マスコミによる世論誘導の害2(不毛な財政赤字論1)

「1000兆円の国債・債務を次世代に残すな!」「年金不安で次世代は損ばかり」とマスコミは宣伝し、国民の多くがその宣伝を真に受けてその気になっています。
しかしその内95%・950兆円は国内保有=債権者は国民ですし、その保有債券を相続するのも次世代ですから、差引僅かに50兆円しか次世代に残す負債はありません。
個人金融資産が1500兆円と言われていますので(上記国内保有比率が今後下がってもその分海外債券を持っていれば結局は同じです)差し引き500兆円のプラス財産を次世代に相続させることになります。
相続財産としては金融資産に限らず自宅やアパート保有など親世代の保有不動産も今では莫大で・一般的にはこちらの方が大きいのが普通です。
この辺は都市住民2世と地方出身者との格差として、今後相続財産のウエートが上がるというテーマでFebruary 5, 2011都市住民内格差7(相続税重課)」まで連載しました。
例えば数億円の自宅やアパートがあって数千万円の負債があった場合、マスコミのように金融資産だけで見れば次世代は数千万円の負債相続ですが、不動産価値と総合すれば数億円の黒字相続です。
個人の場合住宅ローン債務が3000万円あってプラス金融資産が数十万円しかないときに、金融資産だけで見れば約3000万円の赤字ですがマンション価値が8000万円であれば、誰も騒がないでしょうし、子供も金融負債の相続をイヤだとはいいません。
住宅ローン支払中世代は金融資産だけで見れば、(自己資金で間に合えば借りないのが普通でしょうから)一般的に金銭債務だけ見れば債務超過・赤字家計ですが、総資産としては黒字の人が多いでしょう。
相続開始前(65歳以上)の人は住宅ローンも終わっているのが普通で、定年直後は退職金等による金融資産と不動産価値はほぼ均衡しているでしょうが、高齢化に連れて金融資産を食いつぶして行くので、主たる資産は不動産中心となり、プラスそこそこの金融資産を有している人が平均的なところです。
富豪は別として平均的サラリーマンで言えば自分の寿命プラスα程度の金融資産があれば良いという人生設計が普通ですから、80〜90歳前後の人の資産としては不動産が中心で金融資産はホンの一部である人の方が多いでしょう。
お金があまりなくともお祖父さんお祖母さんの保有資産の相続は、大きな価値があるのが普通です。
マスコミで問題にしている資産は、総資産のホンの一部に過ぎない金融資産だけですが、それでさえ1500兆円もあります。
仮に金融資産がゼロに近づいても、実は保有不動産その他の資産価値が大きい時代ですから、これを無視して次世代が負債を相続すると騒ぐのは国民に余計な不安を煽っていることになります。
国有資産も同様で1000兆円の国債=負債があっても、それ以上の国内投資をして対応する資産があれば(個人金融資産が仮に1500兆円もなくてゼロだとしても)黒字の政府です。
政府の財政赤字を騒いでいるマスコミ論調は、個人で言えば住宅や保有アパート価値・保有金融資産などプラス資産をあえて全部無視して、住宅ローン債務だけを針小棒大に論じているようなものです。
