外国人の政治活動5(マクリーン判決の限界3)

政治立場相違を基礎にする意見の優劣は選挙の審判によるしかないのが、法治国家・民主社会の原則です。
沖縄反基地運動も法令違反があるかどうかが重要で、暴力行為等の法令違反がない限り「国益」とか「公安を害する」という政治基準で拒否するのは難しいことです。
竹島上陸事件でも「法令違反があるか?」となると難しいようです。
「日本領土に許可なく立ち入るのは入管法違反に決まっているじゃないか」という素朴な議論ですが、国際公法を勉強していないので具体的法文/条約等が不明ですが、一般論として言えば国際法上実効支配していない土地には、主権が及ばない→出入国管理権がないという考え方で理解可能でしょうか?
実力支配を許せないから「実効支配の有無にかかわらず主権が及ぶ」という気持ちは分かりすが、国際法的に考えると、では「日本がアメリカ大陸が全部日本領」だと宣言さえすれば、「アメリカ大陸にいる人は皆不法入国者」となって日本に来た時に気に入らない人物だけ逮捕したり入国拒否できるのか?となります。
実際にそんな無茶な宣言や規制を発動しないとしても法理論上可能となります。
お互い世界中の土地が自国領土だと宣言すれば、そうなるので、現状・実効支配しているところで決めているのが国際社会(条約があるのか慣習法かまでは調べていませんが・・)です。
「竹島の場合」イキナリ不法占拠されたのだから「例外じゃないか」と言いたいでしょうが、国際常識としては、「実効支配しているか否か」で決まる仕組みあるいは慣習法でしょう。
国内法ですが、民法(ローマ法以来の淵源があります)には、「占有の適法推定の原理」があります。

民法(明治二十九年法律第八十九号)
第二節 占有権の効力
(占有物について行使する権利の適法の推定)
第百八十八条 占有者が占有物について行使する権利は、適法に有するものと推定する。
(占有の訴えの提起期間)
第二百一条 占有保持の訴えは、妨害の存する間又はその消滅した後一年以内に提起しなければならない。ただし、工事により占有物に損害を生じた場合において、その工事に着手した時から一年を経過し、又はその工事が完成したときは、これを提起することができない。
2 占有保全の訴えは、妨害の危険の存する間は、提起することができる。この場合において、工事により占有物に損害を生ずるおそれがあるときは、前項ただし書の規定を準用する。
3 占有回収の訴えは、占有を奪われた時から一年以内に提起しなければならない。

不法占拠された場合、すぐに対抗処置(占有回復の訴えなど)を取らないと適法占有推定される仕組みです。
中国による公海上の構築物構築工事は、まさに上記「その工事に着手した時から一年を経過し、又はその工事が完成したときは、これを提起することができない。」を利用し既得権益化を狙ったものです。
この辺の運用は北方領土でも同じで、北方領土に日本政府の許可なく住むロシア人を犯罪人扱いするのは現実的でないことがわかるでしょう。
政府は国民に「デモならデモの実態」・・竹島上陸の実態・・事実を開示して、国民が上陸した芸能人のチケットを買うかどうか・興行が成り立つかに任せるべき分野です。
国内で特定政治運動する外国人を国民が受け入れるかどうかは・・市場原理・・別問題です。
国民の支持しない政治活動を理由に入国拒否しなくとも、国内に悪影響を及ぼす心配はありません。
マクリーン事件は、国内ベ平連運動の応援をしていた米国人マクリーンの政治活動が問題になった事件でしたが、国内にベトナム戦争反対の機運が高まっていたので国民への影響力があったし、ベトナム戦争遂行中の米国の逆鱗に触れる・米国の鼻息を伺う政府が、在留更新拒否に踏みきった・・政治活動を理由にする必要もないのに米国向けのアリバイとして政治活動の理由を敢えて付け加えたように見えます。
そして沖縄基地運動での検挙韓国人4人検挙を伝えるhttp://www.buzznews.jp/?p=2107119の山田議員の主張記事の中にのりこえねっと、挺対協の辛淑玉氏の発言も山田氏によって引用されていますが、それによれば、辛淑玉氏は、沖縄闘争参加者に占める朝鮮人比率が高いことを当然のように述べる部分があります。
(上記記事はコピペできず、そのまま引用できませんので正確ではありません)
「日本を軍事基地のない平和な社会にしたいという(日本を愛するが故の行動)熱心な人が多い」という意味に受け取るか、「在日朝鮮人は日本社会に揉め事を起こそうとする人たち」だと思うかは国民の自由です。
慰安婦問題を国連等で広めるのに精出しているのは、日本を道義の高い国家にしたいという目的によるのか、事実を曲げて日本を貶めようとしているのかは、受け止め方による・・・文字通り思想表現の市場競争の問題です。
自由である以上、国民がどのように受け留めるについて批判しても始まりません。
例えば上司・同僚の嫌うことをしょっちゅうしても、就業規則に反していない限り懲戒にはなりませんが、好き嫌いは個人の勝手ですから、そういう人にはお昼を食べに行くのや個人的な集まり、遊びなどのお呼びがかかりにくいでしょう。
それが行き過ぎれば、いじめ、差別の範疇に入るかという相対的概念です。
政治的立場相違による公式差別は許されませんが、在日が派手に日本人多数の嫌うことをやればやるほど日本社会で浮き上がる危機感が強まり、その反動でヘイトスピーチ規制論が勢いを増してきたように見えます。
在日が慰安婦騒動の原動力となっていると疑う勢力によって、在特会運動が盛り上がると、その疑いを否定するよりは政治運動の自由と開き直り、在特会に対抗するためのしばき隊を組織し、規制を目指して派手に立ち回れば立ち回るほど、日本社会との亀裂が深まる・・在日への反感が強まり・逆効果になるように思うのは私だけでしょうか?
民族対立を自ら煽っている少数民族って珍しくないでしょうか?
話を入管行政に戻しますと、政府が行うべきは、政治運動による再入国禁止等ではなく、国民に対して客観的な情報開示することが必要です。
「国益や公安」という基準で入国拒否できる条文は、恣意的裁量を許しそうな法形式ですが、「行うおそれがある」と言う要件は訴訟になると大臣の主張立証責任になります。
その立証を緩和するためにさらに要件を緩めたのが次の「と認めるに足りる相当の理由」と言う逃げ道です。
本来の要件が「恐れ」で足りて、しかもその恐れが立証できなくとも(恐れるについて)「相当の理由があれば」足りると緩めたものです。
「恐れ」や「相当の理由」を成文化せず(政省令化あるいはガイドライン化しているか知りませんが)にこれを敢えて大臣の権限として掲げた以上は、これらの有無の総合判定には民意によって政策判断を付託されている政府・大臣に広範な裁量がありそうです。
しかし、今になると(外交上の影響を見極めるなど高度な政治判断の余地を残す)規則的な拒否発動をしない方向への抑制期待役割が基本ではないでしょうか

 

外国人の政治活動3(民族教育2)

前置きが長くなってしまいましたが、以下引用論文これによると敗戦直後から学校設立と政府による排除の動きが具体的に出ています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/96/0/96_109/_pdf/-char/ja

教育社会学研究第96集(2015)
朝鮮学校処遇の変遷にみる「排除/同化」
―戦後日本の「排除型社会」への帰結の象徴として―
韓ハン東トン賢
要旨】
・・・,朝鮮学校の制度的位置づけ,処遇問題からあとづけていく。そこから見えてきたものは次の3 点であると言える。
①仮に戦後の日本がヤングのいう意味での包摂型社会だったとしても,その基調は同化と結合ではなく,「排除/同化」――排除と同化の二者択一を迫るもの――であった。
②2000年代には,このような「排除/同化」の基調を引き継ぎながら,にもかかわらず,「多文化主義へのバックラッシュ」としての排除を露骨化,先鋭化させた排除型社会になった。
③そのような「排除/同化」,また2000年代以降の排除の露骨化,先鋭化において,朝鮮学校の処遇はつねにその先鞭,象徴だった。

以下は別の論文です。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192679/1/kjs_014_021.pdf

<論文>公立学校における在日韓国・朝鮮人教育の位置に関する社会学的考察 : 大阪と京都における「民族学級」の事例から
金党恩
京都社会学年報 : KJS = Kyoto journal of sociology (2006),
14: 21-41
結びに代えて
本稿では、公立学校における民族学級の事例を中心に、在日韓国・朝鮮人教育が登場するようになった経緯やその後の展開を検討し、その位置づけの変化について考察を行った。以下では、これまでの議論を要約し、今後の課題を述べる。第一に民族学級は、戦後、在日韓国・朝鮮人児童の教育への権利を保障するものとは言いがたいコンテクストの中で誕生した。民族学級は、戦後、全国的に広がった朝鮮人学校を閉鎖していく中で、一種の「アリバイ」のような側面を持っていた。そのため、民族学級は1950年代初頭に設置された直後から1960年代にかけて、学校の中に存在しながらも、実際には孤立した状態に置かれており、「学校の外の存在」、「学校側の取り組みではない」とされてきた。
第二に、1970年代に入って日本国内外の変化の影響を受けて、民族学級には「位置づけ」の転換が現れた。1970年代に、「学校とは無関係な在日韓国・朝鮮人の自主的な民族教育実践の場」としての民族学級から「学校における外国人教育実践、在日韓国・朝鮮人教育実践の場」としての民族学級へという位置づけの変化が現れはじめた。
この転換をもたらした背景としては、部落解放運動を中心とした反差別運動の連帯の拡散や、ニューカマー外国人が増加、それに対する後続措置が行われたことなどを挙げた。
第三に、1970年代以後、大阪と京都においても、民族学級は「学校の取り組み」として位置づけられるようになった。しかし、学校における民族学級の位置や顕在化の程度と制度化との間には、かなりの乖離が存在している。
・・・・・・・
以上で検討したように、日本における在日韓国・朝鮮人教育や民族学級をめぐる歴史は、いわば抑圧と抵抗の歴史として始まり、その位置づけをめぐる政治は、いまだに進い中である。
その政治とは、「マイノリティ側の自主的な民族教育」という位置と、マジョリティ側により大きな重点が置かれた「学校の取り組みとしての民族学級」という位置を両端とする軸の上で行われる。マイノリティ児童への教育実践の主体や責任をめぐる政治でもあろう。
彼らが民族教育を受けることが、行政や学校、担任教員からの配慮や寛容によってのみ可能なるのではなく、「権利」として位置づけられ、制度化されるのであれば、その教育をめぐる二項対立性や政治性は、ようやく克服への可能性が開かれると思う。教育を受けるこが児童の権利であるという視点や、歴史への認識の土壌の上で成り立つマイノリティ児童への教育実践がより必要であろう。

上記引用の2例は民族学級の事例研究の論文ですが、戦後の経緯については韓東賢氏の紹介とほぼ同旨です。
暇がないので上記2例しか読んでいませんが、いろんな見方(在日はニューカマーと違い特別な待遇を受ける権利があるという基本的主張?)
昨日紹介したようにこの種分野を専攻する日本人がほぼいない・・・憲法学界等で一方的学説が幅を利かしていて修正の効かない体質になっているのを露骨にした分野になっている結果、こうした一方的主張・・研究発表が蔓延しているのに対して?黙ってられなくなって反応しているのが「在特会」の運動?のように見えます。
民族学校→いかに朝鮮族が虐げられてきたかの傷をえぐりだす為の「歴史教育をしろ!という要求→教科書問題を政治運動のエネルギーにする研究になっているようです。
外国居住地で出身国の民族教育強化→現居住地で自民族がいかに虐げられているかの教育→現地社会への不満拡大のエネルギー培養効果があるでしょう。
民族教育強化とは、現地社会と対立的な思想教育をする目的・・単なる自民族向けの教育環境整備ではなく、現地社会への同化拒否を目的にした政治運動の最先端というべきではないでしょうか?
外国で政治運動するような組織の存在自体を許容する社会(法で禁止できないとしても図々しい政治行動がその社会で軋轢を起こすマイナスの方が大きいので、多くの民族は目立つ政治活動(欧米で日本人学校を作って日本民族がいかに現地社会で差別を受けているか、それが如何に不当かの教育目標にすえる?)を自粛しているのではないでしょうか?
孔子学院が中国のプロパガンダや政治工作拠点になっているとして、アメリカで政治問題化していますが、そういう露骨な運動は嫌がられるのが普通です。
民団に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/からの引用です。

韓国政府が運営資金の6割から7割を負担しており[2][3][4]、日本国内の300を超える拠点で活動を行っている[2]。主な活動内容は、在日韓国人の相互親睦、韓国文化の紹介等の広報宣伝、日本での地位向上(日本での参政権要望、教科書内容の是正要求等)など。
会員は約50万人で、日本などに帰化して韓国籍を離れた者も会員になることができる[5]。韓国の公的機関ではないが韓国籍パスポートの申請、韓国の戸籍処理などの依頼を代行している。また、韓国政府から年間80億ウォンの支援を受けている[6]。傘下に金融機関(商銀信用組合を参照)や教育機関を多く保有している。

上記の通り「日本での地位向上(日本での参政権要望、教科書内容の是正要求等」というのですが、よその国にいながら、参政権をよこせとか、在日の被害意識を強調し、在日の権利拡大推進のため→特別な被害の歴史の協調→日本の教科書批判→大臣のくびをとるような政治運動体となってくると日本人と喧嘩するためにあるような団体のイメージが広がります。
韓国は世界中でそんな図々しい要求をしているのでしょうか?
あるいは日本だけで行っているのでしょうか?

基本的人権制約原理8(ヘイトスピーチ規制3

ところで、少数派とは、何でしょうか?
組織暴力団も国民全体から見たら少数派ですし、飲酒運転したり金融取引ルール違反する人もそれぞれの分野では少数派でしょうが、暴力行為や金融取引ルール違反があれば処罰される制度は加害者よりさらに弱者の一般消費者・弱者保護のために仕方のないことです。
中小学校等で暴力を振るういじめっ子の多くが、家庭内で虐待されている弱者かも知れませんが、いじめられる子にとってはいじめっ子が強者です。
論理的批判抜きに、まず高裁決定批判ばかりでは、何のために裁判制度があるかわかりません。
まして在日の場合その代弁メデイアに事欠かない・むしろ民族系主張を支持するメデイアが皆無・民族系主張はネット発信によるしか発表の場がない現状から見て、この種の主張は形式論にすぎません。
しかも、少数派保護というならば、「関西人や東京人というような集団に対する名誉毀損は成立しない」という昨日引用のウイキペデイアの解説との整合性がどうなるか?という疑問があります。
首都圏で特定県民性批判・たとえば「〇〇県人にはこういう欠点がある」と批判されても(その県出身者は首都圏には数〜5%しか住んでいない場合)極小数であって、正面から反論できない点では同じではないでしょうか?
関西人は〇〇、名古屋の人は△とかの県民性等の批判が良くて、少数民族なら許されないという区分けの根拠がなにか不明です。
そもそも民族と地域性による特徴ある集団の区別もよくわかっていません。
民族は人種そのものと一致しないのが常識でしょうし、文化的同一性・風俗習慣の共通性といえば県民性や地域性(東北の人と関西系の違い)とどこが違うのか?となりますし、言語の同一性を基準にすると(在日も日本語を普通に話せる)など一方で拡散し過ぎ、他方で方言的違いの区別を言い出せば細かくなりすぎます。
その上、特徴には両面があって、信州人のようにきっちりした県民性は賞賛のようでいて逆から見ると融通の利かない人というマイナス的評価も含みます。
具体事例ではアメ公とか(沖縄基地関連で)ヤンキーゴーホームという派手な運動が許されて、韓国人に対する批判だけ許されないとすれば基準がおかしいとの批判もありますが・・。
沖縄在住の米国人は確かに少数でしょうが、事実上の支配権力類似のバック(治外法権を持つ軍事基地)がある面で違いがありますが、権力者の子供が権力者の意向の及ばない学校や野球等のサークル内でいじめにあっているようなものでしょうか?
大手企業社長や評論家は日本全体では発言力があって地元の身近な問題・・局地的問題に対する影響力がありません。
日本有数の発言力を持つ言論人や企業経営者も子供(孫)の生活圏では影響力がない・その孫等は小学校内では一人の子供でしかない「弱い者」ですから、おじいさんの政治発言に対する反感を直接その評論家に反論しても論戦で勝てないないので、(相手にされない・自分の意見は正論ではないので)関係ない小さな子供にぶつけていじめの対象にするのは、「卑怯なこと」です。
韓国の慰安婦攻撃の過激化に対する反感を背景に在日批判が激しくなったことから考えると、国と国との論戦・・韓国との国際言論戦の劣勢?に対する鬱憤を、日本にいる在日に対する攻撃で晴らそうとするもので、米軍基地撤去運動の効果が出ない不満を弱い沖縄居住米国人個人攻撃に向けている点では似ています。
スポーツ選手がスポーツの試合では叶わないので、腹いせに相手選手の子供をいじめるようなものですから、相手を擦り変えて攻撃すること自体が卑怯な振る舞いです。
「ヘイト」という変な外国語を振りかざすのではなく、卑怯な行為は「道義として許されない」とした方が日本の武士道に根ざす安定した議論になるでしょう。
道義の分野は法による強制ではなく、道義の浸透によって解決すべきです。
西欧でも(フランスやドイツで)移民排斥運動を公式に唱えている政党があるようですが、同じように外国人排斥運動すると日本でだけヘイトになる=表現の自由を制限できるのでしょうか?
ヘイト=表現の自由を制限できるかどうかは国によって政策的に決めて良いとなれば、「表現の自由」は人類普遍の原理ではなくなります。
「弱いものいじめをするな!」という道徳律は重要ですが、「弱いものかどうか」の評価を法運用の基準にするのは却って危うい感じです。
ヘイト規制論の一つとして、明日紹介するように「聞くに耐えない粗野な暴言」「意味のない薄い言語」などを挙げる意見もあります。
でも本当にそうならば、論者は、自分だけ一般民度より高いと思っているかも知れませんが、高民度の日本社会ではそういう粗野で野蛮な言動は「言論の自由市場が受けつけない」ので法規制しなくとも短期間に自然消滅していくのではないでしょうか?
憲法学者や文化人の好きな言論の自由市場論はどこへ行ったのでしょうか?
言論の自由市場に委ねると負けてしまうから規制が必要」という論法のように見えますが・・・。
「自由市場論は元々思想の表現の優劣を市場できめるべき」という原理ですから、「自由競争で負けてしまいそうだから規制すべき」というだけでは、自由市場論の自殺行為のように見えます。
自由主義敬愛にも独禁法がるように構成案市場競争が歪られているならば、その点を具体的に主張すべきでしょうがその点の主張がはっきりしません。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3598/1.html

2015年1月13日(火)放送
ヘイトスピーチを問う ~戦後70年 いま何が
ゲストロバート・キャンベルさん(東京大学大学院教授)
●去年の秋ごろ 実際にデモを見て
私が去年最後に見たのは、秋ですけれども、見に行って一番感じたことは、驚くほど内容が、中身がないということです。
中身がないということは、非常に力強く、大変耳を疑うような言葉が次々と出てくるわけですが、例えば、彼ら、彼女たちが標的にしている在日のその特権、それが具体的に何かっていうこと、本当に存在するかどうかということを示そうとしない、もっと大きなこととして、おそらく、その先にもし自分たちのその目標を達成した暁に、そこにどういう日本があるのか、日本という国はどうあるべきかというビジョンと言いますか、思いと言いますか、それを外に対して伝えようとしない、非常に内向きで内容が非常に乏しいものだということを、私はまず聞いて驚いたんですね。
粗野で内容のない一方的非難言動は激しければ激しいほど「聞くに耐えない暴言」あるいは、「内容のない決めつけ発言」は相手にされない社会、静かに論理的に持論を主張するようにしないと誰もまともに聞いてくれないような社会・・市場原理に委ねるようにすれば、解決して行ける・・日本社会はレベルの高い社会です。
私は「ダメなものダメ!」「少なくとも県外へ!」などの根拠のない決めつけスローガンを常々批判してきました。

こういう根拠ない意見をメデイアが有り難そうに煽るので、遅れて発信者として参加した初心者は・・メデイアで聞き慣れた「決めつけ調」から始めるしかないのは仕方のないことです。
保守系がメデイアの真似をするとメデイアの寵児ケントギルバート氏がそれを批判するのはおかしなものです。

基本的人権と制約原理3

右翼系のネット発信者の多くが名誉毀損訴訟で負けているように見える原因は、政治評論家=プロ発信者なのに、事実と意見の区別がついていない人が多い結果かもしれません。
慰安婦騒動の植村記者の名誉毀損訴訟事件も多分(訴訟内容が不明なので推測です)同様でしょう。
取材報告?が慰安婦騒動の火付け役になったことは事実としても、前提となる記事が取材通りの記事だった場合、記者は取材相手が虚偽または間違ったことを述べたことをそのまま報道した場合、直ちに貴者が「捏造」したことにはなりません。
挺身隊と慰安婦募集の違い?裏付け調査を仮に怠ったとしても、それは過失責任の問題であって、(過失が酷すぎて捏造と同視できるほどひどい場合もあるでしょうが原則論では)記者が捏造したことにはなりません。
要は植村記者批判論を概観すると「捏造」というためにはどのような事実が必要かの「言語理解の詰め」が欠けているように見えます。
「捏造」というのは、あるいくつかの事実に対する評価意見であって「事実」そのものではありませんが、物事には定義がありますので、一般的定義を離れた「独自の定義づけ」であればそれは「捏造」と評価することも許されるでしょう。
定義を勝手に変える場合、その旨の注釈・「説明責任がある」という意見でjune 6, 2018,「慰安婦=性奴隷論の説明責任1(言葉のすり替え1)」以降018/06/09/「慰安婦=性奴隷論の説明責任4(独仏の売春制度)」まで連載していましたが、その後横にそれていますが、このテーマが関係してきます。
例えば、泥棒したり時間の約束を破っただけの人を「人殺し」と表現した場合、「俺は泥棒や時間を守らないは人殺しより悪いと思っているから」というだけでは言い訳にならない・・名誉毀損罪になります。
捏造という熟語も自分勝手な定義づけは許されません。
一般的定義に従って「捏造」というには事実調査が必須ですが、(事実調査をしないまま感情的に)「捏造」の断定主張を公然として蓋を開けてみると取材対象が貴者の報告通りの発言をしていたとすれば、名誉毀損になる可能性が高まります。
我々が「捏造と言って良いか」について事前相談を受ければ、「捏造」というためには記者が取材対象から聞いたことと違う事実を本社に報告した事実を抑える必要があると助言することになります。
裁判になれば、虚偽報告(真実性証明」の立証責任はこちらにあるし、「相手は取材時の録音を出す可能性があるので、それを出されると一発で負けるリスクがある」録音テープを入手しているのか?少なくとも取材対象にあたって確認したのか?等を聞くのが私の場合でいえば普通です。
こういう場合相談者の中には「捏造に決まってるじゃないか!とか「みんなが言っている」と言い張って難渋することがありますが、多くの場合言葉の定義のなりたちを説明すると納得してくれます。
何かでもめている相談者のうちかなりの事件では、相談者または相手方が、言葉の定義を独自解釈して自己正当化して揉めている事件がほとんどです。
定義とその当てはめが一致している場合、例えば「借りた金を返せない」というだけの場合にはどのような手続きが必要というだけのことで本当の意味の正義の争いにはなりません。
この金曜日夕方帰り際にあった相談でいえば、「保証で困っている」と消え入りそうな声で言って「生活保護を受けている」ともいうので「それなら保証など心配しなくて良い「破産すればいい」と説明すると、電話ではっきり聞き取れないが、「家を出なくてはならない」ので困ってるというので自宅なのかと聞くと、「借りているが出なければならない」「生活保護ならなぜ出るの?何の保証なの」と聞くとようやくアパートを借りるときの保証を息子にしてもらっていたが息子が怪我して保証できなくなったので「保証がないと貸せない」と言われている問題に行き着きました。
相談者は月末には家を出なければならないと切羽詰まって相談の電話をしてきたのですが、実はそこに双方当事者の(市担当者も含めて)言葉の誤解というかすり替えがあります。
新規に貸す場面ではなく、「更新拒絶できるか」かの局面なのに、「新規に貸す場合」の条件でお互いに張り合ってるのがすぐにわかりました。
新規に借りる場合には、どういう人に貸すかの基準設定は大家の自由ですが、一旦貸した人に対して満期に更新拒絶するには正当事由が必要です。
市の方で更新料も払ってくれる予定というので、それなら出る必要がないから連休明けに市役所担当者に事務所に電話して貰うように説明して終わりにしました。
「貸す」のは新規の場合であって満期継続の場合には「貸す」のではなく、「更新」するかどうかなのに「貸す」華道家のようないい加減な言葉遣いの結果、新規同様に貸主が自由に決められるかのような連想作用・誤解が生じていたのです。
生活保護の場合、支払いに心配がないので本来保証不要でしょうから、更新拒絶の正当事由がなさそうです。
このように何気ない言葉遣いの違いによっても、法律効果が大きく変わってきます。
ネット上の政治/経済評論家たちの多くは、(大手のような内部チェック機関がないので)プロとしてのチェックなしに素人レベルの感情的意見をそのまま断定的に発信していることが多い印象です。
ネット発達の結果フェイクニュースの問題が大きくなってきたのは、企業と違い発信前の内部チェック機関がないことにもよるでしょう。
企業のように個々人には、そういう内部機関が無いし一々弁護士相談しているとコスト的に合理的でないし機動力に欠けるでしょうから、(私自身弁護士ですが、自分の娯楽的に書いているこのコラムでは、プロとしてのチェックをしていません)気楽にネットチェックできるサービスが必要になっているように思われます。
素人の場合大した吟味なしに言いたいことをあんちょこに発信しても影響力が少ないのであまり問題にされないでしょうが、プロ発信になると影響力が大きい分に比例して慎重さが求められます。
朝日新聞の特徴は事実としての報道ではなく、ムード的誘導報道が多いことを(を理由に昭和61年から日経に切り替えたこと)書いてきましたが、数十年以上前から企業広告も大手の場合、個別商品の具体的効能宣伝ではなく企業イメージアップの抽象的広告が主流になっています。
この種イメージ報道に対して反応したならば、ムード的批判だけにすればいいのですが、誤った事実のような批判主張すれば、評論家の意見としては行き過ぎになるリスクが高まります。
NHKの台湾原住民訴訟では編集に対する不満を「事実に合わない報道」として損害賠償請求したようですが、逆に事実をどのように編集するかは、編集権(表現の自由)の次元であるとして負けたように思われますが(判決書を見ていないので推測です)右翼系は事実と意見の切り分けができていない印象です。

STAP細胞事件3と日大アメフト事件2(第三者委員会とは?1)

小保方事件での早稲田大学の処分は、判断基準がずれています。
日大は内部実力者に対する忖度でにっちもさっちもいかなくなって内部懲戒制度が機能しなくなっていたので、第三者委員会に頼ったのでしょう。
早稲田大学も内部で処理する能力がないならば、第三者委員会でも立ち上げる必要があったように思われます。
うやむやにできてホッとしているでしょうが、その代わり「早稲田大学の学位ってそんなものだったの!」という評価の定着の方が大学にとって長期的に大きなダメージです。
学位授与審査の現実は仕方がないとしても「不正がバレても学位授与を取り消さない」というのって理解不能です。
刑事処罰の場合、検察官や裁判官が被告人を個人的に知っていることは万に1の確率もないでしょうし大手企業の内部懲戒処分もほぼ同様でしょう。
しかし、学会や弁護士会の懲戒処分で言えば直接会ったことがなくとも、直接間接によく知っている仲間内の処罰ですから「泣いて馬謖を斬る」ような辛い面もありますが、個人を守るためではなく、組織を守るためにある制度ですから、ルール違反があれば穏便に済ます訳にはいきません。
この意味では朝日新聞の慰安婦報道事件、あるいは日大アメフット部の騒動では、第三者委員会が設けられていますが、第三者委員会設置発表自体・・自分たち内部自浄機能が作用していない・国民の信用がないことを潔く告白したようなものでしょう。
4〜5日前に日大第三者委員会の調査結果が発表されましたが、一見したところ想定外に?にきっちりした報告のようで、第三者委員会が、本来の面目を施したように見えます。
http://www.sanspo.com/sports/news/20180629/spo18062920470013-n1.html
「中間報告書に記載されているとおり、本学職員による反則行為の指示が存在したことは誠に遺憾であり、被害選手、保護者及び関西学院大学アメリカンフットボール部の関係者の皆様、並びに反則行為の指示を受けた本学の選手及び保護者に対し、深くお詫び申し上げます」と謝罪した。
第三者委員会は中間報告で内田前監督と井上前コーチを「指導者としての資質を著しく欠いている」とした上で、責任転嫁するような姿勢を「極めて悪質」と指摘。問題発生後の対応で、一部の日大関係者により当該選手に責任を押しつけ、監督やコーチの指示はなかったことにしようとする不当介入が行われ「事件のもみ消しを図ろうとした」と断じた。
https://www.asahi.com/articles/ASL6Y3VH3L6YUTQP01F.html
日大第三者委、内田前監督らの指示認定 悪質タックル
2018年6月29日15時25分

中間発表の骨子の主な内容
・ルールを逸脱した極めて危険なタックルは、(前監督の)内田正人氏と(前コーチの)井上奨氏の指示で行われた
・試合直後のミーティングや記者会見で、内田氏が自らの責任を認めるような発言をする一方、事情聴取では井上氏とともに不自然な弁解を繰り返し、自らの責任を免れ、(当該)選手に責任を押しつけようとしている
・事件発生後、一部の日大関係者より、(タックルをした)当該選手に責任を押しつけ、監督コーチの指示はなかったことにしようとする不当な介入が行われた

これまでの朝日新聞の第三者委員会報告などの例では、依頼者である朝日新聞の意向を忖度しながら、ある程度世論動向に合わせて批判的に書く・「この程度まで批判的に踏み込まないと世論が納得しない」だろうという政治思惑による調査報告・.時間稼ぎの印象が強かったのですが、今回はズバリ日大執行部の悪しき行動まで踏み込む切れ味の鋭い指摘です。
日大側としては、内田常務一人を悪者にして大学全体の生き残りをかける覚悟を決めていたものの、実力者内田氏の首に鈴をつけられないので第三者委員会にそこまで踏み込んでもらって「その認定事実を基礎に内部処分を決める」という図式を描いてこれに合わせて「結果ありき」の調査だったのかもしれませんが・・。
第三者委員会設置時点で内部の権力闘争が決まっていたというおどろおどろしい結果だったのかもしれません。
日本特有かどうか知りませんが、「第三者委員会」という代物ほどおかしな立ち位置はありません。
正式には第三者委員会ではなく、第三者「的」委員会というべきでしょう。
弁護士会の懲戒委員は総会で選任される仕組みですが、事実上執行部の推薦による点は事件後に設置される第三者委員会と外見上似ています。
しかし、単位弁護士会の場合には、執行部任期は1年限りであり懲戒委員の方は任期2年ですが、事実上本人が辞めるまで一定期間続ける慣習ですから、執行部に都合の悪そうな事件が起きた時の委員は9割方5〜6年以上前の執行部推薦委員ばかりで現執行部に何らの義理もない上に、委員は高齢者ばかりでこの先なんらかの役職につきたいような欲のある弁護士はいません。
そもそも弁護士会は職能団体組織であって、構成員の意向をまとめて表明することですから、上命下服的組織が普通の一般企業組織と違い、執行部の姿勢による不祥事・その進退を決めるような不祥事が社会問題になるようなことは想定できません。
この辺は経団連であれその他職能団体の多くは皆同じでしょう。
今朝の日経新聞2pでは、プロゴルフ協会がプロアマ大会で招待客に対してプロが働いた非礼な行為(というのでどんな行為かと思って読んでみると「招待したアマがプレー中にプロがウオーミングアップ用に自己練習をした」という点が失礼だったとされているようです・)「こんなぐらいいいじゃないか!」と言いたい人もいるでしょうが、これについて罰金30万の他に厳重注意処分」というのですが、業界としては身内をかばっているよりは、「スポンサーのご機嫌を損ねたらおしまい」というあたり前の価値基準の行動ですし、内部権力抗争と関係がありません。
慰安婦騒動に関する朝日新聞の場合には、特定人物の暴走ではなく組織挙げての体質のようですから、アサヒ関係者の誰も本気で反省していない・・スケープゴートを作り出すわけにもいかず、第三者員会を設けても時間稼ぎ程度の結論にしかなりようがなかったのでしょう。
国民の怒りが一過性のものならばそれで良い・スポンサー・顧客である国民に対して「襟を正す」必要がないので、成功となります・自社の報道姿勢は正しかったという姿勢堅持ですから、いわばどちらが正しいか?いまだに真っ向勝負勝負を社会に挑んでいるように見えます。
慰安婦騒動では国内的に陳謝していても海外版では一切の訂正がないと言われ(海外版を見る能力がないのでそういう噂があったという記憶だけです)ますし「江戸の仇を長崎で」と言わんばかりに安倍政権打倒に的を絞った「森かけ問題」に執念を燃やし「日本には言論の自由度が低い」と国連活動している(ただし、匿名者が特別調査者に説明しているだけで朝日がやっているとは限りません)のは、その一環で「最後の勝負にでている」ように見えます。
この勝負はどうなるか政治の世界は一寸先は闇ですが・・・開き直りに徹している以上は、朝日新聞の体質改善には結びつかないので、新聞購読数・発行部数のジリ貧傾向が続いているようです。
http://biz-journal.jp/2016/10/post_17001.html
2016.10.26
企業・業界 企業・業界
朝日新聞、4年間で発行部数105万減の衝撃…新聞業界、存亡の危機突入へ
内容を見ると残紙率の減少が進んだ結果もあるので、実購読者が減った分の実態はヤブの中です。
http://www.garbagenews.net/archives/2194431.htmlは最新である他にいろんな角度からのグラフがあってわかり良いので一部紹介しておきます。

新聞の販売部数などの推移をグラフ化してみる(2017年後半期まで)(最新)

↑ 主要全国紙の朝刊販売数(万部)

 

本文は16年の記事ですが、グラフの方だけ更新されているらしく18年まで出ています。
グラフでは100万部どころか200万部近く減っている様子で下げ止まっていないようです。

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