所得低下と在宅介護

 

正規非正規にかかわらず、今後の日本人労働者の所得水準はじりじりと中国韓国並みに下がって行くしかないので、(中国韓国の水準がじりじりと上がり日本人の賃金はじりじりと下がって均衡点を一時通り越すまで行くしかないとすれば、)現在の親世代並みの家を自分の働きだけで新たに手当て出来なくなる人が多くなる・・簡単に言えば日本人全体が今よりも貧しくなる筈です。
所得水準がどんどん下がって行くとした場合、親の家を相続しても、農耕社会の農地のように遺産自体で食べていく材料にはならないまでも、少なくとも都会地の親の遺産=親の家を手に入れられば住む家を確保出来る・・毎月の家賃や住宅ローン負担がなくなるメリットがあるので、その程度でもかなりのメリットがあるので再び親の遺産が気になる世代に戻るような気がします。
フロー所得が減ってくると、この面でも静的な遺産の比重が大きい社会にならざるを得なくなってきます。
次世代では都市住民2世3世が中心の時代ですから、生活圏が同じなので親の遺産・主として家をそのまま利用出来るメリットがあり、この意味でも都市内にある親世代の自宅の持つ意味が高くなっています。
アルバイター・フリーターの息子や娘が簡単に家を出て行かない・・いつまでも同居を続ける時代とは、取りも直さず家賃負担のないメリット・・親の財産=遺産が重視されている世代になって来たと言うことです。
高度成長期真っただ中で育った時代には何が何でも、一日も早く親から独立することに本能的欲望のある時代でしたが、それは経済的に可能な時代でもあったからです。
グローバル化によって次世代所得が減少する一方になってくると、(中国等と所得水準が同等になるまで下がるしかないでしょう)親世代以上に稼げる見込みの人は少なくなり、いつまでも寄生している次世代の比率が上がって来るのは仕方がないことです。
親も自宅を処分するには寄生・同居している子供を追い出さねばならないとなれば、自宅処分して有料老人ホームに入居するのをためらうでしょうから、その方面からも高齢者介護は再び家庭内介護に逆戻りするしかないかも知れません。
超高齢者の生死不明のまま年金受給が問題になっていましたが、同居して老親の年金を当てにしている世代がいることも確かです。
勿論ここで書いているのは全体のトレンドを書いているだけで,今でも何千万円の入居一時金を払って有料老人ホームに入っている人はある程度の富裕層・・自宅を処分しなくとも余裕資金で入れる程度の富裕層が中心で、自宅を売り払ってまで入居する人はまだ少数派でしょう。
都会で数十坪程度の土地に木造家屋を建てて住んでいる一般の場合、そこに同居している普通の勤め人では、やはり親の遺産は魅力的に映ることが多いのでしょう。
最近、博物館や美術館・公園・名所旧跡などで、車いすに乗った80代前後の高齢者を5〜60代前後の息子夫婦らしい人が、こまめに世話をしている姿を見かけます。

グローバル化と在宅介護

有料老人ホームでも病気をすれば病院へ入院させられるのですから、自宅にいる場合との違いは見回りをマメにしてくれる安心感と入院すべき病気かちょっとした体調不良かその判断や応援の程度の違いでしかありません。
介護の専門家が見てくれるので素人の家族よりは手際がいいのと病気の兆候に関しても経験を積んでいるので察知能力が高く便利な面がありますが、訪問治療の発達や在宅介護あるいは、独居老人の見守りその他の総合在宅支援が徐々に充実整備されて行くと、有料老人ホームの個室にいるのと同じ程度のサービスが自宅にいたままで保障されるようになります。
見回りも1日一回ではなく高齢者の不自由度に応じて多数回の見回りをするなど、自宅介護関連サービスの充実が進むと有料老人ホームに入るメリットが減少しますから、現在の高額入居一時金の必要な有料老人ホームはこれらが充実される間の暫定的システムと言えます。
個人の住宅で自分でトイレにも一人で行けないような人が独居している(あるいはほぼ毎日顔を出せる子供等が近くにいない)場合、訪問介護は万全でも金銭管理や自宅の修繕等セキュリテイに心配が生じます。
その点では、資産家にとっては家の修繕など気にしなくて良いし、セキュリテイがしっかりし、しかも車椅子での移動がしやすい・介助付きで入り易い風呂トイレなどの設備が充実した高齢者向けマンション・有料老人ホームが流行るかもしれません。
こういう点・資産管理が気になるとすれば、今後はこうした分野の管理がしっかりしている有料老人ホームだけではなく、(賃貸を含めた)高齢者専用マンション・老人向け各種サービス付きの中間系のマンション・アパートが発達し主流になって行くべきでしょう。
現在の後見制度は、後見人になる人の人格を審査して個人・自然人が後見管理する仕組みですが、今後は個人の人格を基準にせずに一定基準に合致した(保証金を供託する等して)法人(老人ホーム等)が客観的組織・多数人でのチームとして高齢者の資産管理をして行く方が合理的な気がします。
そうして、これに対する監査制度ともしもの場合の賠償保障制度(業界で保険加入等)を充実して行けばいいのです。
ところで、我々の次の世代以降(30代半ば以降)では、グローバル経済化の進展で将来的には中国や韓国と賃金格差が縮小して行くしかないのですが、正規社員の賃下げをしにくい社会構造ですから、この過渡期には正規社員を極限まで縮小し・新規採用を絞っていくしかないので、結果的に失業者・・ひいては被正規従業員が増えざるを得ません。

