国際収支4(赤字を何年続けられるか)

以上書いて来たとおり、政府の財政赤字がいくら累積しようとも国内資金で賄っている限り・・国際収支のバランスが取れている限り問題がないのですが、(国際収支の赤字と政府部門財政赤字とはまるで関係のないことです)一定期間国際収支が赤字でも良いのではないかと思っています。
高齢者は過去に十分働いて蓄積して来たのだから、過去の蓄積の取り崩し(フロー収支では赤字生活)をしながら今の収入以上の生活をする権利があると思っていますが、これを日本全体に及ぼしても(個人的には蓄積のない人もいるでしょうから、それは所得再分配によって)多分ある程度許されると思われます。
これを国全体で見れば、増税であれ国債発行によるものであれ、その年の経常収支トントンまで使うのは現在のフロー収入範囲内の生活をしていることになり、これを越えて支出をして行くとなれば過去の蓄積の食いつぶしの始まりとなります。
ちなみにGDPの範囲内の支出という基準では、植木の手入れ、介護などいろんな働きがカウントされますが、これは繰り返し書いているように対外収入を生み出す働きではなく個人で言えば家庭内労働をお互いに外注して収入にカウントしているのと同じですから、意味がありません。
植木を年に1回手入れしてもらうよりは年2回の方が生活レベルが上がりますし、美容院も2ヶ月に1回よりも1ヶ月に1回の方が気持ちがいいし、デイサービスでの入浴も毎日の方が良いなどサービス業の付加価値が増えます。
サービス内容が良くなって国内総生産が増えても、対外的に収入(貿易収支面では逆に赤字要因になるでしょう)が増える訳ではありません。
もともと国債残高の累積に対する国民の心配・議論が国際収支赤字累積・・対外純債務国になってしまうのではないかの心配から始まっている以上は、国と民間・個人支出の総和がその年の収入を越えているかどうかについては、サービスの付加価値もプラスして行く国内総生産よりは貿易収支トントンを基準にするしかありません。
貿易赤字になれば、結果的にその年の稼ぎ・収入以上に支出(生活)したことになります。
現役労働者だけを基準にすれば貿易収支を基準にすべきでしょうが、高齢者の場合過去の蓄積による年金や利子配当収入範囲内の生活も健全収支の基準でしょうから、利子配当収入・貿易サービス収支も含めた経常収支の収支トントンが健全財政の基準になるべきです。
国際収支赤字額が対外純債権額=蓄積の何%かによって持続性が計れることになりますが、日本の対外蓄積の総和は対外純債権額になるでしょうから、年に対外純債権の100分の1程度ずつ食いつぶして行くならば、100年持ちますが10分の1ならば10年で干上がります。
ただ、貿易収支トントンを基準にすればそのときの本当の働きですが、経常収支は過去の蓄積の収益(利子配当所得や資本の売却)を含めたものですから、実は経常収支トントンまで使い切るときには、そのトキから先輩(現役高齢者だけではなく死亡した先輩も含めた)の過去の働きに頼り始めていることになるので不健全経済の始まりです。
将来国際収支赤字で大変なことになると警鐘を鳴らすならば、漠然と不安感を煽るだけではなく、国民の総意によって所得の再分配をするにしても、どの水準までの底上げを図れば国全体でどれだけの資金=予算規模が要り、その結果国際収支がどうなるかの見通しを示すことが先決です。
増税によるのであれ国債によるのであれ、どの程度の生活水準にすれば貿易収支トントンになり、どの程度であればそれ以内(黒字)か、以上(赤字)かを明らかにする研究調査こそが求められます。
例えば1割支出が多すぎるとすれば、インフラで言えば舗装道路延長・公民館その他全体に一割規模縮小・サービス分野で言えばどのサービスの回数を減らすなどすればどうなるなどの試算の提供が求められます。
国に必要な費用を税で取ろうと国債で取ろうと国際収支の結果は同じことですから、所得再分配のレベル・・国民が今年あるいは近い将来収入の範囲内で生活する場合あるいは、どのくらいまで収入以上の生活をさせるように所得再分配することが可能・・妥当かのデータ提供こそが経済学者・エコノミストの使命でしょう。
