。
ただし、戸籍制度は職権で調査して官が作って行くのではなく、戸主による家族構成員の自主的届出制度でしたので、どこまで行っても(いくら罰則で脅しても何百万戸に上る戸主みんなを処罰することも出来ないし)正確性を確保出来ず、明治19年式戸籍の2年ほど前から壬申戸籍は行き詰まってしまっていたようです。
3月6日に壬申戸籍布告前文を紹介しましたが、そこで色々(くどいくらいに)と政府が訴えているのは、如何にして国民が戸籍から漏れないようにするかの心配ばかりです。
之だけくどくどと書いているのは、治安維持のための人民の把握や戸籍届けの脱漏による徴兵や徴税機能が空洞化しないように把握漏れを恐れていたからでしょう。
太閤検地以来現在まで実測よりも2〜3割面積が多いのが農地では普通なのは、(耕地整理した土地は正確です)面積が課税の大きな基準になるからです。
ただし、お寺の認証が不要になっただけで、戸籍簿の記載内容には構成員の宗教から人相身体の特徴まで何でも書いていたことはFebruary 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のコラムで書いたとおりです、
後のいわゆる明治19年式戸籍(内務省令や書式等を総合をして言うようです)で漸く宗派を書く欄がなくなったようです。
宗門人別帳時代には実在しても除籍してしまうなど実態に反する記録が多かったのは連座責任を免れるためでしたが、明治政府の戸籍管理は治安維持・徴税目的でしたから、(そうではないとする反論も当然あります)明治3年の庚午戸籍では一村3名の戸籍改役を置き年4回、各家ごとに戸籍と突き合わせをして確認を義務づけるなど厳しい規制が行われています。
それでも事実に反した記載(偽籍)が多かったのか、
「明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」として、
1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」
以上は、ww.town.minobu.lg.jp/chosei/…/T12_C01_S03_1.htm -からの引用です。
最近ははやりませんが、30年ほど前までは表札に家族全員を書き出す形式のものが流行っていて、門柱や玄関付近の柱に貼ってあったことがありますが、この通達によって習慣化されたものでしょう。
いまでも各戸に、苗字だけの表札を掲げる習慣が残っていますが、考えてみると不思議な習慣ですが・・これからは次第になくなって行くように思われますが・・・はこのときから始まったものです。
明治19年(1886)内務省令第19号によって、正当な理由のない未届けを過料にする規定が設けられていますから、国民の抵抗はまだまだあったようです。