介護の社会化2

親族関係の希薄化とは別に、今でも長期的人間関係が重視され、最先端の自動車生産その他取引でも長期的取引関係・・いわゆる系列が重視されているのはよく知られている通りです。
親族身内の紐帯が緩んでなくなりつつある分・他人間の緩やかな連帯・・高齢者のグループホーム等が求められる時代に入っているのかも知れません。
労働環境でも終身雇用が重視され、若者は果たしている仕事の割に薄給でも将来その見返りに高齢化した時に自分の労働以上に給与をもらえることを楽しみにしているのです。
農耕社会・・世襲制社会の終わったこれからは、高齢者問題を親族間の義理や親孝行の道徳や長幼の序による尊敬に頼るのは無理ですから、高齢者介護は子育て同様の(従来の報恩だけではなく)弱者保護の分野と割り切り、一方で担当するものはビジネスとして(社会全体からコスト負担してもらい)淡々とこなして行くべき社会になるべきではないでしょうか。
介護の社会化について何回も書いていますがこれをテーマとしたのは、03/19/02「介護の社会化について」以来のようですので、これがその2となります。
病院の看護婦さんが患者を尊敬しているから患者に優しく手際がいいのではなく、看護婦さんや介護士の職業訓練・職業意識がそうさせているのです。
どうせなら看護士や介護士の性質は思いやり・共感力が豊かな方がいいに決まっていますが、看護や介護に必要な基礎的能力は職業教育・訓練によるものであって、子が親を尊敬し面倒を見るべきと言う道徳教育に基づいて義務感でやっているよりは合理的です。
青壮年期に社会のために働いてくれた恩返しを社会全体ですることが必要とする道徳を守るのは必要ですが、それと過去の親を敬えと言う封建道徳とは別物です。
最近は親も子を当てに出来ないし子も親を見切れないと言う意見・傾向の一致によって有料老人ホームに逃げる動きがあるとしても、これはここ数十年単位の動きに過ぎず今後数十年もすると、入居一時金の高額な有料老人ホーム形式は縮小に向かう可能性があります。
有料老人ホームの「売り」セールスポイントは、イザとなったときに面倒見てくれる・・ことに帰するのですから、逆から見れば結局は在宅介護のサービス制度が十分でないことを前提とするものです。
老化に伴う生活能力縮小は避けられないものですが、仮に80%に下がったら世話になるか70〜60%に下がったら世話になるかと言う数値的基準で見れば、訪問介護関連が発達すればまだまだその数値がもっと下がっても工夫によっては、わずか1割でも自分で出来る限り在宅のままで自活能力を維持出来る筈です。

長期的関係(系列・終身雇用)