国民が収入の範囲内で生活するならば、そのためにどれだけ国債を発行しても対外的には何の困ったことも起きません。
どの程度の社会保障経費を使うとどの程度の国際収支の赤字見通しになり、純債務国に転落するまで何年くらい続けられるのかを説明して欲しいと思っています。
「この程度の生活ならば対外純債権残高の数%の赤字で済み、対外債権がなくなるまで30年以上もあります」と言うならば国民は安心です。
4月6日に紹介した日経朝刊の経済教室では、図表を示してこの先僅かな期間(5〜6年だったかな?)で所得収支黒字分を貿易赤字が食いつぶして行く見通しが紹介されています。
その論文が主張すべき結論は、現状の生活水準維持では今後何年で経常収支赤字に転落するから、「生活レベルをどの程度落とす方向へ調整すべきだ」ということであれば一貫していました。
ところが、上記論文では、国際収支の赤字転落見通しを紙面のほぼ全体で論じながら、これを避けるために一日も早く国債に頼らず増税すべきだという結論ですから、不思議な論理です。
ちなみに貿易黒字の間にインフラ整備・・例えば公民館は博物館や道路を作っておけばどうなるか・・設備は作ればその補修費や更新コストがかるので黒字の(お金のある)間に作っておけば後世の人が助かるものではありません。
仮に経済規模が10年後には今の1割縮小にするしかないとすれば、今から10分の9に縮小しても無駄がない前提で公的設備・市街規模などを計画して行く必要があります。

日銀の国債引き受けとインフレ4

高金利国は資金があって(仕入れたり作ったりして)供給さえ出来れば儲かる社会・・資金・供給不足社会です。
日本も高度成長時代には作りさえすれば売れる時代でしたから、借金さえ出来れば儲かるので如何に銀行から借りられるようになるかの(銀行が大きな顔をしている)競争時代でした。
高金利国は、高金利でもそれ以上に儲かる元気な社会だとも言えますが、供給面で見れば供給不足・・その時代の平均的水準に必要な物品・サービスが行き渡っていない渇望感・ハングリー精神の強い社会であり、資金需要面で言えば資金不足社会です。
日銀が印刷能力の限度まで紙幣を印刷して国債を引き受けてその分の紙幣が市中に出回るとどうなるかですが、日本の場合既にハングリー時代が終わっているので、銀行が低利で貸してやると言っても必要以上に借りたい企業もないし国民も今までの倍の牛乳を飲みたい訳でもないことから、使い切れない国民は預貯金するしかないし、銀行も借り手がない分は国債を買うしかないので、次に発行する国債に紙幣が(吸い上げられて)還流して行きます。
ここ10〜20年にわたる国債増発は、行き場のない資金の受け皿だったし、紙幣が市場にあふれかえってインフレにならなかった所以です。
国債で引き受けてやらないと銀行は集まった預金の金利を払うばかりで貸出先がないので倒産してしまうのでその救済策でした。
(売る当てもないのに商品を仕入れている商店のようなもので・仕入れても仕方がない・・儲けが期待出来ないので0、00何%の低金利にしているのです)
この辺の意見は、04/27/03「銀行とは?4(農協的問屋機能の衰退、1)」以下で銀行の役割縮小を書き始め、国債引き受けは銀行に何のリスクもなく、帳簿の付け替えだけで巨額の利ざやを稼げる仕組みであることを09/13/08「金融機関の存在価値3(金融機関引き受けのからくり2)」〜09/14/08「国債の無制限引き受けと紙幣発行権2」で銀行に対する巨額の利益・倒産防止の下支えをしている仕組みを紹介しました。
BIS基準がこのころから厳しくなり、その引き換えに国債は自己資本比率に組み込めること・・ノーリスク勘定になったことも、投融資先がなくなっていた先進国での国債引き受け促進の応援政策だったことになります。
BIS構成の有力国・・先進国ではどこでも銀行機能の縮小・・優良融資先の縮小が始まっていたことがココから読み取れます。
この基準強化の結果今回のギリシャ危機でも分るように、世界の金融機関の殆どが国債を大量に保有していたことが分ります。
ある年に30兆円分の国債を日銀が引き受けて30兆円分の紙幣流通が増えても、その紙幣の使い道のない余った分は預金→銀行も借り手がないので次の国債引き受けに繋がるので日銀による際限ない国債引き受けの増加にはなりません。
実際に国会議決による国債引き受け枠は小泉内閣時代からあるらしいですが、1〜2回使った程度でその後は予算総則に書いてるだけで議論しないで毎年同じ数字のまま(5年も6年も同じ数字が出ているところには政治家は気がつかないと言うか議論の対象になり難いからです・・)国会を通過しているのは、実際には枠を使わないままだから、政治のテーマにならないのでしょう。
実際に日銀が引き受けたのが30兆円枠の内いくらだったか知りませんが、ともかく引き受けた分だけの紙幣が増えた筈ですが、我が国でインフレにならなかったどころかまだデフレで困っていることからすれば、日銀引き受け枠の増額に関しては当面まだまだ余裕があることが分ります。
この間に国債購入に向かった外に余った紙幣はいわゆる円キャリー取引で海外流出していたことについては、円キャリー取引のコラムで紹介したとおりです。
紙幣発行が需要以上に多くても、最強通貨・・即ち世界最低金利の円は引く手あまたなので当面海外へ流出して行くだけでしょう。
資金不足国への円の供給はその国では生活必需品購入資金になり、ひいては世界中が平等に文明の恩恵を受けられることですから目出たいことです。
人道主義者が「人類皆平等」などの理念を何回唱えても平等にはなりません。
資金が必要なところに借金であれ所得であれ、先ず資金があまねく行き渡るようにすることが生活水準や教育チャンス平等化の進展・人権意識の定着に資するのが明らかです。
日本がゼロ金利で巨額資金を世界に垂れ流すことにより、(国内で使うのは預金や国債を買い増すくらいですから)世界中の資金不足国が潤い、そこでの需要が広がって生活水準が向上します。
アメリカは世界中から借金で物やサ−ビスを買い、対価として資金を垂れ流し、日本は物やサービスを余り買わずに貿易黒字によって世界中から資金を集める代わりに低金利で世界に貸し出している構図です。
日本のように自分が我慢してお金を貸し出すのは国民性に合っているかも知れませんが、どうせお金を出すならば、アメリカのように自分がウマいものを食べて対価としてお金を出した方が得な感じです。
アメリカを通じて世界に資金を供給する仕組みとしては、アメリカに脅されて湾岸戦争のときに90億ドル=1兆1700億円を半強制的に取られてしまったことがありますが、アメリカ国債を買っていたとしてもこれを取り崩せないのですから経済的には同じことでした。
日本は円の値上がり阻止のために(貿易黒字ないし経常収支黒字分と同額)ドル買い介入して、買ったドルでアメリカ国債を買ってるのですから、保有しているアメリカ国債(ドル建て)を売ったらドルが値下がりしてしまうので売るに売れません。
と言う訳で、日本も中国もアメリカ国債は事実上無価値(宝の持ち腐れ状態)になっているのですから、外貨準備と言っても取られてしまったのと殆ど変わりません。
無理にまとめて売ればドルの大幅値下がりによって、ドル外貨準備の評価が何割も下がってしまい大損です。
債権債務関係では債権者の方がニッチモサッチも行かない・・フリーハンドを持っているのは債務国の方であると書いて来た所以です。

税の歴史4(楽市楽座)

楽市楽座制の宣伝は現在で言えば租税回避地であるタックスヘイブンの先がけあるいはシンガポールのような法人税低減化で企業誘致の競争を始めたようなものです。
こういう競争が一旦始まれば、対抗上諸国は際限なく法人税を下げて行くしかなくなるので、(アメリカでもオバマ政権は大幅な法人税の引き下げを宣言しています)将来的には法人税がなくなってしまうのでしょうか?
楽市楽座制の普及の結果、政権は町衆からの合理的な徴税方法がなくなったまま、明治まで来たことになります。
ただし信長は、堺の町衆から矢銭を徴収しています。
(この時点ではまだ軍資金目的税で一般経費向けではありません。)
こんな程度で膨大な戦費を賄えたのは、織田、豊臣から徳川初期までは、金銀の豊富な採掘があって、(当時世界採掘量の何割という量であったことを November 9, 2011「鉱物資源で生活する社会3(ナウル共和国)」のコラムで書いたことがあります)政府資金は間に合っていたので無税でも、政権が成り立っていたからです。
今の湾岸諸国や、ブルネイが豊富な石油収入(・・採掘権の直轄収入)の御陰で、税を取るどころか国民にお金を配れるような状態になっているのと同じで、織田・豊臣政権時代には、政権維持費用を主として豊富な金産出に頼っていたことになります。
戦国時代の強国ないし勝ち残りは、おおむね金銀の取れた地域または商業利権の大きかった大名でした。
ちなみに信長〜秀吉は商業利権で伸びた大名ですから、商業に関心をおいていました。
上杉謙信も、越後ですので佐渡の金山を連想しますが、当時は越後の布・青苧などが主要商品で、この経済力で戦費を賄っていたので彼の二度にわたる上洛もそのルート維持に精出していた面があると言えるようです。
ちなみに、佐渡金山は、1601年(慶長6年)鶴子銀山の山師3人によって発見されたとされるもので徳川政権になってからのことですから、謙信の頃には関係がありませんでした。
農業系は鉱物資源に頼ることになるので、武田家の衰亡は領内の金採掘量の減少と比例しています。
徳川は農民系ですから政権を取ると生野銀山や佐渡金山など直轄支配していました。
またオランダ・中国貿易など独占していましたが、これは権力者が握るものと言う過去の歴史経験によるだけで、これを幕府財政の大きな資金にするつもりはなかったでしょう・・。
金銀の採掘量が減って来て徳川政権も経済的に参ってきますが、信長以来の楽市楽座制のままで・・日本国民は商売と言うものは自由に出来るものと思い込んでしまって・・既得権になっているので、商業活動に対する徴税方法がうまく機能しないままでした。
この辺は商人から税を取ることから始まった中国の政府・王権と自然発生的な我が国社会の世話役としての政府との大きな違いです。
中国(中国という国家は周知のとおり辛亥革命高成立した国家でそれ以前の王朝とは違います)と言うか、その土地で権力が発生したのは異民族・異境の地に出かけて行く商人の護衛をしたり、行った先での交易・市場の秩序を守る役割があって成立して来たものです。
現在の中国地域での王権の成立に関しては、08/30/05「都市の成り立ち9(異民族支配)」で用心棒・秩序維持役として始まったことを紹介しました。
商業・交易にはルールが必須ですし、ルールあるところにはそれを守らせるに足る武力・権力が必須です。
商業活動と権力の親和性・随伴性については09/18/05「唯一神信仰の土壌(商業の発達と画一化・・・信教の自由2)」を嚆矢として03/27/06「デザイン盗用と電気窃盗4(刑法44)」その他で連載しました。
異民族との交易のために出かけると市を開いた場所で一定期間駐在するための砦を作って(中国人は今でも世界中どこでも似たような中国人街を作るのはこうした歴史があるからです)商人を夜間護衛することも当然しました。これが中国や西洋の寿の始まりですから、どこでも城壁を持っているのですが我が国ではそのような歴史がありません。
・・砦では夜間門を閉めて朝鶏が啼いてから門を開ける(鶏鳴狗盗の故事)習わしでした・・。

税の歴史3(商業税1)

足利氏も平家同様に直轄領地を殆ど持っていない・・(一族の領地が全国的に散らばってありましたが本拠地の足利の莊自体は小さなものです)源氏の棟梁的(担がれていただけで自前の軍事力=資金源なし)役割だったので、資金的に最初から困っていて幕府自体の財政資金の出所は微々たるものでした。
南北朝の争いが終息した3代目の足利義満の時代になると権力的には頂点になりますが、その代わり領地を取ったり取られたりがなくなりますので、安定収入源としての直轄領地が殆どないマイナスが目立ってきます。
朝鮮征伐に活路を求めた秀吉同様で、義満も天下統一が終わると恩賞として与える新規占領地がなくなり行き詰まってしまいます。
そこで、資金源を清盛同様に日明貿易に求めましたが、貿易で儲けると言っても貿易商人の上前をはねるだけですから、個人収入としてはウマい方法だとしても、国家権力維持の資金としては基本的に多寡が知れています。
今のように貿易の盛んな時代でも関税収入は国家収入のホンの1部でしかないでしょう。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、国内統一がなると恩賞を与えるべき新規領地獲得がないので大名が命令に従うメリットがなくなってきて威令が利かなくなります。
将軍家の統治能力の低下に伴い倭冦による密貿易が普通になって、政府の統制が利かなくなると貿易による収入源もなくなってしまいます。
幕府財政は手数料収入に頼るしかないので、義政の妻日野富子による関所・・通行税などに徴収に頼るようになります。
(貿易の上前をはねる方法の小型版です)
これが怨嗟の的となって彼女は歴史上守銭奴・悪女とされていますが、(資金源に困った結果でしょう)これは京の出入り口(7口らしいです)だけであって全国の通行税を取れる訳ではない・・どこの大名も関所を設けて真似する程度のことであって、中央政権独自に必要とする巨額資金源にはなりません。
日野富子死亡後ころから、資金面から中央(足利幕府)の実力が維持出来なくなって行きます。
(義政は富子との関係が冷えていたこともあって早くから竹林の7賢のように権力争い・政治から離れて行きます)
戦国時代に入ると各領国ごとに勝手に税を取る仕組みですから、中央政府・・足利政権の経済基盤がなくなってしまうと、足利氏は直轄領が殆どなかったので戦国時代の朝廷同様に悲惨です。
室町時代から商業活動が活発になり、(そもそも鎌倉政権を倒した原動力が、河内の馬借など新興産業の担い手であったことを、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。)
室町期にはさらに商業が発達して来たので、各地領主はこれを保護する代わりに特権・独占的権利を認める形で一種の特許料を取るようになっていました。
業者は同業者間の組合である「座」を結成していましたので、言わばこうした団体を通じて統制して税・冥加金を取る仕組みでした。
今のように売上を正確に把握する帳簿もないので、多分話し合いでまとまったお金を上納してもらっていたのでしょう。
これが次第に(独占の見返りではなく市場の維持費や参加料として行くなど)合理化して行けば、今のように商売自体から税を取る方向に発達出来た可能性がありました。
上記のとおり戦国時代に入った頃には地代だけではなく、商業活動に対しても現在の税の萌芽である所場代を取るようになっていたので、このまま発展していれば、日本でも商業活動に対する税の徴収方法が発展していたと思われます。
ところが、戦国末期には信長がいわゆる「楽市楽座」制を支配下大名に布告したので、各領国・大名も競争上真似せざるを得なかったので瞬く間に全国的に「楽市楽座」になってしまい所場代の徴収方法の根がなくなってしまいました。
教科書的には、閉鎖的特権組合的権利(今で言うとギルド的特権)をなくし商業活動を自由化・活発化させた画期的な制度だと教えられますが、地代以外に税を取るシステムの萌芽だったとして見れば、楽市・楽座制は徴税方法が進歩するべき根っこをなくしてしまったことになります。

税の歴史2

大名や旗本が町奉行や作事奉行に任ぜられると自分の家臣団を動員し市中取り締まりや工事(薩摩島津家で言えば長良川の堤防工事)をする必要がありました・・。
このやり方では徳川家で言えば大身旗本しか役につけないので、足し高の制・・役料制度が発達したことを03/01/04「足高の制4と新井白石の正徳の治(家禄・家臣団の不要性)」前後で連載しました。
中央政府は巨大な領地・圧倒的領地収入を前提に政権を獲得するので、その後も自腹で全国的な運営を担当するのが我が国古来からのやり方でした。
同好会その他弱小組織の場合、会長がかなりの事務量を自腹で賄う・・町内会・商店会・小さな同業組合などでもその中の比較的大きな会社が組合事務局を自社内において組合会費からではなく、自社の事務員に組合の事務を兼務させて間に合わせることが多いものです。
