構造変化と格差16(部品高度化4)

貿易赤字と為替相場にそれましたが、1月9〜10日の続き・・・産業構造変化に戻ります。
人件費を新興国並みに落とすか、産業の高度化に連れて利益率の低い最終組立型産業は衰退して行くしかないことをこのシリーズで書いてきましたが、大量生産型産業が輸出の旗手になっている新興国は、大量にものが動くので一見躍進が目立ちます。
これらの国は、まだ利益率の低い産業・・一人あたり人件費の安い産業が最も高い利益率を誇る産業リーデイングカンパニーである・・もっと利益率の高い産業が少ないことを表しています。
安い衣料品を一杯買ってデパートの大きな袋に入れて持ち歩いている人が多いと景気が良さそうですし、安物バーゲン売り場で人だかりがしていて飛ぶように売れていれば景気が良さそうに見えますが、実は静かなお店で宝石類を買って小さな袋に入れて少数の人が静かに歩いている人の方が懐具合がいいし、売上金も多いのです。
ところで、国際競争に耐えるために車業界のコストダウンが進めば進むほど、機械化(オートメ化)が進むので組み立てに熟練を要しないようになるのは目に見えているので、新興国・・人件費の低い国での立地が有利になるのは明らかです。
05/16/05「究極の機械化と国際競争力(人材の重要性1)」で円高対応として機械化・自動化を進める業界の姿勢は、(方向性としては間違いではないとしても結果だけ見れば)却って高コスト国での生産をなくして行くことになると書いたことがありますが、これが現実化して来たのがグロ−バル化以降の潮流です。
加えて車の電気化が進めば、エンジン系統も簡素化するので誰(一定の組み立て能力と資本さえあれば)でも製造装置さえ買えば造れる時代になりますから、国際規模の伝統・・技術蓄積の必要がなくなることは明らかです。
言わば、車業界は将来的には、今のプラモデルやパソコン組み立てみたいな低レベル作業になるので、早晩車業界は人件費の高い国内組み立て工場の維持が出来なくなる・・淘汰の嵐にならざるを得ないでしょう。
膨大な雇用を誇っている車業界・広い裾野産業が最終組み立てから撤退して底辺労働者が不要になって来ると、これの受け皿がどうなるかの難問が生じます。
底辺労働の受け皿が発達しないままですと、我が国も半端な失業率ではなくなります。
どのような受け皿産業が発達しても、底辺労働である限り早晩低賃金国の追い上げに曝されることになり、これまで隆盛と衰退を繰り返して来た各種大量生産型(製鉄・造船・繊維・電気・車など)産業と同じ道を歩むしかありません。
現在我が国は(輸入代替が効き難い)介護・保育等人的サービス分野に転換して失業増を凌ごうとしていますが、これまで何回も書いているように外貨を稼ぐ産業ではなく、経済的に見れば失業救済事業的性質でしかない上に、これも外国人労働力輸入圧力との競争になりつつあります。
失業救済事業の本質から見れば、外国人介護士を受け入れるために税金投入してまで外国人の職業訓練するようなものではありません。

発電所の消費地立地4(コンパクト化3)

消費地である東京に製鉄や発電所を立地しないのは、汚いものや危険な公害型産業を遠くへ追いやる意識が底流にあるからではないでしょうか。
安全性に問題がないならば、(原発は別としても火力発電所くらいは)東京の消費量から言えば、各区に1基くらいずつの大型発電所あるいは東京湾岸エリアに千葉にある火力発電所程度の大きさのものをいくつかまとめて造っても良い筈です。
東京のど真ん中に造ることによって送電ロスが減り、身近に生活する都民の厳しい意識が、より安全で効率の良い発電所(CO2排出削減努力)に変えて行けます。
民主党以前の政府や電力業界が主張していたように本当に原発が安全ならば、大量消費地に近い東京湾岸に多数立地するのが合理的です。
都内に立地する気が全くない・・こんなことを主張するのは狂気の沙汰と思う人が多いとすれば、誰も安全神話など信じていないし科学技術の発展を誰も信じていないことになります。
June 11, 2011「巨額交付金と事前準備3」前後からJune30 2011「交付金の分配」までの連載で、地元では巨額の交付金を得ていたので、危険性があることを前提にした損害賠償の前渡し金だったのではないかと書きましたが、都内に原発を造るなんて論外だという意見が普通だとすれば、過疎地への原発交付金は、やはり危険手当だったのではないかとなります。
電気の場合、利用場所において操作が簡便になりクリ−ンになったのでツイ誤解しがちですが、遠くでエネルギー変換出来るようになったことによって、目の前から見えなくなって危険性のごまかしが利いているだけではないでしょうか?
(蜂蜜はうまいが蜂から蜜をとる作業は危険です)
産業革命以降原産地と消費地との距離を離して行きさえすれば、消費者にとっては安全になる仕組みが考案され・すなわち輸送コスト安+鮮度維持技術の発達によります・・アフリカ沖のマグロの刺身を東京で食べられる時代です・・安全になった錯覚が生じていたのですが、今回の原発事故によって、危険なものをどんなに遠くへ持って行っても放射能汚染は地球規模の問題ですから、ごまかしが利かなくなりました。
今後は距離で何とかするのではなく、規模のスモール化と管理技術を磨いて行くしかないでしょう。
極小化・・今の火力発電所の一基当たりの規模を1000分の1程度にすれば事故があっても大したことがないでしょうし、燃料も原油そのまま使わないで爆発し難いように別のものに変換してから使うなど工夫が発達します。
原発もウラン自体を別のものに加工して原発で使う段階で事故があっても安全化するなどの工夫が発達するべきでしょう。
電気の場合スイッチオン・オフが瞬時に出来るのは利用場所においてだけであって、発電現場ではスイッチで瞬時に発電したり瞬時に停止出来ない・・一旦止めたら再運転するのは大変なことから見ても象徴的です。
(原子炉はどのようにして廃炉するかすら分っていないのに、発電だけ始めてしまったようです)
これからは、危険なもの汚いものを遠くの見えないところに持って行って安全になったように錯覚して安心しているのではなく、如何に制御して安全化し、且つコンパクトにして身近においても安全にするかの工夫・技術開発が望まれます。
我が国の清潔度・感性の高さは世界一級ですが、これは1月2日に炭火の利用例で書いたように古くから、使用の場と造る場をウマく切り分ける技術が発達していたからです。
現在ウオッシュレットが発達してからのトイレのクリ−ン化はやはり世界に冠たるものですが、これなどもわが国の分離の成功例でしょう。
今では身近・台所の隣にトイレがあっても、汚いと思う人は滅多にいないでしょう。
かと言って家の裏で汲取業者一人が汚物を処理しているのではなく、今は下水を通じて流れて行き、各自治体ごとの週末処理場でも機械化しているので、担当者が汚い非衛生な目に遭っている訳ではありません。
台所のクリーン化・コンパクト化はガス、水道、電気の発達とゴミ処理技術の発達に負うところが大きいでしょう。
小金井市長がゴミ処理問題で引責辞職せざるを得なくなった事例でも明らかなように、クリーン化は自前で後始末までしてこそ完結出来ます。
電力も東京都等大消費地が自前で発電すべきであり、電気は消費地生産の方向で管理技術を磨いて行くことが、これからの主要課題であり、(今のところ電力はすべての産業の文明化の基礎ですから・・)この解決が国際競争力の維持に繋がると思われます。
この問題はまだまだ書きたいけれども、大災害に負けずに奮起して欲しい正月特別番組としてはここで一旦終わりにして、(このコラムは前日・6日に書いて翌午前零時にオープンしていますので)明日から年末(12月30日)までのテーマに戻ります。
ちなみに私の事務所は例年通り1月6日から仕事始めですが、仕事に出れば初日から晩まで来客予定が詰まっていました。
昨年地元老人会から相続問題の講演・解説を頼まれて、ウイークデイは仕事の予定が一杯なので困ると言ったところ、町内の役員としては私がとっくに隠退していると思っていたらしく(土日の方が家族団らんのために時間を取れないからウイークデイの方が良いと思っていたようです)、こちらが逆に驚いてしまったことがあります。
私はまだまだ50代くらいの気分で仕事をバリバリしているつもりですが・・・・まだ若いと思っているのは自分だけかも知れません。

