本籍2(寄留の対2)

 

壬申戸籍と言っても、壬申の年から内容が変更されなかったのではなく、前回書いたように書き方や書く事項や枠組みを後日造るなど少しづつ改正されて来たので、何時から本籍表示をするようになったのかは定かではありません。
元々本籍概念は、後に書くように寄留簿から発達したものと言えますので、戸籍制度が出来た当初からある筈がないのです。
仮に壬申戸籍の写しが手に入ってもそれが何時作成したものかによって書式が少しずつ違うものですし、しかも地域によって中央の通達通り出来るようになるのは10年単位の差があります。
後に昭和22年の新戸籍法による改正の期間を紹介しますが、大家族単位から核家族単位の戸籍に作り替えて行くのに昭和40年代初頭までかかっているのが現状です。
ですからある壬申戸籍の写しが入手出来たからと言って、どの地域で何時発行のものかによる誤差があるので、中央からの指令が何時あったかを特定するのは困難です。
現在の戸籍ですと昭和何年法第何号・あるいは政令何号による昭和何年何月何日新戸籍編成と書いてあるので、これは何年前の法に基づいて何時書き換えたのかが分ります。
細かい改正の経過を辿れば何時から「本籍」記載事項が追加されたのかが分るでしょうが、大きな法の改正ではなく今で言えば書式変更の通達みたいな下位の文書ですので、これを入手する・・・調査能力が私には今のところありません。
事務所の事件に関係あれば本格的に調べますが、繰り返し書いているように、このブログは余技ですので、そこまで専門的に調べる手間ヒマかけられません。
そこで以下は私の推論にかかることになります。
戸籍編成時に記載した本拠地=住所でも、その後移動する人も出てきますが、当初の戸籍作成後移動した時に戸籍記載場所の変更届出・・・戸籍変更は届け出で足りるとしても、引っ越しの都度変更届を出すのが面倒なので放置する人が出てきます。
こういう人のために同じ村内でも本籍地と違うところに住所を定めると、後の大正4年施行の寄留法では住所寄留と言う登録方法が出来ています。
(このとき創設したと言うことではなく、既に法がそこまで出来るような実態が進んでいたと言うことでしょう)
農家など田舎の場合、自宅を建て替えるときに、家を壊して同じところに建てるには建築中の住まいに困るので、すぐ近くの別の土地に新築する事が多かったのですが、この場合、大正3年成立施行4年の寄留法では本籍移動しない限り住所寄留として届けなければならなかったのです。
寄留と言う意味からすれば、仮住まいのことですから、安定した生活の本拠地を意味する住所に寄留を合体させた「住所寄留」の届出強制自体論理矛盾です。
明治31年施行の民法自体に住所とは生活の本拠を言うと記載されていたかどうかが分りませんが、今手元にある昭和8年版の民法条文によれば現行法同様に、21条に「各人ノ生活ノ本據ヲ以テ其住所トス」)とあって、少なくとも戦前から現行法と同じであったことが明らかです。
なお、2002年版六法の条文(4〜5年前の口語体への変更前です)も手元にある(自宅においてある)のですが、これをみると同じく21条で、文言もそっくりで違いがあるのは「本據」の據が当用漢字「拠」に変わっているだけです。
住所と言う基本概念が20年や30年でこまめに変わる必要がないので、明治29年の民法制定・・施行は31年当時から同じ定義があったと見るべきでしょう。
(上記壬申戸籍の記載条項の変遷をこまめに追跡出来ないのと同様に、この条文が明治31年施行当時から一度も変更されていないかまでは上記のとおりの推測の域を出ません。)
仮に変更がなかったとすれば、大正4年施行の寄留法の住所寄留と言う区分は、基本法たる民法の定義と矛盾することになりますが、民法制定後約20年も経過していますので既に家の制度・・本籍概念・重視が一人歩きし始めていて、このために無理を重ねたのではないでしょうか。

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