こんな議論の方法は子供騙しそのものですから、明らかに誤誘導・一定方向(増税)への意図的な世論操作をしていることになります。
将来大変なことになるかどうかはトータル資産・・バランスシートで見なければ、金融資産のマイナス分だけ見ても話にならないことは誰にでも分る道理です。
企業規模/経済規模が大きくなれば負債も大きくなりますから、大変な負債かどうかは企業全体の規模で比較しないと何とも言えません。
マスコミは比較すべきプラス財産総額を全く論じないで負債の絶対的な大きさだけで、「大変だ」と論じている不合理な論法で、これで日本中が黙っているのですから不思議です。
こんな報道に対して、(日本国民は賢明だから黙っていても内心)みんな馬鹿にしているのだろうと思っていたのですが、6月14日書いたように学者が大まじめにこれを信用しているのにも驚きました。
学者と言えばいろんな専門家のブログを読むと、専門外のことを例として言及する場合マスコミが報じているステレオタイプの誤った知識・歴史認識を前提に書いている人が多いのにも驚きます。
学者の立論の前提が誤ったステレオタイプの知識に基づいているのでは恐ろしいことですが、そう言う意味でもマスコミの学者に与える誤った前提知識の弊害も大きいのです。
次世代に対する負債の先送りとして議論するならば、上記の通り対応する自宅等の不動産車機械などがあれば健全なことになるので総資産とのバランスが重要です。
マスコミの論法は住宅ローンで自宅購入し、あるいは企業が借入金で設備投資した場合に、購入し入手したプラス資産を全く評価しないのですから、銀行制度や社債発行自体を悪だと言っているようなものです。
経済の世界では基本常識になっているバランスシートで健全性を見る方式を、マスコミも知っている筈なのに財政赤字論に関しては全く無視していることになります。
この辺のことは以前から連載しましたが、逆から言えば赤字解消のために国有資産を売却して財政赤字を減らしても、(同額の資産が減っているので)国民にとってマイナスを減らしたことにはなりません。
NTTや専売公社・郵政民営化や国有地である公務員宿舎用地売却で大金が転がり込んでも、その分国有資産が減っているので、総合的な財務(バランスシート)としては変化なし・意味がありません。
(マスコミでは財政赤字だから宿舎用地など売却すべきだという論調がおおいのですが、国家財政全体から見れば意味のない主張で、経済政策として民営が良いか公務員に宿舎が必要かどうかの視点だけであるべきです)
民主党による埋蔵金を吐き出せば良い式の議論も同じで、その分国家資産が減るので差引経済(バランスシート)的には同じです。
マスコミだけではなく政党も経済学者も金融資産・・それもマイナス部分だけをテーマにしている結果、意味のない議論に日本中が時間を掛けていることになります。
年金未納率を減らすために社保庁がドンドン免除者を増やしていた(納付義務者を減らせば滞納率は下がりますが、払う人が実際に増えた訳ではないので年金赤字問題には何の解決にもなりません)のと同じで、問題の解決に関係ないことに時間を費やしているのです。

公約違反(無視)政党の存在意義2

増税の必要性に関する意見は人によっていろいろだとは思いますが、重要事項・・とりわけ増税の可否は最重要事項として歴史上選挙で決めることになっているのですが、ルール違反によって自派の期待する結果を不正な方法で実現するのは、民主主義ルールの中の最大ルール違反と言うべきです。
(政治・経済に関してはどんな立派な学者の意見でも別の角度から見れば欠点があり得ますし、私もいろんな意見を書きますが、1つの意見として参考にして欲しいと書いているだけで、最後は選挙で決めるべきことであって不正な方法を使ってまで持論を通したいと思ったことはありません。)
マスコミはこの重大な手続き違反行為に全く触れようともせず、もっぱら「小沢新党には国民の反応が冷ややか」など(小沢氏の動きは政局ばかりで識見がないかのごとき報道も一杯されていますが)マスコミに関心がある「政局」ばかり報道していて、実質的に公約違反を論じないで黙認している状況です。
マスコミは政局あるいは増税の可否について中立であるべきですから、結果の妥当性の議論よりは私同様に公約違反という手続きの瑕疵について、世間に浸透する程度に少しは論じておくべき立場ではないでしょうか?
重大な手続き瑕疵である公約違反の重大性を全体の論調として全く論じないで、(少しは書いているかも知れませんが関心を持つ私の目にさえ留まらないということは、殆ど報じていないのでしょう)消費税増税結果(如何にも必要なことであるかのような報道姿勢)や政局の動向ばかり論じるマスコミの姿勢は、中立性を欠いているようにも思われます。
「国民は馬鹿だから選挙で重要事項は明示せずに騙せば良いんだ」「結果さえければ良い」という基本的立場がその底流にあるように見えますが、そんなことを言い出したら(絶対的な価値をマスコミが決めることとなり)民意に基づく民主主義・選挙制度自体が成り立ちません。
日本は、庶民のレベルは低いからリーダが良い場所へ引っ張って行けば良いというのは、啓蒙的専制君主制あるいは後進国で効率の良いとされる開発型独裁国家の正当化理論です。
これらは民度が低くて国民にはマトモな判断力がないことを前提に白紙委任する政治形態で、結果が悪ければ独裁者を引きずりおろして責任を問う政治形態です。
実際には失政か否かの判定がこれまで書いている通り難しい・・殆ど不可能なこともあって、簡単に引きずりおろせないので、長期政権になるのが普通で何十年単位で国民が苦労してしまい、最後に大争乱(ソビエト崩壊やルーマニア・・最近ではリビやエジプト)で幕を閉じるのが普通です。
現在でも頑張っているのが中国や北朝鮮というところですが、独裁政権が頑張る期間が長ければ長くなるほど国民は大きな代償・・大争乱による苦しみを経験することになるでしょう。
中国では歴代の王朝末期にいつも100年前後の争乱期が存在するのはこの好例です。
先進国では民度が高いので、独裁者に一任せずに事前にマニフェストを明らかにして具体的にやるべき政策を公約して当選すれば任期中は選挙民の意見に従って政治運営する時代になっている・・この方が独裁・専制君主政権に一任して後で結果が悪いからと引きずりおろすよりも社会のリスク・コストが少なく済みます。
私は民主的に政権交代することに長年期待していましたが、せっかく期待していた政権交代が実現したばかりですが、それと民主党の犯した公約違反責任を不問にして良いかは別問題でと考えています。
民主党は実務経験がないどころか権力を持ったこともないので、これを持った場合の自己抑制・運用方法に関する最低のルールすら知らなかったということでしょうか?
民主主義を尊重すべき党名「民主党」を名乗っているのに、民主主義の最低ルールすら知らなかったとは驚きです。
国民の信頼によって成り立つ間接民主制・政党政治のよって立つべき原点を率先して民主党が崩壊させてしまったので、その罪・政治責任は重いと言うべきでこのようなことをする党の存在そのものが政治的に許されなくなるべきです。
これだけのことをやれば責任上、自ら解党して出直すべきです。
勿論野田総理とこれの推進に関与した一党は政治生命をかけると言明したのですから、この際責任を取って政治家を辞めることになってくれれば民主主義は信頼回復できてなお存続可能です。
株屋で言えばクビを賭けて悪事をやった以上は、解雇される前に自らクビを差し出すべき行為です。
客を裏切った営業マンを度胸があると言って出世させていたのでは、証券会社に対する信頼が地に落ちてしまいます。
選挙民の意向を気にする政治家を「選挙のことばかり気にしている」とバカにしますが、選挙民を無視した政治家を賞賛するのは、客の意向を無視する営業マンを勇気があると賞賛しているのと同じでその株屋に頼む人はいなくなるでしょう。
公約を正面から破って国民に陳謝しない・責任を取らない不正義な政党や政治家の存在が一人でも許されれば、(マスコミもこれ黙認して全く問題にしないならば)今後マニフェストや選挙公約は守らなくともよいとなって代議制民主主義制度が存続出来なくなってしまいます。

政治生命をかけるとは?2

ところで、6月26日の衆議院での採決では、民主主義の正義を守るために「政治生命をかけた」のはわずかに57人しかいませんでした。
(棄権者はその他にいましたが・・意見を言わない人は、大勢の赴く所で良いということ=そのときそのときの強い者の味方・・本件では信託者である国民に対する裏切り行為の肯定・黙認に作用します)
ちなみに離党したのはそのまた一部37人(衆議院に限定すれば・・)だったことをどのように評価するかです。
正義に反する行為をする政党には居られない・・「義に反する周の粟(ぞく)を食らわない」と言って西山に入ってゼンマイやワラビを食っていて餓死した伯夷叔斉の故事が有名です。
以下史記列伝の(周の武王の出陣を止めて容れられなかったので)西山に隠遁していて、死に際しての辞世の句です。

登彼西山兮   彼の西山に登りて
采其薇矣     其の薇を采る
以暴易暴兮   暴を以て暴に易へ
不知其非矣   其の非を知らず
神農虞夏     神農虞夏
忽焉沒兮     忽焉として沒しぬ
吾適安歸矣   吾適(まさ)に安くにか歸せん
吁嗟徂兮     吁嗟(ああ)徂かん
命之衰矣     命の衰へたるかな

私は現在の代議「士」に餓死まで求めません・・離党すればいいだけ・国会議員の地位はそのままで歳費は従来通り受け取れますから・・餓死する心配すらないでしょう。
それだけ(次の選挙が怖いだけ)のことでも正義のために賊徒の中で反旗を翻すことの出来る気概のある国士が37人しかいなくって、あるいはそれだけ多くいたとしても、残りはやはり大きな所帯に居残りたい・・正義のために政治生命を掛けるより安泰な地位を求めたい人たちだったということになります。
(それまで小沢氏に恩顧を受けていたその数倍の人が目先の利に従ったことなります)
マスコミは小沢氏に付き従った人が僅か37人・・支持が少ない・誰も支持しない異端のグループであるかのような印象を強調するために宣伝していますが、逆に選挙に落ちる恐怖・・伯夷叔斉が西山に登るに匹敵する勇気のある人が37人もいたのかとも言えます。
この辺の解釈は読者が自分の身に置き換えて自分だったら、そんな思い切った決断が出来たかどうかを基準に判断することでしょう。
「政治生命をかける」と言うはたやすいですが、実際に大きな権力に刃向かうと悪事が露見しないように権力から口封じのための刺客も来るでしょうし、大きな権力に身を寄せていないと次の選挙で落ちる恐怖が大きいことは当然です。
(マスコミはいつも大きな権力寄りで、与党批判者には陰に陽に誹謗中傷が行われる傾向があります・・まして今回の増税路線はマスコミ推奨路線でもあるのでなおさらです)
伯夷叔斉は自分の意見が正しいことを訴えて周の武王やその部下全員を翻意させようと飽くまで努力したのではなく、こんな義に反する周の国にはいられないと身を引いて餓死したに過ぎません。
ナチスに対するレジスタンス・あるいは近年の民主運動家は、単に国から出て行くだけでは(亡命あるいは海外移住)潔しとせずに、国内に留まって命がけで民主化運動に取り組む人たちが普通です。
国を捨てて海外移住希望だけなら韓国・中国の庶民?(巨額資金を蓄財している共産党幹部など)はいくらでもしていますので、海外移住をしている庶民の多くがみんな古代の伯夷叔斉並みの「士」と言えるのでしょうか?
今では海外の方が住み易いので移住するだけですから、死を恐れずに西山に入った伯夷叔斉のような「士」ではなく、祖国を地盤にして金儲け(蓄財)してその資金を持って海外に逃げるのですから、祖国を裏切る不道徳な国民がこんなに多いのかと言う印象です。
37人の義士は、こんな不正義な政治の世界にはいられないと言って政治をやめるだけなら、中国・韓国人の海外移住・逃亡同様に何の苦労もないでしょう。
国会議員をやめても伯夷叔斉の時代と違い直ぐに餓死することはない・・別の仕事がいくらでもある時代です。
権力者にとっても政界から逃げ出してくれれば大した害がないので、放置すれば済むことですが、(平安時代にあった左遷・・中央からの放逐で足りたのと同じです)政治社会に留まって反対を唱えられるのが怖いので、刺客を向けたりして口封じに精出すことになります。
代議士を辞めずに自分たちの理想社会を作ろうと努力を続ける点では、その場から逃げてしまった古代の伯夷叔斉よりも偉いのかも知れませんが、その代わり(自分の権力欲を満たすためにやっているのと区別が難しいので)マスコミからは個利個略だと誹謗されるし、権力からは刺客に狙われるし、次の選挙も命がけです。

マニフェスト(選挙公約)の重み2

公約違反と言っても選挙時に公約したことを実現すべく努力したが反対意見が多くて実現出来ないのなら、力及ばずということで民主主義制度の存続自体の問題ではありません。
普天間基地移転先として「少なくとも県外へ」と言った鳩山代表の主張が、巨大なアメリカの壁に弾き飛ばされて実現出来なかったのは、公約違反ではなく実現出来ないことを主張したという意味の失点・・政治能力がお粗末として評価されることでしかありません。
消費税増税の問題は、当時の鳩山民主党代表の選挙演説で4年間は消費税増税しないと明言しています。
(民主党のマニフェストでは消費税増税に全く触れておらず、財源は無駄の削除で捻出するという主張でした・・その結果政権を取ると事業仕分けなどに精出したのは記憶に新しい所です。)
事業仕分けの結果財源不足を全部賄うまでは行かなかったと批判されているとしても、ともかくこれは公約に従って精一杯頑張ったこと・・自民党では出来なかったことをやっているので国民の期待に応えことにはなっているでしょう。
野田総理に変わると「消費税増税に政治生命をかける」と公言したまでは良いとしても、増税の可否について選挙で「信」を問わないまま野党と談合して多数の力で法律化することが許されるのでしょうか?
自民党は時期をはっきりしないまでも、消費税増税路線を明示していましたが、民主党は4年間増税しないと選挙で主張して政権を取っているのであって、(そのために選挙戦では増税反対→財源論が大きな争点になっていて無駄の削除論・・事業仕分けに発展したのです)野田総理はその選挙の結果政権党になった党首に過ぎません。
「政治生命をかけるべき」ハードルは消費税増税の可否を問う選挙をしても敗戦を恐れないで敢然と正義のために向かって行くことこそ、政治生命をかけるに値する行動です。
選挙で負けるのを恐れて野党との談合で増税法案を通そうとするのでは、「政治生命をかける」と大見得を切ったことにはなりません。
政治生命をかけると言う言葉のまやかしです。
正義のために生命を失う危険を顧みないで危機に立ち向かうことこそ勇者であって、卑劣な手段で結果を求めるために政治生命をかける(歴史に汚名を残すために頑張る)のは、国語辞典にはない新しい用法でしょう。
マスコミは増税実現を賞賛している方向ですが・・(おだてて突っ走らせて民主党を駄目にするほめ殺し戦法かな?)もしもこういう政党(談合に応じた自民党・公明党も含めて)の存在が許されれば、信頼によって成り立っている代議制民主主義制度は崩壊してしまいます。
党として4年間は増税しないと約束して選挙に勝った以上は、野田総理が「消費税増税実現に政治生命をかける」と言ったとしてもその正しい意味はせいぜい
「消費税増税を目指して党内世論を変えて行きたい・・そのために党内で孤立して政治生命を失っても良いという第一弾の意味であり、党内世論変更に成功したらその時点で第二段階として党として正々堂々増税を公約に掲げて新たに選挙で「信」を問いたい」
「それで敗れても政治家の本望だ」
と言うところまでが、本来の代議制民主主義下での「政治生命をかける」べき行動原理です。
ところがこれらをすっ飛ばして・・選挙での主張を一回もせずに多数を握っている国会で野党と談合の上、多数決で増税法案を可決してしまうのは、数さえ多ければ何をしてもいいという最悪な政治行動となります。
こういう卑劣な行為結果に「政治生命をかける」と言うのは「政治生命をかける」意味に対する冒涜・おこがましいにも程があるし、代議制民主主義の原理を根本から覆す卑劣な行為です。
民主主義制度が現在社会では普遍的正義とされていて、これの不十分な中国や北朝鮮を常に批判しているのがマスコミですし、争乱=多数の殺傷事件が起きても(リビヤやチュ二ジュアやエジプトなど枚挙にイトマがありません)民主化運動であれば無制限に賞賛しているのが現在マスコミ界の現状です。
民主主義社会とは結果さえ良ければ手順がどうでもいい(軍事独裁でも何でもいい)のではなく、民意に添う手順・・選挙による民意に従う行為をしているか否かに最大の価値を置く社会です。
今回の公約違反と談合行為→民主主義の根本原理に反する行為を賞賛して、他方で「手順がおかしい」と批判する勢力を陰に陽におとしめる報道ばかりしているマスコミは、どのような価値基準を持っているのでしょうか?

個々人の政治能力と政党政治2

代表と代理の違いを09/01/03「代表と代理(大理石)理事の違い」のコラムで書きました。
代理は個別の権限範囲を決めて委任された人の法律行為ですが、(車を買う・・特定の土地を売るなど権限が特定されているのが原則です)代表の場合は、その人格を信頼してテーマ無限定である分野に関してはそっくり一任する関係です。
会社の社長を代表取締役と言い、会社運営に関しては株主総会決議事項を除いて広範に業務執行を一任するのがその例です。
とは言え、時代の進化によって生殺与奪の権を握る信長や専制君主への一任の時代とは違い、一定の範囲内限定で信任する傾向が出てきます。
西洋市民革命前夜の王党派と議会派、革命後はジャコバンとジロンド党などから始まり、社会主義運動が盛んになると社会・共産主義諸派(ロシア革命中にはボルシェビイキメンシェビイキなど)と自由主義系の党派に大きく分かれて行きました。
20世紀前半は共産主義対資本主義と枢軸国とに入り乱れていましたが、後半は米ソ対立を軸に、おおむねこの2大政党(我が国で言えば自社・55年体制)の時代だったので分りよい時代でした。
この枠内で国民はどちらに一任するかを判断すれば良いので簡単でしたし、政治家の施策についても自由主義の範囲であれば個々の政策に不満でもあまり国民は不満を言わない・・不満だからと言って自民党支持者が共産党に投票鞍替えする心配がありませんでした。
ソ連崩壊後資本主義の枠内でどのグループに委ねるかとなると、争点がもっと具体化せざるを得ませんし、国民も不満なら別の政党に乗り換え可能になってきました。
同じ方向に向かっているバスや電車が数本ずつあるような時代です。
こうなると政党名・・基本綱領だけで政党を選ぶのではあまりにも抽象的過ぎて選択基準にならなくなります。
(憲法改正を求めるとしてもどの方向で求める政党か政党ごとにはっきりしてくれないと「改正」というだけでは政党選択出来ません)
そこで選挙民に訴えるために選挙ごとに掲げる公約・・マニフェストを掲げる方が選挙民にとって選択の基準がはっきりして訴求力が強いことから、ソ連崩壊後世界的にマニフェスト選挙が主流になって来ました。
我が国でも政党が選挙ごとに掲げる公約は当初は抽象的でしたが、回を重ねるごとに選挙民に対する訴求力確保のために具体化して来るとともに、「公約」よりももう少し具体的政治課題明示向きのマニフェスト提示が前回・前々回選挙のころから定着・主流化しています。
他方国民の方も、このシリーズで書いているように労組や企業に任せられなくなり自己決定をする必要に迫られるようになったことと、自由主義か共産主義かという抽象的枠組み選択の時代が終わったことから、具体的政治課題に関心を持つようになったこともあって、各政党にマニフェスト提示を求めてこれによって投票行動を決めようとする人が増えて来ています。
郵政民営化選挙以来この方式の選挙が続いていて、現在の民主党政権もこれによって自民党との違いを際立たせて政権を獲得したものです。
実務能力がない政党は困りものですが、能力さえあれば選挙民の意向に反したことを実行して良いか・裏切っても良いか・・・選挙公約・マニフェストの重みについては明日以降に書いて行きます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC