民度4 (孔孟の教え2)

我が国は律令制を導入しながらも、科挙制度を採用しなかったことを以前書きましたが、儒教を統治道具としなかった・・必要がなかったことによります。
11/27/05「日本に科挙が導入されなかった理由4(律令体制と中央集権)」でも書きましたが、科挙制度は専制君主制に必然となる官僚機構維持のための選抜試験でした。
科挙制は人材登用に優れているだけではなく、優秀な人材を抜擢しても高級官僚が世襲出来ずにしょっ中入れ替わっていると、皇帝権力を脅かす何代にも続く名門・実力者が成立出来ないので、専制君主制の維持にとって有利でした。
杜甫のお父さんかお祖父さん「杜審言」は則天武后の宮廷私人の一人でしたが、杜甫は科挙試験に合格せずに貧窮を極めていたのを想起しても良いでしょう。
我が国の司法試験でも同じですが、難しくし過ぎることによって2代連続合格は滅多にないことから、科挙制によって仮に途中失脚せずに全うしても1代で没落する仕組みが出来上がってしまいました。
「皇帝権力を内部から脅かす勢力が生まれない仕組み」ということは、どんな内部矛盾が生じても改革勢力が内部から生まれて来ない仕組みにしたと言うことです。
内部が腐り切ってもそのままですから・・・最下層民が食えなくなるまで腐敗が進む一方となり、庶民がどうせ生きて行けないならと言う捨て鉢の気持ちになるところまで追いつめられて、命知らずの流民となったときに初めて権力崩壊が始まります。
(黄巾の乱等王朝の最後はいつも同じです)
あるいは内部から腐って来て脆くなっているので、外敵・・異民族の侵攻によって容易く滅亡することも多くありました。
現在中国では薄煕来事件を通じて報道される政府高官の巨額蓄財は目に余るものですが、これは現在共産党の1党独裁権力による特性ではなく、1500年に及ぶ科挙制のもたらした負の側面です。
専制君主制下では政府高官と言えども我が国のような封建領主的先祖伝来の領地がありませんので、科挙官僚制によって抜擢されるのは有り難いですが、皇帝のお咎めを受けて失業しても帰るべき領地もありません。
そこで、いつ失業しても良いように地方の大守に就任すると、その間に目一杯蓄財に励む・・賄賂政治が習慣・伝統になってしまいました。
・・この点はお互い様ですので高官同士大めに見る・・取り締まりしない暗黙のルールになっていたので、この伝統が今の共産党幹部による(失脚を恐れる)巨額蓄財に繋がっているのです。
現在の共産党幹部の巨額蓄財は歴史?伝統・・中国人の精神性に由来することが分ります。
「恒産ありて恒心あり」とも言われますが、生活不安定な社会では恒心を保てなくなる・・目先の利益におわれる打算的人格形成に励んで来たのがこの地域の人民でした。
我が国の場合、先祖代々同じ地域に住み続ける前提でしたから、5年や10年誤摩化せば良いのではなく、100年単位でも馬脚が現れないように心がける・・名誉を重んじる生活習慣になりました。
あるいは数百年後に子孫の財産になるように植林したりしてきましたが、中国では自分一代でさえ一貫しないで、利のある方に着いたり離れたりの社会ですから、禿げ山になる一方になっているはこうした伝統に由来します。
以上のように元々中国や朝鮮では科挙試験で儒学の理解を問うたのは統治道具としての能力・学問であって、道徳・モラル教育目的ではなかった上に皇帝の機嫌次第でいつ処刑されるか知れない不安定な地位になったことから、短期的蓄財・打算的行動が基本的行動指針になってしまいました。
我が国では豪族連合による大和朝廷成立→鎌倉以降の武家政権も地方領主の連合体でしたので選抜試験制に馴染まなかったので、科挙制を採用しませんでした。
孔孟の教えが入って来ても実用に使わなかった分、中国で試験しているくらいだから。何か良いところがあるだろうと必死に良いところを無理により出して勉強してきました。
外の世界から何かが来ると悪いところを見つけるのではなく、何か良いところを見つけ出して育てるのが我が国の国民性です。
その結果、「ひとの生き方」という精神性・・モラル的に有意義な部分「仁」などだけ抜粋して勉強して来たので、「有り難い教えである」とみんなが思ってきました。
他方、専制君主制の中国や朝鮮では、官僚登用目的・モラルよりは統治技術的・実利勉強に主眼を置いて学んで来たことになります。
儒教=「ひとは如何に生くべきか」と言う基本的モラル理解を中心とする我が国の理解では、科挙試験に合格すると直ぐに地方大守等実務責任者に抜擢される中国や朝鮮の運用が理解不能ですが、(私はずっと疑問に思っていました)統治技術中心の勉強・試験であったとすれば、合格後直ぐに使い物になるので理解可能です。
経済学を究めても商売が出来る訳がないのですが、そろばん勘定や会計帳簿の付け方を学べば直ぐに役に立ちます。
車の運転免許試験に合格したら直ぐに運転出来るのと似ています。
(一応車の原理も習いますが、運転免許試験に高尚な哲理は不要です)
日本の司法試験も同様で、法の精神も少しは必要ですが大方は、実務能力を試すものですから、まさに科挙制度の現在版です。
法の精神よりは実務の勉強ですから、合格したらある程度・・ちょっと訓練したら直ぐに使い物になります。
同じ儒教国と言っても、中国や朝鮮では儒学の低レベル部分を中心に勉強して来た社会ではないでしょうか?
ひとのアラばかり探すのがうまい人がいますが、アラを探すというよりは自分のみの丈にあった部分しか理解出来ないのが普通でしょう。
世界で先に活躍するようになった日本人が道徳律の基盤は儒教であると宣伝するので、欧米人は儒教は大したものだと誤解しているに過ぎません。
日本人も儒教の本場の中国ではさぞかし立派な人が多いと思ってきましたから、何かあると「さすがに本場のひとは違うものだ」と買いかぶって良い方に誤解して来たのが、改革解放までの理解でした。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC