高齢者と社会(ご恩と奉公)

ほとんどの都市労働者にとってはマイホーム獲得のために一生働いているようなものですから、都市住民2世にとっては高騰した都内の宅地を相続出来るのは大きなメリットなりますが、高度成長期に地方から都会に移住した親が地方に残っている都市住民1世組(これが昭和時代の都市住民の多数派です)にとっては、過疎化した田舎の農地や宅地の相続権は貨幣的メリットが少なく、この意味でも相続財産の価値比重が低下した時代でした。
こうなると、親世代が「今の子供は当てにならない」と言い出す以前に、地方に親世代がいる我々世代から言えば「今の親の遺産は当てにならなくなった」と言う現実が先に生じていたことになります。
04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」その他で書いてきましたが、親孝行・・儒教道徳は、農地(永続的収入保障)を世襲する農耕社会でこそ存在基礎があったに過ぎず、農耕社会が終わると崩壊して行くべきものかもしれません。
遺産を継げるかどうか遺産の価値大小に関係なく「子が親を敬い年老いては面倒を見るのは人倫の道ではないか」と言うかも知れませんが、子は幼い時には自分を養い守ってくれる外に何事も模倣の対象となる・・指導者としての親を敬うのは当然としても、老いさらばえて何の指導も受けることがなくなった要介護の親を尊敬するのは実態に反しているので無理です。
尊敬とは自分より優れたものに対して尊び敬う気持ちですから、年老いて自分よりも、殆どの分野で劣ってしまった親(要介護状態になった親)を尊敬するのは真実に反している・・尊敬と言う意味に反してお世辞の域を出ません。
ライオンその他人間以外の動物が年老いた親やリーダーが追い出されるのを見捨てるのは、これが本来の姿であるからです。
人間の場合高等動物だから長幼の序があるのではなく、世襲しないと生きて行けないから、遺産相続を誰にさせるかの権限を握る親の権力が最後まで強かっただけです。
年老いた親に対する気持ちで大切なのは、実態に反する尊敬ではなく感謝・親愛の気持ちでしょう。
人類以外にどんな生物でも生活出来なくなった親または親株(植物の場合)を大事にする動植物はないのですから、高齢者を大事にするのは生き物の本能による道ではないことが明らかです。
そうはいっても「自活能力がなくなったものは野垂れ死にするべきだ」として川原に打ち捨てる野生動物のような社会にする訳に行かないのも社会的現実です。
恩を受けた分を返すのが、社会的動物のあるべき姿だからです。
安定した社会では、即時的ないし短期的な対価ばかりではなく超長期的対価関係・・しかもこれが法的義務まで高められない社会的信用だけで担保されている関係が重視されます。
・・これを私は恩の施しと報恩の関係と考えていますが・・・。
報恩とは何かと言えば、即時的な対価関係に対して、長期的な時間差のある道徳的対価関係と言えるかも知れません。

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