寄留者の管理と神社1

大正3年成立翌4年施行の寄留法(各種文献では施行日を基準にして紹介していますので、大正4年式と紹介されています・・壬申戸籍も同じで、前年の布告ですが、施行が翌年の壬申の年だったので、壬申戸籍と一般に言われます)では既に市町村長への届出になっているので、前回紹介した神社からお札を貰う仕組みとの関連がその後どうなったのか、少し気になるところです。
ちなみに歌の文句では「お札を納めに参ります・・・」と言うのですが、法的には、お札を納めるのではなく、守札を貰い所持する仕組みですから、(しかも6年に一回の検査ですから)一種の身分証明書の機能を期待したのでしょう。
江戸時代には領域を出るときだけ道中手形・・一種のパスポートが必要でしたので、移動自体に許可が要ったとも言えますが、明治になると守札さえ所持していれば移動が自由になったとも言えます。
封建制社会では農民の移動を極端に嫌い土地に縛り付ける事が重視されていたのに対し、明治政府の目指す商業社会化への幕開けの思想的基盤の闡明です。
その代わり明治ではどこか他所へ行く予定のない者(老幼を問わず)までこの所持を強制したと言えますがので移動の自由を縛る目的ではなく、移動の自由を認める代わりに国民一人一人の登録・・管理が重視されていた事になります。
お札不所持に対する効力を書いていないし、居住地内外を問わずお札の所持を強制するのは実情にも合わないので、これがいつの間にかうやむやになったような印象です。
江戸時代までの禁令は禁止するばかりで違反したときの効力が決まっていなかったことを、02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」のコラムで紹介しましたが、明治4年太政官布告はまだ西洋式の刑法の出来る前のことで江戸時代のお触れと同じ形式です。
ただし、いわゆる壬申戸籍も同じ年・明治4年4月の太政官布告第170号で、翌明治5(壬申・ミズノエサル)年2月1日から施行されたので壬申戸籍と言われているものですが、壬申戸籍管理は大蔵省租税寮管理(実務は地方吏員)で神社の管轄ではなかったので、上記神社に関する太政官布告(も同じ明治4年ですが7月4日に第322号で後から出来たことになります)と同時並行だったことになります。
それどころか7月の布告では「来申年正月晦日迄ヲ期トス」・・来たる申年正月晦日までに届け出が命じられ、他方で壬申戸籍の施行がその翌日の2月1日からですから、連携関係にあったことが明らかです。
行政下部組織(当時はまだ市町村制は構想段階程度だったでしょうが・・・庄や郷の村方)管理の戸籍制度と神社のお札(神社も記録して行くでしょう)との併存をどう理解すべきでしょうか?
壬申戸籍の布告を法令全書の手写しでしたものをFebruary 15, 2011「戸籍制度整備1」で紹介しましたが、ここで再度紹介しておきましょう。
前文によれば、管内社寺ヘ達しておくようになっていますが、これは人生の始終を詳らかにする・・・生死の行事は古来から社寺で執り行っていたからでしょうか?
但し、中には神社へ参りしない人もいたでしょうから、その脱漏を防ぐために神社へのお参りを強制したのが同年7月4日の太政官布告第322号だったかもしれません。
そうとすればお寺も神社もそれぞれの役割を期待されていた事になります。
(ただし、神社は生まれた子供が漏れないようにするので、政府に取っては重要ですが、寺は死亡者の届け出だけですから現世の政治には関係がなかった・・死亡者が戸籍に残ったからと言って政治的に重要性がなかった事になりますが・・・。)
とは言え、前回(3月5日)紹介の太政官布告第322号では戸長の証書を持って神社へいくのですから、その条文から云えば、先に戸長への届け出が義務づけられたことになります。
政府としてはその最末端の行政組織である戸長への届出さえあれば、それだけで国民把握は十分ですから、その後の神社の協力は不要だった筈ですから、何のために神社の協力が必要だったのか不明です。
この間の政治の動きを見れば、壬申戸籍の草案〜布告(4月)段階ではまだ社寺の協力必要との認識であったので、社寺へのお達しをし、そうすると神社側では「神社へお参りをしない人までは分りませんよ」となります。
神社側の要望で「法でお参りを強制してくれないと困る」となって王政復古のスローガンとの兼ね合いもあって7月の太政官布告になったのでしょう。
その追加的太政官布告322号が出来上がる間での間に、既に次年から全国的に制度化される「戸長」制度が一部動き出していたので、その布告の中にまだ制度化されていない「戸長」の認証を要する旨が書き込まれてしまったのではないでしょうか。(莊屋から戸長制度への変遷については、この後にざっと紹介します)
今の法制定実務からすれば、来年何月の戸長制度実施のときからは、戸長の認証がいるとしておけば良かった事です。
戸長制度が動き出すとそこで出生から死亡前の登録もみんな戸長の行う戸籍登録で間に合うのですから、神社へお参りをするように命じた太政官布告は、この時点で不要になった筈です。
言わば蛇足・・結局王政復古のスローガンに合わせたリップサービスの域を出なかったことになります。
前書きが長くなりましたが、、壬申戸籍発布の布告の大部分を紹介しておきます。
この冒頭に府藩縣とあるのは、廃藩置県がこの年7月14日ですから4月はまだいわゆる3治体制下でまだ藩が残っていたからです。
(原文は縦書き・旧字体が簡単に出ない漢字は現在の漢字になっていますが原文は全部旧字体です・文中◯は写真なのではっきりしないのですが、欠字のような印象で空白がある部分です)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所ヘ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

寄留地2(太政官布告)

寄留の話に戻します。
法の世界では、05/12/10「仏教の衰退5(廃仏毀釈4)」のコラムで既に紹介しましたが・・お寺の宗門人別帳から神社登録制度になったときの明治4年の太政官布告第二条但し書きに「寄留地」が既に現れています。
もう一度紹介しておきます。
以下の条文では生まれると先ず姓名住所を書いて届けますが、「現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ」ている時には寄留地最寄りの神社に(戸長に届けた上で)参ることとされています。
修行と言うと武者修行をイメージしますが、今で言う親元から離れて技術修行(・・結局は見習い・奉公人を含むでしょう)や勉学のために大都会に出ている程度の意味でしょうし、今の留学の語源はこの辺にあるのかもしれません。
この布告では、今後生まれると直ちに届けることとし、この布告の時に(まだ守札を所持していないものは老幼を問わず)住所地と寄留地の2通りの届け出があったことになります。
ここでは寄留の定義がありませんので、どの程度安定居住した場合、寄留になるのかは常識に従って届けると言う扱いだったのでしょうが、次に紹介する寄留法では90日以上の定住と決められています。

第322 太政官 明治4年7月4日
今般大小神社氏子場取調ノ儀左ノ通被定候事
 
 規則
 1 臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事
   但社参ノ節ハ戸長ノ證書ヲ持参スヘシ其證書ニハ生児ノ名出生ノ年月日父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ證シコレヲ神官ニ   示スヘシ
 1  即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及ヒ姓名住所出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸   長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ケテ渡スヘシ
   但現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神社ヨリ受ケ難キモノハ寄留地最寄ノ神社ヨリ本條ノ手   続ヲ以テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス
 1 他ノ管轄ニ移転スル時ハ其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ所持スヘシ
 1  死亡セシモノハ戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ
   但神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスへシ尤別ニ神   霊主ヲ作ルモ可為勝手事
 1 守札焼失叉ハ紛失セシモノアラハ其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違ナキヲ證シ改テ申受クヘシ
 1 自今六ケ年目毎戸籍改ノ節守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ
 1  守札ヲ受クルニヨリ其神社へ納ル初穂ハ其者ノ心ニ任セ多少ニ限ラサルへシ
右ノ通ニ候條取調相済候へハ早々可届出尤不審ノ廉有之候ヘハ神祇官へ可承合侯事

上記のとおり各地神社への寄留地登録・・氏子制度が発展して行き、(これと無関係に?)戦後住民登録制度の前身となる寄留法(大正3年・1914年法律27号)寄留手続令(大正3年勅令226号)および寄留手続細則(大正3年司法省令10号)に繋がって行くのです。
大正3年の寄留法(大正3年法律27号)同4年施行で寄留届け出義務があるのは、本籍地外で90日以上一定の場所に定住するときですから、90日も一定の場所にいれば一定の根が生えた・・寄留したと言うことでしょう。
今は住所を定めたときから届け出義務がありますが、当時は住所と言う観念的基準では分りにくいので90日以上定住すれば先ず機械的に寄留にあたると定義付け、届け出を義務づけたものと思われます。

寄留とは?

これまで戸籍制度・本籍との関連で寄留と言う用語を(特に説明なしに)何回も書いてきましたが、ここから寄留制度の始まりから、現在の住民基本台帳制度まで書いて行きます。
江戸時代から明治の初めにかけては、持ち家を持たないで出先で現にいる場所(安定した生活実体がない人)で登録する現在の住民登録制のような仕組みがなかったし、また就職先もないのに郷里から放出されたものにとっては、居住先も安定しなかったので郷里にいなくなった人を登録から消してしまうか、郷里に登録したまま維持するかの二者択一しかなかったと言えます。
江戸に流入した人のいる場所は、言わば仮の住まいであって、現行民法で言う住所(生活の本拠)と言う観念すらなかったように思われます。
住所観念については、09/21/02「住所とは? 1」以下のコラムで既に紹介していますし、最近ではFebruary 19, 2011「本籍2(寄留の対2)」以下のコラムでその法制度の歴史を紹介しましたが、いわゆる生活の本拠であって、仮住まいではありません。
江戸時代に田舎から江戸に出て来た人の多くは、どこかへの住み込み奉公が原則で住まいとして自前のものがなく安定したものではなかったのです。
ましてや安定した奉公先から解雇されてその日暮らしになった者にとっては、長屋住まいと言っても不安定そのものだったでしょう。
当時は通勤制度がなかったので、どこかに安定した職のある人は住み込みが原則で家賃を自分で払う長屋住まいではなかったので、言わば今の契約社員や日雇い人足みたいな不安定職業の人の住むところが長屋でした。
これは浮浪者に限らず地方から江戸詰めになって、江戸屋敷で長屋住まいをしていたレッキとした武士も同じ意識・・自分の本来の住所は国元にある意識だったはずです。
現在でも人の居場所(一定期間以上過ごす場所)には、民法上(明治29年成立)住所と居所の2種類がありますが、私の学生時代には下宿屋に寄留していると言う言葉がまだ使われていました。
 民法

 (住所)
 第二十二条  各人の生活の本拠をその者の住所とする。
 (居所)
 第二十三条  住所が知れない場合には、居所を住所とみなす。

民法の条文で言えば、当時の下宿屋への寄留とは「居所」に似たような意識でしょう。
住所がどこにあるのかを旧民法では届け出を基準に決める形式主義であったと理解されていることと、現行民法では客観主義になっていることなどをFebruary 23, 2011「戸籍と住所の分離3」に少し書きました。
届け出だけの形式で決めるのではないとしても主観(意識)だけで決めるのではない・主観客観総合して「生活の本拠」か否かを決めるものです。
意識はどうであれ、下宿屋や学生寮での生活はレッキとした住所であって「居所」ではないのですが、これは後に選挙権の行使場所について昭和20年代に大問題になって最高裁で決着がついていますので後に紹介します。
旧民法(明治23年成立)の条文をFebruary 24, 2011「戸籍と住所の分離4」のコラムで紹介しましたが、旧民法ですでに現行条文同様の住所概念が出ていますので、同時にこの対としての居所概念も出ていたように思われます。(居所の条文自体を入手していないのでここは推測です)
法・学問の世界では明治20年代頃からこのように住所とまで言えない程度の住まいの場合、寄留ではなく、居所と言うようになっていた筈ですが、日常用語としての普及は進まなかったようです。
現行民法施行後約100年以上も経過している現在でも、まだ居所などと言う表現をしている人は滅多にいないでしょう。
「寄留」と言う漢字の意味からすれば、胞子などが宿主となる樹木に寄り付いてそこで根をはやしているイメージですが、郷里を離れて江戸に出た人の住まいは浮浪者=胞子みたいなもので住まいとして安定性の欠けた状態と理解されていてこれを表現したものだったのでしょう。
それでも寄留と言うからには一晩や二晩宿に泊まるだけではなしに、ある程度根を下ろした状態を意味していた筈です。
ここ3〜40年前から下宿屋がなくなったせいか、寄留と言う言葉を使う人がなくなってしまったので「寄留地」は今になるとよく分らない言葉ですが、ヤフー辞典によれば
「文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉六・一〇「我日本は文明の生国に非ずして、其寄留地と云ふ可きのみ」
と既に使われているようですから、遅くとも江戸の終わりから明治始め頃には一般的用語だったようです。
寄留者とは浮浪していた人(胞子)が寄生する場所を得て、ある程度根を下ろして定住するようになった状態を意味していたように推定出来ます。

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