対価関係と言っても法的な権利義務のある対価関係ではなく道徳にとどまるので、忘恩の徒とののしられても法的に何らかの義務を負うことはありません。
道徳的非難にとどまると言うことは、この非難を受けると「あの人のためには無償の援助をしても意味がない」と言う仲間はずれにされる恐れが生じるだけです。
葬儀に駆けつけることが今でも最重要視されている・・どんな仕事でもキャンセルが許される理由になっているのは、遠い過去に受けた恩を無償で返す(死んだ人にもう一回世話になることはあり得ませんから・・)意味が最も強調される効果的な場面であるからでしょう。 
こういうことに義理堅いことを周囲に印象づけることで、(この人は恩に感じる人なのだ・・・)と周囲も安心して何かと面倒を見てくれる期待に繋がります。 
閉鎖された社会では、忘恩の徒と言われるとその社会全体から困った時に誰も助けてくれないリスクが生じるのですが、流動性の高い社会では、そんなことを気にしなくて良いのでドライな関係・・即時的あるいは(住宅ローンのように)長期でもともかく法的責任のある対価関係が重視されて行きます。
以前ある鉄道会社にいくら恩をかけたことがあっても、電車に乗る時には切符を買わねば乗れませんし、その他の業界でも同じです。
羽振りの良い時に年間何千万円もデパートで買っていた上客でも、商売に行き詰まりお金がなくなれば洋服一枚買えません。
その逆にお金に困ればサラ金があるし、生活保護も医療行為も用意されている時代では、何かの時に困るから・・・と言うファジーな付き合いが減少します。
昭和の大恐慌の時に実家がほとんど役に立たなかったことで、大方の信頼を失い敗戦時の大混乱でも同じでした。
それでも親戚付き合いの郷愁が残っていたのですが、カード・貨幣経済化の進展で、そもそも親しい人がいくらいても、いざとなれば大して役立たないことも分って来たのです。
それどころか、私が弁護士になった頃には、息子や甥・従業員の刑事事件で親や叔父あるいは経営者が頼みに来たものですが、今では交通事故等経営者が面倒見るところか逆に経営者にに知られるとクビになると言う時代ですし、親戚にも自分のマイナスを知られたくない・・困ればサラ金に借りた方がましと言う時代です。
弁護士依頼も親や親戚に頼むよりは、お金がないと言って扶助で安く上げる方向へとなって行きます。
今では夫婦でさえ、自分の借金は相方に内緒で・・・夫に言わずに破産する人もいます。
(と言うことは、夫は妻の借金整理について一銭も負担しないのです)
我が国では昭和大恐慌以降じりじりと親戚関係維持の効能は低下し続け、今では法事等での顔合わせが中心で何のための親族共同体が維持されているのか意味不明・・・ひん死の状態で・・これが結婚率の低下にも繋がっていると思われます。

高齢者と社会(ご恩と奉公)

ほとんどの都市労働者にとってはマイホーム獲得のために一生働いているようなものですから、都市住民2世にとっては高騰した都内の宅地を相続出来るのは大きなメリットなりますが、高度成長期に地方から都会に移住した親が地方に残っている都市住民1世組(これが昭和時代の都市住民の多数派です)にとっては、過疎化した田舎の農地や宅地の相続権は貨幣的メリットが少なく、この意味でも相続財産の価値比重が低下した時代でした。
こうなると、親世代が「今の子供は当てにならない」と言い出す以前に、地方に親世代がいる我々世代から言えば「今の親の遺産は当てにならなくなった」と言う現実が先に生じていたことになります。
04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」その他で書いてきましたが、親孝行・・儒教道徳は、農地(永続的収入保障)を世襲する農耕社会でこそ存在基礎があったに過ぎず、農耕社会が終わると崩壊して行くべきものかもしれません。
遺産を継げるかどうか遺産の価値大小に関係なく「子が親を敬い年老いては面倒を見るのは人倫の道ではないか」と言うかも知れませんが、子は幼い時には自分を養い守ってくれる外に何事も模倣の対象となる・・指導者としての親を敬うのは当然としても、老いさらばえて何の指導も受けることがなくなった要介護の親を尊敬するのは実態に反しているので無理です。
尊敬とは自分より優れたものに対して尊び敬う気持ちですから、年老いて自分よりも、殆どの分野で劣ってしまった親(要介護状態になった親)を尊敬するのは真実に反している・・尊敬と言う意味に反してお世辞の域を出ません。
ライオンその他人間以外の動物が年老いた親やリーダーが追い出されるのを見捨てるのは、これが本来の姿であるからです。
人間の場合高等動物だから長幼の序があるのではなく、世襲しないと生きて行けないから、遺産相続を誰にさせるかの権限を握る親の権力が最後まで強かっただけです。
年老いた親に対する気持ちで大切なのは、実態に反する尊敬ではなく感謝・親愛の気持ちでしょう。
人類以外にどんな生物でも生活出来なくなった親または親株(植物の場合)を大事にする動植物はないのですから、高齢者を大事にするのは生き物の本能による道ではないことが明らかです。
そうはいっても「自活能力がなくなったものは野垂れ死にするべきだ」として川原に打ち捨てる野生動物のような社会にする訳に行かないのも社会的現実です。
恩を受けた分を返すのが、社会的動物のあるべき姿だからです。
安定した社会では、即時的ないし短期的な対価ばかりではなく超長期的対価関係・・しかもこれが法的義務まで高められない社会的信用だけで担保されている関係が重視されます。
・・これを私は恩の施しと報恩の関係と考えていますが・・・。
報恩とは何かと言えば、即時的な対価関係に対して、長期的な時間差のある道徳的対価関係と言えるかも知れません。

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