民度4 (孔孟の教え2)

我が国は律令制を導入しながらも、科挙制度を採用しなかったことを以前書きましたが、儒教を統治道具としなかった・・必要がなかったことによります。
11/27/05「日本に科挙が導入されなかった理由4(律令体制と中央集権)」でも書きましたが、科挙制度は専制君主制に必然となる官僚機構維持のための選抜試験でした。
科挙制は人材登用に優れているだけではなく、優秀な人材を抜擢しても高級官僚が世襲出来ずにしょっ中入れ替わっていると、皇帝権力を脅かす何代にも続く名門・実力者が成立出来ないので、専制君主制の維持にとって有利でした。
杜甫のお父さんかお祖父さん「杜審言」は則天武后の宮廷私人の一人でしたが、杜甫は科挙試験に合格せずに貧窮を極めていたのを想起しても良いでしょう。
我が国の司法試験でも同じですが、難しくし過ぎることによって2代連続合格は滅多にないことから、科挙制によって仮に途中失脚せずに全うしても1代で没落する仕組みが出来上がってしまいました。
「皇帝権力を内部から脅かす勢力が生まれない仕組み」ということは、どんな内部矛盾が生じても改革勢力が内部から生まれて来ない仕組みにしたと言うことです。
内部が腐り切ってもそのままですから・・・最下層民が食えなくなるまで腐敗が進む一方となり、庶民がどうせ生きて行けないならと言う捨て鉢の気持ちになるところまで追いつめられて、命知らずの流民となったときに初めて権力崩壊が始まります。
(黄巾の乱等王朝の最後はいつも同じです)
あるいは内部から腐って来て脆くなっているので、外敵・・異民族の侵攻によって容易く滅亡することも多くありました。
現在中国では薄煕来事件を通じて報道される政府高官の巨額蓄財は目に余るものですが、これは現在共産党の1党独裁権力による特性ではなく、1500年に及ぶ科挙制のもたらした負の側面です。
専制君主制下では政府高官と言えども我が国のような封建領主的先祖伝来の領地がありませんので、科挙官僚制によって抜擢されるのは有り難いですが、皇帝のお咎めを受けて失業しても帰るべき領地もありません。
そこで、いつ失業しても良いように地方の大守に就任すると、その間に目一杯蓄財に励む・・賄賂政治が習慣・伝統になってしまいました。
・・この点はお互い様ですので高官同士大めに見る・・取り締まりしない暗黙のルールになっていたので、この伝統が今の共産党幹部による(失脚を恐れる)巨額蓄財に繋がっているのです。
現在の共産党幹部の巨額蓄財は歴史?伝統・・中国人の精神性に由来することが分ります。
「恒産ありて恒心あり」とも言われますが、生活不安定な社会では恒心を保てなくなる・・目先の利益におわれる打算的人格形成に励んで来たのがこの地域の人民でした。
我が国の場合、先祖代々同じ地域に住み続ける前提でしたから、5年や10年誤摩化せば良いのではなく、100年単位でも馬脚が現れないように心がける・・名誉を重んじる生活習慣になりました。
あるいは数百年後に子孫の財産になるように植林したりしてきましたが、中国では自分一代でさえ一貫しないで、利のある方に着いたり離れたりの社会ですから、禿げ山になる一方になっているはこうした伝統に由来します。
以上のように元々中国や朝鮮では科挙試験で儒学の理解を問うたのは統治道具としての能力・学問であって、道徳・モラル教育目的ではなかった上に皇帝の機嫌次第でいつ処刑されるか知れない不安定な地位になったことから、短期的蓄財・打算的行動が基本的行動指針になってしまいました。
我が国では豪族連合による大和朝廷成立→鎌倉以降の武家政権も地方領主の連合体でしたので選抜試験制に馴染まなかったので、科挙制を採用しませんでした。
孔孟の教えが入って来ても実用に使わなかった分、中国で試験しているくらいだから。何か良いところがあるだろうと必死に良いところを無理により出して勉強してきました。
外の世界から何かが来ると悪いところを見つけるのではなく、何か良いところを見つけ出して育てるのが我が国の国民性です。
その結果、「ひとの生き方」という精神性・・モラル的に有意義な部分「仁」などだけ抜粋して勉強して来たので、「有り難い教えである」とみんなが思ってきました。
他方、専制君主制の中国や朝鮮では、官僚登用目的・モラルよりは統治技術的・実利勉強に主眼を置いて学んで来たことになります。
儒教=「ひとは如何に生くべきか」と言う基本的モラル理解を中心とする我が国の理解では、科挙試験に合格すると直ぐに地方大守等実務責任者に抜擢される中国や朝鮮の運用が理解不能ですが、(私はずっと疑問に思っていました)統治技術中心の勉強・試験であったとすれば、合格後直ぐに使い物になるので理解可能です。
経済学を究めても商売が出来る訳がないのですが、そろばん勘定や会計帳簿の付け方を学べば直ぐに役に立ちます。
車の運転免許試験に合格したら直ぐに運転出来るのと似ています。
(一応車の原理も習いますが、運転免許試験に高尚な哲理は不要です)
日本の司法試験も同様で、法の精神も少しは必要ですが大方は、実務能力を試すものですから、まさに科挙制度の現在版です。
法の精神よりは実務の勉強ですから、合格したらある程度・・ちょっと訓練したら直ぐに使い物になります。
同じ儒教国と言っても、中国や朝鮮では儒学の低レベル部分を中心に勉強して来た社会ではないでしょうか?
ひとのアラばかり探すのがうまい人がいますが、アラを探すというよりは自分のみの丈にあった部分しか理解出来ないのが普通でしょう。
世界で先に活躍するようになった日本人が道徳律の基盤は儒教であると宣伝するので、欧米人は儒教は大したものだと誤解しているに過ぎません。
日本人も儒教の本場の中国ではさぞかし立派な人が多いと思ってきましたから、何かあると「さすがに本場のひとは違うものだ」と買いかぶって良い方に誤解して来たのが、改革解放までの理解でした。

世界平準化後の世界ランキング4(大学進学率の陥穽2)

日本と韓国、中国の人間的資質が全く同じだと仮定したうえで、以下比喩的に分類して考えて行きます。
日本では階層別に上から2番までが大学に行き、3番目から現場で働いているのに対し、韓国(中国はまだそこまで言ってませんが、その内一定の資金が出来ればそうなるでしょう)では上から5番目まで大学に行き、6番目から現場に出ている社会であるとした場合、国際平準化の結果同能力→同賃金となっても日本は韓国に比べて、なお上から3〜5ランクの人たちがより多く現場で働いている分だけ多くの人が能力に応じた高賃金で製造業その他の高レベル現場で働けることになります。
日本を追い越すという偏狭な観点が中心で社会の必要性を考えないばかりか、勤労を尊ぶ歴史土壌が元々ないことから、国民もお金が少しでも出来れば大学へ殺到する土壌があって、しゃにむに大学を作り過ぎた咎めが出ているのです。
上位から1〜2割しか指導者やホワイトカラーが不要なのに、それ以上の数が進学してしまうと、現場系労働者不足で人件費アップの傍らで大卒の就職難・・中国ではネズミ族がウヨウヨの社会になっている原因です。
韓国でも大卒や院卒が増え過ぎていて(大学進学率は世界屈指になっていますが、李氏朝鮮以来の両班制・・両班でなければ人間扱いされなかった歴史が反映していると思われます)その就職難は(約半分の就職率に過ぎないとも言われていますし、就職してもそのまた何割かは中途退職を余儀なくされて)半端ではありません。
元々勤労を卑しむ価値観の社会ですから、失業しているのが性に合っているのかも知れません・・。
ちなみに韓流のストーリーは現場で働く人が出て来る頻度が極めて少なく、みんなありもしない大金持ちの子息・令嬢という物語が殆どです。
現在欧州危機下でも一人気を吐いているドイツの場合では、今でも職人気質が守られていて?大学進学率はそれほど急激に伸びていないらしいです。
進学率の低さが優秀な現場力維持・補給に役立っているから、生産活動堅調の原因ではないでしょうか?