構造変化と格差4

明治維新以降の格差発生・構造転換出来た人と出来なかった人の歴史をちょっとさかのぼってみましょう。
明治維新で近代工業化に舵を切った我が国では、近代化の時流に乗れた人は何十倍もの高収入になって行く(三菱その他いくつもの財閥がうまれた)のですが、従来通りの農業をしているだけでは収入が増えませんし、新規産業従事者でも経営者になって行く人と工員や店員で終わる人の差が出てきますが、それでも新産業従事者の方がその恩恵を受けて羽振りが良くなります。
この時点で第一次の格差が開いて行きました。
生糸や木綿の輸出を学校で習うので昔からの産業のように誤解しますが、江戸時代中期までは木綿は輸入品でしたし、生糸は明治になるまで輸入品でした・・これを明治になって輸出品に仕上げたので、これの元締めには莫大な利益が転がり込みました。
北海道には鰊御殿もあるし、紡績工場があちこちに出来たこともご存知の通りです。
いろんな分野で構造転換が進んだ時代ですが、実際には江戸時代からそのままの人の方が多かったでしょう。
戦後の高度成長期では全国的に近代産業化が進んだのですが、いわゆる過疎地とは高度成長の波に乗れずその地域の産業=農漁業・・あるいは生糸のように農漁業に基礎をおく産業が廃れて行く時代・・・空洞化して来たのに、代わりになる産業・主として鉱工業が育たなかった地域の別名です。
すなわち従来型の農漁業でやって行けなくなった以上は、有機農業等高品質化に農業自体の変質を図るか、近代工業へ産業構造を転換するべきだったのですが、地域全体の構造転換に失敗した地域を一般に過疎化・過疎地と呼んでいたのです。
04/14/04「戦後の農業政策1(自作農創設特別措置法と土地改良法1)」以下で連載していますが、農業の構造改革の方向としてはアメリカ式に大規模化しても到底アメリカやオーストラリアには叶わないので、大規模化による政府農政の対応は間違っていると(高品質化しかない)いうのが私の持論です。
ましてやグローバル化で、日本の何十分の1という低賃金国との競争になれば、大規模化による僅かなコスト削減ではとても競争になりません。
高品質の牛肉・豚肉・やサクランボや果物、米等の輸出で稼ぐしかない筈です。
後に書いて行きますが、ギリシャや南欧諸国と違い日本列島各地を別の国としない・同じ国内扱いですから、人口移動が容易です。
産業構造の転換が遅れた地域にいるとそのまま一緒に江戸時代のままの低い生活水準でいるしかないので国内地域間自由競争の結果、より良い生活を求めて他地域へ逃げ出して行くので、逃げられた方が過疎化して行くのであって、元々過疎地があったのではありません。
元々人が全く住まない原生林や山地も多くありますが、そこを過疎地とは言いません。
過疎地とは明治〜太平洋戦争までは一定の産業・・農漁業とその類縁の仕事で生活出来ていた地域であったが、戦後近代工業化への構造転換の遅れた地域から人が逃げ出す状態・逃げてしまった地域を日本的に表現したものです。
構造転換に成功した地域と転換が進まなかった地域を国際的に見れば、先進国(産業革命に成功した国)と後進国の関係であり、異国間では自由に移動出来ないし、日本の過疎地のように中央からの補助金もないので一方は貧しいままに取り残されて来たことになります。

事業仕分け(増税4)

事業仕分けをしても「これだけは残したい」と言うならば、・・残したい事業コストが仮に100億円あって、税収が90億円しかないとすれば、その差額経費をどうするかの議論です。
たとえば衛星「ハヤブサ、の快挙によって、その事業を残そうとするのは誰も反対出来ないと思いますが、だからと言ってそのお金がどこから出るかの議論は別問題で避けて通ることは出来ません。
ハヤブサの事業を残すなら別の分他の事業を削減するか、ハヤブサに関する費用分だけ増税するかの議論しかない筈です。
差額10億円の増税に国民が応じないならば、結局10億円分支出をカットするしかないのが理の当然です。
国になるとお金がないのにだだっ子のようにあれもしたいこれもしたいと言っては借金でやろうとしているのが、不思議・・無責任過ぎると思います。
11月22日の日経新聞夕刊第1面には、アメリカで赤字削減のための1兆2000億ドル規模の増税に関する与野党の協議が決裂したと報じられています。
アメリカでは、不足分の増税が出来ない場合、不足分に達するまで国防費と裁量的経費について2013年から年に同額ずつの歳出を削減する法律(トリガー条項)があるそうです。
与野党がそろって「あれしろこれしろ」と要求するばかりでその費用負担に反対している場合・・衆愚政治に堕しているときに自動的に歳出が削減されて行く安全弁を備えているのはさすがです。
増税・拠出はイヤだが、事業仕分けしてもあれも必要これも必要というのですが、ここで必要という言葉の意味は「税負担するに足りる必要性」があるかどうかです。
その「コスト負担・・税を払うまでの必要がない」と言うなら、「その事業は存続する必要がない」というのと同じではないでしょうか?
「これ欲しいですか?」という質問の意味は、そこに正札がついていれば、その値段でも欲しいか?という意味ですし、半値なら欲しいがその値段では要らないという人もいるでしょう。
このように物事はコスト次第で欲しい・・必要性が変わるものですから、事業仕分けもそのコストをどうやって誰が負担するかも明らかにしながら議論しないと意味のないものになってしまいます。
時間の配分だって同じで私の事務所には、あちこちからためになる講義や勉強会のお知らせや書籍の宣伝が次々と飛び込んできますが、コチラの時間も有限ですから、ためになるからと言って手当り次第に受講したり本を読む暇はありません。
世の中には必要な知識や物・事業は無限にあるのですが、コストとの兼ね合いでみんな取捨選択しているものですが、国の事業になるとコスト負担をどうするかを考えないでも必要かどうかを立派な人たちが?議論しているのですから摩訶不思議ではないでしょうか。
収入・税収が一定の場合、不断に不要資産の圧縮努力による経費節減と固定経費増の均衡を図るべきですし、これが破れて赤字化している場合、納税額を増やすか享受するサービスの低下を受け入れるかの二者択一しかないのは理の当然であって、借金でこの穴埋めをするのは、増税するまでの一定期間の緊急事態に限るべきで、恒常的に借金に頼る考え方は邪道です。
(アメリカの場合、上記の通り2013年度までの約1年半の猶予があるようですが、この法律・トリガー条項が昔からあれば双子の赤字累積が生じなかった筈ですから、多分最近で来たのでしょう)

財政出動4(増税3)

本当に債務を圧縮するには、既存の固定資産を減らしてしまえば、(仮に市内に1000個あった交差点の信号を500個に減らすなど)その年度の固定資産評価残高は一時的に(企業の特損にあたります)減りますが、その代わり翌年以降の減価償却負担や電気代等維持管理費が減ります。
(交通事故が増えるかな?)
企業のリストラや不採算工場や店舗売却はこのやり方です。
こうして見て行くと社会資本が充実している先進国ほど、その管理コストが上がり赤字財政に陥り易いことが分ります。
儲かっているときに野放図に田舎の方まで高速道路網を広げていると財政が苦しくなるとその補修維持が出来なくなってあちこちで危険な道路や橋がいっぱいになってきます。
不要な資産を圧縮し、必要な公共団体保有資産を減らさずに、減価償却費の積み立てをした上で、黒字化を実現してこそ財政赤字を克服したと言えることです。
道路や公園をつぶして用地を民間に売却すれば、維持費が要らなくなる上に、収入が増えますし、福祉的施設・・県営住宅などの削減も経費縮小にはなりますが、その分住民サービスが低下します。
不要公共財産(利用率の低い◯◯会館など)を廃棄縮小して行けば、上記のとおり、次年度以降の維持管理費が減少するので、赤字削減の有力手段になりますが、何が不要かの価値判断が難しいので、一旦造れば原則として維持して行くことになりがちです。
この傾向に歯止めをかけようとするのが民主党政権の事業仕分けですが、やってみるといろいろな要求施策の経費を満たすには、到底足りない感じです。
足りない分は、増税しかない筈ですが、増税には飽くまで反対するのですから不思議な国民性です。
国民性というよりは、庶民が選挙権を持つことに無理があるのではないかと思っています。
下層民は自己の利益を守るのに精一杯で全体の利益などまるで気にしていない階層だからです。
我が国民のレベルは決して低くないのに衆愚政治の弊に陥ってしまいつつあるのは、衆愚に政治を委ねるシステムの行き着いたところから起きるべくして起きたのです。
代表なければ納税なしという以上は納税しない人が政治権力を持つのは矛盾です。
これからの日本は都心集中化政策により人口を都市中心部に集めて公共資産もコンパクトにして行く・・郊外に広がり過ぎた公共資産を売却して行き、管理コストを縮小して行く努力が必要です。
不要資産圧縮努力(国で言えば、事業仕分け)をいくらしても、現状の住民サービスを維持して行くには収支が赤字になるとしたら、住民が自分の拠出金以上のサービスを要求していることになるので、その分を我慢するしかない筈です。
(収入以上の支出をするのは無理があるのは子供でも分る道理でしょう)

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