健全財政論4(貨幣価値の維持2)

江戸時代に入って自前で貨幣鋳造するようになると借金しなくとも、徳川家に限っては国内的には現在の基軸通貨アメリカドルのように(貨幣でも金の含有比率を変えれば)いくらでも貨幣を造れるようになりました。
(ご存知のように古くは和同開珎などがありますが、実際には戦国時代までは日本では一般的に流通する自前貨幣をもっていませんでした・・永楽銭などを輸入して流通させていたのです)
その代わり「悪貨は良貨を駆逐する」原理で、江戸時代でも貨幣の改鋳は内容を薄めると直ぐに物価上昇・国民生活悪化の原因になってしまうので慎重に行われていました。
元禄時代に金の含有量を減らして悪改鋳をしていたのを、儒家であり理論家である新井白石が良貨に改鋳しなおしたものとして有名です。
新井白石の理論は誠に清廉潔白で正しいのですが、幕府財政赤字を貨幣改鋳で誤摩化せなくなった分だけ財政は逼迫してしまうので、8月8日に書いたように次に登場する吉宗の享保の改革(政府収入増加・米の増産政策)に連なったのです。
行政府・王様は昔からどこの国でも軍事・景気対策その他支出をより多くしたい傾向がありますが、政府の自制心だけに頼っていたのでは、紙幣・貨幣大量発行によって物価上昇ひいては経済(経世済民=国民生活)が破滅的になりかねません。
そこで、君主・首長の意向に反してでも命がけで、貨幣の悪改鋳を阻止するくらいの気概(武士の魂みたいなもの?)が経済官僚には求められて来た歴史があります。
実際徳川政権内では勘定奉行系はエリートの集まりで、彼らは役人中の役人、武士中の武士という気概があったと思われます。
ちなみに8月9日に紹介した大塩平八郎は、大阪町奉行所与力ですが、彼は陽明学の私塾を開いていてその経世済民の主義主張の赴く所その勢いで決起になったと思われます。
当時(1837年5月1日(天保8年3月27日)既に、主人のために(君主の命令が正しいことであろうがあるまいが)どんなことであれ盲目的に突進して君主のために命を落とすことが武士の美学ではなくなっていて、君主に逆らっても自分が正義と思うところに命を掛けることこそ武士の本懐という思想が成立していたことになります。
大塩平八郎の乱は彼一人が起こしたのではなく当然多くの門弟が賛同して命をかけて参加して起こしたものですから、大したものです。
正義のために命を落とす・・その正義とは何か、国民生活を守ること・・経世済民に変化していたことが分ります。
歴史上いろんな乱を通観してみると、古代の壬申の乱に始まって最後の不平士族の乱・西南の役までありますが、大塩平八郎の乱を除けば私の知る限り自分1党の権力欲のためや私利私欲のための乱が全部です。
これに対して大塩平八郎は、窮民を救うために自分の地位を捨て子供まで参加させて立ち上がったのですから偉大です。
(何回も紹介していますが、忠臣蔵はお家再興・自分たちの求職活動の失敗から決起したものですし、西郷隆盛には私欲がなかったとしても彼を担いだ運動体そのものは不平士族の集まり・・政治をどうしたいと言う政治理念を持たないままの暴発ですから、(熊本城を仮に落とせたとしてもその先何をしたかったか分りません。)結果的に私欲反乱軍となるでしょう)
貨幣制度が始まるとその発行量の調節が経済(国民生活)に及ぼす威力が甚大なものであることを、どこの国でも知るようになります。
その結果、貨幣発行量を決める官僚はその使命の重大さにおののくとともに、おろそかな運用は出来ないと言う使命感が醸成されて来るのは当然です。
洋の東西を問わず昔から貨幣価値を守ることが経済官僚の使命であるとする思想が強くなったのはこうした結果でしょう。
死刑判決を書く裁判官がいい加減な判断を出来ないのと同様に、素人でも裁判員になるとその精神的重みが大変だというのも同じ精神構造です。
近代の経済学においても「貨幣発行調節は慎重(当時は経済刺激策を知りませんので量の拡大は危険という片面的意識だけです)」にと言う精神は、当然の使命として経済官僚に受け継がれて来たものです。

健全財政論2(国民と政府の関係)

政府と国民が対立するあるいは別個の団体的関係であれば政府が国民から借金していたのでは立場が弱くなって困ります。
( 04/16/06「世界宗教の非合理化とその改革4(イベリア半島2)」のコラムで、スペイン王家フィリッペ2世が4回もの破産した例を紹介したことがあります)
国民国家時代においては理念上政府=国民総体・・国民を内側に取り込んでいるので、政府の国民に対する借金は国外からの借金とは意味内容が違います。
今では政府と国民を一体として対外・・よそからいくら借りているかの収支バランスこそが重要です・・だからこそ政府の負債を国民が自分のこととして心配しているのです。
政府の負債は国民の負債同様としてマスコミが国民の不安を煽っていながら、プラス財産に関しては政府の金銭収支だけを取り出して国民個人保有の金融資産を問題にしない議論は片手落ちの議論と言えるでしょう。
政府の負債は国民の負債同様・・・一種の連帯債務者的立場にあると言うならば、国民保有資産とのバランスを論じないと危機ラインかどうか分りません。
現在の日本国債の国民保有比率が約95%であるならば、国民の対外的に負担する債務は差引5%しかなくそれ以上に国民が金融資産をもっていれば何の問題もない議論になります。
その上国民は金融資産だけではなく自宅その他の保有資産が多いので、実際はもっと安全で今のところ議論すること自体ナンセンスと言う状態です。
江戸時代にはまだ領主と領民は支配・被支配の対立関係(政府=国民ではなかった)あるいは別個の関係にありましたから、領内商人から巨額借金していると大名・武士が被支配者である商人に頭が上がらないのでは身分秩序上困ったことになります。
今は国民主権国家ですから、国民に頭が上がらなくて(一々お金の使い道に債権者=国民の意向を気にしなくてはならないこと・・)何が悪いのか?となります。
官僚にとっては、国民主権国家以前の(国民の公僕というよりは君主に代わる総理等上司に仕える)意識が濃厚に残っているから、「国民からの借金が悪で増税が必須」と信仰している人が多いのではないでしょうか?
同じ政府の資金源でも税収による資金ならば、古代から権力者の天賦の権利みたいな歴史があって、どう使おうと君主の勝手・・道徳的サンクション(酒池肉林のような悪政があると政権が倒れること)があるだけでした。
民主国家になっても税を取る約束(増税法案可決)までが大変ですが、その後は国債と違って気楽です。
吉宗が享保13年(1728)に農民との話し合いで税率を変更したのは有名ですが、このように議会のない徳川政権時代でも税率を変えるのには民意を無視出来なかったことが分ります。
ちなみに吉宗は・・当時までの慣習法的税率であった4公6民から当時の5公5民で計算した固定収量税に変更して政府は当面の税収増を確保し、(以下に貨幣改鋳と財政の関係を書いて行きますが、当時政府財政は困窮していましたのでその緊急打開策)・・その代わりそれ以上収量が上がっても税を取らない約束したので、結果的に収穫増意欲・生産性が上がりました。
このように増税は江戸時代から簡単ではなかったのですが、今の民主国家でも増税する法律さえ出来れば刑罰で徴収を強制出来る点は市民革命前の昔と変わらず、徴収した後は自分(官僚のサジ加減)のものと言う意識は今でもそのまま続いています。
(支出に関するチェックとしては予算制度がありますが、実際には箇所付け等は事前に役人の振り付けで殆ど決まっていて、それをまとめて国会で承認するかどうかだけです。
増税法案は、これを選挙のテーマにしたときには、国民が直接意思表示出来ますが、毎年の予算案をテーマにした選挙はあり得ませんので、国民が予算(支出行為)に関して直接意思表示するチャンスすらありません)
官僚にとっては増税の法さえ通せば、あとは官僚のさじ加減・・事実上自由に使えるので増税の方が良いに決まっています。
民主党が消費税増税反対の公約で政権を取っていながら、増税強行の法案強行・公約違反行為をするのは、国民に残された最低限の判断権まで奪ってしまう重要な違反となります。
租税法律主義(国会の議決がなければ課税出来ない原理)は現行憲法でも明記されているように市民革命の主要な成果・・元々増税反対から革命が(アメリカの独立革命もボストン茶条例に対する反発が原因で)起きたものでした。
今回の消費税増税が、形式的に国会の議決を得たとしても、公約では反対を表明していた政党が増税に走ったのですから「民意による増税」という憲法の実質違反行為です。
もしもこの公約違反が官僚の示唆によるならば、西洋式民主主義・市民革命の成果を踏みにじる行為ですから、官僚主導による一種の反革命行為です。
ここまで露骨に革命前の権限(国民同意なく増税出来る時代)に戻そうとする行為は、歴史の反撃を受けずにはおかないでしょう。
憲法
 第七章 財政

第八十三条  国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
第八十四条  あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
第八十五条  国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。

過剰労働力2と少子化

失業者は求職中ですから、言わば元気な無業者・病人で言えば発熱する体力のある初期の病人であって、無業者や非正規雇用者は、長期失業・・多数回面接で落ちて自信をなくして求職活動する元気をなくしている状態で親の家に寄生したり、生活保護受給者になっている状態と比喩的に言えるでしょう。
怠け者と言って非難するのはたやすいですが、何回も就職面接に落ちたり、何回就職・転職してもうまく行かなかった人にとっては、世間に出る勇気・気力をなくすのは当然です。
元気をなくしている重症者こそ正面から調査研究して何とかする必要があります。
精神科医の治療等は対象療法に過ぎず、鬱・不眠になる原因除去・社会生活力の回復・・受け皿の整備こそが基本的解決策です。
ちなみに、失業者という中間的概念で議論すると国ごとにどこまでを失業者と言うかの定義も違うし、国際比較がデタラメになり勝ちです。
どこの国でも失業率を低く見せるために、いろいろ工作していることが知られています。
失業率に関する国際基準があって、それが厳格に守られているとしても、日本のような暖かい家族の受け皿のある国・・大卒後何時までも親の家に居候出来る我が国と中国のように大卒後就職がないと地下室で起居するしかなく蟻族になってしまう国とでは、国情がまるで違います。
アメリカも親子の縁はさっぱりしていて高卒以降の庶民は親の家を出て、奨学金をもらって自分で大学に行くと噂に聞いていましたが、大分前のマスコミ報道ですのでインチキっぽいところもあり真実は分りません。
最近でアメリカも裕福な家庭ではいつまでも親が面倒を見ている傾向が増えて来たとも聞いています。
我が国の親は子供はいくつになっても(40〜50才になっても)子供として愛情を注ぎますので、就職活動して見込みがなかったり職場でうまく行かないことがあると親の家に居候したままになる傾向が高いので、失業率統計だけでは社会の実像が見えません。
親が死亡しても届けないで年金をそのまま受給している事例が数年前に問題になりましたが、このように高齢化してもなお親のスネをかじっている人が結構います。
失業・無業問題はこのシリーズのテーマではないので後に回すとして失業者・・無業者の増大(労働力過剰)が身近にあって、国民は自衛のために少子化の選択をしているのですが、少子化の効果(労働者減)が出るには3〜40年かかるので労働需要の急速な減少に間に合わないことが、現在人の鬱屈・社会補償費増大の大きな原因です。
少子化は社会停滞の原因ではなく、社会変化に適応した結果・後追い現象ですから、少子化に何故進んでいるかの原因を論じないで、少子化進行自体を非難したり(古くは女子大生亡国論がありました)助成金で逆行させようとするのは時代錯誤・・現実無視ですので底辺層ばかり子沢山になってしまい、うまく行く訳がありません。
(「女子が教養を持つと少子化するからけしからん」という立場からすれば、彼らは底辺層の拡大を望んでいるので貧乏人の子沢山は望むところかな?)


次世代の生き方5(過剰労働力2)

 話を戻しますと、失業増大は先に新興国との競争→海外移転が始まったことから、国内で失業や非正規雇用・失業者・無業者が増えているのであって、(何年か前の新聞報道では製造業従事者減少は570万人とも言われていました)労働者不足を理由に企業が海外展開しているならば、失業者等が増える訳がないでしょう。
子供でも分るような現実・論理構造を30日に紹介した東大教授がすり替えていて、(彼に限らずこの種のエコノミストの意見はしょっ中マスコミに出てきます)これがマスコミの主流的意見になっているのですから、マスコミの偏頗な世論誘導姿勢は半端ではありません。
社会実態を無視して、これを逆に評価している意見が氾濫していると国の進路について国民が誤って判断してしまうリスクが増えてしまいます。
ところで失業者の増加を論ずるとしても、失業統計に出ない膨大な無業者あるいは親の家に寄生している半無業者等を視野に入れて議論しないと実際の解決にはなりません。
我が国は世界一のお金持ち国になっているのですが、このことは取りも直さず親世代が世界一の金持ちであり金融資産に比例した不動産その他資産家であると言えます。
都市住民2〜3世の有利さに関してFebruary 5, 2011「都市住民内格差7」前後のテーマで連載しましたが、我が国では親世代にゆとりのある若者が多いことの外に我が国では貧富に拘らずもともと成人しても親の家から出て行かない同居者・パラサイトシングルが多いので、職安に通わない無業者あるいは週に2〜3時間しか仕事のない人などがかなりいます・・。
仕事がなくて困っている人という意味では、
失業者の多くは一定期間で諦めて無業者〜非正規雇用になって行く連鎖ですので、失業したばかりでまだ希望を持って元気に求職活動中・・職安に通っている人よりも事態は深刻です。
失業者よりも深刻な事態に陥っている彼らを論じないで、氷山の一角に過ぎない失業率の統計だけで議論しても、社会問題を解決出来ません。
この厳しい現実を知っている女性が子供を産みたがらないのは正しい選択だと思いますし、生まれてしまったら、生まれた次世代は新しい時代に適応して行くしかないのですから、ここを議論しておく・・従来型の製造業その他の仕事は減って行くのは明らかだとすれば、従来とは違った方向への進路変更・・粋・洒落など、どの方向に行くかの議論をしておく必要があります。
この辺の議論を意識的に無視して、少子化こそが衰退の原因だという結果と原因を逆にした前提から議論をしても生産的ではありません。
裸の王様の寓話同様にマスコミでは、実態に反した前提から議論を始める主張一色ですが、(マスコミの気に入った研究発表しか出来ない現実があるから仕方がないのですが)現実無視の議論では何の解決にもならないでしょう。
ところで、7月31日に失業率の統計数字を掲載しましたが、1980〜90年代と現在を比較すると失業率だけみても約2倍になっていますが、これは、ちょうどそのころから海外展開が始まったことと軌を一にしていることからも海外展開がその原因だったことが明らかです。
また少子化による15歳以上人口減は、失業率増加に遅れて生じていることからも少子化が海外展開の原因であるなどはあり得ない妄言です。
これに1980〜90年ころまで殆どなかった非正規雇用や無業者の数字をプラスすれば海外展開が始まったことによってマトモな仕事がなくて困るようになった人数は巨大な数字になっている筈です。
ここ何年も高止まりしている自殺者数や精神系患者数の増加、生活保護所帯の増加等に対する諸問題についても仕事のないストレス実態を直視しない限り解決にはなりません。

次世代の生き方2

社会全体を一人の人間の生き方に縮小してみれば、日本その他先進国は
「既に家も建てたし道路や公園も綺麗になったし、(美術館・娯楽施設等も充実している)貯蓄もあるし後は年金で収支トントンのゆったりした生活さえ出来れば良い」
「一定の貯蓄もあるし良い年をしてそんなにがつがつ働かなくても良いんじゃないか!」
という状態です。
社会全体が個人の一生で言えば高齢者になったような状態ですが、社会の場合、一人一人で見れば高齢者だけではなく、若い人も一杯いるので彼らとしては達観していられないのが苦しいところです。
高齢化社会の生き方論は、現に高齢化している人にとっては古来から言われる「晴耕雨読」・・趣味の充実もう一度大学へ行き直すなどすべて余裕のある良い話です。
しかし、若い人にとっては仕事に役に立たない趣味のための勉強と言ってもピンと来ないし、親の家もあるし自分が食うだけ(結婚すらしない場合、文字どおり自分の食うだけです)稼げば良いのだから「小遣い程度稼いで後は遊んでればいいよ」と言われても困ります。
余程ハイレベルの趣味に生きられる一部人材を除いては、体力を持てあますし・・枯れた葉っぱ(老人)は腐葉土になるが、青い葉っぱは積み上げておけば腐るだけという現実があります。
社会インフラの充実した後の社会では、生産力の向上を目指す高度化・従来路線の延長ではなく、低成長時代に適合した若者の生き方の工夫が望まれます。
平和の配当・・新都市建設需要で湧いた江戸幕府草創期(江戸の城下町形成に限らず、各地の立派なお城は戦国時代終了後に作られたものです)とこれが一段落した後に行われた新たな人生設計の工夫に学ぶ必要があります。
江戸時代に発達した文楽・俳諧・狂歌・錦絵・浮世絵・歌舞伎・茶道、生け花、箏曲三弦尺八等の音楽(虚無僧の古曲に限らず六段の調べ等多くは江戸時代に作曲されたものです)、落語・我が国が世界に誇る京都の庭園その他我が国伝統文化の基礎がほぼこの頃に出来上がったことを見ても、安定成長期こそ落ち着いて新たな文化創造をするべきチャンスです。
(我が国最初の安定期であった平安時代には源氏物語を始めとする王朝文化が花開きました。)
その意味では伝統文化・静謐さなどを更に磨くのも良し、あらたなアニメ漫画類あるいは各種「お宅文化」の発達は、注目すべき若者の智恵の発露と言うべきです。
人間の生き方を(がむしゃらに働いた)前の世代と同じでなければならないという発想に拘るから大変な時代なのであって、世代ごとに時代環境に合わせて違った生き方を工夫して行くべきです。
(僅か1年の間で考えても、春夏秋冬の季節に応じた違った生活があるのと同様で、いつでも同じ人生設計・生活方式である必要がありません。)
ガムシャラに働くしかない時代には、落ち着いて文化を楽しむゆとりのない時代でしたから、中底辺労働向きの社会でした。
ガムシャラ労働(猛烈社員)がもてはやされる時代は、(中底辺労働需要が多いので)人口の多さが価値でしたが、これからは江戸時代の徘徊やきれいな庭園造りのような洒落た方向に行くしかないとすれば、人口さえ多ければ良いことにはなりません。
粋・洒落で生きて行く時代には、社会全体としては人口減小に向かうのが合理的な方向ですし、出生数が多すぎると(中底辺層が増えて)ミスマッチで困ったことになります。
間違って?生まれてしまった次世代にとっては、生まれてしまった以上はハイレベルな能力がないと言ってボヤーッとしてもいられないので、親世代も子供が困らないように必死になって教養を付けさせようとして、手っ取り早い高学歴志向となりますが学歴だけあれば粋・洒落の精神が身に付く訳ではありません。

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