(勿論家賃・パソコン・コピー電話利用料など取りません)
政治家は井戸塀政治家というように、人の上に立つ以上は自腹を切り続けて損ばかりしているうちに井戸と塀しか残らないのが我が国政治の有り様です。
この点パレスチナ解放戦線議長だったアラファト議長とか、リビアのカダフィ大佐あるいは共産主義政権の崩壊したときのルーマニア大統領など世界の政治家は蓄財が得意なのには驚きます。
イザとなれば彼らが海外に何兆円と国民のために?隠し財産を溜め込んでくれているので国民は安心してまかせておけるでしょう。
日本の菅前総理や野田現総理が失脚しても何も貯めてくれていない(と思われる)ので、国民は大して期待(あてに)出来ません。
国民は、増税に反対して自分でせっせと溜め込んでおくしかないでしょう。
自腹で公務を運営する方式に戻りますと、このやり方・世話役方式では政権を取ったばかりは何とかなりますが、政府・公益的仕事が増えて来ると自分の領地からの上がりの持ち出しだけでは中央政府は維持費が賄えなくなって来ます。
同好会や自治会や組合で言えば、事務量が増えて来ると自社の事務員を何人もかかりきりにしていられなくなって、事務局を持ち回りにしようとか、会や組合の費用で事務所を借りよう・専属の事務員を雇おうとなるのが普通です。
政治の場合、単なるサービス精神による世話役ではなく自分の支配欲を満たすための政権取りですから、そのまま自腹で経費を持ち続けることが多いので経済的に参ってしまいます。
中国のように政権を取れば、中間豪族の存在を一切認めずに人民を直接支配する仕組みの国(・・皇太子以外の子供などに一部王国を認めますがそれは例外です)なら却って私腹を肥やせるので、政権は税の取り過ぎで人民が蜂起しない限り盤石です。
(異民族に滅ぼされる以外はいつも農民の流民化で政権の最後が始まるのはこうした結果です)
日本の場合、大和朝廷の始まりから諸候連合ですから、中央政府は自分の直轄領地からの上がりだけで全国支配をしなけれならないので、割が悪い仕組みでした。
日本の政府・指導者はいつも質素倹約で簡素な役所しか持てないのは、こうした違いによるものです。
神社も権威を強調するだけで、建物自体はどんな大社で質素なものです。
中央政府の経済基盤を強化するために、随・唐の律令制導入が(大化の改新)この面で必須だったでしょうが、逆から言えば豪族にとっては自己の地位が危うくなることですから、骨抜きに必死になったのは当然です。
律令制=国家全面所有・人民直接管理制は、わが国には根付かず失敗に終わったので、以来国家直接管理思想は無理がある(トラウマ)となって明治維新まで来たことになります。
律令制失敗後は全国的に荘園制となり荘園制のうえに武士団が誕生してきます。
武士団の最初に天下をとった清盛が政権維持のためには(湯水の用に資金を使ったでしょうから・・)娘盛子の夫藤原基実死亡時に子供が小さかったので、基実の弟が後見になると平家にとって大変な事態になるので、必死のがんばりで何とか摂関家の荘園財産の殆どの管理権を入手します。
清盛は(摂関家資産を多分食いつぶしたでしょう)た上で、その後は資金源を求めて安芸の守以来の瀬戸内の交易による利益だけでは足りなく日宋貿易に頼るようになりました。
(資金源がなくなったことが、平家没落の主たる原因です)
鎌倉政権・頼朝は自前の領地・収入源がなかったのが当然ですが、北条家に実権が移った後は、北条各家は経済基盤確保のために領地拡大に精出して、各自の領地を最大にしていて、執権家構成一族としての経済力が高かったので長く続いたのです。
(蒙古襲来がなければ経済基盤がしっかりしていたので、もっと続けられたかも知れません)
襲来時の北条一族の支配地が大きくなっていたことについては、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。
徳川家もこの歴史を知っていたので直轄領地(公称800万石)にこだわっていたので、幕府財政は苦しいながらも約300年近くも続けられたことになります。
(黒船来航さえなければもっと続いたかも・・・)

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