民族の総体的レベルを引き上げるのは必要ですが、その見せかけのために一点集中で力を入れることがソ連その他共産圏諸国では流行っていました。
民生から順に科学力がつく方法ではなく、ロケットだけ(これも実はソ連がアメリカから情報を盗んで作っていたことが今になると分ってきましたが・・)あるいはノーベル賞だけあるいはスポーツで言えばオリンピック選手養成だけに集中する・・国民スポーツとしては全く裾野が発展していない状態が今でも新興国では見かけます。
学校の試験は膨大な学習内容から、これとこれが分っているならばその他も身に付いている筈だという論理からいくつかの点を取り出して試すものですが、(米などの抜き取り検査と同じ原理です)アトランダムに取り出す箇所・・試験問題が予め分っていると、全体の理解がなくともその点だけ勉強しておけば良いので本当の学力が分りません。
韓国や中国はこうした偏頗なやり方で一点豪華主義で日本を追い越したつもりで強がっているのですが、特定分野に集中していくら「何とか賞」を取っても、国民平均レベルを引き上げることは簡単には出来ません。
中国のGDPも同様で、直ぐに壊れる鉄道やマンションや橋梁、がら空きのマンションでも何でも作れば、数字上GDPがアップするので日本を数字上追い越すことばかりに目がくらんで数字の嵩上げに必死の状態です。
GDPは各地方政府の中央への報告数字の合計によっているのですが、地方責任者としては、計画未達の報告が出来ないので、水増し報告が一般的になっていることは世界的常識になっています。
民意による反日デモと称しながら、実際は政府・官制デモであるのと同様に、政府も水増し発表したいので地方の水増し報告をそのまま統計に利用しているのです。
「電力消費量が減少していて、あるいはその伸び率以上に何故経済成長していることになるのだ?」という指摘を受けた4〜5年前から、中央政府は電力消費量の統計発表をしなくなっていると言われています。
(ただし、こうした批判が効いたのか、最近では電力消費量が出るようになっていますが、これも本当の数字かどうかはまるで分りません)
昨年からの欧州危機による経済失調では、現場では仕入れ商品・・原料・部品輸入・が前年比何%減になっているのが世界中に知られています(これは誤摩化せません)ので、実際にはマイナス成長になっていることは明らかです。
原材料の仕入れ量が減っていて生産だけが何故前年比8%近い増加になるの?と言う当然の疑問をマスコミは書きません。
8%成長から少し切ることになりそうだという政府発表に世界は大騒ぎしてるのですが、(真実は)実質マイナス成長になっていることを世界中が知っているからです。
諸外国政府や大手マスコミとしては(個人のネット意見とは違い)政府発表を無視(まさか嘘でしょうとは言えない)出来ないので、政府発表による虚偽数字を元に経済見通しや経済評論を書いていますが虚構の議論になっていて世界中に迷惑なことです。
世界中が「裸の王様」の寓話を実践させられているのが現在です。
裸の王様の話は言論の自由がない・・それほど権力が強いことを表していますから、中国人は統計の嘘を知りながら今から世界中の言論を牛耳っていることを証明しているとして一人悦に入ってるのかも知れません。
「バカ」の語源の故事として有名なことですが、秦の趙高が自分の権勢を明らかにするために狩りに出たときに目の前の鹿を馬と言ったので皇帝が「何を言ってるあれは鹿だろうが・・」と言ったところ、居並ぶ臣下の多くが趙高の権勢を虞れて趙高に会わせて皇帝に恥をかかせた(馬と鹿の区別もつかない暗愚の皇帝だ)故事によるものです。
(若い頃に読んだ漢文の知識でうろ覚えですので、鹿を馬と言ったのか馬を鹿と言ったのかどちらか今ははっきりしません)
ちなみに硬骨漢が一人いて、敢えて趙高の意見に反して皇帝と同じように言い張った高官はその後処刑されました。
子供っぽいことで権勢を誇示したいのが中国人の古代からのレベルですが、古代から意識があまり進歩していない・・王朝が変わる都度ゼロからやり直しになって来た歴史については、この後のコラムで書いて行きます。

最低賃金4と外国人労働者1

我が国の人件費の決め方は、労働の対価性が低く生活給的要素が強かったのですが、グローバルな経済競争時代に突入した以上は、純粋な労働対価と民族国家としての助け合い・生活保障部分を峻別して行くべきです。
我が国で賃金を決める基準として労働対価より生活水準維持を強調するようになったのは、意外に歴史が浅いのです。
10月7日、日経朝刊第19面に紹介されている「日本労働関係史」(アンドル・ゴードン氏著)によれば、戦時中(私の想像では満州事変ころからではないでしょうか)に一般国民からの兵士徴用の結果、銃後の生活保障が重視されて生活給が強調されるようになったとあります。
(ちなみにゴードン氏の著作には関係ないですが、企業の厚生年金制度も戦時中に銃後の生活を安定させるために昭和17年に始まったものです)
戦後経済は廃墟からの始まりですから、国家全体が貧しかったのでその思想・習慣がそのまま定着していて、私の若いころの労働運動のキャッチフレーズの中心は「これでは結婚も出来ない」(子供産めない)などという生活保障の主張が中心でした。
本来労働能力に対する対価は(適正な労働分配率によって)対価としてきちんと支払い、それでも「生活出来ない・子供を生むと育てられない」という部分は本来国家が補償すべきものでしたが、戦争経済で国家財政が疲弊していたので民間・企業にその負担を求めるようになったのが始まりです。
その伝統の無批判踏襲で今日に至っているのですが、戦後70年近くも経過したのでこの辺で労働の対価と社会保障を峻別すべきです。
世界第2位の経済大国になっても貧困時代のママ社会保障部分を企業負担にして来たのですが、(障害者の一定率雇用や厚生年金の企業側半額負担もその1例です)世界中で似たような制度があるから(どこの国でも財政赤字は困るのでこのやり方を踏襲しています)と言って、正しいとは限りません。
人材の交流が盛んとなり、外国人底辺労働者が増えて来ると過去何十年にわたる蓄積の取り崩し・利用による社会保障・生活保障部分までを参入して来たばかりの外国人労働者にも保障するのは行き過ぎです。
今後は、正当な労働対価と社会保障部分を峻別して行かないと外国人排斥運動が激しくなりかねません。
外国人排斥運動が起きるようになったのは、インフラ整備や社会保障政策が行き渡って来るとただ乗りに対する不満が出て来るからです。
我が国では昔から稲作=ムラ社会・・灌漑設備等のインフラが充実していたので他所ものに対して冷たかったのは、インフラ瀬尾の進む近代社会の千年単位の先取りだったと言えます。
他所ものを・・簡単にムラの寄り合い仲間に入れなかったのは、社会資本・農道の整備・灌漑設備の新設や維持負担等々を千年単位で先祖代々営々と築いて来た蓄積があったからです。
社会保障政策は個々人の能力不足分を同胞としての一体感もあって民族国家成立後(我が国の場合その前から村落共同体)社会=国家全体で助け合う・その資金は結局は民族が蓄積して来た結果によるものですから、(高齢者の貯蓄取り崩し・年金生活を考えれば分りますが、)過去の蓄積に関与していない外来者が来たばかりで、ある国・領域・場所にいるだけで同じように恩恵を受けるのは狡いと思う人が出て来るのは仕方のないことです。
排外的右翼の主張に大して狭量だと批判していても始まらないので、そう言う批判が起きないように労働の対価と過去の蓄積を利用した同胞間の助け合いである社会保障部分を峻別して行くべきだという考えを書いています。
私は外国人をヤミクモに差別しろという主張ではなく、受けるべきでないメリットは与えるべきではない・・与え過ぎるとそれに対する反感が嵩じて本来受けるべき権利まで迫害する方向に行き過ぎてしまう懸念を書いています。
外国人のただ乗りを放置しているとナチスによるユダヤ人迫害だけではなく、昨年夏だったかノルウエーで青年による銃乱射事件がありましたが、どこでも起き得る危険・・命まで奪う・・根こそぎの反感に行き過ぎてしまう危険があります。
外国人居住者の問題は、労賃に関しては労働の対価部分と生活保障給部分を峻別して外国人には労働対価だけ支払えば良いとすれば解決します。
ただし、これでも生活保障的公共料金・医療費などは実費以下の供給を受けるなど生活保障的給付を外国人が知らず知らずのうちに享受するただ乗りの問題があります。
この分の差額徴収をどうするかも決めないと、税で整備した公衆便所・医療機関等を外国人が何らの負担もしないで使えるのはおかしいとなります。
千葉県弁護士会では会館建設資金・あるいは維持管理費?負担金について、数十年以上負担して来た会員には免除する規則が何年か前に成立しています。
過去の会員が長年積み立てた資金で漸く出来上がった会館を新入会員が無償で使い、維持管理費も長年積み立てて来た会員と平等分担が続いていたのですが、それでは長年積み立てて来て会館建設後数年〜5年程度で隠退する予定の会員と比較して却って不公平になるからです。
同じように外国人労働者には純粋な労働対価しか支払わないだけではなく、出来上がった膨大なインフラを無償で利用するばかりでは不公平です。
建設国債と言う概念をご存知の方が多いと思いますが、各種インフラ整備は借金で賄っていてそれを次世代が負担する仕組みです。
国民はその借金支払を分担しているのに外国人(旅行者等)はその分担をしないままインフラを無償利用しているのは不公平です。
外国人にはインフラ使用料あるいは維持費税を国民一般が負担する所得税や住民税にプラスして徴収したり、保険証のようにカード提示者だけが会員価格としてそれ以外は電車その他のすべての分野で正規料金を払う仕組みにすれば右翼の不満がかなり減るでしょう。
会員制システム・会員割引を国のいろんなシステムに導入するのは、電子機器の発達した現在、それほど困難ではありません。
いろんな弊害もあり得るので今のところ私は必ずしも推奨している訳ではありませんが、例えばの話・・国民総番号制にすれば・全部共通番号になるので、1枚のカードで足りて簡単です。

投資効率4

子供のために自分の生活費を削ってでも数百万円より多くかけて、子供を高学歴化したい親が多いのですが、この階層は一ヶ月当たり数千円くらい子供手当(児童手当等法改正の度に名称が変わりますが・・)の引き揚げがあってもさらにもう一人生みたいとは思わないでしょう。
現在一人1カ月当たり5000円らしいですが、これが2倍になっても(国家予算が倍増になるのは滅多にありません)月5000円しか増えないのですが、数千円の増額に反応してもう一人産もうかと考える親は底辺層に多くなります。
(実際には数千円増額くらいで、もう一人生むようになる人は珍しいでしょう・・・と言うことは、票目当てに無駄なバラマキをしているだけとなります。
間違ったことでもマスコミが『子供を多く生まないと大変なことになる」と宣伝さえすれば、これに反応し易い・・無批判に浸透して行くのは底辺層に多く見られる現象です。
韓流ファンがそれほど多くなくとももの凄く流行しているかのようにマスコミが宣伝を続ければ、多くの国民が時流に乗り遅れないようにと見るようになることを狙って宣伝を続けているのは、こうした効果を狙っているのです。
法律相談で「何故こんなことをしたの?」と意見を聞いていると「テレビで宣伝しているじゃないですか」という言い訳が多く見られ、底辺層では価値判断基準が自分になくてマスコミの傾向に引きずられ易いことが分ります。
私がこのコラムの開始当初からマスコミの支配的傾向に対する批判意見ばかり書いているのは、マスコミの宣伝している意見ばかりが正しいとは言えない・・国民個々人が自分の頭でいろいろ考えて欲しいというコンセプトで、物事には異論があり得るということを知って欲しくて書いています。
ですから、私の意見は「こう言う考え方もあるよ」というだけであって、このコラムの意見通り政治をすれば良いとまで必ずしも主張しているものではありません。
話題を元に戻します。
子供手当の増額、高校無償化その他ホンの僅かな餌につられる底辺層の拡大生産が図られてここ数十年経過して来たことになります。
日本の将来のためには、今後の社会は高度化・・教養・技術修得が必要な時代になっているので、これに対する適応力のある人材比率を引き上げるのが政策目標であるべきです。
素質に関係なく職業訓練さえ数時間多くすればレベルアップ出来るのなら、中国等新興国でも職業訓練に励むと結果が同じになって行くことになります。
後進国と生活水準の差を付け続けるには、優良な素質の人材を増やして行くことこそが、政策目標であるべきです。
もしも優良子孫比率を引き上げる目的の出産奨励であるならば、子供を産めば一定課税するくらいにした方が合理的です。
僅か数千円前後の補助金増額目当てに子供をもう一人産もうかという人が仮にいるとした場合、子孫を増やすのが良いのか、数万円くらい課徴金を払っても子供の欲しい人だけが子孫を残す方が良いのかの問題です。
非正規雇用関連労働者と言えども親の教育負担・愛情をほぼ同様に受けていると思われますが、彼らは一人で親世代を4人分支えるどころか自分一人の将来分の年金さえ支払能力がない人が殆どです。
この階層に補助金を出して拡大再生産をしても社会保障負担が増えるばかりで、年金負担能力がない点は変わらないでしょう。
(これと言った病気でもないのに若者世代で生活保護受給者が広がっています・・これでは次世代が年金を負担するどころではありません)
この点は私がこのコラム開始初期以来主張している外国人労働力移入反対論の根拠と同じで、貧困層の子沢山政策は当面は安い労働力増加で潤いますが、彼らが高齢化したときの社会負担と彼らの次世代に対するケアー・・社会負担増に苦しむことになります。
(現在既に日本語の分らない子供に対する学校現場の負担増、あるいは少年事件の発生等で外国人労働者の反撃が始まっています)
今年の9月21日に千葉の幕張で開催された関弁連のシンポジュームのテーマは「外国人の人権」でしたが、そこでの説明では、学齢期になっても不法滞在等の次世代は、就学のチャンスすらなく、授業についていけないどころの話ではない実態が紹介されていました。
その大会でのテーマは、彼らの人権をどうするかであって、不法滞在であろうがなかろうが一人の人間が困っている限り彼らの人権を考えるのは我々弁護士の役割ですから、それはそれで考えさせられるテーマでした。
しかし別の視点・・こうした社会弱者を大量に生み出す外国人労働力に頼る社会のマイナスを強く考えざるを得ません。
社会のあり方として考えると日本語が全く分らないまま小学校にも通わずに彼らが成長して青少年になって大量に参加して来る社会では、どう言うことになるのか(既に静かに始まっています)空恐ろしい感じがしています。
(現在外国人滞在者は把握されているだけで約200万人に上っています)
今の親世代(60〜70代)は、来たるべき時代は高度社会であるとの予感から、自分の子供を来たるべき時代に適応させるためには、一人当たり高額の養育費・各種訓練費をかけるしかないことを本能的に分っていました。
マスコミが「生めよ増やせよ」と宣伝してもこれを無視して少子化に励み、資金を一人〜2人に集中して(余裕のない層は借金してでも)子供を最低でも高校へ、大学へあるいは専門学校へと進学させてきたのは正しい智恵の発露でした。
歴史を見てもいつ死ぬか分らない戦国時代が終わって、江戸時代に入ると一斉に少子化に転換し、その代わり子供の教育に励んだのと同じで賢い選択です。
私がこのコラムで繰り返し書いている少子化進行促進論が、学者やマスコミによるマインドコントロールにメゲズに実際に子を産む母親によって実際に行われて来たのは正しいことです。
この辺は日本マスコミがこぞって主張している・財政赤字→日本が大変なことになる論が、世界全体・・世界の経済界では全く問題にされていないで、危機時には円が逆に上がっている(世界の圧倒的多数が日本経済の実力を認めていることになります)ことと同じです。
何故か日本のマスコミはいろんな場面で実態に反して中立を装って特定の立場をむやみにマインドコントロールして実現しようとする傾向があるので注意が必要です。

年金赤字8(年金赤字の基礎4)

世代間扶養説の誤りから年金赤字問題に戻ります。
第2の③長寿化問題はどうでしょうか?
これも9月4日に書いた第1の①と同じく経営責任の問題であって、加入者の責任ではありません。
受給期間がどれくらいになるかの見通しを立てて、納付期間・納付金額を決めてこれによっていくらの支給が出来るかを経営者が考えて消費者に提案することは経営責任の問題であって加入者の責任ではあり得ません。
以上のように見て行くと現在の年金赤字の主要問題は、長期積立金の資金運用が予定通り高利回り運用出来なかったことと、受給者の長寿化=受給期間の長期化と次世代の加入者減及び収入減少による加入者の納付金の低さにあります。
今朝の日経朝刊でも厚生年金基金の解散を容易にする方向で検討と出ていましたが、民間基金の場合で言えば、世代間扶養などは関係(アカの他人同士で、タマタマ同業種というだけで30〜40年前の先輩の生活面倒を見るなどの理念)が遠過ぎて考えられない制度ですから、基金の赤字化は少子化の問題ではなく設計のミス性が明らかです。
業種別に見た場合、社会構造の変化で次々と業種ごとの栄枯盛衰があるのが普通ですから、(石炭産業から石油産業へ、繊維産業から電気機器へなど業界の変遷が激しいのが普通です)1つの業界で何十年後の業界人が先輩の年金を負担出来ることなど論理的にあり得ません。
(50〜100年も羽振りよく続く業界は稀な例と言うべきでしょう・・・金箔その他伝統工芸のように細々とならば、今でも続いていますが・・)
この結果、土木建設、水道事業・管工事など業界別年金基金が業界縮小の結果、あちこちで年金基金存続の危機に瀕しています。
これらはすべて、上記のとおり制度設計に無理があった・・あるいは約束に反して食いつぶして来た経営責任の問題であって次世代加入者が少ないか、各人の納付金が少ないかの問題ではありません。
その責任問題をうやむやにするために「インフレよ再び・・加入者増よ再び!」と願望して騒いでいるのが現在の官僚とその意を受けたマスコミと言うところでしょうか?
国内製造業が雇用を守ると言いながらも、拡大傾向にある好調企業であっても増産分を海外展開するしかないのが時代の趨勢ですし、韓国、中国等に負け始めている企業の場合従業員を縮小する一方ですから、掛け金を納付すべき加入者が減少して行くのは当然のことで少子化とは関係がありません。
何回も書いていますが、(非正規雇用を失業者にカウントしないにもかかわらず)失業率が高止まりしている現状からしても明らかなように少子化=労働者不足で企業が海外展開しているのではありません。
少子化以前に企業の雇用者数が減少しているので、厚生年金の納付者が減少して企業年金等どこもかしこも火の車になっています。
上記の各問題点は経営設計ミスの問題であって、加入者の責任ではありません。
民間生命保険会社を例にして考えてみましょう。
生命保険加入者が想定外に長寿化し続けたために生保各社の大もうけの時代が続きました・・。
これが想定外大災害等で平均より早く死亡したり、想定外金利下落によって運用益が予定に届かなかったり、年金保険契約で言えば、加入者が想定外に長生きして保険会社経営が赤字になったときには国民の責任というのでは一方的です。
古くからの加入者も現在の加入者もどちらの責任でもありません・・想定ミス・安易な年金約束をした経営責任の問題であることは疑問の余地がないでしょう。
政治家が実現出来ない公約を掲げて当選したようなもので、政治家は公約を実現出来なければ責任を取るべきです。
年金は誰が責任をとるべきかですが、当時の政治家や企画者は既に皆鬼籍に入っているし官僚主導でしたから、結果として官僚制度そのものに責任を帰すしかありません。
9月12日に書いたように年金制度は、政府が独占運営する必要がない・・民間・民営化中心に進んでいるのが、官僚の責任の取り方と言うことでしょうか?
政府の年金だとせっかく生活費を切り詰めて積んでいても、やれ障害者が可哀想だ、孤児は可哀想だとなって、次々と人の積んだお金を流用(公的な使い込みです)してその結果赤字だと言われるのでは、安心して預けておけません。
民間保険だと、可哀想な人がいたので保険加入していなかったが死亡保険金を払ってやった・・掛け金を払わないが年とって食えないのでは可哀想なので年金を払ってやっているから赤字になってしまったので、皆さんの保険金支払を減らしますと言って加入者が納得するでしょうか?
民間生保の場合そんなことはあり得ないので、却って安心です。
政府の最低生活保障は税や国債による社会保障費として統一し、これよりも良い生活をしたい人は個人的に預貯金を蓄え、あるいは保険会社の年金に加入すればいいことです。
政府は社会保障に特化して年金制から撤退すべきです。
現在生活保護水準は、国民年金を満額もらうよりも高くなっています。
こうなって来ると、国民年金を掛けるメリットのある人は、それ以上に老後資金を蓄えることが出来る人に限られ、預貯金なしに年金だけを頼りに生きる人にとってはその不足分を生活保護で貰うのでは、1円も掛けて来なかった場合と変わりません。
現役でギリギリの生活(それ以外に老後資金を蓄える能力のない)をしている人にとっては、国民年金掛け金を苦労して払う意味がなくなっています。
最低生活は政府が保障してくれる・・より良い老後生活=プラスαを求めるだけならば、民間保険に委ねれば充分ではないでしょうか?
従来の社会保険庁(解体したとは言えほぼ同数の役人が別の名義で働いている筈です)だけでも、膨大な役人や公的施設を利用していますが、これら全部不要になります。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC